0361 寝そべりの天使

ページ名:0361 寝そべりの天使

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 "天使"の社会復帰計画は粛々と続いているが、彼女たちが前の人生から逃げ出した結果である事は、それに大きな影を落としている。
 まだ"身体を売る道しかない"と認識している人に比べて、お金を稼ぐ事に対して、積極的な意思がない天使。生活の場と、最低限のお小遣が貰えればそれで満足している天使のことを、世間は"寝そべりの天使"と言う。
 この言葉、決して好意的な意味ではない。
 散々「天使に対して税金は使われていない」と説明しても、国に管理されていた頃からの知識更新をしない人には、穀潰しのようにしか見えない。

 そもそも「全ての人間が、社会のために存在してなくてはならず、そうでなければ最低限の生活もやむなし――或いはこの世から退場して然るべし」と言う考え方自体が、極めて自分本位である事に気付いていない人が多い。
 こういう風に個人の思想を、"社会のため、世間の目、世の中のこと"と大袈裟に言う人は、単にその事を自分が許せないと言うだけである。
 当世は余裕のない人が多いのか、こういう人が多くなった。
 ネットや電車の広告を見れば、生活の全てを趣味も余暇も全てカネに変えろ、然もなくば消費しろと訴えている。

 こうも言われる。「人として最低限しか弁えない人間は、最低限の扱いしか受けない」と。人が人に優しくするのに理由などいるだろうか?
 そういうものに理由とか条件とか資格とか求めるようになるのは、平たく言えばモラハラなのではないだろうか? 結局自分本位で、自分の気に入るかどうかが優しくするポイントなのだろう。
 こういう人にとって、優しさとは有限であって、出し惜しみするようなものなのだ。

 「努力をしない人なのだから当然だ」と言う人も居る。
 彼等は彼女達の何を見て努力をしていないと言っているのだろうか。
 努力が結果に必ず結びつくと言うのなら、何故貴方はビル・ゲイツやイーロン・マスクほどに成功していないのだろうか?
 「努力をすればある程度の成果が得られる」なんて反論するだろうけど、その"基準"を自分を中心に考えているのなら、結局世の中に甘えているのは貴方なのだ。
 人がどの程度努力出来るのか、そして成果が出るのかは人それぞれだ。だが、得意な分野があるとそれを突然鼻に掛けるようになる。挙げ句、自分の得意ではない分野は人生にとって重要ではないとまで言い張るのだ。こんなに自己中心的な人間に何を言う資格があるというのだろう?

 「前の人生で悪い事をしたのだからこんな境遇になったのだ」と公正世界仮説をタテに、根拠もなく批判する人も居る。
 否、彼等は「今の境遇が劣悪であるのは、悪い事をした証拠なのだ」と言いたいのだ。
 こういう手合いは、自分の教育に何も持ちだしてくれない親に産まれたり、情勢不安定で不平等極まる国に生まれたり、産まれながらに重篤な障害を抱えていたりする事も、"何か悪い事をしたから"のカテゴリに入るのだ。
 確かに"成り上がり"のストーリーは沢山ある。だが、先のような手合いは自分が本当にそうであっただろうか?
 或いは逆に、世の中の成功者の全てが全て"善人である"だなどと考えているのだろうか?
 結局自分の成功は、自分の内的な理由によって確定的だと思い込みたいのだ。何かうっかりした事情で、単なる不運でその幸せが逃げていく可能性を信じたくないのだ。

 そうした傾向は、自分が不幸なときでさえ織り込まれていて、それは"不幸を他人の所為にしない"と言う道徳にも適うものだからだ。
 天使にもそういう傾向の子がいて、無条件の自己肯定が出来ないのだ。
 人に厳しくすることを処世術としている人間には都合のいい人間達だ。
 我々の責務は、そういう人間から天使達を守ることなのだ。

 "経済的に資する"と言うのは、沢山存在する人間の価値の中で限られた一種類の価値でしかない。それも時代や社会状況、文化や国によってどの部分が経済的なのかも異なる。
 社会の多様性とは、これが何かの事情で一変したときにでも、万人が幸せでいられる社会のことだ。
 例えば人々が狩猟採集を中心とした生活をしている時に要した能力は、現代社会では不要かも知れないが、現代社会で有用とされる能力が、その時代に活きる訳ではない。
 それは単純に生まれてくる時代の違いであり、それによって幸不幸が別れるのはフェアではない。
 幸いにも現代社会には、時代にそぐわない能力を持っていても認められる豊かさがある。
 人間的豊かさとは、自分にないものを持つ人間を認める事によって、英知の総量を増やす事にある。
 今、寝そべっている天使や、無職で喘いでいる人々、無能の烙印を押されている"可愛さのない障害者"が、絶対的に価値のないものだと断言できるだろうか?
 未来永劫価値を生まないと言う事を、何故断定出来るのだろうか?
 価値のない人間、価値のない研究、価値のない遊び――それは単純に価値を評価する為の豊かさが足りないからそう見えているのではないか?

 もっと俗世的な面で評価するなら、自分が"無価値"に転落した時に、自分の子供や身内が"無価値"として産まれた時、それを保護したいと思うのは、当然の考え方ではないか?
 そういう事情でさえも責任論で語るのは無理があるのではないか?
 そして、そのような境遇を強いる社会で、誰が安心してリスクを取るだろうか?

 ノーリスクでハイリターンなのは、実に運の良いときだけだ。
 一般的にはハイリターンを得るためには、リスクを取らなければならない。こういうチャレンジャーは、社会がそれを許容するから存在している訳で、その許容度とチャレンジャーの生存率を上げる事が、国全体としてのリターンを増やす事になる。
 その為には、生存のバイアスに陥らないように、失敗した人間をケアする必要も出て来る。
 失敗して無価値の烙印を押された者を助ける事は、他の人々のチャレンジ精神を涵養する。
 では、その無価値の烙印を押された者が、本当に何も努力しなかったのか、チャレンジしなかったのかをどう測定出来よう? 自分の気に入ったチャレンジや努力のみを評価できようか?

 治安的な面でも"敗者"を追い詰めるのは好ましくない。
 生きるために仕方なく犯す犯罪、社会に対して反抗心を得た者の確信的犯罪行為、またそれらを利用して所要の目的を達する為の犯罪行為。
 追い詰められた人間は、自分自身に対してもその命や人生を軽く扱う。
 拡大自殺が散見されるようになった現代、このような人達を洗脳して自爆テロへと追い込む事は、実のところそこまで難しくない。
 現実にこれに近いテロが日本では起こっている。

 勝ち組と言われる人は、自分がそのテロの犠牲になったときにでも、彼等を敗者と笑っていられるのだろうか?

 国は、突出した金持ちが少数いるよりも、ほどほどの生活の人間が多数存在している方が、経済的に大きくなる。
 一千億を持っていても、使うカネには上限があるが、一千万を持つ人間が一万人いれば、それはもう一つの市場が生まれる。
 そして、その一万人を支える社会は、恐らく一人の金持ちを支える社会よりも大きく豊かなはずである。

 理想とする国家像はそこにあるに違いない。

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