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曖昧さ回避 | 富岳は、この項目へ転送されています。計画爆撃機については「富嶽」をご覧ください。 |
曖昧さ回避 | この項目では、静岡県と山梨県との間に跨る山、富士山について説明しています。
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富士山 | |
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富士山 富士山富士市より | |
標高 | 3,776.24[1][2]m |
所在地 | 日本(静岡県・山梨県) 山梨県:富士吉田市、南都留郡鳴沢村 |
位置 | 北緯35度21分38.2608秒東経138度43分38.5153秒[2] |
山系 | 独立峰 |
種類 | 活火山ランクB(成層火山) |
初登頂 | 663年 |
富士山の位置
|
ウィキプロジェクト 山 |
富士山(ふじさん、英語表記:Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。
標高3,776mの日本最高峰(剣ヶ峰)[3]であるとともに、日本三名山(三霊山)、日本百名山[4]、日本の地質百選に選定されている。富士箱根伊豆国立公園に指定されている[5]。1952年(昭和27年)に特別名勝に指定された。
国際宇宙ステーションから見た富士山(2001年5月27日 アメリカ航空宇宙局)
富士山の優美な風貌は、日本国内のみならず日本国外でも日本の象徴として広く知られている。芙蓉峰(ふようほう)・富嶽(富岳、ふがく)などとも呼ばれる。
古来より霊峰と呼ばれ、富士山を開いたのは富士山修験道の開祖とされる富士上人であると伝えられる(『本朝世紀』)。富士山は多くの人々の信仰を集め、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。江戸時代後期の1800年(寛政12年)まで富士山は女人禁制であった。
富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季には富士登山が盛んである。富士山の登山は最古の富士登山道である村山口から発展した。
山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく[6]、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気候に分類される。
山梨県側(河口湖から)
地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。
現在の富士山の山体の形成は、大きく四段階に分かれる。
この中で先小御岳が最も古く、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。この第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。
古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1–2kmのところにあったと考えられている。
2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市-富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)現れとされている[7]。
詳細は「富士山の噴火史」を参照
最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,500–2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊してしまった。
新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前–約3,200年前の1,300年間と考えられている。これ以降、山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が断続的に発生している。
延暦19年 - 21年(800年 - 802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に貞観噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。
宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述のとおり富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山としている。
噴火に関する記録[]噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表わした描写がある。
宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。
その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。
白糸の滝(静岡県)
富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。
富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。
その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。
ファイル:Larix kaempferi 01.jpg富士山の森林限界付近のカラマツ林
(富士山北西斜面、奥庭)
富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している [8]。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。
山頂の構造として、富士山の噴火部である「大内院」があり、それを囲むようにして八神峰がある。そのお鉢の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.63m)、お鉢の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.36m)[2]が設置されている。8合目から上の県境と市町村境界ははっきりしていないが[9]、山頂は静岡県と山梨県の県境とされている[10]。大内院の構造は、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は130mとある[11]。
Mtfuji_houeisan01.jpg宝永山と宝永噴火口
宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693 mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これらは間近で見ることができ、そのための登山コースも整備されている。
詳細は「宝永山」を参照
富士山は、古文献では不二山もしくは不尽山[12]と表記される。「不二」は「日本最高峰の並ぶものの無い」の意とされる。他に布士や布自の字を当てている書籍もあった。
また、『竹取物語』の最後の章では、かぐや姫から不老不死の薬を授けられた帝が、家臣に命じて不老不死の薬を、駿河国にある天に一番近い日本で一番高い山の山頂で焼くという描写があり、結びは「つわもの(兵士)らを大勢連れて山へ登った事から、その山を”富士の山(士に富む山)”と名付けた」となっている[13]。
「フジ」という長い山の斜面をあらわす大和言葉から転じて富士山と称されたという説もある。またこの説は有力視されている。
近代後の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある(フチ=フンチは「火」ではなく「老婆」の意味)。その他の語源説として、マレー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説などがある。
