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◆ マコオタ画像集(その他)
第一皇女:照宮成子内親王(てるのみや しげこ、1925年12月6日 - 1961年7月23日) - 東久邇宮家盛厚王妃、皇籍離脱後は東久邇盛厚夫人
第二皇女:久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ、1927年9月10日 - 1928年3月8日)
第三皇女:孝宮和子内親王(たかのみや かずこ、1929年9月30日 - 1989年5月26日) - 鷹司平通夫人
第四皇女:順宮厚子内親王(よりのみや あつこ、1931年3月7日 - ) - 池田隆政夫人、神宮祭主
第一皇子:継宮明仁親王(つぐのみや あきひと、1933年12月23日 - ) - 第125代天皇・今上天皇
第二皇子:義宮正仁親王(よしのみや まさひと、1935年11月28日 - ) - 常陸宮
第五皇女:清宮貴子内親王(すがのみや たかこ、1939年3月2日 - ) - 島津久永夫人
1926年6月 乳母車の中の照宮殿下と皇太子裕仁親王・同妃良子女王両殿下
皇太子夫妻(後の昭和天皇・香淳皇后)は、子女を手元におき、できるだけ良子女王の母乳で育てられた(乳母は夜間のみ)。大正天皇・貞明皇后によって一夫一妻制が確立されたことに続く改革である。【乳母制度廃止】
1926年椅子に腰かけている(撮影用に固定?)照宮成子内親王
1926年同上画像、「照宮成子内親王殿下今上陛下の第一皇女にましまし、大正十四年十二月六日、御生誕あらせらる。」説明入り
1928年元日発表久宮祐子内親王
1928年3月8日、久宮祐子内親王殿下が夭逝。
時期不明洋装の良子皇后と着物姿の照宮成子内親王
1930年頃椅子に手を置いて立つ御地赤姿の照宮成子内親王(カラー写真)
1931年11月04日撮影 順宮厚子内親王を抱く洋装の香淳皇后と照宮成子内親王
1931年 白い産御召姿の順宮厚子内親王
今上陛下の三番目の姉上・孝宮和子内親王と思われる画像
1932年10月学習院初等科1年初めての遠足で埼玉県飯能栗拾いにいらした照宮殿下(右)。手を繋いでいるのはご学友の前田美意子さん(後の酒井美意子さん)。この写真は当日毎日新聞夕刊に掲載された。
袴姿の照宮成子内親王(幼少時期)
同上、屋外で撮影された幼少の和服姿照宮内親王
1933年4月14日順宮厚子内親王(2歳)を胸に抱き、孝宮和子内親王(4歳)、照宮成子内親王(7歳)に囲まれて微笑む良子皇后(30歳)。この時はご懐妊中で、年末に継宮明仁親王をご出産
左から昭和天皇第四皇女・順宮厚子内親王(池田隆政夫人)、第三皇女・孝宮和子内親王(鷹司平通夫人) 、第一皇女・照宮成子内親王(東久邇宮盛厚王妃)【トプカプ宮殿】
1934年7月9日葉山御用邸で静養中、横浜市の金沢文庫を訪問する照宮成子内親王(8歳7ヶ月)。鎌倉時代の国宝、古文献・彫刻類をご見学。随行者は、藤井御養育係長・野口事務官
1934年昭和天皇第一皇女・照宮成子内親王(9歳)
1934年順宮厚子内親王(3歳)
1934年撮影?昭和天皇ご一家。お子さま方は左から、照宮、孝宮、継宮、順宮
昭和天皇第三皇女・孝宮和子内親王の袴姿
1935年初等科制服姿でランドセルを背負った孝宮和子内親王。ベルト部分がレトロなセーラー服である
照宮成子内親王の袿袴姿の写真。GettyImagesでは「01 Jan 1938」とあり、元旦晴れ着のような形で着たものか? / 同上ロゴなし画像
1935年撮影か、袿袴を着用した三内親王殿下(左から、孝宮・照宮・順宮)、「昭和11年1月1日 大阪朝日新聞宮内庁御貸下」のキャプションあり
1935年撮影か、継宮殿下と姉の三内親王集合写真
1936年前半頃?昭和天皇ご一家。左から孝宮殿下、香淳皇后と義宮殿下、順宮殿下、昭和天皇と継宮殿下、照宮殿下
1936年12月昭和天皇ご一家。左から継宮殿下、昭和天皇、照宮殿下、順宮殿下、香淳皇后と義宮殿下、孝宮殿下
1937年鶴をあしらった柄のお着物姿の孝宮和子内親王7歳
1937年3月29日 呉竹寮にて袴姿の三内親王(右から、孝宮・照宮・順宮)
1939年皇居内庭で撮影された昭和天皇ご一家、庭園芝生の上に置かれた椅子に昭和天皇が着席、その両脇に香淳皇后と子供たちが立っている構図。香淳皇后古希記念(1973年)に宮内庁が公表した写真
時期不明学習院の運動会で走る順宮厚子内親王
1939年3月 13歳雛祭りの成子内親王(左)/1941年3月 15歳女子学習院中期修了の成子内親王(中央)/1941年12月6日 16歳誕生日の祝いに日本髪を結った成子内親王(右)この2年後、17歳の若さで東久邇盛厚王とご成婚になる。
1941年11月3日撮影16歳のお祝いに日本髪を結った照宮殿下
1941年12月7日日米開戦前日の昭和天皇ご一家。左から照宮殿下、継宮殿下、昭和天皇、香淳皇后、義宮殿下、清宮殿下、孝宮殿下。順宮殿下は写っていない
1942(昭和17年)7月19日日光の御用邸での香淳皇后と照宮成子内親王、珍しい「日本髪(つぶいち髷?)」に結った姿。香淳皇后は公式には和服を持っていないことになっており、公開されたのは戦後のこと
1943年1月1日撮影女子学習院卒業を控え、袴姿での記念写真。時代を感じさせる裾の短い着付け&ストラップパンプスの照宮殿下
wikipediaより、照宮中学5年時(1943年)の作文
私はどういうめぐりあわせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいても私は優れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう。
↑という、誰かさんに爪の垢を煎じて飲ませたくなるような、皇族としての自覚に満ちたお言葉である。当時の新聞報道では「学業極めて御優秀」とのこと。
昭和天皇ご一家第四皇女・順宮厚子内親王(池田隆政夫人)、第一皇女・照宮成子内親王(東久邇宮盛厚王妃)、第三皇女・孝宮和子内親王(鷹司平通夫人) 、第五皇女・清宮貴子内親王(島津久永夫人)
1943年10月吹上御苑内に前年できた御文庫で、東久邇宮家の盛厚王殿下との結婚を間近に控えた和服姿の照宮殿下(17歳)と並び記念撮影される皇后陛下(40歳)
1943年照宮降嫁にあたって撮影された家族写真か。皇居庭園にて横並びの順宮(池田厚子さん)、着物姿の照宮(東久邇成子さん)、孝宮(鷹司和子さん)、椅子に座っている昭和天皇、学習院制服制帽姿の継宮(今上陛下)、香淳皇后、清宮(島津貴子さん)。義宮(常陸宮殿下)が写っていない理由は不明
1943(昭和18年)10月13日照宮成子内親王殿下、17歳の若さで東久邇宮家の盛厚(もりひろ)王殿下とご成婚。婚約は照宮殿下7歳のときに内約
1943年10月13日照宮殿下と盛厚王殿下とのご成婚画像、束帯と十二単姿
1943年12月6日着袴の儀で、童形服に昭和天皇から生誕の際に贈られた袴を着けて宮中三殿に拝礼する儀式を終えた清宮貴子内親王(満4歳9カ月)と香淳皇后
1945年12月ごろニワトリを追う継宮親王殿下を見守る昭和天皇と姉妹内親王殿下たち。写真家の山端祥玉が当時の宮内省から依頼を受け、経営していた写真通信会社のカメラマンが撮影したもので、山端の遺族が保管していたものが2015年秋発見され日本カメラ財団に寄贈される=1945年12月ごろ(日本カメラ財団所蔵)
1945年12月ごろ笑顔で食卓についている昭和天皇ご一家、2015年秋に未公開画像として発見された写真の一枚(NHK2015/11/27)
1945年12月ごろ建物の前で香淳皇后を中心にしている昭和天皇ご一家と降嫁された東久邇成子さんが子供を抱いて一緒に写っている光景、2015年秋に未公開画像として発見された写真の一枚(NHK2015/11/27)
1946年4月葉山御用邸近くの海岸でそろって遊ぶ昭和天皇ご一家、昭和天皇が義宮と一緒に波打ち際に入って靴を履いた足を濡らしている珍しい光景
1946年夏那須御用邸静養に訪れた内親王方。左から清宮殿下7歳、順宮殿下15歳、孝宮殿下17歳
1946年8月那須御用邸のお庭の内親王方。清宮殿下7歳、順宮殿下15歳、孝宮殿下17歳
1946年8月那須御用邸の台所で炊事をされる内親王方。孝宮殿下17歳、順宮殿下15歳、清宮殿下7歳
1946年昭和天皇と孝宮和子内親王(18歳)
1946年11月6日多摩陵ご参拝の皇后陛下と清宮貴子内親王(7歳8ヶ月)
