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国家百年の計という言葉が冗談になったのはいつ頃だろうか?
昨今は政治家も官僚も、そして企業人や小さな会社のヒラ社員まで「自分のいる間動いていればいい」「自分だけ利益が得られればいい」と言う考え方が蔓延している。
そんなマインドは年金の問題を放置し続けたところから始まっているだろうか。
妊婦や子連れに厳しい社会も似たようなものだ。
今の自分が良ければ、将来の子供がどうなろうと知った事のないのだ。
そういう風に小さな人間ばかりになったのは、日本が貧して鈍したからだろう。
ああ、何もかもがダメなのだ。
行動党が日本国の小さな党の一つであったときから方針は変わらない。
「我々が生きている限り、我々は責任を負い続ける。そして我々は国が存続する以上活動し続ける」
人を育み、人を富ませる。それ以上に国を存続させる方法はない。他のあらゆる事は、この目的に沿った条件に過ぎない。
治安が悪ければ、医療が低レベルで金が掛かるのなら、外交的に不安定ならば、商売の障壁が高ければ、環境が悪ければ――全て子供を育てることや、安心して仕事をする事の障害に繋がる。
万人は自ら望んで幸せにならなければならない。人がそれを放棄するのは、その条件が整わない事に諦め、望みを持たなくなったときである。
誰だって心の底から死にたいとは思わない。死ぬのは生きていく条件に縛られ、その最低条件の達成が不可能に思えたときだ。
人から希望を奪っておきながら、「ほら、アイツは自分で不幸になっている(=不幸を作っている自分は悪くない)」と言うのは、現実を見る力がないのか、悪意でそう言っているかのどちらかだ。
人々を生存条件の外に追い込むのは、究極的に言えば為政者の責任だ。
そして、最低条件を守るだけでは国は豊かにならない。
無能な指導者ほど、己の組織の失敗をその末端の所為にしがちだ。そういうのを昔の人は「鯛は頭から腐る」と形容している。
長期的なヴィジョンがない、国を思わない、人を想わない――そういう人間が上に立って好き勝手やるとき、彼等は民草を差して「あいつらはどうせ何も出来ない」と見下している。
人は"自分の利益の為に邪険に扱っていい人間"と言うカテゴリを作ると、自分の判断を合理化するような証拠ばかりを集めたがる。
頭が悪いとか怠惰だとか嫉妬深いだとか政治的に偏っているとか……だから見捨てていいのだと言う。本当は自分が見捨てる理由を探しているだけなのに。
そういうバイアスに捕らわれて、合理的な判断が出来なくなったとき、国は滅びる。
自らの破滅のために突き進む国を誰が愛するだろうか?
愛国心と他国を愛する心は両立する筈なのに、排斥主義者と反愛国主義者、そしてニヒリストしか残っていない。
国を取り戻す為には、愛ある国民を取り戻す必要があり、他人を愛する余裕を国民に与える必要がある。
それが国を治すという事である。
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