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平等って言うと、差別されている側を特別扱いするって考え方する人間がいて、そういう人間が何を望んでいるかって言ったら権益化なんだよね。
自分の差別を振りかざすだけで、何か特別な便宜を計らって貰うってことを求めてるんだよ。
そんなものが本当の平等に繋がるなんて到底考えられない訳で、そういう間違いをこの二十一世紀に繰り返すのは、人類的な進歩のない人間と言わざるを得ない。
しばしば、自分が性的マイノリティである事をタテに人を差別主義者扱いするが、それはあってはならない事なのだ。
そういう"狡い"人間がいるお陰で、一般の人が性的マイノリティに対して身構えてしまうのは、非常にマズイ事態である。
例えば、生活のパートナーと、性生活のパートナーは別であるべきだと言う考えの人がいたとしよう。勿論、それでよりよい生き方が出来るカップルもいるかも知れない。
でも、それが幸福に結びつく例が存在するという事と、それを全てに求めるという事は別だ。
性的マイノリティが存在するという事が社会的に認められるのならば、世間が全てその枠組みの中で生きなければならないと言う道理はない。それこそが多様性の筈だ。
ゲイではないが女装が好きな男性がいる。それを「君はゲイだからカミングアウトしなくちゃいけない」と言うのは違う形の画一性である。それはゲイへの理解かもしれないが、ゲイ意外への理解を欠く行動だ。
そんな歪んだ理解を認めるならば、"否定しない無理解"の方がずっとマシだ。
むしろ、全ての人に全ての少数者を理解しろと言うのは無理な話だ。
重要なのは、人と違ってもいいと言う理解である。
LGBTが取り沙汰された挙げ句にLGBTQQIAAPPO2Sなんて言葉まで出てきた。
この言葉は、言わば人それぞれの多様性を何らかのカテゴリーに押し込めてそれを知っていると言うだけで、何か立派な事が言えるのだと言う意識を持つ人が居る。
そんなのは間違いだ。
簡単に試算しよう。
自分の性自認が男であるか女であるか、或いは他であるか。恋愛の対象が男であるか女であるか、どちらもいいのか、どちらもないのか。容姿は男っぽいのがいいのか、女性らしいのがいいのか、もっと別な格好を求めているのか。
簡単に考えるだけで、こんなに人は違う。
これだけで36カテゴリになる筈だ。しかも、これは網羅的な議論をしていない。思いつきだけで36種類の人間がいる。
もっと熟考すれば無限と言える区別が出てくるだろう。
そんなものを一つ一つ数えて、これはこういう人だからこんな配慮が必要だと考えるのは現実的に無理である。
そういう時に必要なのは、相手がどんな志向であっても気にしないことと、相手が自分を理解してなくても無理なく付き合える事だ。
誰もが自分の全てを理解して貰っている訳ではない。でも、社会生活は上手くいっている。それは必要以上相手に踏み込まず、多少の不快も飲み込んで笑顔で対処出来るからだ。
その責務は、所謂ストレートの人は勿論、性的マイノリティの側にも必要である。
全ての弱者に言える事だが、ナイーヴを主張することが自分の当然の権利を獲得する為の主張である限り我々はそれが誰であろうと守る。
その主張が、人の権利を侵害してまで獲得しようと思うのであれば、なんとしてでも説得する。
重要なのは、今の生きづらさが社会によるものでなくす為の努力であり、個人の問題ならばそれを解決するための手助けをすることである。この手順を間違うから軋轢が生まれる。
弱者をならず者の為の利権にさせる事は、本来は使われるべきだった努力を本人から奪うことに繋がる。
弱者救済のための団体は、あくまでもそれをサポートするために存在しているだけであり、その代表が大きな顔をして、あまつさえ別の問題に口を出し、配下の弱者を好きなように扱うようであれば、それは対処されるべき事案だろう。
弱者救済の主役は弱者に他ならないのだ。
如何なる問題も、それで何らかの利益を得ようとする薄汚い手を断ち切らなければ、本質的な解決には至らない。
※共和国憲法にLGBTの文字がない事を指摘されて
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