0166
僕が高校生の頃だ。ある日転校して、一ヶ月ほど僕の身の回りを引っかき回して去っていった子がいる。
蛍と言う女の子だ。
僕は、ある日、"その場所にいないはずの政治家"を目撃してしまった。
その政治家は有名だったので、僕はしっかり顔を覚えていた。当時はインターネットもなかったので、黙っておけばそれで終わっていたかもしれない。が、彼等はそう思わなかった。
その時に接近したのが蛍さんだ。
剣術の達人で、僕の身柄を守ってくれた時もある。
結局、事件は解決したが、それは彼女が去ることを意味していた。
僕と彼女の最後の会話は、「私の後を追っかけようとしないでね。こう見えても、この仕事嫌いじゃないんだよ。変な哀れみを持つぐらいなら、自分なりにいい人を見つけなさい」であった。
僕が彼女に恋心を抱いていたのは完全にバレていたのだ。
彼女に関する手がかりは、この一件で利益を得たのが剣菱商事と言う事。そこと必ず関わりがある。
それから、僕は彼女らしい彼女を作れないままこんな歳になってしまった。
会社として、独身貴族と言うのは、いつ会社を辞めるか分からない奴と言う意味で、出世をさせにくいものだ。だが、その辺は上手く立ち回れたと思う。外部への出向はあったものの、今や本社の中枢に潜り込めたのだ。
事業部長に三日間時間を取れと言われた。
彼が、剣菱の秘密を教えてくれるらしい。
漸くだ! 漸く、あの事件にアクセスできる!
「埴原達也、四十三歳、独身。趣味映画鑑賞、音楽鑑賞、ジャズ、ポップス、読書、愛読書は意外にもライトノベル。肉体関係のトラブルは観測されず。交友関係は薄くて、それもほぼ社内に限っている。
へー。二課も最近適当な仕事するようになったんだ」
「中功さん。僕もそう思ったんですけど、これが全部だそうです」
ナオちゃんの部下が冷や汗を掻きながら私に説明していた。
冷や汗を掻いて当然だ。よくもこんなに隙のない人間が出世できたものだ。何かやらかしたら処置に困るぞ……
「でも、人物としては確かですし、精神安定度のスコアも標準以上です」
「わかった、わかった。いいよ、呼んでみて。私が見て判断するよ。
最悪、記憶処理剤使えるしね」
時間を調整して、彼に色々とレクチャーしなくてはならないだろう。この学校に合うのであれば。
事業部長は僕を連れて二泊の出張を設定した。
新幹線に乗り、迎えに来た車に乗る。
車内では、前の部署での話や、どうでも良い会話ばかりだ。退屈はしなかったが、しかし、聞きたい話は意図的に避けられている気がする。
そう言えば、新幹線に乗る時、「驚くと思うからそのつもりで」と言われた事だけはそうでもないか。
米軍の施設並みのゲートを越える。
中に入ったら、電子機器を預け、入国審査のような機械を潜り、そして漸く入場だ。
入り口付近はただの中学だか高校のように見える――否、実際に制服を着た生徒が出歩いている。
「ここは?」
僕の質問に事業部長は、「稜邦中学校だよ。ここの生徒は、下手すれば私より年上だ。言葉には気をつけた方がいい」と忠告した。
案内の男に通されたのは、むしろ質素と言えるような応接室だった。
入って暫くするとドアが開いた。そこにいたのは三人の少女だ。
「中功綾夏と申します。こちらは家城碧緖、そしてこちらは御嵩なの」
「よろしくお願いします」
礼儀正しい子だなと思っていたら、頭を下げるのが遅れた。
「埴原達也と申します。よろしくお願いします」
「あらら、新しい部長さんは、女子中学生に見とれちゃうタイプなのかな?」
なのがおちょくる。小柄な子にこんなことを言われる。流石に先制パンチとしてキツイだろう。
そう思っていたら、「初恋の頃を思い出してね」と存外無難な返しをした。
少しいじってやろうと思ったけど、子供とナメられるのも悪いのでやめておこう。
それからは、事務的な話ばかりをしていた。
私達が冗談抜きでこの組織の力の源泉だと気付いていく様子が分かる。何かを噛み締めるように談話を続ける。
「今日はお疲れでしょう、少し早いですが、ホテルの方でおくつろぎください。十九時にディナーを予約してありますので、レストランの方へいらしてください」
そう言って別れようとした。
席を立ったタイミングで、埴原さんが尋ねた。
「蛍さん……宮柳蛍と言う人はいませんか?」
突然、生徒の名前が出てきた。
「直接関係のない事に関してはお答えかねます」
二課め、適当な仕事しやがって!
