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稜邦中学校の本当の意味での初の入学式である。
様々な方法で、優秀だが不幸な子供たちが集められた。
勿論、優秀というのは我々の基準である。視野の狭い教師や親、社会、学校から不真面目だとか無能だとか言う烙印を付けられた子供たちである。
ちゃんとコストを掛ければ戦力になる筈の人間を、無駄に磨り潰すのは、政府が無能な証拠である。
女性や一度職を離れた人、人生をドロップアウトした人、障害者など、いくらでも労働力などいるというのに、それを活用できないのは、労働市場が硬直しているのと、その立場が余りにも不安定化されたことだろう。
それは教育に掛けるコストを最小に、人に使う費用を最小にと言う非人道に特化した国の有様である。
彼等を社会に資する人間に育て上げる。それだけで社会は変わる。社会が変わればもっと苦しい状態の人も助けられるはずなのだ。
生徒は我が校に過度な期待をしているよりも少し疑っているぐらいの人、なんなら利用だけできればと思っている人を優先する。
疑っている人間を魅了すれば、或いはそういう人間に価値があると思わせれば、その紐帯は絶対的なものになるからだ。根拠のない期待は、勝手に裏切られたと思われ、そして自分が裏切っていい理由を作り出す。
教育は理想的に語るなら、人々の自由の為に存在している。明け透けに言うなら国家の強靱化の為にある筈だ。
昨今の教育は、どいつもこいつも自分の言いなりになる人間を育てる事しか考えていない。そして、そういう野望を抱く人間は精々自分の利益ぐらいしかプランを持っていない。そして悲しいかな普通の人間には寿命がある。
我々は死なないから、彼等が死ぬまで利益を出し続けてくれなければ困る。だからこそ本気で教育する。最後までいい夢を見て貰う必要がある。
人には人それぞれの人生があり、その中で成功の形もそれぞれである。故に我々はロールモデルと言うものを持たない。それぞれの子にとってそれぞれの正解を求めるのだ。
旧態依然の教師はそれを不可能だと言う。或いは、それは甘えだと言う。甘えは誰に対しての事だろうか?
よしんば甘えだとして、何故甘える事が悪いのだろうか?
お互いに甘えて、お互いに認め合えば、もっと世の中は穏やかに関係し合えるのではないか?
何故、何かを許さないことを原理として指導するのだろうか?
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