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真栄田峰と言う名前が今でも私の足を引っ張っている。
そういう輝かしい過去は美しい思い出として残っているけど、別にそれに執着したい訳ではない。でも、今ひとつ分かってくれない子がいる。
良くある質問の一つで、いつの時期が一番楽しかったですか? と言うものだ。
人間、人生で過去のいついつが良かったとか楽しかったとか言い出したら、老いが始まった証拠だとか思っている。
もっと端的に言うと、今や将来を大切にしない人が過去に拘わっている状況は、個人から国まで全て老化としか言いようがない。
そういう言い方をすると、流石と言ってくれる人もいれば、昔のファンを馬鹿にしていると言う人もいる。
昔の歌は今でも歌うし、それを喜んでくれるのは嬉しいけど、歌っているのは今の自分だ。そしてそれを聞いているのも今の貴方でしかない。
貴方が今、いくつであるか、そしていつからのファンだと言うのは、私にとってあまり重要ではない。
かつてのファンと言う言葉も嫌いだ。今、好きではないと言う人に対して何をしたところで好きになってくれるとは思えないし、そんな人を大切にするぐらいなら、今の自分を喜んでくれる人を大切にしたい。
これは多分、粗方の人生で言える事だ。
自分を好きにならないお金持ちなんかにアピールする女の子は惨めだ。美人なだけで自分を少しも気にしていない女にアピールする男は惨めだ。そこここに自分を好きになってくれる人がいるだろうに。
重要なのは自分の人生の決定権を自分で持つ事だ。その為には、自分に対して肯定的な人を味方にすることだ。
私は常にその方針で成功してきたし、マスメディアを干されたあとも実際成功に繋がっている。
お金がどうとか言う人はいるけど、今、十分に満足する程の収入があるし、印税も貯金も死ぬまでに使い切れないだろう。
死んだ後にお金は持っていけないと言う。それは多分、自分の友達も、自分の功績も全部同じだ。
刹那的に生きたいと言うつもりはないが、しかし、来世があると無駄に信じて全部それに注ぎ込む人生も虚しい。
今、自分が最良と思う、そして自分にとって楽しい選択肢を選び取るしか人生をよいものとする方法はない。
私は好きなように生きると言うと、「普通に生きていたら結婚して子供を作って、家庭に入るだろう。少なくとも貴方の世代なら」と言う嫌な事を言われる事もある。
普通じゃない人には生きる資格がないような言い方だ。
普通と言うのは何だろう?
今の時代、特に言われることだが、私は若い頃からこの問題に直面してきた。
そして、人がそのようなこを言うのは、常に自分にとって有用とは思わない特性についてだ。
結局、自分にとって利益にならないけれど人と違う事は、自分に対するコストでしかないのだ。
そして、それを払うことを拒否する事が因循姑息な人の生き方なのである。
払うものを小さくすれば自分にため込めるものが多くなると思っている。人生はそんなに矮小な人間に有利になるようにできていない。
人に対してコストを払えば、必ず自分に対してリターンがある。勿論裏切られる事は多い。でも、そんなことで羹に懲りて膾を吹くような事はむしろ損ばかりだろう。
自分は人に何かをして裏切られたという記憶すら自分の財産だ。
若い子の中には黒歴史という言葉が好きだが、黒歴史なんてものはそこから何も学びませんでしたという意思表明でしかない。
嫌な事を自分がいくら忘れようとした所で、人は必ず覚えている。
それが自分の愚かだった結果だとして、それならば学ぶ事はある。
人が愚かだった結果だとすれば、人を見る事を学べる。
私は普通に生きていくつもりはない。人よりも普通の世界について知らない事も多い。でもその代わり、人の知らない事を人よりも多くのことを知っているつもりだ。
私が行動党に対してよい顔をしている事に腹を立てている自称リベラルが沢山いる。
私の事を国粋主義者と言いたいのか、「この国の事が好きなんですね」と嫌みを言われる。
一方、行動党は偏った右翼にも嫌われるので「この国の事が本当に嫌いなんですね」とも言われる。