なお英語では “Mount Fuji” または “Mt. Fuji” と表記する。以前は「山」を訓読みし “Fujiyama” とすることもあったが近年ではまれである。
富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。
古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普遍的であった。資料などでもそれらの記述が多く見られるが、例外も見られる。
『万葉集』「高橋虫麻呂」では「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」という文面がある。これは富士山が駿河国、甲斐国両国を跨ぐ山であるという、共有の目線で記された、古代の文面として貴重な例である。
『更級日記』では「富士の山はこの国なり」という記述があり、この国とは駿河国を示している。『富士山記』では「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」と駿河国と明言され、『竹取物語』では「駿河の国にあるなる山なむ」という文面も残る。
しかし、噴火の影響は駿河国だけでなく当然甲斐国も甚大であり、『日本記略』には承平7年の「駿河国富士山神火埋水海」といった甲斐国からの報告もある。
富士講などの影響からか、江戸時代に入ってからは双方主張する点も多くなったと考えられている。
ファイル:富士山本宮浅間大社拝殿.JPG富士山本宮浅間大社
詳細は「富士信仰」を参照
富士信仰においては明確な定義はないが、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われる。
特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。また徳川家康が浅間大社に土地を寄進した経緯で、富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、浅間大社の境内となっている。なお奥宮では結婚式が可能である。
『不二三十六景甲斐夢山裏富士』
現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これには歴史的背景がある。
延宝8年(1680)の『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記があるとされ[16]、これは最古の富士登山道である村山口が利用されていた時代である。それより後期の資料の『浅間文書纂』では、現在の吉田口にあたる登山道は表口と比較され「裏口」と記されている。この「表口」や「裏口」という表現は実際に資料の名前にも引用されており、代表的なものとして『富士山表口真面之図』(村山浅間神社)などに見受けられる。
また歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』や、葛飾北斎の『冨嶽三十六景身延川裏不二』など著名な絵画などにも使われている。
『常陸国風土記』に富士山の神と筑波山の神の逸話が記されている。親神が富士山の神のもとを訪れ、宿を乞うたが、富士山の神は物忌み中だと言う理由で宿泊を拒否した。親神は次に筑波山の神のもとへ行き、同様に宿を乞うたところ、今度は親神は歓迎された。そのため、筑波山には人々が集まるようになり、反対に富士山には絶えず雪が積もり人々が来なくなったという。
平安時代前期の文人である都良香の『富士山記』には富士山の絵や様子が明記されている。また同じく平安時代の文学の『更級日記』には、富士山の神が、朝廷の次の年の除目(人事)を決めると当時の一部の人々には思われていた記録がある。
富士山北麓の一部農地(現在の富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作になる、また凶作となるという言い伝えがある[17]。
凱風快晴 葛飾北斎
富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国絵画的な山岳図として描かれている。
ファイル:Fuji Mandara.jpg三峰型富士の例
絹本着色富士曼荼羅図 狩野元信(伝)
峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリー新富士百景に掲載
鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた。
室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富士山は三峰型富士で描かれている。
江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』や荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。
また、歌川広重(安藤広重)も北斎に後れること『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版し、広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。
富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。
戦時下には国家により富士は国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々な描かれた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向も見られる。
日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。
駿河国(静岡市)からの富士山
富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」 (3.318) は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。
また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。
『新古今和歌集』から。富士の煙が歌われている。
風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな 西行 (#1613)
都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。
『竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している[18]。
ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されているが、古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を現している。
中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。
富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。
太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』[19]をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。
高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。
「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」
富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿がある。
画像 | 富士山の姿 | 解説 |
---|---|---|