1947年5月4日住まいにしている御文庫前の吹上御苑の庭で、初孫を連れて里帰りした長女・東久邇成子さん母子とともに記念撮影する昭和天皇ご一家。左から清宮貴子内親王(8歳)、良子皇后(43歳)、皇太子・継宮明仁親王(13歳)、義宮正仁親王(11歳)、昭和天皇(46歳)、順宮厚子内親王(16歳)、孝宮和子内親王(17歳)、東久邇宮盛厚王(30歳)、成子内親王の長男信彦王(2歳)、東久邇宮妃成子(照宮成子内親王、21歳)。東久邇宮家はこの年10月に皇籍離脱している
1947年頃の昭和天皇ご一家。左から厚子内親王、正仁親王、昭和天皇、貴子内親王、香淳皇后、和子内親王。写真に写っていない明仁親王が撮影したと思われる。
1947年8月30日那須御用邸に滞在中、曝陽亭で撮影された記念写真。香淳皇后に御髪を直され思わず笑顔がこぼれた昭和天皇、隣に継宮・義宮らお子様方も。右上のキャプションに「昭和21年」とあるのは「人間宣言」についてのもので、写真撮影時期とは異なる
1947年8月那須御用邸ご静養の天皇ご一家
1947年9月28日女子スポーツ振興のため、東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)で開かれた第2回関東女子排球(バレーボール)選手権大会に3人の内親王とともにご臨席、観戦される皇后陛下(香淳皇后)。右から、孝宮和子内親王殿下(17歳)、順宮厚子内親王殿下(16歳)、清宮貴子内親王殿下(8歳)(
1947年10月28日東京・日比谷公会堂で開かれた第16回音楽コンクール(毎日新聞社主催、後の日本音楽コンクール)第1日ピアノの部をご鑑賞の皇后陛下(43歳)、孝宮殿下(18歳)、順宮殿下(16歳)、清宮殿下(8歳)。ご自身もピアノを演奏される良子皇后は、楽譜を目で追いながら鑑賞されている
1948年6月29日花嫁修業のためこの時期東宮御所から元侍従長・百武三郎邸に引越された孝宮和子内親王、ご自分の部屋を箒で自ら掃除をされている光景
1948年9月18日隅田川花火大会をご覧になる(手前から)孝宮殿下、継宮殿下、義宮殿下、清宮殿下
1950年3月ご婚約の決まった孝宮和子殿下と鷹司平通氏を私邸で囲む妹清宮貴子殿下・順宮厚子殿下
1950年5月21日孝宮和子内親王・鷹司平通氏のご結婚の日のご一家。右下・右端は皇太后陛下(貞明皇后)
1950年5月21日孝宮和子内親王・鷹司平通氏のご結婚の日、貞明皇后と
時期不明新婚の頃と思われる、鷹司平通氏と花を持つ和子様
時期不明新婚の頃と思われる、花の前で膝を曲げる鷹司平通氏と花を持ちしゃがむ和子様
1950年活け花をされたり、ご自分で料理を作られたりしている孝宮和子内親王モノクロ連結画像
1950年頃枝に咲く花を笑顔で愛でている順宮厚子内親王
1951年1月テニスウェア姿の昭和天皇と皇太子、間で香淳皇后と順宮厚子内親王、義宮正仁親王、清宮貴子内親王が笑顔で見守る
1951年1月2日御花御殿(?)でミシンをかける順宮厚子内親王殿下と見守られる良子皇后陛下
1952年10月10日池田隆政さんと順宮厚子内親王のご結婚、内親王として初めて地方へのお輿入れで“牧場の花嫁”と言われた。結婚の儀に昭和天皇が風邪のためご欠席されたのが今でも残念という。
1957年3月学習院高等科ご卒業、卒業証書を広げて笑顔の清宮貴子内親王。卒業証書の院長署名は、夏目漱石門下生だった安倍能成
1958年12月6日麻布ローンテニスクラブでテニスを楽しむ皇太子殿下と貴子内親王殿下と正田美智子さん、貴子殿下のダブルスのお相手は不明
1959年1月志賀高原スキー場、歩いて移動中の皇太子殿下と清宮貴子内親王殿下
1959年1月志賀高原スキー場、ゲレンデ平面にスキー板を履きストックを手に並んで立っている皇太子殿下と清宮貴子内親王殿下、奥でスキー姿のカメラマンたちが機材を構える
1959年1月志賀高原スキー場、斜面でスキー板を履きストックを手に立っている清宮貴子内親王殿下
1959年1月東宮仮御所、同年4月のご成婚を前にしている皇太子継宮明仁殿下、和服姿の清宮貴子殿下、義宮正仁殿下のスリーショット
週刊東京 1959年3月7日号<三月生れ、清宮の青春>表紙
1959年3月19日?島津久永さんと清宮“おスタちゃん”貴子内親王殿下の婚約会見。貴子内親王が誕生日会見で語った「私の選んだ人を見てください」は当時の流行語になった。島津久永さんは今上陛下のご学友でサラリーマンの妻として話題に。良子皇后が熱心に進めていらした縁談で、お見合いから3回のデート交際2ヶ月でのご婚約
女性自身 1959年4月3日号<清宮ご婚約特集>表紙
毎日グラフ 1959年4月5日号<清宮さま御婚約おめでとう / 三国一のオムコさん>表紙・モノクログラビア
アサヒグラフ 1959年4月5日号<特集 清宮さまの御婚約成る>表紙アサヒグラフ 1959年4月5日号<未来を描く二人>モノクログラビア
週刊朝日 1959年4月5日号<慶祝・清宮さまのご婚約 / 私が選んだハズバンド>表紙・目次
週刊文春 1959年4月20日号<庶民の中の天皇一家>表紙・テニスコートの皇太子殿下と正田美智子嬢・八百屋で買い物する東久邇成子さん・台所に立つ鷹司和子さんモノクログラビア
週刊読売 臨時増刊皇太子ご結婚式への招待 1959年4月25日<“世紀の瞬間”を前に>モノクログラビア
1959年夏ご静養中の両陛下・東久邇成子さん(左から2人目)と三人の子供たち
女性自身 1959年8月28日号<某月某日 デパートでお買物 お気軽な外出 清宮さまの夏休み>表紙・モノクログラビア
女性自身 1959年9月23日号 和服(喪服?)姿の美智子妃殿下・ヘッドドレス姿の清宮内親王殿下・車から降り立つスーツ姿の義宮殿下モノクログラビア
女性自身 1959年10月7日号<素顔 カラーアルバム>表紙・美智子妃殿下と義宮&清宮兄妹両殿下と皇太子殿下カラーグラビア
週刊女性 1959年11月29日号<目白ヶ丘のフィアンセ 文化祭にご出席の清宮さまと島津久永氏>表紙・カラーグラビア・モノクログラビア
1959年11月29日新年発表用に撮影された昭和天皇・香淳皇后・皇太子・美智子妃・義宮・清宮。ご懐妊中である美智子妃の体調を慮り少し早めに撮影したと思われる
1959年11月29日新年発表用に画像撮影、清宮・昭和天皇・義宮・香淳皇后(手前)
週刊平凡 1960年2月17日号<皇太子さま 清宮さま 音楽会の夜>表紙・目次
週刊平凡 1960年2月17日号<皇太子さま 清宮さま 音楽会の夜>モノクログラビア
主婦と生活 1960年3月号<表紙 美智子妃殿下 玉井力三画 / 清宮さまの休日 / 春は皇室のおめでたから 平野素邦>表紙・目次
1960年3月10日高輪の光輪閣(元高松宮邸)にて島津久永さんと貴子さんの挙式。この当時は披露宴でのウェディングケーキはまだ珍しかった
1960年3月10日清宮貴子内親王殿下ご降嫁
1960年(昭和35年)3月10日清宮貴子内親王、学習院大学文学部イギリス文学科在学中、21歳で今上天皇の学友でもあった島津久永氏とご結婚
出典不明<清宮結婚【島津貴子として新居へ】>画像入り記事
アサヒグラフ 1960年3月20日号<重なる御慶事 母となった美智子妃・妻となる清宮>表紙
週刊サンケイ 1961年3月20日号<やっぱり“私の選んだ人でした”〔特別対談〕島津貴子・五味康祐氏>表紙・目次
女性自身 1960年3月23日号<速報!清宮さまご結婚式のすべて/晴れの日の晴れの人/島津久永・妻貴子>表紙グラビア
週刊サンケイ臨時増刊 1960年3月24日号清宮ご結婚記念特集号<速報 華燭の日の清宮さま>表紙
アサヒグラフ 1960年3月27日号<おめでとう島津貴子さま>表紙
週刊平凡 1960年3月30日号<島津貴子夫人の一週間 / 島津邸を訪れたマンボの王様 / 本誌独占 学友 岩佐清子さんのみた“おスタちゃん”の新妻ぶり / 貴子夫人のスイート・ホーム初訪問記 / 座談会 上野毛の人たちが語るおスタちゃんの新婚生活 おスタちゃんは町の人気者!>目次
週刊平凡 1960年3月30日号<新曲“プリンセス・スガ”島津邸を訪れたマンボの王様>モノクログラビア
毎日グラフ別冊清宮ご結婚特報 1960年4月1日号<■“内親王と私”■ 花嫁さんは笑う / “内親王と私” / “上野毛夫人” / しあわせはここに ■婚約期■ 新しい階段 / 葉山の散歩 / 学習院文化祭 / お支度 ■期待されるのはコワイ■ (清宮さまとの一問一答) ■おスタちゃんの青春(1)■ まかしとき(ソフトボール) / パーティー / お買物上手 / 雪の上のトップ・モード(スキー) ■わたぼうし ■美しき姉妹 美智子妃殿下と一緒に>表紙・目次・モノクログラビア
週刊テレビ時代 1960年創刊4月第1週号<奥様スタート 漸進主義でいきます 島津貴子さん>表紙・カラーグラビア / 表紙大画像
