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科学が庶民の分からない所で、庶民の分からない価値に重きを持つ事と、芸術家が庶民の分からない所で、庶民の分からない価値について称揚している事は、殆ど同じ問題だ。
科学も文化も選民意識のある人の、高邁な自尊心のために存在している訳ではない。
それに危機感感を持つ人は――一部の人が見下しがちな――その庶民に対する啓蒙を重要としている。
人工呼吸器など電気がないと生きていけない人がいるというのに「たかが電気」と言い、建築や土木が人の命を守り支えていると言うのに「コンクリートから人へ」などと世迷い言を言う事に比べれば、科学はまだ最終的に人を救うだろう希望がある。とは言え、例えば医者の中には患者ではなく症例として事に当たる人もいる。結局、同じ穴の狢なのだ。
どんな人でも自分の主義主張を持つと言うことは大切で、自分の美意識を表現する事には何も問題はない。
アーチストならそれを楽曲で表現すべきだし、科学者ならその為の研究に力を注ぐべきだ。
だが、その知名度や社会的地位をそれに援用することには慎重でなければならないのではないか?
そのような文化や科学の"私物化"の先にあるのが、庶民の文化や科学の軽視に繋がる。
"十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない"とはよく言われる事だが、在るものを在るものとして受け取り、深く考え使っていると言う意味では、科学も文化も同じだ。
それぞれはそれぞれの文脈によって意味を成し、その意味によって価値が生まれている。
近頃は文脈を無視するのが流行とばかりに、端的な印象をまるで根拠があるかのように語る。そして、専門家を馬鹿にして勝った素振りを見せると言う商売がある。
役人は役人で、当たり籤だけを引いていれば日本の完全勝利だと思い込んでいる。
科学の世界も、文化の世界も、投資というガチャを引かなければ"排出率"はどの国に行っても一定だ。
日本人は器用だ? 日本人は勤勉だ? そんなものに甘えてお前は勤勉でもなければ器用でもないじゃないか!
そして、投資の"効率"なんてものを求めて、トップにしかお金を落とさない。
初学者や素人、或いは基礎研究や実験的表現――そういう裾野がなければ、文化の頂も、科学の高みも安息角に倣って低くなってしまうと言うのに。
文化も科学も全ては神聖だ。神聖であるから全ての人にその恩恵を与えられなければならない。そして、常に手に届く所になければならない。
もう一度言う。
世界はお前の為に存在しているのではないと。
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