ファイル:Mount Fuji from yamankako village 2001-7-2.jpg | 赤富士 | 夏の朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。 葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。 |
ファイル:Mount Fuji from yamankako village 2000-2-10.jpg | 紅富士 | 雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。 「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。 |
ファイル:01 Fujisan from Yamanakako 2004-2-7.jpg | 逆さ富士 | 波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。 D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。 |
ファイル:Lake Motosu01.jpg | ダイヤモンド富士 | 太陽が昇った時又は沈む時、太陽が富士山の頂上と重なり、 富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る現象。 富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることができる[20]。 |
ファイル:Kagefuji frm kengamine.jpg | 影富士 | 朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。 富士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場合がある。 |
ファイル:Fujiyama-kasagumo 01.JPG | 笠雲 | 笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。 その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。 |
一般的には毎年7月1日の山開きから8月26日の山じまいまでである。現在使用されている主な登山道として静岡県側で(富士宮口・須走口・御殿場口)、山梨県側で吉田口がある。
詳細は「富士登山」を参照
横浜(みなとみらい21)からの夕景
富士山はその優美な姿から、登山だけでなく、富士山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。
2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。
静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する機会としている。またあわせて富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込められている。
静岡県教育委員会で、各市町村に対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年は休みにしないことを決定した。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、図書館や博物館などの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。
主なイベント
1990年代初めから、富士山をユネスコの世界遺産に登録しようという運動が行われている。当初は世界遺産のうちの自然遺産への登録が検討されていたが、地元調整がつかず環境管理(特にゴミ問題)が困難なため国は推薦を見送った[21]。現在は文化的景観という観点から世界遺産のうちの文化遺産への登録手続きが進められており、2007年に暫定リストへ登録され、今後国際記念物遺跡会議による調査が行われることとなる。2011年2月には8合目以上と一部の登山道が日本国の史跡に指定された。
構成遺産
2010年7月2日に開かれた学術委員会において富士山世界文化遺産登録のための推薦書原案が承認され、富士山の普遍的価値は「信仰」「芸術」「景観」の3つを評価基準とすることとした[22]。推薦書原案では最終的に17の構成資産に決定された[23]。
名称 | 所在地 | 名称 | 所在地 |
---|---|---|---|
富士山体 | 富士山本宮浅間大社 | 静岡県富士宮市 | |
山宮浅間神社 | 静岡県富士宮市 | 村山浅間神社 | 静岡県富士宮市 |
須山浅間神社 | 静岡県裾野市 | 冨士浅間神社 | 静岡県小山町 |
河口浅間神社 | 山梨県富士河口湖町 | 冨士御室浅間神社 | 山梨県富士河口湖町 |
御師住宅 | 山梨県富士吉田市 | 山中湖 | 山梨県山中湖村 |
河口湖 | 山梨県富士河口湖町 | 忍野八海 | 山梨県忍野村 |
船津胎内樹型 | 山梨県富士河口湖町 | 吉田胎内樹型 | 山梨県富士吉田市 |
人穴富士講遺跡 | 静岡県富士宮市 | 白糸ノ滝 | 静岡県富士宮市 |
三保の松原 | 静岡県静岡市 |
富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。また、富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。
富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題[24]、世界遺産登録問題[25]等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化している。
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署のこと。現在は富士山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
詳細は「富士山測候所」を参照
富士山が日本を代表する名峰であることから、各地に「富士」の付く地名が多数存在する。富士山の麓として静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富士河口湖町があるほか、よくあるものとして富士が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人たちも、自分たちの住むところの近くの山を地名をつけて「○○富士」と呼ぶこともある。他の例については、曖昧さ回避ページ富士見、富士街道などを参照。
全国各地には少なくとも、314座を超える数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。
詳細は「郷土富士」を参照
「富士山のように日本を代表する存在になる」、「富士山がきれいに見える土地で創業・営業」、などの理由で名づけられている。
詳細は「フジ」を参照
旧五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山
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自然
文化・行事関連
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♨鼓川温泉温泉情報所在地山梨県山梨市牧丘町交通アクセス車:中央自動車道 勝沼ICより、国道140号を経由して乙女高原方面へ鉄道:中央本線塩山駅より牧丘町塩平方面行きバス、鼓川温泉下車泉質単純温泉泉温3...
♨黒薙温泉ファイル:Kuronagi-onsen01.JPG混浴露天風呂(2007年)温泉情報所在地富山県黒部市宇奈月温泉交通アクセスアクセスの項を参照泉質単純温泉泉温97.2 セルシウス度|テンプレ...
♨黒羽温泉温泉情報所在地栃木県大田原市黒羽交通アクセス鉄道 : 宇都宮線西那須野駅よりタクシー・車で約35分車 : 東北自動車道西那須野塩原インターチェンジより40分、那須インターチェンジより約30分...