週刊平凡 1960年4月13日号<特別よみもの 狙われる島津貴子夫人 “私の秘密”のゲストをめぐる訪問>表紙
女性自身 1960年4月20日号<ようこそ先輩―― 久我美子 島津邸を訪問 / 有望なタレントです―― テレビ出演の島津貴子さん>表紙・目次
女性自身 1960年4月20日号<ようこそ先輩―― 久我美子 島津邸を訪問>モノクログラビア
週刊平凡 1960年4月20日号<銀座の天ぷら屋・島津夫妻 / おしゃべりジャーナル 招待券にヨワイ 島津久永夫妻(きき手・小島正雄)>表紙・目次・モノクログラビア
参考:第191回産業セミナー<メディアイベントとしての新婚旅行―1960年から1970 年代の宮崎を事例に―>森津千尋(地域社会と情報環境研究班委嘱研究員・宮崎公立大学人文学部国際文化学科助教)論文
1960年5月島津久永・貴子ご夫妻の宮崎県新婚旅行が女性誌で大きく採り上げられるなど、社会現象となった事情を具体的に論じている。
毎日グラフ臨時増刊 1960年5月15日島津夫妻新婚旅行号 船の甲板デッキに立ち、花束と色とりどりの紙テープを手にしている島津久永・貴子ご夫妻カラー表紙
女性自身 1960年6月1日号<組合わせが生かすハネムーン・モード>同年5月宮崎県新婚旅行当時の島津貴子さんカラーグラビア
女性自身 1960年7月27日号<日ざかりの三日 伝統を求めて その1 / 日ざかりの三日 その3 お相手は貴子さん>表紙・モノクログラビア
主婦と生活 1960年8月号<タレント島津貴子さんのすべて(黒川俊朗)>表紙・目次
1960年8月14日島津久永・貴子夫妻と一緒に夏休みを楽しんだ皇太子同妃両殿下(日軽井沢テニスコートで)
1960年8月14日島津久永・貴子夫妻と美智子妃殿下、すぐ近くにカメラを構える人々がいる(日軽井沢テニスコートで)
週刊明星 1960年10月30日号<貴子さんがデザインした“私のモード集” / ワンダフル!きもの 全米をチャームした美智子妃の和服姿>表紙・カラーグラビア
週刊内外実話 1960年11月18日号<特報おスタちゃんの御懐妊説を追って 御結婚以来すでに八ヵ月。「たしかにオメデタだ!」という噂が高いが…>表紙・目次
新春の和・洋装と編物 主婦と生活1961年新年号附録<島津貴子夫人のニットスーツ>表紙・目次・カラーグラビア
1961年7月天皇陛下の長姉・東久邇成子さんが23日癌のため逝去、享年35歳。画像は葬儀場面
週刊平凡 1963年6月13日号<特集 ファッションから社交性まで 美智子さまシリキット王妃トップレディの条件 / 特集 芸能界でも大流行!!ことしの夏のヘア・スタイルをリードする 島津貴子夫人のセミ・セシールカットをめぐる波紋 / 特集 お留守番の浩宮さま ボクさびしくないヨ>表紙・目次
女性セブン 1963年9月25日号<特別手記― 久我美子 厚子さま 来年のクラス会はぜひご一緒に>表紙・目次
週刊平凡 1963年10月10日号<今週のハイライト 黄色いバケツ 皇太子ご夫妻 / おなじ日葉山海岸で 島津夫妻 / 義宮さまと岩下志麻>表紙・目次
週刊平凡 1963年10月10日号<今週のハイライト 黄色いバケツ 皇太子ご夫妻 / おなじ日葉山海岸で 島津夫妻>カラーグラビア
週刊実話 1963年11月18日号<速報 島津貴子さん誘拐未遂と三沢あけみ脅迫事件の全貌 恐るべき犯罪計画!慄然とする犯人の予備行動>表紙・目次
女性自身 1964年1月27日号<京人形が結んだ宮さまとの縁 東久邇盛厚氏の婚約者が語るいきさつ 寺尾佳子>表紙・目次
ヤングレディ 1964年3月16日号<独占特写フィルム 華子さんのカラー・アルバム / ごあいさつ回りはお振り袖津軽華子さん / 華子さんの花嫁修業◆慕わしい義宮さまと華子さんの心のふれあい◆華子さんはこんなおしゃれが好き / 貴子さんの渡航準備とワシントン社交界の優雅な生活 / ナルちゃんのお友だちと初顔合わせ誌上録音>表紙・目次
女性自身 1964年4月20日号<アメリカに転勤する久永・貴子夫妻へ…母・島津久子>表紙
週刊明星 1964年5月17日号<ママと帰ろう…美智子さまのお迎えでごきげんの浩宮さま / おそろいで渡米!元気で出発された島津久永・貴子さん夫妻 / 今週のニュース・レーダー(津軽華子さん)>表紙・目次
週刊明星 1964年5月17日号<ママと帰ろう…美智子さまのお迎えでごきげんの浩宮さま / おそろいで渡米!元気で出発された島津久永・貴子さん夫妻 / 今週のニュース・レーダー(津軽華子さん)>モノクログラビア
女性自身 1964年5月18日号<島津貴子さんワシントンへ アメリカ人の目に映った元皇族>表紙
時期不明濃い化粧に付け爪、大胆なサングラスなど、非常にお洒落な島津貴子さん
女性自身 1964年10月12日号<特集・常陸宮妃の誕生 ご婚儀から帰った夜―「三人の母(津軽久子さん・正田富美子さん・島津久子さん)」の胸中を聞く この日 想う / その日、この人たちは… / 8月15日から9月30日まで>目次
週刊平凡増刊 1964年12月10日号<サヨナラ1964写真集あの日あの時 目次 / 常陸宮さまのご結婚と美智子さま / ご挨拶まわり 常陸宮ご夫妻 / 夕食後のひととき / ご結婚の儀から朝見の儀まで / お妃決定!その日の華子さま / 華子さま皇居へご参内 / お別れパーティー / 華子さまのお国入り / 華子さまの思い出アルバム / 浩宮さまの幼稚園生活 / 深曽木の儀 浩宮さま / きょうから幼稚園 / 春の遠足 ママといっしょに / 楽しかった夏休み / ボクは赤組 秋の運動会 / 初のお家族旅行 房総 / パラリンピックと美智子妃 / 国賓のお出迎え / ほほえみ 30歳になられた美智子妃 / テニスコート 軽井沢のご夫妻 / 夏の終わりに 白馬・黒四ダム / ご法要 東久邇成子さんの三年式年式 / ごくろうさまでした / 同窓会の日 両陛下と梓みちよ / スポーツ好きのプリンセス / オスタちゃんアメリカへ / 特別座談会 華子さまにそっとアドバイスされた美智子妃 / カラー口絵■美智子さまのグレーのフード / ロイヤル・ボックスの皇太子ご一家 / ご結婚の儀 常陸宮両殿下 / 常陸宮両殿下の新婚旅行 / 浩宮さまのマス釣り / ナルちゃんのお芋掘り / 皇后さまといっしょに>目次
ヤングレディ 1965年3月8日号<皇后さまの母の愛は限りなく★厚子さんの全快を祈って岡山に向かわれた天皇・皇后両陛下 / 特報▼美智子さまとアベベ選手と滝上文子さんの秘められた心の触れ合い>表紙・目次
女性自身 1965年3月29日号<若きプリンスたちの青春 知られざる三人の現代青年のすべて 仲よしのごきょうだい・三笠宮寛仁さん甯子さん 魅力のプリンス・北白川道久さん 成年を迎えた東久邇信彦さん>表紙・画像入り目次
女性セブン 1966年2月23日号<これが真相!(孝宮和子内親王が降嫁した)鷹司平通氏と前田美智子さんの関係>表紙・目次
週刊女性 1966年6月18日号<皇室特集・緊急五つの話題 (1)鷹司未亡人の癒えない悲しみ (2)甯子さまを残して二か月の海外旅行に出る忠煇さんの女房教室 (3)日本一デラックスな初等科の給食と浩宮さま (4)L・モズレー著「ヒロヒト」 ―秘められた天皇のエピソード (5)八百屋をやりたいという現代青年東久邇信彦さん>表紙・目次
女性セブン 1966年7月6日号<【貞婦の巻】 川上貞奴から美智子妃殿下まで / 島津貴子さんが二人の兄嫁にとった新しい態度>表紙・目次・記事一部
週刊明星 1966年12月11日号<極秘ワイド特集 事件66年の黒い傷あと●鷹司和子さんの孤独な生活 / 今週のグラフ■礼宮さま>表紙・目次
女性自身 1968年1月15日号<皇后さまの甥が選んだ社長令嬢 / 天皇家のお婿さん3人を採点する>表紙・目次
女性自身 1968年2月12日号<鷹司和子さん・あの事件から2年…>表紙・目次
女性セブン 1968年2月28日号<本誌独占公開 3月2日挙式 嫁ぎゆく妹・文子への手紙=天皇のお孫さん東久邇信彦>表紙
女性自身 1968年3月18日号<皇后の孫・東久邇文子さん大村和敏さんの結婚 / 東久邇・大村家の結婚式のお台所>表紙・目次
ヤングレディ 1969年6月30日号<結末がこうなろうとは、だれが予測できただろうか! 島津貴子さんのハンドバッグを盗んだ犯人の娘(14)が自殺>表紙・目次
女性セブン 1968年9月18日号<島津貴子さんの勇気ある決断 一人息子の禎久君を、アメリカンスタイルの学校へ入学させた理由>表紙・目次
