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「あぁ。大変な一年だったなぁ……」
私がしみじみしていると、「お主は去年も同じようなことを言うておったなぁ」と楓さん。
流石に年末年始は仕事のない人ばかりだ……とはいえない。政治関係の子は"地元"で挨拶回りがあるし、忙しそうだ。
羊子ちゃんは比例のみでの選出なので、頭を下げに行くのは企業や団体ばかりだという。そう言いつつも、最大限お休み取っても、大晦日の午後から元日までだからハードスケジュールである。
「身体には気をつけてくださいね」
「この身体ならなんでもできるよ」
そんな会話は大体転生者ならではなのだが、それを説教するのも転生者ではよくあることだった。
「でも私、この仕事が好きだからね。好きじゃなかったら、三が日にまで頭下げに行かないよ」
そうも言われると頭が下がるのはこちらの方である。
クリスマス後の生徒の話は色々と耳にしている。
それを思うと、羊子ちゃん達の仕事に関して無関心ではいられない。
誕生日もクリスマスも今まで祝って貰った事がない子供や、そういう行事ともなると母親や父親がいなくなる家の子供もいた。
一般生徒の中には、上流階級故、進路を強要される子供や中流家庭だが上の学校へ行くまではお金がないと言う事ももいるので、その格差が著しい。
我々は恵まれた人達には、こういう世界もあるのだと驕らないで欲しいと伝え、恵まれなかった人達にはこれから綺麗な世界を見に行こうと誘う。
人は自分立ち位置に関して、実力で説明する事が多い。自分が「治安と秩序のある世界で生きていける国に棲まうこと」や「三度三度の食事と学費を出してくれる親」の存在、「五体満足に生きていける健康」などを当然、存在しているべきものとして、それがない人を努力不足や、そもそも「人間として質的に違う何か」、「前世で悪い事をした」として処理する。
そうして、自分の今は自分の努力によって成立していると信じるのだ。
そういう事を考えていると、世の中の治安や秩序、安全や安定を供給している人に対して感謝することもないし、ちょっとした親の不備を「毒親、親ガチャ」と批判し、己の不摂生を誤魔化す。挙げ句、己の子の成果に「子ガチャ」と言い出す。
世の中には自分の存在を超えた何かがあって、それが自分の大きな部分を占めていると考える必要がある。
それは一般的には宗教とか神とか呼ばれるもので、日本はそういう存在を認めるのを「弱さ」としたがる。
宗教に盲信する姿は極めてみっともないのだけど、覚悟のない都合のよい無神論は、見下げ果てた人間だ。
人生に於ける運のボリュームについて語りたがらない人間の多くは、先に述べた論点を殆ど考慮しない。
確信的な無神論はそれを認めた上で、自分の責任を一手に引き寄せる。それは並大抵の覚悟では出来ない。
恐らく、寛容はその運や神について、もっとフラットに考えた所にある。
何教でも己の運命について神に救いを求める姿は馬鹿にすべきではない。そして"今ある自分"と言う恩恵を受け取って自分の人生に前向きに生きるべきなのだ。
宗教も不可知論も無神論も、本質的には自らの弱さを受け取り、その上で前を見る為に存在している。
聖夜と年末年始と言う、極めて宗教的なその日に、我々はその根幹を再認識させられる事になる。
転生者が愛して止まない一般生徒に対し、我々は益々その愛を与える必要を確信する。
その一つが、羊子ちゃんを初めとする政治関係の仕事であり、それをサポートする様々な仕事なのだ。
日が短くなる時期を超えて、太陽が復活していく姿は、太古の人類の希望であった。
我々はこの国に上る日をどれほど維持できるだろうか? 再生させられるだろうか?
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