今年の仕事は、土曜日の出勤をすれば終わりだ。年末年始も楓さんの家に呼ばれているし、明日からは綾夏さんに接待を受ける予定なのだ。
そう、接待である。温泉旅館にだ。
エレンちゃんと、アンナちゃんが付き添い……って、単に一緒に温泉に行きたいだけなんだろうけど、綾夏さんと二人っきりにならなくていいか。
駅で待ち合わせると、みんな大体時間通りにやってくる。
話題は温泉の話ばかりで、仕事の話はいいのかよと思ってしまう。
とはいえ、女子の会話はやっぱり楽しい。
楽しいと思うこと、素敵と思うこと、それに対して、意識的に高いものを望まない事は、人生の幸福には必要な事だ。
人は人を見て、もっと自分は幸福になれる筈だと思うから、今ある幸福に満足出来なくなる。
人は言う。低い望みには、低い達成点しか用意されていないと。確かにそうだろう。だが、世の中に不満足で不機嫌な顔をすることが、高い望みに対する正しい態度などと言う事は断じてないだろう。
高い目的を達成することを、小さな幸せに対して"それらしい事"を言って馬鹿にする事と連結させる事は、目的と手段の顛倒に他ならない。
世界的に有名なパティシエだとしても、自分の愛娘の作ったクッキーは美味しいだろう。それを否定する尤もらしさは、結局尤もらしい幸せしか手に入れられない。
列車は唸り声を上げて少しずつ標高を稼いでいく。
山と谷の間を進み、渓谷を渡り森を抜ける。
向かい合わせに座る座席は、女子中学生の身体にはやや大きく思えた。
駅弁が美味しい。
温泉宿の迎えが来る駅まで特急で一時間。旅情が心の中に満ちていくのが嬉しい。
駅に着くとすぐに、アンナちゃんが旅館の人を見つけた。
「冴子さーん!」
手を振ると、和服の女性が気付いたようだ。
スリムな人で、立ち居振る舞いに隙のようなものを見せないような人だった。
聞く話によると、昔アンナちゃんと"ちょっと"あったらしい。
宿は車ですぐのところだ。
川沿いにあって、近代化はされているものの、"それらしい"和風の造りをしている。外国人が喜びそうな内装だ。間接照明と花梨材のお陰で、館内がほんのりと暖かく感じる。
冴子さんはこの旅館の仲居さんで、学校の事は承知の上だった。
それ故、生徒がこの旅館に泊まると彼女が担当となるのだ。
彼女によると、支配人が挨拶したがっているらしいが、生徒達が他の客から変な顔で見られたくないので、それは御法度となっているそうだ。
チェックインが済むと、後から男性の一人客が現われた。
四十代ぐらいに見えたが、格好が若者ぶっていてやや滑稽だった。その代わり、態度が横柄だったので、嫌なの来たなと思った。
冴子さんも同じ気持ちだったのか、引っ張り込むような言い方で部屋に招いた。
「冴子さん、すっかり仲居さんだね」
アンナちゃんが嬉しそうだ。
「これも皆さんのおかげです」
彼女に何があったのかは聞くべき話じゃないだろう。
「お風呂行こう!}
綾夏さんは冴子さんが退室したら、早々に浴衣に着替え始めた。
それを見ると、我々も着替えないで済まないだろう。実際、同じぼけっとするなら、お風呂でした方が絶対的に正解だった。
四人で露天風呂に浸かる。アルカリ性の泉質なので、滑らかなお湯だ。
柵のお陰でよく見えないけれど、その向こう側は川が流れている筈だ。
みんな落ち着いたキャラクターの人なので、万一の事はなく、大人しく入っている。
綾夏さんが問いかける。
「それはそれとして、ちさとちゃん、お願いしたらなんでもやってくれそうな感じだよね?」
「やらないよ?」
私はきっぱりと答える。
「私、そんなに押しに弱いように見えるかな?」
「見えるよー」
三人して笑われる。
「なんでもしてくれるかは別としても、なんでも相談に乗ってるのを見ると、やっぱり誠実なんだと思いますね」
エレンちゃんは、そこから一呼吸置いて続ける。
「人の事ばかり考えていて本当に凄いと思いますよ」
そこまで言われると買いかぶられている気がする。私は、そんなに慈愛に満ちた人間じゃないと思う。
「ナンというか、人の事を考えないでいると、自分が自分本位な人間に思えてきて、無茶苦茶しんどいからね」
そう答えると、アンナちゃんが口を挟む。
「うーん、そういうのはどうなんだろう?