女性自身 1968年9月23日号<新学期が始まった浩宮さま(8) アメリカ系スクール入学の島津禎久君>カラーグラビア
女性セブン 1968年11月6日号<華子さまの鷹司和子さんへのお心づかい――NHK放送センターをおそろいでご見学――>表紙・目次
1968年12月皇太子ご一家(当時)と鷹司和子さんが江ノ島海獣公園(後年の新江ノ島水族館につながる施設)へお出まし(主婦の友 1969年4月号<グラフ 美智子さま“十年の愛の日々”>カラーグラビアより)
女性セブン 1969年2月?日号<特別インタビュー 東久邇盛厚氏が亡くなって 信彦君の決意と佳子未亡人の身のふり方>新聞広告
女性自身 1969年3月3日号<新連載 天皇家の人びと「私の週間日記」島津貴子>表紙・目次
週刊平凡 1969年5月8日号<清子さまはおスタちゃんみたいに / 和歌山県下ご旅行中の常陸宮ご夫妻>表紙・目次
女性自身 1969年5月31日号<島津貴子さん夫妻が分譲価格2370万円のマンションへ! 上野毛の家を売って、この4LDKを選んだ理由>表紙・目次
女性セブン 1969年8月27日・9月3日合併号<天皇のお孫さん 文子さんが、8月9日正式離婚!>表紙・目次、東久邇成子さんの長女文子さんに関するもの
女性自身 1969年12月20日号<さっそうと島津貴子さんがTV司会者 元旦のハイライト!インタビューのお手並みが今から楽しみ>表紙・目次
週刊明星 1970年3月29日号<世紀の万国博 ダイナミックな開幕!合言葉は“コンニチワ” / 楽しい動物天国!礼宮さま>表紙・目次・モノクログラビア
週刊女性 1970年4月4日号<万博特別ホステス・貴子さん 万博会場で世界の人々に注目された島津貴子さん>表紙・目次・カラーグラビア
週刊明星 1970年4月12日号<〈グラフ〉●ご結婚10周年 島津久永・貴子様 / 〈カラー〉常陸宮様 / 美智子妃・浩宮さま>表紙・目次
1970年7月24日静岡県浜名湖で和船に乗られる皇太子ご一家と鷹司和子さん。和子さんは夫・平通氏と死別しており、皇太子ご一家の思いやりが感じられる
女性自身 1970年10月17日号<島津貴子さん、6日に初出勤 父・陛下のお言葉に励まされて西武ピサに就職!>表紙・目次
週刊女性 1970年10月17日号<緊急特報 貴子さんがお勤めに!西武ピサであなたのアドバイサーに! / 皇族で初のお勤めに!『本気でお仕事サロンアドバイサーをやります』と島津貴子さん>表紙・目次
週刊明星 1970年10月25日号<皇族で初めてお勤めに出た島津貴子さんのサラリーマン日記>表紙
女性セブン 1971年1月1日新年特大号<有名人の歳末特別情報 島津貴子さんが『紅白』の審査員に!? ほか>表紙・目次
女性自身 1971年1月9日号<新連載 皇城の人びと 島津貴子夫人(文・北條誠)>表紙
女性自身 1971年1月9日号<島津貴子夫人の孤独… 新連載・皇城の人びと・第1回――文・北條誠(作家)>表紙・目次
週刊女性 1971年3月6日号<今週の顔 素敵なショーね! 2月2日カネボウファッション・フェスティバルに出席の島津貴子さん>表紙・目次・カラーグラビア
増刊女性セブン天皇皇后両陛下ご訪欧記念特集 1971年10月30日号<皇室親善50年史 島津貴子さま / 三笠宮さま・百合子さま>モノクログラビア
週刊現代 1972年1月6日新年特大号<この人こそ最高の美人>表紙・カラーグラビア
女性セブン 1972年7月12日号<今週の特選トピックス★東久邇信彦さんが結婚披露に銀座ママと女優を招待した理由>表紙・目次
週刊明星 1972年12月17日号<満7才の誕生日 礼宮さま / 島津久永夫妻>表紙・目次
微笑 1974年10月26日号<皇族・元皇族の若者が歩くわが道 三笠宮寛仁さんと赤坂芸者・離婚した東久邇文子さんの独身>目次
FOCUSフォーカス 1982年11月19日号<history 隠し撮りされた「天皇の娘」―ルシアンエニェ写真展の東久邇成子さん / legend 皇太子は“イタズラ”が好き―「道化王子」のアダ名を実証した若き日の“証拠写真”>表紙・目次
ttp://img94.imageshack.us/i/yomiuriphotoimagem.jpg/ 1983年3月4日 皇后陛下と鷹司和子さん・島津貴子さん姉妹]
FOCUSフォーカス 1983年10月21日号<Party 英国貴族VS天皇のお嬢さん―英国上流階級をTVレポートする島津貴子さん / figure 皇居前で逆立ち―「米国の売れっ子モデル」ミッシェルとアンジェリカ>表紙・目次
女性自身 1983年11月3日号<速報!三笠宮容子さんと千政之さんが「古式ゆかしく」華燭の典 / 島津貴子さん英国貴族の世界を歩く>表紙・目次
女性自身 1983年11月3日号<速報!三笠宮容子さんと千政之さんが「古式ゆかしく」華燭の典 / 島津貴子さん英国貴族の世界を歩く>モノクログラビア・カラーグラビア
FOCUSフォーカス 1985年6月14日号<「庶民的」と姑にホメられた「天皇の孫娘」東久邇文子さんの再婚>表紙・目次
FRIDAYフライデー 1988年3月11日号<「28歳」浩宮殿下が記者会見で「大胆発言」 / 島津夫妻もウットリしたコウル女史の「筆」>表紙・目次
1988年9月3日那須御用邸にてご静養中の昭和天皇のお見舞い訪問を終え、那須塩原駅より帰京される皇太子同妃両殿下と鷹司和子さん
1989年5月26日 鷹司和子さん死去。享年59。
1989年5月天皇陛下の姉・鷹司和子さんが26日心不全にて逝去、享年59歳。画像は葬儀場面
週刊文春 1993年6月17日号<祝ご成婚グラビア大特集27ページお二人の「愛のアルバム」 / 宮内庁関係者徹底取材 宮内庁記者が絶対書けない平成皇室「女の闘い」 / ワイド特集 美智子妃から雅子さままでこの34年間の結婚行進曲(1)島津久永・貴子「私の選んだ人を見ていただきたいわ」(貴子)昭和35年3月10日>新聞広告
1993年10月島津ご夫妻の長男・島津禎久氏がカメラマンとして『充たされた日々―イギリスのホスピスを訪ねて』写真集を池田出版より刊行。序文を川嶋辰彦学習院大学教授(当時)が記している
1993年10月東京・新宿の「ペンタックスフォーラム」にて島津禎久写真展『充たされた日々―イギリスのホスピスを訪ねて』開催、川嶋辰彦先生(右)と歓談する、島津久永さん貴子さんご夫妻
参考:中谷吉隆 極楽のアート フォト俳句の世界 <写真家中谷吉隆伝えたい昭和―島津家公認?のパパラッチとなった―禎久君のこと(3)>
FOCUSフォーカス 1994年9月21日号<国際結婚した「昭和天皇の孫」―――お相手はカナダ人英語教師>グラビア記事(文字が小さくて見出し以外読めません)
週刊新潮 1994年9月22日号<島津家の結婚で天皇の血筋にはじめて入る「カナダ人」の血>記事(文字が小さくて見出し以外読めません)
2000年7月25日香淳皇后斂葬の儀、秋篠宮同妃両殿下、池田厚子ご夫妻、島津貴子ご夫妻。女性は黒いヴェールを着用
婦人公論 2005年3月7日号<本誌独占 叔母として、昭和天皇の娘として 紀宮さまに、いまお伝えしたいこと(島津貴子)>表紙・目次
2016年4月25日「岡山後楽園春の園遊会」、レッドカーペットを歩いて移動中の池田厚子さん
2016年4月25日「岡山後楽園春の園遊会」、着席された池田厚子さん
2016年4月25日「岡山後楽園春の園遊会」にて記念撮影をする池田厚子さん(前列左から3人目)。伊原木隆太知事(同2人目)らが囲んだ=岡山市北区後楽園
2016年5月25日<秋篠宮ご夫妻、神社本庁創立70周年記念式典に出席される>FNNニュース連結画像、秋篠宮同妃両殿下と総裁を務める天皇陛下の姉・池田厚子さんがご臨席
サンデー毎日 2016年7月24日号<昭和天皇実録 内親王の御婚儀、皇太子成年式、そして秩父宮との別れ- ◆保阪正康 厚子内親王、貴子内親王、皇太子・正仁親王>表紙・目次
2016年11月4日百合子妃殿下を先頭に三笠宮殿下の葬場へ向かう秋篠宮同妃両殿下と島津久永・貴子ご夫妻ら=4日午前9時51分、東京都文京区の豊島岡墓地、関田航撮影(gettyimages)
2016年11月4日徳仁雅子や皇族方が見守る中、「斂葬の儀」で拝礼に向かわれる三笠宮妃百合子殿下、皇族席の後列に島津貴子夫人・池田厚子夫人・千容子夫人・千家典子夫人・黒田清子夫人=東京都文京区の豊島岡墓地で2016年11月4日午前10時32分、竹内紀臣撮影
2016年11月4日三笠宮殿下「斂葬の儀」、席で立っている三笠宮家彬子女王、瑶子女王、高円宮家久子妃、承子女王、絢子女王。その後列に島津貴子夫人、千容子夫人、千家典子夫人らがいる=東京都文京区の豊島岡墓地で2016年11月4日午前11時13分、竹内紀臣撮影
