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この学校の方針の一つとして、「自分は何者かにならなければならない」と言う考えを捨てさせると言うものがある。
これを実際"何者か"である転生者が唱えるのは些かおかしくはあるが、しかし理屈はある。
"何者か"は一つの分野で、一つの手法の中に一人だ。だから、教える事があくまでも手法に限っている限りは、"何者か"にはなれないのだ。
少なくとも大多数は思ったような偉大な人間にはならない。
明け透けに言うのなら、人間の大多数は何らかの部分で負ける。正しい勝ち方も必要だが、負けた時どうするかを教える必要が出て来る。
"何者か"になりたいと思う若者を騙して惑わせる商売は、もう"罪と罰"の頃から存在していたが、それが作家先生の専売特許でなくなった時期からおかしくなってきている。
義務教育では救われない子を救わなきゃいけない一番の動機は、そういう子供に「お前は"何者か"になれる」と騙して、自分の養分にしようとする大人から守る為にある。
それに一定数はなるだろう"何者か"が実った時に、その位置に傲るようになれば、我々にも都合が悪い。
"何か"を努力した先に"何か"があるのは正しい姿だが、はっきりしない"何か"の為に、整合性があるのかないのか分からないような努力を強いるべきではない。
努力は出来たから実ったと言う話と、思い通りになったかと言う話は、別の問題である。
特にこの学校に来ている子供の半数ぐらいは、親との関係に何らかの問題を持っていたりする。そうもなれば、この問題はいよいよ根が深くなる。
勿論、これを解決することが、思春期の不安定さを解決することとは限らない。だがそれに「気にするな」と言う事が正しい答えである筈もない。
我々は困難な問題に立ち向かうことになる。ではあるが、困難であるから避けるのは、教育者として失格だろう。
教育者には毎年、幾人も見る現象でしかないだろうが、本人にとっては自分固有の問題なのだから。
子供に必要なのは、その子を見捨てない保証だ。安心できる何かだ。それは本人の心の中に形成されなければならない。
そして、教育者が一度作るのだと約束した以上、それを一生反故にする事は出来ない。
それをする覚悟のない教育者は、上滑りした言葉で約束を躱し、取り繕う。そうした態度を見た子が、大人を信用する筈がない。
家族的帰属意識は古い価値観だと言い張る人がいる。それは、今の時代高コストな発想だからだ。だから、自分がそのコストを払わなくて済むように。例え、自分の実子に対しても、人生の負担になりそうなものを省く態度の表れだ。
帰って来たい時は、いつでも帰ってくるといい。我々は君を決して裏切らない。そう言ってやるだけの事ができないのだ。
またある人は、それは依存関係だと言う。
人間は何かに依存して生きていなければいけない。問題を抱えない人は、その依存先が沢山あって薄まっているからである。
その生徒が、我々に依存するにしても、他の生徒と繋がればそれも依存関係になるだろう。学問や何らかの活動に繋がればそれも依存関係になる。そうやって、横に繋がっていく何かがある以上、沢山の紐帯は彼の冗長性となるだろう。
欲しがっている言葉は沢山言ってやるべきだ。
それを甘えだと笑う奴は、単に優しさのない人間だ。
優しさのない人間は、自分が持ち出せる優しさを有限だと思っているから出し惜しみする。
それが無限である事を示す事が必要だし、彼等に学んで貰うべき事なのだ。
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