差し当たり断っておいて、ウラを取らなければならない。これは冗談抜きで記憶処理剤コースかも知れない。
この身体の因果なところは、出逢った人の事をほぼ確実に忘れる事が出来ないと言う事である。
埴原達也――親が離婚する前は岡谷達也だ。しかと覚えている。約三十年前の話だ。
その頃は、バブルが崩壊していたが、まだ庶民はその影響を楽観視していた。だが政治は昭和のそれを終える時が来ていた。
仕事は上手くいったけど、こういう仕事にありがちな、私に惚れる男子を一人作ってしまった。
彼はその一人だった。
「蛍ちゃんカッコイイからね。男の子の性癖歪ませちゃう」
なのに笑われる。
「会いたくないなら適当に断るけど?」
碧緖に心配されたが、「大丈夫、こういうの慣れてるから。ただいい歳ってだけでしょ?」と、今回の件引き受けた。
綾夏は「蛍ならそう言うと思ったよ」と笑い――「ディナーに誘ったから、ドレス着て来てね」と微笑んだ。
完全に面倒くさいなと思いつつ、思い出話も偶にはいいかと考え直すことにした。
時間だ。タキシードに着替えてレストランへと向かう。
席は二つ用意されている。
事業部長とあの三人は別のテーブルに着いていた。
中功さんは「新任祝いにプレゼントをあげましょう」と不敵な笑みを零すだけだ。
時間を少し過ぎた頃に、後ろから僕の前へと回り込んだ女性が一人。
見間違う筈がない。
蛍さんだ。
僕が言葉を失っていると、二十八年前から何一つ変わらない笑顔で語りかけてくる。
「達也くん。同じように歳を取れなくてごめんね」
このとき漸く僕は、彼女たちが歳を取らないと言う事実を認めることが出来たと思う。そして、同時にあの頃の彼女が、「私を追いかけないでね」と言った意味が分かったのだ。
僕は彼女を救えるのだという希望を持っていた事を恥じた。
僕は何を言えば良いか分からず、ただ彼女の言葉に相づちを打つので精一杯だったのだ。
「達也くんが考えていた事は分かるよ。
その為に頑張ってきたんだものね。
私が、実際、四十そこそこの可哀想なオバサンだったら良かったのに……」
その寂しそうな微笑みを見ると、自分が如何に愚かだったのかが分かる。
「多分ね、私が歳を取る身体で、それでこの仕事に三十年しがみついていたとしたら、確かに達也くんの申し出を喜んで受けたと思うんだよ。
でもね、私、私に誇りがあるし、この身体である以上、誇りがないと生きていけないんだよ。
だからね、達也くんは、他にちゃんといい人を見つけて。
剣菱の部長さんやってるぐらいなんだから、きちんとした人が見つかるよ。それも、達也くんと対等に付き合える人がね」
完全に打ちのめされて、何も言えないままでいる。
彼女は少女の明るさをそのままに、慣れた様子でワインをギャルソンに頼んでいた。
それから彼女は、僕との無言の食卓をにこやかにやり過ごしていく。
その身のこなしは完全に大人のそれで、僕は二度も彼女を勘違いしていたことに気付く。
彼女は、あの当時から大人であったし、そして誇り高い一人の人間であった。
あの頃から一切成長していないのは僕であり、そして、それをその当時から彼女は見抜いていたのだ。
「僕は少しは大人になれただろうか?」
「あの頃の君なら、女性とこんなお店で落ち着いて食事なんて出来なかったでしょうね?
目論見が外れたからと言って、そんなに自分を卑下するものじゃないよ」
「いや、僕はやっぱり大馬鹿者だよ。
あの時、あんなにはっきりと拒否されていたというのに」
「私の断り方が悪かっただけだよ。
この前も友達にからかわれちゃったよ。そんな風だと、いつか刺されるよってね」
「それって……」
「私、この仕事、何年やってると思ってるの? あまり自惚れない方がいいと思うよ。
確かに、ここまで自力でやってきたのは凄いよ。褒めてあげる。
でも、それとこれは別だよ。
達也くんも嫌でしょ? こういう再会」
「本当に悪かった」
「だから、頭は下げなくていいよ。
どうせ、また仕事でここに来るんでしょ? それなら、こういうのに慣れないと。
あの時と変わらない子供が目の前でワインを飲んだりするのとかもね」
僕は上手くやれるだろうか? この転生者という名の大人と。
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