2017年4月20日岡山県にて地元政財界、文化界の関係者ら約300名を招いての「春の園遊会」(岡山商工会議所主催)が岡山市北区の後楽園で開催、天皇陛下の姉・池田厚子さん(前列中央)と記念撮影する面々
週刊ポスト 2017年6月9日号<民間人になった元女性皇族 今、どんな日々を過ごされているのか 「義母と買い物」「動物園の園長」ほか 眞子内親王の“先輩”の生き方>表紙・中吊り
週刊朝日 2017年12月29日号<皇室を離れた女性皇族7人のその後 厚子さん新年会で正月の歌/酒豪のプリンセスはジーンズでスーパーへ/サーヤは4枚切りパン/タレント、取締役のおスタちゃん / 皇室を離れた女性皇族の暮らし-縁結び神社の妻、「別居」報道の真相は ◆眞子内親王、小室圭、パラリンピック、天皇、美智子皇后 / 皇室を離れた女性皇族の暮らし(2)-夫はガス中毒死、自宅に強盗 ◆鷹司和子、鷹司平通、島津貴子、島津久永、堤清二 / 皇室を離れた女性皇族の暮らし(3)-茶道家元夫人は洋装がお好き? ◆裏千家、彬子女王、千登三子、黒田清子、黒田慶樹>表紙・中吊り
昭和天皇の皇女たち
左から昭和天皇の第一皇女・照宮成子内親王(盛厚王妃成子内親王→東久邇成子) 、そして秋篠宮家の佳子内親王。とてもよく似ていらっしゃいます。
佳子さま(12歳)と照宮成子さまの比較画像
関連リンク:Wikimedia Commons>Emperor Showa's children
昭憲皇太后と象牙御紋付金蒔絵御扇子
昭憲皇太后→喜久子妃の母君→高松宮妃喜久子殿下→雅子に伝わる扇子
大正天皇の生母・柳原愛子(1859/安政6-1943/昭和18,84歳没,権大納言柳原愛光の娘 権典侍)の洋装
葉山で療養中の大正天皇を見舞った、大正天皇生母・柳原愛子
幼少期の貞明皇后(九条節子)
礼装の貞明皇后
大正天皇の皇子たち(幼少期)
大正天皇の皇子たち(幼児期~青年期)と貞明皇后
1923年関東大震災の被災者をお見舞いされる貞明皇后。左端は元老・元内閣総理大臣松方正義、左から二人目は閑院宮載仁親王
1923年関東大震災の被災地を視察される貞明皇后
1923年関東大震災の被災地・横浜を視察される貞明皇后
1923年9月29日関東大震災の被災地・上野を視察される貞明皇后
時期不明(1940年代)御所の庭での一こまか、香淳皇后と貞明皇太后、内親王たち
1945年終戦直後の時期の貞明皇后
1946年馬車に乗られた貞明皇后
秩父宮ご夫妻・高松宮ご夫妻、明治天皇の夭折した皇子・皇女の墓(豊島岡墓地)
1920年頃久邇宮邸にて、良子女王の婚約内定の久邇宮一家記念写真。良子女王は学習院を中退されたので、髪型は日本髪だが、未成年なのでまだ肩上げがついている。前列左から、信子女王、良子女王、邦英王。後列左から、邦久王、朝融王、俔子妃、久邇宮邦彦王、智子女王
香淳皇后の父上・久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)と曾孫ナルちゃん体型比較
香淳皇后の父上・久邇宮邦彦王と曾孫ナルちゃん椅子に座った姿比較
香淳皇后の父上・久邇宮邦彦王(左)
1927年 大正天皇大葬の礼の久邇宮邦彦王・俔子妃
後列左から梨本宮守正王久邇宮邦彦王(香淳皇后の父)高松宮閑院宮載仁王伏見宮博恭王/前列左から久邇宮俔子妃(香淳皇后の母)昭和天皇グロースター公東伏見宮周子妃梨本宮伊都子妃1929年(昭和4)イギリス国王ジョージ5世の代理として来日したグロースター公を囲んで。グロスター公は、当時の英国国王ジョージ5世の第3王子
1885年香淳皇后のご生母・久邇宮邦彦王妃俔子(ちかこ)の数え七歳頃(七五三の祝い?)の記念写真。俔子妃の父は元薩摩藩主・島津忠義侯爵
1972年東京都新宿区立富久小学校時代(1971年5月二年生一学期半ば~1972年3月二年生三学期まで。なおこの後田園調布雙葉学園小学校三年生に編入する)、転校から9ヶ月後ぐらいに書いた小和田雅子作文「雪がっせん」【しかいし】
那須高原の那須戦争博物館に展示された同上の小和田雅子作文「雪がっせん」 / 同展示別画像
1974年小和田雅子小学校五年生のときの『秋の詩集』から、カゲロウについて書いた「一日」という詩
六年C組小和田雅子修学旅行の時、四時半まで起きていたのが忘れられない。おかげで朝、日の出は見られなかったけれど、とても楽しかった!
小学校卒業文集寄せ書き「じゅう医さんになりたいムリカナ?小和田雅子」
1976年3月田園調布雙葉学園小学校卒業文集、一番の思い出が「先生がコジュケイの剥製作りに失敗したこと」、婚約時期『週刊読売』にて<小6で綴った“コワーイ”作文>とのタイトル記事で、小和田雅子コジュケイ剥製作り作文が紹介される【剥製作り】
1976年3月小学校卒業でクラスメートに書いた寄せ書き、友達のことを「へんな顔」、自分のことを当時のあだ名を用い「いだいなワオ」と書く小六の小和田雅子
1979年3月田園調布雙葉学園中学校卒業文集、恩師の身体的特徴を揶揄したり勝手に好きな食べ物を想像したりする小和田雅子【ダーツ目】
1976年3月田園調布雙葉学園小学校卒業文集、一番の思い出が「先生がコジュケイの剥製作りに失敗したこと」、婚約時期『週刊読売』にて<小6で綴った“コワーイ”作文>とのタイトル記事でコジュケイ剥製作り作文が紹介される。枠外に「もてる女はつらいなあ~Ri~n!Ri~n!」との小和田雅子の字が
1986年秋東大在学中の小和田雅子が田園調布雙葉時代の友人と、金沢出身の東大同級生岡田直樹の案内で金沢旅行後、書いた礼状【金箔箪笥】
1986-1988年(昭和61年・62年・63年)知人に宛てた小和田雅子年賀状3点。昭和61年は縦書きで「小和田雅子」姓名入り、昭和62年は縦書きで「雅子」のみ、昭和63年は横書きで名前記載なし
1988年1月「謹んで初春のお慶びを申し上げます」の書き出しで始まる、小和田家と親交深い小川東洲氏への小和田雅子による年賀状【小川東洲】
1992年12月徳仁との婚約間近、何故かマスコミにそのまんま公開されている小和田両親に雅子が書いたクリスマスカード【一足遅れのクリスマスカード】
婚約時期に小和田家提供で公表された「小和田雅子」自筆署名
1993年5月24日宝石店「メレリオ・ディ・メレー」のアトリエに飾ってある小和田雅子写真、すっかり有名人気取りかサインをしている
1994年中東訪問での皇太子と雅子のサイン「徳仁」「雅子」
2002年12月18日オーストラリア戦争記念館の記帳書に記された徳仁雅子のサイン(朝日新聞社)
徳仁&雅子親筆サイン集
徳仁&雅子親筆サイン集(増補改訂バージョン)
1965年11月2日高島屋にて開催の「第8回オール学習院美術展」に出展された、浩宮の遠足の思い出の絵とサイン(中央)
1965年12月11日礼宮誕生で浩宮が書いた「おたたちゃまあかちゃ(ん)うまれてお(め)でとう」、昭和35年(1960年)2月23日生まれの浩宮は5歳9ヶ月
1965年12月11日浩宮5歳9ヶ月の手紙「おたたちゃまあかちゃうまれておでとう」日付情報入り別画像(『天皇の儀礼』より)
1966年11月学習院祭に出品された浩宮のヒマワリの水彩画。ヒマワリの画の下に「ひまわりさんひまわりさんひまわりさんあなたのおめめはちゃいろですねなるひと」と書かれている
1971年?浩宮が「初等科6年の修学旅行で詠み、恒例の宮内庁職員展に名を伏せて出品し優秀作に入選した和歌」と説明あり、「新年詠山應制歌徳仁親王残雪はあた〻ら山かはんたいか夕やみせまるひはら湖乃起之」【宮内庁職員組合文化祭】
「名を伏せて」と言っても出展者が限られる環境では、誰の作か簡単に察しが付くと思われるものである。
1972年11月宮内庁職員組合文化祭・美術展に出品された浩宮の書「真理 徳仁親王」(朝日新聞より)
1973年11月14日浩宮の書「理想 徳仁親王」と礼宮の書「広い心 文仁(以下確認できず、よみうり写真館)
1978年宮内庁職員文化展に出展された徳仁の書「長生殿里春秋富 不老門前日月遅」、『和漢朗詠集』にある慶慈保胤の漢詩(画像左)
「皇太子さまは、しばらく後から、同文化展に写真を出品なさることが多くなる。(書道から手を引いて、カメコになったことを窺わせる説明)
浩宮の年賀状(1976年、1991~93年)、ミミズがうねったような字に注目
浩宮21歳(1981年)「省萬邦之風以如其盛衰 徳仁親王」、礼宮19歳(1984年)「微風吹幽松 文仁親王」、紀宮15歳(1984年)「清光玉不知 清子内親王」それぞれの書