黒石温泉郷(くろいしおんせんきょう)は、青森県黒石市(旧国陸奥国)の奥座敷に位置する温泉の総称(温泉郷)である。浅瀬石川沿いに長寿温泉、温湯温泉、落合温泉、板留温泉の4つが存在。前述の4温泉から山間部...
曖昧さ回避この項目では、黒色の温泉について記述しています。秋田県仙北市にある温泉については「黒湯温泉」をご覧ください。黒湯(くろゆ)とは、主に湯船における湯の色が黒色、黒褐色をした源泉のことを指す。東...
♨黒沢温泉温泉情報所在地山形県山形市交通アクセス鉄道:奥羽本線(山形線) 蔵王駅より徒歩約10分泉質硫酸塩泉宿泊施設数7 表・話・編・歴 黒沢温泉(くろさわおんせん、Kurosawa Hot Spri...
♨黒松内温泉温泉情報所在地北海道寿都郡黒松内町交通アクセスJR北海道函館本線黒松内駅より車で約5分泉質塩化物泉泉温39.9 セルシウス度|テンプレート:℃湧出量400リットル(毎分)宿泊施設数1 表・...
♨黒川温泉ファイル:黒川温泉1.JPG温泉情報所在地兵庫県朝来市生野町黒川交通アクセス車 : 播但連絡道路生野ランプより車で約30分鉄道 : 播但線生野駅から神姫グリーンバス生野駅裏より「黒川」行き終...
日本 > 鹿児島県 > 鹿児島郡 > 三島村 > 黒島黒島 (鹿児島県)ファイル:Kuroshima of Kagoshima.jpg東方上空より撮影座標北緯30度50分5.6秒東経129度57分20...
黒岳標高1,587m所在地大分県由布市位置北緯33度06分20秒東経131度17分34秒山系九重山系ウィキプロジェクト 山ウィキプロジェクト 山黒岳(くろだけ)は、大分県由布市庄内町及び竹田市久住町に...
曖昧さ回避この項目では、長野県信濃町の黒姫山について記述しています。新潟県糸魚川市の黒姫山については「黒姫山 (糸魚川市)」を、その他の黒姫山については「黒姫山」をご覧ください。黒姫山ファイル:Mt-...
♨黄金崎不老不死温泉ファイル:Furofushi-spa.jpg混浴露天風呂温泉情報所在地青森県西津軽郡深浦町大字舮作字下清滝15交通アクセス鉄道:五能線艫作駅より徒歩約15分。リゾートしらかみ利用の...
この記事は秀逸な記事に選ばれました。詳細はリンク先を参照してください。曖昧さ回避オユンナの楽曲およびアルバムについては「オユンナII黄砂」をご覧ください。ファイル:Asian Dust in Aizu...
♨鹿部温泉ファイル:Sikabe kanketusen 2005.jpgしかべ間歇泉公園内の間欠泉温泉情報所在地北海道茅部郡鹿部町交通アクセス鹿部駅よりバスで20分。函館市内より車で約1時間。泉質食塩...
♨鹿塩温泉温泉情報所在地長野県下伊那郡大鹿村交通アクセス鉄道 : 飯田線伊那大島駅より伊那バス大鹿線で約50分で最寄バス停鹿塩へ。バス停より徒歩約15分泉質塩化物泉泉温14 セルシウス度|テンプレート...
鹿児島県北西部地震File:テンプレート:Location map Japan|250px|鹿児島県北西部地震の位置(テンプレート:Location map Japan内)ファイル:Bullseye1...
♨鷹巣温泉温泉情報所在地福井県福井市蓑町22字17番1交通アクセス鉄道 : 福井駅から路線バスで50分車:北陸自動車道福井北ICより45分泉質アルカリ性単純温泉アルカリ性低張性高温泉泉温49 セルシウ...
♨鷹の子温泉温泉情報所在地愛媛県松山市交通アクセス伊予鉄道横河原線久米駅下車徒歩7分泉質単純硫黄温泉泉温38.4 セルシウス度|テンプレート:℃湧出量毎分800リットルpH9.3液性の分類アルカリ性 ...