コッパーニの乱

ページ名:コッパーニの乱

 【質問 kérdés】
 コッパーニの乱って何?
Mi az Koppány lázadása?

 【回答 válasz】

 10世紀ハンガリーにおける跡目争い.

 10世紀後半のこと,マジャル人の大首長 fejedelem ゲーザ Geza は,自分の死後,イシュトヴァーンに大首長の座を継承させようとしました.
 イシュトヴァーンとはゲーザの息子ヴァイク Vajk の洗礼名.


 ところが,たしか当時のハンガリーでは一族中の最年長者が首長の座を継承するというのが,古くからの決まりでした.
 大公ゲーザの死んだ時点ではヴァイクの叔父であるコッパーニュが首長の座につくのが筋だったのでしょう.
 確かロックオペラでも「古の法によれば・・」とかコッパーニュが言ってませんでしたっけ.

 コッパーニュはゲーザの未亡人シャルロタ(でしたっけ)と結婚して首長の座に着こうとして拒否され,ヴェスプレームに攻め寄せますが,ロシア・イタリア・ドイツといった外国騎士を主体とするイシュトヴァーンの軍とチャータルヘイジで交戦してあっけなく敗北,コッパーニュは戦死してしまったのでした.
 修道院の記録では,イシュトヴァーンの勝利には,ドイツのバイエルンから嫁いできた妃ギゼラの家来のドイツ人騎士が特に大きな役割を果たしたとされており,
「まるでドイツとハンガリーの戦いであるかのようだった」
とされています.

 また,スロバキア民謡のひとつは,
「イシュトヴァーン王(Štefan kral)はビナの辺りではスロバキアの戦士の援けによって異教の敵を倒すことができたのだ」
と歌っているそうです.


 キリスト教を受容しようとしない者達のさらなる反乱を防ぐため,コッパーニュの遺体は4つに裂かれ,見せしめとして城壁の上に曝されました.
 しかしコッパーニュの側からすればヴァイクの側の方が,国を私物化するとんでもない輩に見えたのではないかと思います.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/07
青文字:加筆改修部分

 「一族中の最年長者が首長の座を継承する」というのは,ハンガリーの,というか,騎馬民族の掟だったんでしょうね.
 騎馬民族は戦(略奪)をしながら移動して行くわけで,王は経験が豊富でなければいけなかったからでしょうね.
 ゲーザ(当時の発音ではジェイチャ?)公は,ハンガリーをヨーロッパ世界に受入させるためには,ヨーロッパの文明世界の制度を導入しなければならないと考え,先進的 (?) な王権の世襲制を導入するために存命中に族長会議で(彼らを剣で脅し),息子のヴァイクを次の王として認めさせたのでした.
 かつての偉大なフン族もアヴァル族も,痕跡もなく歴史の部隊から消え去ってしまったのは,彼らがヨーロッパ世界から“文明の敵”だと看做されたからだと考えたのでした.
 すでにフン族やアヴァル族のような,それまでにカルパチア盆地に征服定住した騎馬民族は,全て滅ぼされてしまいました.
 どんなに強くても,ヨーロッパ文明という世界から睨まれたら生き残れない.
 ヨーロッパで生きて行くためにはキリスト教に帰依し,ヨーロッパ文明人として振る舞わなければならないのです.

 コッパーニュの立場ははっきりしています.
 ハンガリー人としての民族の誇りと,民族の独立です.

 ロックオペラのイシュトヴァーンはコッパーニュに言います.
「ローマを受け入れよ.
 全ての道はローマに至る.
 ローマさえ受けれれば,王座はあなたのものだ.
 ひとつの国,ひとつの民族の運命が,私たちの手の中にあるのだ」
と,自分は権力にこだわらないとコッパーニュに手を差し伸べています.
 しかし,コッパーニュはうさん臭い坊主どもがハンガリーを徘徊し,外国の軍勢が駐留するようなハンガリーを認めることはできなかったのです.

 コッパーニュの主張は基本的に正しい.
 しかしそれではハンガリー人は滅ぼされてしまう.
 どんなに辛くても,為政者には国民を守る義務がある.

 そこでゲーザはハンガリー人を無理矢理キリスト教に帰依させようとします.
 抵抗する者は残虐な手法で処刑して行きました.
 民族を守るためには他には選択肢はないのです.
 民衆が話して分かってくれるなら問題はなかったのですが,古来,民衆というものは先を考えず,かつ保守的なものです.