1982年11月宮内庁職員組合文化祭に出展、浩宮22歳「據徳依仁(論語)」、礼宮17歳「吾道一以貫之(論語)」、紀宮13歳「容徳如玉(白氏文集)」(FOCUSフォーカス1982年12月3日号)【宮内庁職員組合文化祭】
1983年頃浩宮が英国オックスフォード大留学時期、学習院大恩師の安田元久教授夫妻に書いた「いかがおすごしですか。出発前には送別会をを先生のお宅で開いて下さり、ありがとうございました。」で始まる徳仁直筆手紙
1985年「Merton College oxford 徳仁」、PENTHOUSE 日本版ペントハウス 1985年10月号<現地緊急取材浩宮殿下と“恋人”エバ嬢に直撃インタビュー(インタビュー・写真 河原敏明 )>に掲載されたもの【浩宮徳仁伝説】
1986年8月12日宮城県南蔵王山麓での第9回日本ジャンボリー大会、黒字で書かれた徳仁のサイン「こんにちわ.Naruhito 」、なお茶色の字はAndy Ogaurというアメリカ人によるもの
1987年8月1日静岡県御殿場市国立中央青年の家にて、ボーイスカウト日本連盟主催の国際障害スカウトキャンプ大会「第5回日本アグーナリーアジア」を視察。同視察先で徳仁(27)が書いた七夕短冊「みなさん元気で!!」「楽しい生活を!」のクローズアップ画像。子どもが書いたような字と内容(よみうり写真館)
1989年5月24日浩宮が1989年にサッチャー首相(当時)に宛てて送った肉筆による英語筆記体“Dear Mrs. Thatcher”で始まる手紙。便箋上部に皇室の菊花紋がエンボス(型押し)加工されていることがわかる=英公文書館所蔵(2016年12月30日付け公開) / english.kyodonews.jp掲載大画像
1992年7月20日セビリア万博視察のためスペイン訪問、ゲストブックに毛筆で「徳仁」と署名する徳仁
1992年7月21日浩宮スペイン公式訪問にてヘレス・デラ・フロンテーラにあるGONZALEZ BYASS社のシェリー酒醸造所を見学、樽に「徳仁」と「Naruhito」筆記体でサインをする
1995年2月26日阪神淡路大震災視察で避難所訪問、そこで会った小学生にスケッチブックとマジックペンでメッセージを求められ「がんばってください」と書く徳仁35歳(上画像後姿が徳仁、書き終わってペンを小学生が受け取っている)「っ」の位置にかなり違和感が。
2002年の徳仁年賀状「アンドルー・アークリー様徳仁」「メッセージありがとう」(週刊新潮2002年1月24日号<殿下からの年賀状>カラーグラビア)
2002年12月18日オーストラリア戦争記念館の記帳書に記された徳仁雅子のサイン(朝日新聞社)
2014年6月19日スイス民族誌学博物館訪問記念に徳仁が書いたサイン「徳仁」、下は恐らくブルカルテル大統領によるメッセージと記名
2017年4月16日マレーシアの国王ムハマド5世を表敬訪問、徳仁による記帳の字「徳仁」=16日、クアラルンプール(代表撮影・共同)
徳仁&雅子親筆サイン集
徳仁&雅子親筆サイン集(増補改訂バージョン)
「徳仁」名義の署名画像集
2005年2月奥志賀スキー画像と合わせて公表された、雅子に手を取られて二人羽織状態での愛子初めての「お習字」
2005年2月愛子一人だと水墨画というかお絵描き状態
2007年11月7日TBS秋の皇室スペシャル番組「笑う愛子さま(以下略)」にて、書家小川東洲氏が雅子愛子二人羽織で書いた字やお絵描き遊びを絶賛【小川東洲】
2008年12月10日第51回宮内庁職員組合文化祭美術展に出展の愛子ちゃん書道「犬」。テン「、」が力強いと報じられる。それにしても発表用の字として「犬」を選ぶセンスに('A`)
雅子と愛子、小学校2年の筆跡比較 / 同雅子と愛子小学校2年の筆跡比較。愛子の書写文の出典は『こくご 二年(上)』より「サンゴの海の生きものたち」(本川達雄/光村図書)
2009年12月1日愛子8歳誕生日特集雑誌記事より びわの観察記録と教科書の文章の書写 / 同記事より抜粋 観察記録と作文に書かれた「敬宮愛子」の署名
2009年12月16日宮内庁職員組合文化祭出品作品紹介、愛子作品は今年初め干支にちなんで書いた「牛」と10月運動会の後の「メダル」、「あいこ」の名前書き添え。
比較:2005年二人羽織「あ」、2008年「犬」、2009年「牛」「メダル」【小川東洲】
2010年初等科3年愛子の書写筆跡。出典は『新しい国語 三年(下)』より「もうどう犬」(吉原順平/東京書籍)
比較:雅子2年生作文と愛子2・3年生の書写 筆跡比較
比較:雅子2年生作文と愛子小学校2・3年生の書写筆跡、文字ごとの比較
2010年12月1日NHK愛子9歳誕生日ニュース映像連結画像、最初は手本を見ながら「寅」のお習字をしていたのが、途中顔にズームアップしカットが切り替わると、48秒からは手本なしで飼い犬の名「由莉」と半紙に書いている映像に。54秒以降は同年運動会映像のみ。【ゆり】
2010年12月8日宮内庁職員組合文化祭美術展に出展された愛子の工作作品「図工室モンスター」と貝殻標本と同年2月に書いた「母」「父」書道。愛子は書道を習っているという触れ込みなのに、どうして10か月も前のものを作品として提出したのか理由は不明。秋篠宮両殿下&悠仁殿下は大きなヘチマを題材とした和紙ちぎり絵「みのりの秋」、皇后陛下は女性職員たちと一緒に作られた小箱をご出展。
2011年「友四年敬宮愛子」「猫の遊園地南敬宮愛子」「ウドゥのりぼんちゃん南敬宮愛子」、週刊女性2011年12月20日号<書道、絵画、焼き物、写真……愛子さまアートな10歳お誕生日>カラーグラビアより
2010年12月8日宮内庁職員組合文化祭美術展の愛子工作作品「図工室モンスター」大きめ画像。「サクラクーピー」「ヤマトのり」「木工用セメダイン」と文字を書き入れていることが分かる
2011年12月8日<宮内庁の職員文化祭に愛子さまらが出品>JNNニュースWebサムネイル、愛子が出品した「実りの秋 あいこ」毛筆作品
2012年11月24-25日学習院初等科祭に出展された愛子書道「成長 五年敬宮愛子」(週刊女性2012/12/11号) / 同角度補正
2012年12月12日<皇后さまが折り紙 宮内庁の文化祭に出品>ANNニュースより、宮内庁職員組合文化祭に出展された愛子作品「成長 五年 敬宮愛子」書道(学習院初等科祭に出展したものと同じと思われる)と、「キャンドルスタンド」&「片口」の器
2013年12月11日宮内庁職員組合文化祭美術展に出品した愛子の書「明るい街 六年 敬宮愛子」=代表撮影【宮内庁職員組合文化祭】
2015年12月8日宮内庁職員組合文化祭美術展に出品された愛子の書「大志」、同年9月24日50周年記念オール学習院書展に出展した「大志」の使い回しか=8日午前、宮内庁(代表撮影)【時事通信社】
比較:2005年二人羽織「あ」~2016年「大志」までの愛子書道まとめ画像(2016/12/8時点)
1993年婚約(内定)時期と思われる、小和田優美子が愛知県半田市商工会議所宛で半田青年会議所理事長である竹内啓二氏に送った、新見南吉童話集についての葉書礼状。句点を「.」にする癖や、平成5年41円年賀切手(お年玉付き年賀状当選切手)を用いている点に注目
前略御免下さいませ
新見南吉童話集
お送りくださりありがとうござ
いました. 私も子供達が
幼い頃、「お休み」の前のお話に
良く読んで聞かせました.
特に「ごんぎつね」は雅子の大
好きなお話. 私も最後は
いつも涙声になっていたことなど
再び読み返し懐かしく昔
を思い出しました.御礼まで。
1993年雅子との思い出を語る母方祖母・江頭寿々子(元チッソ社長・江頭豊の妻)、寿々子自身の毛筆署名あり。雅子の書道好きはこの祖母の影響を受けているとのこと。しかし「雅子とは口には言い表せないほどの深い心の交流があって、一つ一つを挙げたら本が二冊ぐらい書けるような気がする」「(自転車当選といい皇太子妃になることといい)彼女には“運”がついている」と微妙且つ皇室への敬意が感じられない言い回しである。
比較参照:1990年6月皇室への畏敬の念が感じられる見事な候文でしたためられた、祖母川嶋紀子(いとこ)さんによる皇室に嫁ぐ孫・紀子さんへの手紙
2002年元旦 小和田夫妻(おそらく書いたのは優美子)が、追っかけ主婦カメラマン・小林春美から愛子写真集の贈呈を受けて出した、年賀状を利用した返礼(『女性セブン』2014年8月14日号<追っかけ24時泣き笑いドキュメント―あのスターを求めて今日も出撃! 皇室 撮りためた写真で写真集出版 小和田家から礼状が届いた>より)【小林春美】
昨年末にはお心尽しのお品をお送り下さり
ありがとうございました.写真集もとても美しい
出来映えでございますね.