どちらの人々も、何かの理想に対して個人を捧げろと言う事を言う。だから私は言うのだ。
個人を大切にしない国家で立派な国家はない。
そして、自分を産み育ててくれた国家を憎むことはそんなに立派な態度じゃない。
私はこの国に希望を持っているのは、"個人の自由よりも大切な何か"を強要されていない事であり、そして同時に海外に頼って生きていかなければならない程、国が弱っていないと言う事だ。
それに、貴方たちが国家のためとか社会のためとか、或いは世界の為とか言う事とは"貴方の頭の中の社会や国家"であって、それは貴方の自分本位な理想でしかない。
もっと国や社会の構造、世界の有り様を学ばないと、誰のためにもならない運動に力を入れることになる。
いつだったか、私が稜邦中学校で演劇を教えている事に関して色々言われている。
応援してくれる人もいるが、貶す人も多い。特に私が子供に対して褒める事を中心にして、割と好きにさせている事に対する非難がある。
ここでの私を含めた教育者のミッションは、子供が人生の課題に対して如何にして取り組むか、と言う力を育てる事だ。決して、カリキュラムを無難に時間通りに達成させることではない。
例えばタブレットを使った教育で、動画サイトやゲームを禁止する所は多い。でもそれは教員の仕事の都合、つまり課題をクリアさせると言うミッションを考えての措置でしかない。本来子供が学び取るべきなのは、そのような誘惑があっても課題をクリアする術である。
私のレッスンに関して、好きに逃げられると言うけれど、逃げたい人は別の居心地のいいところを見つければいいし、居心地の良さが教育に悪影響を与えると言うデータもない。
人間、それぞれの場所で花を咲かせるけど、何処に鉢を植えるかは子供のうちに――或いは大人になっても――好きに決めさせていいと思う。
自由に移動できない子の為に、稜邦中学校があるのだから。
子供は人生について何も知らないと言うけれど、我々がそんなに人生について熟達しているだろうか? そして、その子供に対する理解が常に正しいだなんて本当に言えるのだろうか?
「貴方の事が不快だと言う人もいるんです」的な苦情も入ってくる。
あくまでも自分の意見ではないと言いたいらしい。狡い書き方だ。
人の不快に配慮せよと言う人は、自分が人を不快にさせる可能性を考慮しないと言う意味でどうしようもない。
私が「貴方の事を不快に思うのだけど、どうしてくれるのかしら?」と言うと、恐らく顔を真っ赤にして、支離滅裂な文章を送ってくるのだ。
常に誰かしらを不快にさせながら生きている事を自省しなければならないにしても、人間万人に好かれる事は無理なこと。
それは自分も他人も同じ事で、そういう所で自分を一般化できない人が多い。
「自分は我慢してやってる」を言葉の端々に出している人は多いけれど、それは誰でも同じ事だ。
当然、人によって許容度は違うのだけど、我慢を選ぶのか爆発を選ぶのか、はたまた別の解消のさせ方を探すのかは当人の責任に於いて自由だ。
貴方の境遇には同情するけど、人生に起きる全ての事を大袈裟にと言うかドラマチックに考えるのは、いい加減卒業したらどうだろう?
自分の人生は自分が主役だというのは勿論そうなのだけど、それは独我論な考えを持ち続けるのとは違う。そういう考えは、事実上人生をシンプルに考えられる反面、自分の事を無駄に複雑に演出しなくちゃならなくなる。
私は繊細だとか、こういう特性を持つとか言う事を、不必要に積み増していく人生は、いつか何処かで息が詰まる。
勿論、生まれながらに変えられないものは大切にする――否、そういう一番大切なものを守る為には、他に守るべき価値観を増やすべきではない。
生きづらさというのは、きっと解消されるべき事なのだけど、他人の生きづらさを増やしてまで自分の生きづらさを解消すべきではない。
世界に何らかの物理法則がある以上、世界は何らかの要求を自分に突き付ける。それに対して他人ができる事は、世界を変えることではなく、その苦しみを分かち合うことだ。
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