人の事を考えるって、多かれ少なかれ社会性から来ているでしょ? それなら、エゴイストに見えないようにしているって、プリミティブな感情なんじゃないかな」
次いでエレンちゃんが補強する。
「人間って、社会性を保つように精神が進化して今あるでしょ? 自分の事をそんなに悪く言わなくてもいいんじゃないかな?」
しかし、自分自身でいまひとつ納得出来ないところではある。
「でも、前の世界では、その性格で上手くいかなかったし……」
すると綾夏ちゃんが声を一段と大きくして言う。
「前の世界のことはいわなーい」
そして、口調を早くして一息で言うには、「あなた、前の世界で自殺したんでしょ? だったら、もう、そういうのは考えちゃ駄目だよ」と。
それからは、きゃっきゃと笑って話を誤魔化された。
いい加減茹だってお風呂から上がると、みんなで街中を散策する。
商店が並ぶ一帯はあるものの、長引く不況の所為で廃屋や更地が目立つ。
一部一部を切り取ると、確かに楽しそうな温泉街の風景になるけど、それは紀行番組や旅雑誌のテクニックでしかない。
リアルな温泉は、様々な困難に立ち向かっているのだ。
でも、感傷に浸って鹿爪らしい事を言っていても始まらない。
「○○牛の牛串だってー」
「地ビールかぁ……宿に言ったら用意してくれるかな?」
「このゆるキャラ可愛い~」
思い思いに良いところを見つけて喜ぶ。旅を楽しむとはそういう事なのかも知れない。
宿に帰ってくると、夕飯の準備が整いつつあった。
冴子さんにさっきのビールの取り扱いがあるかと聞くと、「酒屋に連絡します」と答えが返ってきた。
「どうもすいません」と言いつつ、お言葉に甘えさせて貰う。
そうやっているうちに準備は整い乾杯だ。
「かんぱーい」のかけ声でグラスをぶつけ合い、そして一息で飲み干してしまう。
「そろそろお店の話をするけどいいかな?」
綾夏さんに急に話を振られた。
「もう、むしろ遅いぐらいですよ」
「少しは旅行を楽しみたいからね」
綾夏さんはにこやかにしていた。
「ちょっとややこしいけど、食堂の支店って形になる。そうしたら、どうしても回らない時、応援も呼べるしね。あと、労務関係、経理関係はこっちでやれるし」
思ったよりも楽にスタートが出来そうだ。勿論、応援はお願いしないに限るのだけど。
「じゃぁ、雇われ店長ですね」
「不満がある?」
「滅相もない」
「賃料も上手くやるから大丈夫」
「上手くって?」
「校内の福利厚生だからね」
綾夏さんだから裏がありそうと思ってたので、ちょっと気まずい。
「福利厚生って事は、使えるのは生徒だけじゃないって感じ?」
エレンちゃんが尋ねる。
「それで行こうかなと思ってる。思ったよりも大人の扱いが良かったからね。ちさとちゃんもそれでいい?」
「勿論! お客さんは多い方がいいですしね」
私が同意をすると、「面白くなってきた!」と、会は盛り上がった。
「お店の名前決めないとですね?」
アンナちゃんが重要な、そして一番面倒くさい事を思い出させてくれる。
「もう、ちさとちゃんのお店だから、"御堂"とか"ちさと"にすれば?」
綾夏ちゃんが投げやりだ――模擬店の時に散々議論をとっちらかして、看板を作る余裕がないと言う理由で先延ばしにしていたのを思いだしたのだろう。
「そんな自己顕示欲満々な名前はちょっと……」
私が難色を示すと、アンナちゃんが助け船を出す。
「何か好きな言葉とかありますか?」
「何だろう……急に言われると思いつかない……」
座右の銘とか、そういうものを考えていないので思いつかないというか、頭にない。格好いい言葉は思いつくけれど、それが自分にしっくり来るものかといわれたら、当然それは違うものである。
それから、話は行ったり来たりして、決まらなかったら"成山"だの"稜邦"だのの字を使えば良いんじゃないかと言う投げやりな結論になった。
「ところで、何処に建てるつもりなんですか?」
やるとなると、なるべく目立つところがいいなと思っていたら、「本校舎の屋上だよ」なんて返事が来た。
「夏はビアガーデンも出来ますねぇ」
「あそこなら、眺望もいいからお酒美味しいね」