御活躍を祈り上げ
ます
2007年12月5日TBS「水トク!」で“アノ小和田家御用達”として紹介された岐阜県飛騨高山にあるうどん&蕎麦屋『太田庵つるつる亭』に飾られている、小和田恒直筆色紙「優雅礼節平成五年十月十日小和田恒優美子」
2010年12月23日小和田恒・優美子夫妻が中国陝西省の西北政法大学を訪問、名誉博士号を受ける小和田恒。恒の筆による書は「学而不思則罔。思而不学則殆」(学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆うし)
有栖川流書道の継承についてのまとめ連結画像(2009/1/25皇室日記より)
参考:『徳川慶喜の孫に生まれて』高松宮喜久子妃談、文藝春秋1998年
「今の陛下が皇太子でいらした頃、うちの宮様(=高松宮)に『礼宮が叔父様のような字を書きたいといっているから教えてください』と仰せになりました。(中略)とんでもないということで、私にお鉢がまわってきたんです。今、困っているのはお手本にない字があることね。秋篠宮様のお歌には、変な眼が三つついているトカゲとかそういうものがでてまいりますでしょ。(中略)しようがないから別々の字の偏とつくりから字を探しだしてきてくっつけて(笑)」
参考:秋篠宮殿下の書の先生、高松宮妃喜久子殿下の「済生」
1973年11月宮内庁職員美術展に展示された浩宮(ブロンズ製のげんこつ、「理想」と書かれた書)、礼宮殿下(バターやテープの空き箱で作ったキリン、「広い心」と書かれた書)、紀宮殿下(クレヨン画のウサギと美智子妃殿下の誕生日に贈った絵を描いたカードと封筒)の作品
1973年11月14日浩宮の書「理想 徳仁親王」と礼宮の書「広い心 文仁(以下確認できず、よみうり写真館)
1974年11月宮内庁職員美術展出品の礼宮の書「菊日和」
秋篠宮揮毫の昭和天皇陵誌拓本「昭和六拾四年壱月七日午前六時参拾参分崩御平成元年貳月貳拾四日斂葬」
「昭和天皇武蔵野陵」秋篠宮殿下の御手蹟石碑
秋篠宮殿下による「熊野懐紙」
3~4歳当時の川嶋紀子さんが、お祖母様に出した手紙や自画像など
1982年11月宮内庁職員組合文化祭に出展、浩宮22歳「據徳依仁(論語)」、礼宮17歳「吾道一以貫之(論語)」、紀宮13歳「容徳如玉(白氏文集)」(FOCUSフォーカス1982年12月3日号)【宮内庁職員組合文化祭】
1983年1月川嶋紀子さんが学習院女子高等科1年にご友人にあてた年賀状。毎年スキー旅行があること、蔵王でスキー検定2級に合格されたことが分かる
浩宮21歳(1981年)「省萬邦之風以如其盛衰 徳仁親王」、礼宮19歳(1984年)「微風吹幽松 文仁親王」、紀宮15歳(1984年)「清光玉不知 清子内親王」それぞれの書
1985年3月学習院女子高校卒業前に、友人同士で交換した川嶋紀子さんメッセージ
1987年4月17日礼宮主催の学習院大学サークル・自然文化研究会が和歌山県龍神村を訪問した折り、「水」を贈られたことに対する日向村長にあてた川嶋紀子さんのお礼状。村でファイルに保存されていたとのこと
1987年4月17日
龍神村長 日向玉一様
拝啓 此の度びは、「龍神の自然水」と御恵贈賜り、誠に有難う存じました。早速、家族揃っておいしく頂戴いたしました。御地の杉や檜のこうばしいかおりや雨中の伐採を見学させていただきました貴重な経験を、懐かしく想起申し上げました。
春寒料峭の候、どうぞお体を御大切に遊ばされますよう、お願い申し上げます。
ごきげんよう
自然文化研究会 川嶋紀子
1988年3月川嶋紀子さん学習院心理学科卒業論文 <「認定地図の成立に関する規定要因」-スケッチマップに再生された視覚的環境要素の考察ー>
秋篠宮妃殿下による書「歳経にし辞書を引きつつ想い出ずまなび知りたるよろこびの日日」平成7年発行『ふかみどり』に掲載
秋篠宮妃殿下による書、結核予防会について詠まれた歌「このかたき病をさむる道めざしひとらとともにさらにつくさん」
2003年10月3日秋篠宮同妃両殿下がサモアの南太平洋環境計画本部視察された時のご署名「秋篠宮文仁」「紀子」
2007年8月マダガスカルにて植樹したバオバブのプレートに書かれた秋篠宮さまと眞子さまのお名前。秋篠宮は達筆な崩し字、眞子さまは几帳面で丁寧に書いていることが窺える。
『家庭画報』2009年1月号に所載、紀子妃殿下直筆の月次和歌二首の短冊。「子ら三人かくれてあそぶ部屋の中たがひにみつけて笑みかはしたり」(2007年の月次)、「ねむの木の子守歌きくをさな子は眠りさそはれまなことぢゆく」
2013年12月11日<宮内庁職員組合文化祭 愛子さま、悠仁さまの作品も公開される>FNNニュース連結画像、悠仁親王殿下の作品である昆虫標本「夏の思い出」、自分で書かれた和名とラテン語学名ラベル「コエゾゼミ Lyristes bihamatus」「マルタンヤンマ Anaciaeschna martini」【宮内庁職員組合文化祭】
2013年12月11日悠仁殿下の昆虫採集標本「日本のヤンマ」「日本のセミ 日本には35種のセミが(以下不明)」「日本のアゲハ」の直筆ラベル、トンボのヤゴとセミの抜け殻が添えてあることから、幼虫時期から観察していたことが窺われる
2014年1月30日ペルー公式訪問、天野博物館にて記帳された秋篠宮両殿下のサイン「秋篠宮文仁」「紀子」
2014年12月11日宮内庁職員組合文化祭に出展された悠仁殿下出展作品「どんぐり探し」、形分けした色粘土ラベルに「馬刀葉椎」「尻深樫」「椎」「白樫」「粗樫」「衝羽(根)」と漢字でお書きに
皇室 Our Imperial Family 第66号 平成27年春号<悠仁親王殿下のご成長の記録>より、悠仁殿下がラベルに書かれた「衝羽根樫・赤樫・葉長樫・姥目樫・裏(白樫)」「シラカシ・アラカシ・ツクバカシ・ハナガカシ・ウバメカシ・ウラジロカシ・コナラ・クヌギ・アベマキ・ミズナラ・カシワ・クリ・ピンオーク」
2016年10月「今までで一番緊張したかもしれません(´▽`;) 」「眞子様が絵付けされたお皿が無事に焼き上がって一安心」、佐賀県お成りで有田焼窯元深川製磁にて絵付け体験、「2016.10.21 眞子」と記された磁器皿裏面
2015年12月8日宮内庁職員組合文化祭美術展に出品された秋篠宮同妃両殿下の長男悠仁親王殿下の粘土模型「小さな楽しみその1」ミニチュア信号機、「表町二丁目」「歩行者自転車専用」と自筆書き入れ=8日午前、宮内庁(代表撮影)【時事通信社】 / 大きめ画像【宮内庁職員組合文化祭】
2015年12月8日宮内庁職員組合文化祭美術展に出品された悠仁親王殿下の針金と粘土の作られた模型「小さな楽しみその1」ミニチュア信号機、色粘土を象嵌細工のように組み合わせていることが分かる大きめ連結画像(ANN)
週刊女性 2017年9月12日号掲載、眞子内親王殿下高校卒業?当時の寄せ書き「高1(林間学校)→高2(修学旅行)→高3」「高校に入ってからはあまり変わってないが、←これが中学1年生の時の生徒証の写真!小学校から(悪くすれば幼稚園から)顔が変わっていない!と言われる童顔な自分だが、さすがに幼いのではないだろうか」「(中学入学)当時148cm今に比べると小さい!(現在160cmくらい)」
1980年頃? 書道を習う紀宮「羊と鳩」
1980年4月18日 紀宮11歳公表映像、変体仮名を用いた和歌の書「うすもゝの 桜の花は 散つていく 私の手にも はなひら一つ / 年の始る桜といふことを 仰せことによりて詠める歌 清子内親王」と、両手で頬を抑えたポーズの水彩自画像
1982年11月 宮内庁職員組合文化祭に出展、浩宮22歳「據徳依仁(論語)」、礼宮17歳「吾道一以貫之(論語)」、紀宮13歳「容徳如玉(白氏文集)」(FOCUSフォーカス1982年12月3日号)【宮内庁職員組合文化祭】
浩宮21歳(1981年)「省萬邦之風以如其盛衰 徳仁親王」、礼宮19歳(1984年)「微風吹幽松 文仁親王」、紀宮15歳(1984年)「清光玉不知 清子内親王」それぞれの書
紀宮殿下の平成十四年(2002年)月次御兼題詠進歌の書(上)と、「小正月のてすさび」とタイトルの付されたカワセミのクロスステッチ刺繍壁掛け飾り作品
紀宮殿下の平成十五年(2003年)月次御兼題詠進歌の書。詠まれた歌を毎年料紙に記されていて、降嫁される月まで歌を詠まれたとのこと
1946年(昭和21年)1月1日 継宮明仁親王小学校六年の書初め「平和國家建設」
1953年9月21日 皇太子明仁親王殿下がコプレイスクエア・シェラトンプラザでのボストン・ジャパンソサエティ主催歓迎午餐会ご出席の折、請われてメニューに英語でご署名「Akihito」
独身時代、正田美智子嬢がご友人に渡された自筆メッセージ入り写真
右上に「又軽井沢でね!!お馬上手になって頂戴」、左下に「ミチ」と書いてあります。写真撮影日は昭和30年(1955年)10月11日、関東女子新進テニストーナメント優勝時と同日と思われます。聖心女子大学の制服をご着用。
1959年4月 美智子さまからご婚約時の毎日新聞担当記者・清水一郎氏に送られた手紙「週刊女性 1990年12月3日号緊急増刊 美智子さま愛と激動の32年 <秘話・美智子さま 正田美智子さまからのお手紙>」
1962年11月 フィリピン独立の英雄と言われる初代大統領アギナルド将軍(当時93歳)と対面された皇太子殿下が、将軍の息子エミリオ・アギナルドJr.氏の名刺裏に書かれた「Akihito」筆記体のサイン(TBS2016/1/26)
1976年? ブレイアー城(Blair Castle)内に展示されている皇太子同妃両殿下(当時)の署名入りポートレート写真「明仁」「美智子」
1992年10月 中国の陜西歴史博物館ご訪問、毛筆にて記帳をされる両陛下
天皇皇后両陛下の毛筆によるご署名の拓本「明仁」「美智子」
美智子さまの英字のサイン「Michiko」
英語の恩師に宛てた英文の美智子さまの手紙
2007年12月12日 第50回「宮内庁職員組合文化祭美術展」に出品された両陛下の書・東宮夫妻の写真・愛子のぶたちゃん・秋篠宮家の来年の干支にちなんだ「ぐりとぐら」人形(ANNニュース12/13より)
2009年7月9日 カナダ・トロントの小児病院をご視察、芳名帳への両陛下のサイン
2009年12月16日 第52回宮内庁文化祭、天皇陛下のご出展はこの1月歌会始での御製「生きものの~」の書、皇后陛下は新聞などから切り抜いて手元に残しておいた絵を表紙に貼ってコラージュした「小さな手帳」。なお皇后陛下はこの他に書を出展されているが、ここには写っていない。【生きもの】
