0196 ちさとの配信

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0196

「さて、今日の会見では特に面白い事なかったけど、何か質問とかあるかな?」
 今日の配信では、前段というか学校公式の定例会見で特に目立った話がなかったので、質問タイムとなった。別にゲーム配信に切り換えても良かったけれど、疲れていたのもあっただろう。

 最初の質問は「不死者として人生のアドバイスはありますか?」だった。
「私よりも、実際に歳を取る人間のアドバイスを大切にしたら?
 なんていうか、人生のスパイスは、人生上手く行かなかった人ほど辛口なのだよ。でも、そういう人の話は誰も残さないし、大切にもしない。
 目立った人の特異なエピソードばかりを大切にしちゃう。
 人間の本質って、どうでもいい人に向かって見せるものじゃない?
 自分にとってどうでもいい人に対する酷い態度って、多分その人の本質なんだよ。
 優しさって実はコストの掛かる行為で、普通の人はそのコストって気にするほどのものでもないんだけど、狡い人間とか狭量な人間って、それが凄く高いんだよね。だから、優しさを使うところを吟味している。
 どうでもいいって思われた人は酷い目に遭わしても大丈夫って思うんだよね。
 だからこそ、どうでもいいって思われるような人ほど、人間の本質を知っているんだよ。
 それは、対人関係でも、社会でも同じでさ、役所の職員が、コイツは救わなくてもいいって判断したら、障害年金とか生活保護とか支払われなくなる。そして、生きるために必要な税金とか健康保険とかを払う義務が生じる。それは本来生きるために必要な事なのに。
 不思議だよね。自然権を守るために必要な支払いが出来ないというだけで死ななくてはならないって、それって本当に自然権なのかなって。
 政府が存在する前の世界から見たら、税金も年金も必要のなかったものだったのに。でも、原始的な状況では、別の事情で生きる事を阻害される人がいてさ……例えば障害とかそういうのね。そういう差し引きを考えると、今も昔も誰かを生かすために誰かを殺してるんだよ、部分的にね。ちょっとずつね。結局、権力的なモノが定める命の価値の重心が変わっているに過ぎない。
 そうやって、そのカネの為に生きることを阻害される人が出てくる。
 人間って、何処へ進んでいるんだろうね」

 そういう話をしていると、「人間どこかで救いがあるのだから、それを逃す人が悪いのじゃないか?」と言うコメントが入ってきた。

「私は、『世の中はそんなに悪いものじゃない、きっといい人と巡り逢える、いつか救われる』って考え方嫌い。ああ言うのは煎じ詰めると『救われないお前はお前自身に問題があるからだ』って考えに繋がる。
 でも、どうしようもなく最悪な状況に追い込まれるのは、もう確率とでも言うしかないほどの事がいっぱいいるんだよ。
 『世の中はクソな所もあるし、救われない事もある』ぐらいに斜に構えている人の方が、実は優しくできるんだよね」