エレンちゃんもアンナちゃんも喜んでいる。
「でも、ビールとか上に上げるのしんどそうだなぁ……」
「大丈夫、エレベーターがちょうど更新の時期なんだよね」
都合のいいことがあるものだ。
ふーんと言う顔をしていると、綾夏さんがニンマリしているので、そういう事なのだろう。
夕飯が終わると、お願いしていた地ビールと、ウィスキーの瓶、水割りのセットが用意された。
部屋を去る冴子さんを追いかけるようにアンナちゃんが出て行く。
前に色々あったっていうし、話したいことも沢山あるのだろう。
「こんなもの?」
「あとちょっと」
それぞれ好みの濃さに水割りを作り、再びガールズトーク(?)に戻っていく。
そして、アンナちゃんが戻ってきたので歯を磨いて消灯だ。
幸せな"接待"は朝になると打ち切られた。
「段田! おい、いるんだろ!」
客室のドアを乱暴に叩く男達がいる。
治安悪いなと思ってたら、どうやら警察官のようである。
それで、ドアが開かない事に業を煮やした刑事がドアを開けたのだ。
朝食を食べに食堂へ行くと、支配人が「朝から騒がしくて申し訳ない」と頭を下げて回っていた。
「なんだったんですか?」
「お客様に指名手配の方が見えて」
"指名手配"に"お客様"と付くのはちぐはぐな印象を感じる。
朝食が終わると、部屋に帰るのだけど、冴子さんとフロントマンの男性が連れて行かれるのが見える。
アンナちゃんが刑事に駆け寄るが、鬱陶しがられて終わってしまった。
仕方がないので、支配人を呼んで事情を聞くことにしたのだ。
「死んでた?」
問題の男は、段田と言う元暴アウトローで、主に暗殺の斡旋を仕事にしていた。
指名手配ではあるが、今まで尻尾を掴ませなかったらしい。それがこの旅館に現われたので、今朝、警察が身柄を押さえに来た訳である。
問題は、後頭部に打撲痕のある死体として見つかったことにある。
死亡推定時間は昨日の深夜だという。恐らく金庫に頭をぶつけたらしい。
その件で、警察が聞き込みをしていると冴子さんが自分でやったと言い出したのだ。そうしていると、今度は本田というフロントマンの男性も自分がやったと自首をした。
警察は、とりあえず署で事情を聞くというので、二人を連行した。
支配人が部屋を出ると、アンナちゃんが事情を話してくれた。
冴子さんは元々暗殺者で、アンナちゃんが昔関わった件で、保護対象者を狙う犯人だったという。
本人は足を洗いたがっていたが、弟を人質に取られていての犯行だったため、それもついでに解決する事になったのだ。
結局、彼女と弟には新しい名前と身分を与えて、今に至る。
段田と言う男は、フロントで出会った嫌な感じの男だ。あの男は、また冴子さんに仕事をさせたかったようだ。
「冴子さん、あいつを殺そうと思ってたみたい。実際、懐にナイフを忍ばせていたからね。でも、それは私が止めた。
さっき仲居さんの噂話を立ち聞きしたけど、冴子さんと本田って人、付き合っているみたいだね。だから、どっちかがどっちかを庇っている。
冴子さんなら、多分もっとちゃんとした殺し方をしてるから、本田って人がやったのかな?」
そうもなると、なんとかしてあげたくなるものだ。
皆の気持ちは一緒であったが、生徒や身内に関わる事態でもない限り、学校に起因する力の行使はできない。
今日は黙って帰って行くしかないのだ。
後日談にはなるが、案の定、本田さんが逮捕された。
防犯カメラのテープを破壊したり、指紋の拭き取りがあったので、黙っていれば、簡単には犯人が特定できなかっただろう。
しかし、冴子さんの供述があやふやなのに対して、彼の供述は正確だ。加えてテープの残骸が彼の部屋から出てきたのが決め手となった。
殺したのはもみ合いからの弾みだったようだが、隠蔽工作をしたことから、実刑は免れないだろうと言う事だ。
アンナちゃんは、冴子さんに連絡を取って、仕事を辞めないように諭していると言う。
恐らく三年、否、もっと早く出てこられるかも知れない。
そう励まして。
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