国務大臣認証の官記にしるされた天皇陛下直筆のご署名と御璽
2011年12月8日 <宮内庁職員の文化祭開催 愛子さまは吹きガラスの風鈴、悠仁さまは折り紙を出展>FNNニュース連結画像、両陛下の書、愛子のガラス・キャンドル作品と書、徳仁雅子の写真、悠仁殿下の折り紙
2012年12月13日 宮内庁職員文化祭に出品された天皇陛下の書。歌会始の御製「津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」
2012年12月13日 宮内庁職員文化祭に出品された皇后陛下の書。歌会始の御歌「帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず」
2013年12月11日 <宮内庁職員組合文化祭 愛子さま、悠仁さまの作品も公開される>FNNニュースより両陛下の書、2013年歌会始の御製「万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方恩納岳さやに立ちたり」と御歌「天地にきざし来たれるものありて君が春野に立たす日近し」
2016年12月8日 天皇陛下が宮内庁職員組合文化祭に出品した今年の歌会始で詠まれた御製の書「戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ」【宮内庁職員組合文化祭】
2016年12月8日 皇后陛下が宮内庁職員組合文化祭に出品した今年の歌会始で詠まれた御歌の書「夕茜に入りゆく一機若き日の吾がごとく行く旅人やある」
2016年12月8日 宮内庁職員組合文化祭に出展された天皇陛下と皇后陛下の書(TBS)
1921年欧州歴訪時に署名されたと思われる、英国リンネ協会で保存されている「裕仁」の署名(撮影は1931年4月29日)
1959年に長男・継宮明仁皇太子と正田美智子嬢との結婚を米国・アイゼンハワー大統領(当時)に伝えた昭和天皇直筆署名の手紙(TBS 2014/5/3)
1980年代、御名を記される昭和天皇
久邇宮良子女王殿下の御手蹟による掛軸「春夜宴桃李園序」(李白)
東宮妃良子女王殿下(香淳皇后)と御筆蹟「をりにふれて あたたかに ふせるもくるし ふすまなき かりやのひとを おもひいづれば」関東大震災の被災者を想って詠われたと思われる和歌。
1989年 結核予防会創立五十周年にあたって、医師、看護婦、保健婦、その他関係者を顕彰するお歌を下賜された秩父宮勢津子妃の御手蹟「みことばに 心をしめて つくしこし みちそれぞれの はげみをたたふ/忘れまじ こころゆるさじ このやまひ かくまでなりしを よろこびつつも」
「読売光と愛の事業団」の常陸宮妃華子殿下の書による題字「愛と光と」
2000年 常陸宮妃華子殿下の書による墓碑「香淳皇后武蔵野東御陵」
常陸宮妃華子殿下による平成21年歌会始の和歌とその書「生命とは人の道なりと医師はいふ触診をする眼きびしく」
有栖川流書道の継承「五代・職仁親王、六代・織仁親王、八代・幟仁親王、十代・威仁親王の二女實枝子さん、高松宮妃喜久子殿下、常陸宮妃華子殿下」についてのまとめ連結画像(2009/1/25皇室日記より)
2016年12月8日 常陸宮妃華子殿下が宮内庁職員組合文化祭に出品された今年の歌会始で詠まれたお歌の書「人と人思はぬ出会ひに生涯の良き友となり師ともなりなむ」【宮内庁職員組合文化祭】
2016年12月8日 三笠宮家の彬子女王殿下が宮内庁職員組合文化祭に出品された書の「伝燈」【宮内庁職員組合文化祭】
1960年 降嫁した島津貴子さんが、皇太子同妃両殿下渡米前に義姉美智子妃殿下に送った手紙かその下書き、詳細不明
日本サッカー協会に寄せた高円宮久子妃のサイン「久子 Hisako」【恒久子】
2015年10月11日 ワルシャワのフレデリック・ショパン博物館訪問の記帳をする久子妃とそのサイン「Thank you so much for a most enjoyable and educational visit 久子 Hisako」連結画像(Chopin Institute公式Youtubeより)
1990年6月 秋篠宮妃紀子殿下の祖母・川嶋紀子(いとこ)さんによる和歌と書「礼宮殿下と紀子どのの御婚儀を祝ひ奉りて 朝日さす 今日のよき日を寿かん 御身も心も 萬代までも/かしこくも 御二方の御契り 清き御姿 末ぞ久しく」
小和田雅子「わたくしではございません」の台詞
(美智子さまがあのような素晴らしい女性云々と独白しているシーンがあるが、実際の美智子皇后陛下は小和田雅子の気の強さが皇太子には合わないのではと危惧していたという)
「小和田雅子さんではいけないでしょうか」あの自身に満ちた美しさ!
※あの自身に満ちた美しさ!の現実コラ
現実Ver.その2
皇太子の「ぼくが一生、全力でお守りしますから」プロポーズシーン
※プロポーズシーンのコラ
婚約内定からお妃教育
「温かい家庭(ホーム)を持つまでは絶対死ねないと思った」明仁親王・正田美智子嬢婚約会見・秋篠宮両殿下ご成婚コラ画像。実物の方が寧ろ漫画より美しいところに注目
わたくしにまた一つ宝物が増えました
※「わたくしに新しくお荷物が増えました」コラ
「宝物が増えました」という皇后陛下コメントは礼宮と川嶋紀子嬢の婚約が内定した時に親交のあるデザイナー・植田いつ子氏に語ったものであり、これはそのエピソードを流用した脚色である。
『布・ひと・出逢い』植田いつ子 主婦と生活社平成四年(1992年)十月三十日発行
p.39より引用
お子さまがたに対しては、宮さまがたの個性をたいせつに、のびのびと、そして、けじめということを、きちんとお教えのようです。親子の最もさわやかな交流をかいま見ることもあります。
あれは、礼宮さまのご婚約発表の折でしたが、
「本当にさわやかなカップルで、おめでとうございます」
と申し上げましたところ、
「ありがとう。うちにまたひとつ宝物が増えました…」
とおっしゃられ、なんといいお言葉と感動しました。
兄夫婦のおかげで子作りにプレッシャーをかけられた秋篠宮ご夫妻と、それを応援された故・高松宮妃喜久子さま、そしてただただ「コウノトリのご機嫌を…」と言うだけでぐずぐず引っ張り続けた東宮
「雅子のキャリアや,そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と“人格否定会見”徳仁、そして「公務というものはかなり受け身的なものではないか」と秋篠宮殿下
参考1:平成16年(2004年)5月10日収録、デンマーク・ポルトガル・スペイン訪問前の徳仁“人格否定会見”
参考2:平成16年(2004年)11月25日収録、秋篠宮殿下誕生日発表用“公務は受身会見”
「秋篠宮妃ノリ子さまご懐妊」と有名発言の岡田ジャスコ克也、紀宮の出産と勘違いする石原伸晃、佳子さまがご懐妊などととんでもない間違いをしでかす武部勤、与党野党揃いも揃って頓珍漢な輩が皇室問題を考えようという愚を示す場面
ご成婚時の雑誌に掲載されていたもの。一部に間違いがある(正しくは、お二人の初めての出会いは川嶋紀子さんが高等科時代ではなく大学入学後、正式婚約は1990年1月12日納采の儀)ものの、可愛らしいイラストで、川嶋紀子嬢ご誕生から礼宮殿下との恋愛・ご結婚を描く。
1/2/3/4/5/6/7
8/9/10/11/12/13/14
その1
その2
その3
その4
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「Madeleine」(マドレーヌ)とは、Amazonで池田礼子・渋谷節子共訳『幸せな子 アウシュビッツを一人で生き抜いた少年』(トーマス・バーゲンソール著、朝日新聞出版2008/10/21)のレビュ...
2002年の雅子夫人誕生日会見冒頭で飛び出した、彼女の愉快な日本語感覚をスレ住民奥様方全員に印象づけた言葉。そんじょそこらのお笑い芸人でもなかなかこうはいかないものである。なお宮内庁HPには当会見の英...
画像説明文で皇太子徳仁の後ろに添えられる言葉。転じて、東宮一家の移動車両における徳仁の座席位置を示す表現。2007年3月11日東宮一家奥志賀スキー旅行前の両陛下へのご挨拶ワゴン車移動ニュースでよく知ら...
東宮夫妻を何かに喩えた書き込みをした後に、その比喩に使われたものに謝れとレスがお約束のように続くことを示す。ex.「床に胡坐かいて手掴みで物を食べるなんて、まるでゴリラみたい」→「ゴリラはそれが自然な...
雅子夫人がグルメやショッピングやドライブなど、私的外出をする際に警護として必ずつくSP集団のこと。『週刊新潮』2005年10月27日号にて報じられた。特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC...
駐日大使夫妻らを宮内庁が管理する鴨場(埼玉県越谷市「埼玉鴨場」と千葉県市川市「新浜鴨場」の2箇所がある)に招き、皇族方が接待すること。「外交団鴨場接待」のように表現されることが多い。国を代表して訪日し...
東宮家を巡り雑誌等で発言が多く見られた、元・共同通信記者の経歴を持つ静岡福祉大学教授・高橋紘(ひろし)氏のこと。高橋氏は「象徴天皇にふさわしい皇位継承とは、国民に広く支持されるかどうかが基本」との考え...
先ずこの「雅子による見苦しい下手糞抱っこ」まとめ画像を参照されたい:手の甲乗せ、おマタ鷲掴み、お尻鷲掴み、お股おっぴろげ全開、駅弁抱っこ等々オンパレード画像(日付入り)まとめ画像その2:問題点指摘入り...
東宮家の中の人、徳仁・雅子・愛子がほとんど共にしないと報じられているもの。心凍るブリザード家庭としか思われないのだが、それでもなお一家円満を主張し続けているところが奇妙というか、必死すぎである。結婚当...
2008年1月25日長野県小布施町にある美術館「北斎館」にてを「駿州江尻」を見た雅子夫人が発した言葉(スレでは「ぅ~」を付与した形で定着している)。ttp://sankei.jp.msn.com/cu...
雅子夫人について夫徳仁が主張していること。「頑張り過ぎる」というのがお得意のフレーズである。同日シリーズやら翌日シリーズやらで雅子夫人の振る舞いを観察しているスレ住民奥様方からすれば( ´_ゝ`)フー...
平成24年(2012年)2月18日天皇陛下心臓冠動脈バイパス手術は世に大きく伝えられたが、その後のお見舞いを巡って、まともに打診もせずