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学校で行われる挨拶の励行を前時代的だと笑った人がいる。
挨拶と言うのは、どんな嫌いな相手でもそれをするかしないかだけで、当人にも周囲にも印象が違ってくるものである。それが出来ないのは人生に於いて大きな損になる。
そもそも挨拶などという、殆ど手間の掛からない事に、自己の精神的負担を評価する人間は、他の部分でも自分の精神的コストを過大に評価する傾向にある。
自分が持ち出せるコストを出し渋る人は、他の部分でも人と衝突しがちである。
挨拶の励行は、人間の精神的コスト構造を健全なものに保つのに有益だ。
勿論、精神の構造が特異であっても有益な人間であれば、それは役に立つかも知れない。だが、そう言う人の末路は概ね悲惨である。最後の最後まで有益さをアピールし続けなければならないし、それが尽きたとき、人々は去っていくからだ。
家族を大切にしてこなかった老人が、誰にも看取られる事もなく亡くなり、墓も用意されないと言う事は、津々浦々の病院で起こっている事である。
日本の学者や政治家、或いは経営者なんかでも、嫌いな人間に挨拶したり、食事をしたりと言う事が出来ない人間が多い。
日本は礼儀の国だと言うが、今は礼を失したぐらいで殺されないからナメているのだろう。
嫌いな人間と縁を切る自由は当然にあるし、「(その人の横暴に)我慢する事で人間性が鍛えられる」などと言うクズの理屈に与する必要はない。だが、何でもかんでも切り捨てられる訳ではない事を肝に銘じなければならない。
人間関係の焼き畑農業をやっていれば、何れ自分にとって都合のいい人ばかりが残るだろう。だが、その方法論はつまるところ人を試し続ける事になる。そして減点一つで人を判断するようになる。
そのような人は、遠からず豊かな人生経験から己を遠ざける事になるだろう。
学校に来ている子達は、己と己の状況をクソだと判断して入学した。自分自身が嫌いで碌でなしであると理解する能力はある。そこに必要なのは、何を何にどう変えるかのサポートであり、導きである。
お気軽に動画やら感動物語を添えて、「変えるなら今すぐだ!」とか言われても響く筈がない。
人間は必ず嫉妬心を抱くように出来ている。
それが人生の推進力になる事もあれば、邪魔する事もある。
必要なのは、嫉妬心を克服する事ではなく、それを理解し、そんなものの為に失敗しないことである。
嫉妬することがダサイのではなく、嫉妬によってみっともない格好を表に出す事がダサイのだと言う事を理解する必要がある。
ヴィーガンでもフェミニストでも、或いは右翼も左翼も宗教家も環境保護も――社会活動に参加する事は、それ自体は結構な事である。そして、大抵の穏やかな人達は、その思想の中に於いても、自分ができる事を真面目に着実にこなしている。
そのような人達は、自分のできる事に満足し、諍いなく活動しているのだ。
そこで己を超えたモノや力を手に入れたがると、「自分の手で社会を変えよう」みたいな大それたことを考えるようになる。
社会に何かを訴える事で自分の力を主張したがるのだ。
自分の手で社会を変える必要性を感じるのであれば、まずその為に自らを超える必要が出て来る。
騒ぎ立てたり暴言を吐いたり、時には暴力を振う人が居るが、それが人を動かすだろうか?
人を動かすにはまず、自分がそれに足る人間になる必要がある。
学校では起こった問題の隠蔽を許さない。
記録し、参照し、学ぶ必要がある。
禁止そのものには何の意味もない。禁止すると言うお題目だけを重視すると、いじめの存在を認めなければいじめは発生すらしなかった事に出来る。
そのような組織は腐敗し、何れ滅びる。
記録は重要である。何故そうなったのかを理解せず改善しようとすれば、同じ失敗を繰り返すことになる。
逆を言えば、何かを改善しようという時、何故その仕組みが存在していたのかを学ぶ必要がある。
"何かを変える"だけを改善だと思っているようでは、ただただルールが増え、複雑化し、組織の生産性と機動性が下がるだけである。
百回「死にたい」って言っても誰も「そうか、辛いんだね」とは言ってくれず、一度も「死にたい」と言わずに死んだ時にやっと、「ひょっとして何か重たいことがあったのかも?」と思われる程度だ。
自分の死は自分にとっては一大事だが、多くの他人にとっては毎日死んでいく誰かの一人に過ぎない。
残された人は、自分の意志を正しく理解し、信じ、ついでに自分の評価を改善してくれるだろうと言う前提の遺書は、人間の善意に最後まですがっている。
実際、いじめられっ子がいじめの犯人の名前を挙げて自殺しても、当人の親に多少の賠償金が請求される程度で、それもきっちり払うかどうか怪しいものだからだ。
死後、自分の価値が認められるだろうと言うのは、追い詰められた人間が最後に抱く希望であり、継続的な行動を伴わない希望は必ず裏切られる。
世界の富は有限だから、それを人が生きられる水準で均等に配ろうと思うと限度がある。
結局、誰かを見殺しにしなくちゃいけない時が来る。それを何処か遠くの国にするか、ご近所さんや自分も候補になる"平等"を選ぶかになってしまう。
誰だって心理的距離の近い人の命の方が大切だ。何故なら、心理的距離が近い人の運命は、自分にも訪れる可能性が"近い"から。
他人に無関心でいることは、心理的距離を近づけなくて済むので、自分が被りうる災厄に対する恐怖を遠ざけてくれる。
恐怖は理解し克服すべきものであり、遠ざけるべき存在ではない。
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