0275 姫川つばきの過去

0275

　つばきちゃんのことが少し気になった。
　私達が前の世界の話をしたがらないのと同じで、天使は前の身体の事を言いたがらない。それなのに、以前の話をしようとしていた。
　楓さんに尋ねると、「大抵ははっきりしてないものじゃからな……」と言いつつ、転生者向けの文書検索の方法を教えてくれた。

　着衣者も転生者同様謎が多い。しかも、しっかりとした調査はあまり行われない。
　人を覚える能力は転生者同様にある可能性があるが、ヒアリングを網羅的に行っていないので、普遍的かどうかははっきりしない。転生者同様の再生能力は遅いながらあるようで、多少不自由な期間を置くにしても、いずれか五体満足に戻るとか……
　じゃぁ、転生者と着衣者の差は何かと言えば、偏にその能力と出現場所である。
　着衣者も人によっては、ある程度秀でた能力があるようだが、世界を変える程ではない。ただ、転生者とて全員が世界を変える程の能力を持っている訳ではないので、この辺は判断材料とするのはよろしくないだろう。
　そして、"前世"の記憶をこの世界の中に持っているかどうかは気になる。着衣者はそれを正直に話さない。

　着衣者の個人情報とも言える情報にも簡単にアクセスできた。
　息を飲んでつばきちゃんの項目を開く。
　彼女は、着衣者研究者にとっては幸運なサンプルであった。
　七年前の二月三日から八日の間に、"彼"は失踪した。
　三日に友人と会い、八日に別の友人が遊びに来たとき、部屋の鍵が開いたままで彼は消えたのだ。
　この資料に於いて"彼"の名前も住所も全て記載されている。

　警察の調べによると、六日に姫川つばきと思しき少女によって、彼の銀行口座から三十万円が引き出された。だが、残高は他の口座など全てを足すと、二百万円以上あったし、換金価値のある家財なども残されていた。
　彼は長らく無職で、就職活動が上手くいっていないようであったが、詰みの状態ではなかった。
　友人にはその手の事情を部分的に開示していたが、楽観的であったという。
　彼の内心がどうであったか不明だが、三日の夜から六日の朝の何処かに、問題の制服が届いたとみるのが正しい。
　衣装が入っていたと思しき包みが残されている。発送人は架空の住所であった。送り状番号による照会も不発で、そもそも送り状番号自体が偽造であった。
　指紋等の痕跡も綺麗さっぱりないと言うのだから念の入れようだ。
　斯くして、彼は着衣者、姫川つばきとなった。
　彼女の面接で、彼の話を聞いたが知らぬ存ぜぬである。

　着衣者となるのは、何らかの絶望的な状態になった人と言われている。
　少なくとも身辺のはっきりした人物は、心理的、経済的、或いは肉体的に何らかの限界に達していると考えられる。

　彼の身辺調査では、収入以外については、殆ど陰りを見受けられない。
　直近の交友関係は概ね良好で、近所の評判も悪いものではなかった。
　前年には健康診断も受けており、重篤な問題は見つかっていない。

　だが、彼のPCに残っていたメモには、今生に対する呪詛がひしめいていた。
　成功者は己の成功は全て、己の努力と研鑽に帰すと宣い、この国の政情や治安の安定だとか、親の経済力や自分が決定的な障害や疾病を負わなかったと言う運に関して、何も感謝しない態度を示す。
　そして、そういう成功者を盲信して、失敗した人間を不道徳と批難する社会が出来ている。
　これにできる最大の反攻は自らの死を以て、成功者が失敗者に転げ落ちる確率を増やすことであると言う。

　自分の前の世界の思想に近く、共感を覚える程だった。
　否、今の彼女も今の自分もそんなものは捨てている筈だったのに。

　一通りを読み終えて、すっかり興奮してしまった。
　しかし、何を興奮しているのだろう？　これからどのように接すればいいのだろう？
　彼女への敬愛の情が消えたわけでない……ない筈だ。
　静かに内心に確認して安心する。否、むしろ強まったかも知れない。
　だけれど、それを気取られて、何故かと尋ねられたら、絶対に答えられない。
　頭の中で色々とシミュレートする。彼女に顔を突き合わせて、ポーカーフェイスを維持できるだろうか？
　出来ないと思う。
　そんなことを考えながら自分の部屋を出ると、雪ちゃんに「何か思い詰めるようなことでもあった？」と軽い調子で尋ねられる。

　隠すようなことをして追及されるのも嫌なので、素直に――少しは誤魔化して説明する。
「うーん、難しいなぁ……
　例えば、自分が自分であることに絶望する人間もいれば、自分が自分を維持できなくて絶望する人間もいるって事じゃないかな？」
　理想の自分になれない事で、或いは自分の嫌な部分を拒否して絶望する人は、理想を実現するとか、諦めると言う方法で生きていく事が出来る。けれど、ありのままの自分を受け入れた人に、もう一度自分を見つけてこいと言うのは、かなり残酷なことだ。