 そういう意味では時代は違いますし,一見やったことは正反対ですが,江戸幕府が徹底して切支丹を弾圧したのも日本という国家を守るためだったわけです.
 ハンガリー人がヨーロッパで存続し続けるためには,どうしてもキリスト教徒にならざるをえなかった.
 同様に日本が欧州列強の植民地とならないためには,どうしてもキリスト教の布教を押え込まなければならなかった....
 両方とも為政者としての苦悩の,責任ある決断だったのだと思います.

 ロックオペラでは国論は完全に二分しますね.
 イシュトヴァーンの祈りはいい.
「私が守りたい民族が私に武器を持ってはむかい,外国から私の民族を守るために,まさにその外国の助けを借りなければならないとは...!」
との苦悩です.
 しかし,コッパーニュの主張する民族の誇りを大切にすべきだという考えはいくら正論ではあっても,それを選んだらハンガリー人はヨーロッパ世界から確実に抹殺されてしまうでしょう.
 ハンガリー人は生き長らえるためには,どんなに苦しくても魂を売り渡さなければならなかったのです.

(1956年のカーダールの苦悩が目に浮かぶようです.
 彼はハンガリー革命の成果を守るためにも,自分が支持するナジ・イムレを裏切らなければならなかった....
 その結果,ハンガリーは東欧で最も自由で先進的な国になることができたのでした.
 イシュトヴァーンは民族の魂を売り,その結果,ヨーロッパに侵入した騎馬民族としては唯一 ―― 国土はだいぶ減りましたが ―― ハンガリー人だけが未だに存続しているわけです.)

 辛い話です.
 でも,まさに悲劇の条件が全て揃っている作品です.
(僕に『国王イシュトヴァーン』の話をさせたら止らなくなるぞ (^^;).)

しい坊 : 世界史板,2001/10/08
青文字:加筆改修部分

 イシュトヴァーン一世の即位に反対した王族の叛乱.

 コッパーニはトランスダヌビア地方南部の領主.
 生年不詳だが,アールパード朝の王族の一人と見られる.
 一説によれば,アールパードの長男タルカトゥス Tarkatzus の子孫であるという.

 997年にハンガリー大公ゲーザが死去すると,イシュトヴァーン一世の即位したが,コッパーニはその年,またはその翌年,それまでのマジャル人の年功序列の伝統に従って王座を要求.
 また,同じくこれまでのマジャル人の伝統に従って,ゲーザの未亡人シャロルト Sarolt との結婚も要求した.

 対して長子相続はキリスト教国の伝統であり,また,シャロルトとコッパーニの婚姻は,キリスト教的価値観からすれば近親相姦というタブーだった.
 キリスト教に改宗したイシュトヴァーン一世にとっては,どちらも受け入れられるものではなかった.

 ただし,1002年の文書では,コッパーニの叛乱の動機については何も記述はなく,伝説の信憑性を疑問視する研究者もいる.

 コッパーニは叛乱を起こし,伝説によれば,イシュトヴァーンの城を破壊し,財産を掠奪し,部下を殺害.
 同じく伝説によれば,彼は反キリスト教派のマジャル人達に支持され,ヴェスプレーム Veszprém を包囲したという.

 しかしイシュトヴァーン一世には強力な味方がいた.
 ドイツ人騎士である.
 996年,イシュトヴァーン一世が神聖ローマ皇帝ハインリッヒ二世の妹ギシェラ Giselaギゼラと結婚すると,ドイツ人騎士達がハンガリーに移住.
 国王軍司令官ヴェンツェリン Vencellinも,そうしたドイツ人騎士の一人であり,彼らは国王軍の勝利に大きく貢献した.

 国王軍は叛乱軍をヴェスプレーム Veszprém 付近の戦いで撃破.
 コッパーニは退却中に戦死した.
 一説にはヴェンツェリン自らコッパーニを討ち取ったという.

 伝説では彼の死体は4つに切断され,ジェール Győr,ヴェスプレーム,エステルゴム Esztergom ,ジュラフェヘールヴァール Gyulafehérvár (現ルーマニアのアルバ・ユーリア Alba Iulia)の砦に晒されたという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://multunk.com/index.php?title=Koppány_lázadása
https://t.co/6LpTBQ3jNo
https://www.origo.hu/tudomany/20180110-az-egykoru-forrasok-nemhogy-a-felnegyelest-de-meg-a-lazado-vezer-nevet-sem-emlitik-meg.html

mixi, 2019.10.4