 その後も、『世の中はそんな酷薄ではない』と思いたい人の願望が滲み出るようなコメントが続いた。

「世の中、自分がマトモに生きているのなら、それは自分が幸運と人々からの恩恵で生きているんだって思わなきゃいけない。そういう謙虚な姿勢がないと、不幸な人を見た時に、その不幸に正面から向き合えなくなる。それは本人の所為だって思わないと、自分の価値観を守れなくなる。
 世の中の不幸な出来事って、別に本人がどうであるかは別として、確率論的に遭遇するように出来ているんだよ。問題は、その瞬間にたまたまお金を沢山持っていたとか、友人に恵まれていたとか、そういう事にあるし、そのお金や友人は、たまたま実家に余裕があったとか、性格を曲げずに生きてこられた親や学校のお陰であったりするんだよ。勿論、本当に自分の所為って人もあるだろうけどね。でも、その判断をする権利が自分にあるっていう考えはちょっと高慢すぎやしないかな? 神様にでもなったつもりなんだろうね。
 でも、神様がいるとして、『世界は平等な筈だけど、実際は平等じゃないのは何故か』と言う問いに無理矢理答えるからそうなる。でも、その問い自体が間違ってるんじゃないかな?
 私は確信的な無神論者だからこう言っちゃうけど、神様がもし存在するなら、なんで悪い奴が真っ先に天罰を受けないの? 神様の言葉とか言って自分の都合のいい事を語る人がこんなに世の中に多いのに。
 世の中には、神様を名乗る悪いカルトや悪徳新興宗教が沢山あるけど、それが天罰を受けないのが、無神論の根本的な根拠だよ。
 むしろ、神様がいたら、本当の神様を崇める宗教以外、全部滅びていた筈だよ。
 そこで都合良く、死後救われるとか言い出すんだ。運良くその宗教を信じている自分たちだけが救われるとかね。
 でも、それって、この現状の苦痛を紛らわせる為の方便でしかないよ。
 仮に神様がいても、万能ではないし、絶対でもない。当然平等でもない。そこまで不完全なら、天国や地獄が完全である保証なんてないでしょう。
 世の中が不完全であるなら、咎なく不幸になる人も当然いるし、何の道徳的美点もないのに幸せになる人もいる。
 街中をよく見てみれば、本当に酷い人が立派な車に乗っている事もある。眉をひそめるような事をやる人が、子供と奥さんを連れて大きな顔をして歩いている事がある。それは、別に彼等が別の部分で神様に認められるほど立派な人間だった訳じゃない。
 そういう時、立派な車も家族の存在も、本当の幸福のファクターじゃないって言うかも知れない。じゃぁ、本当の幸福って何なの? そうもなれば、人の不幸を指さして、あれは自分の所為だって言える根拠はどこに存在するの? 幸不幸が簡単に語り得ず、目にも見えないようなものならば。
 いい加減、どうにもならない不幸に理由を求めるのはやめたらどうかな?」

 無神論と言ってしまうと、「神様を信じている事は愚かか?」と言われてしまう。
「自分の信じている宗教以外は全部愚かだっていう価値観があるからそういう話になるんじゃないのかな?
 無神論者だけど、宗教に根付いている文化を否定して生きていく事ってできないでしょ? 正月は休むし、みんながクリスマスに遊ぼうって言われたら一緒に遊ぶでしょ?
 なにがしの宗教だから、異教徒の文化は受け入れないって不寛容を是とするのが信仰だというのなら、それは愚かだとは思うけど」

 「死んだらどうなる? 消えてなくなる?」と言う素朴な疑問も出てくる。
「知り得ないことは、語っても答えにならないことだから、考えない事にしているかな。それに、私、死なないしね。
 勿論ね、これから死にそうな人に向かってそうも言ってられないけど、そういう配慮は無神論者だからしてはいけないって事にはならないでしょ?
 宗教家にも過激な原理主義者もいれば、寛容で善良な信徒もいる。
 そうであるなら、無神論者だって、可哀想な人に親切でいる事だって出来るじゃない?」

 それがひと段落すると、質問は変わって、「行動党は不平等を解消できるのか?」と言われてしまう。
「私、そんなに政治の奥深いところは知らないけど、多分、今よりは前進すると思うな。
 羊子ちゃんを含めて、みんな友達だけど、みんな党派制に固執してないんだよね。
 正しい保守、正しいリベラル、正しい右派、正しい左派、こうしたものが健全に議論することで、国民に対して真っ当な政治が出来るんだとおもうんだよ。。
 でも党派制を第一に考えてしまう人々は、正しいものを一つずつ選ぶって事ができなくて、オール・オア・ナッシングで考えちゃう。それじゃぁ、最適解は得られない。党派制に自己の価値を載せて飛ばした単なるエゴだよ。
 マイノリティが全て正しいわけでもないし、マジョリティが全て正しいわけではない。
 そういう当然の感覚を、自分の立場の正当性の主張のためにかき消され、時間と資源を消耗するのであれば、それはもう"政治"ではあるけど、本来の政治ではないよ。
 政治の政は、民を導いて正道につかせることだよ。
 私が稜邦中学の生徒だからっていうのもあるけど、あの子達なら、本当の政治が出来ると思っている。
 そこら辺の政治家よりも人生経験長いしね」

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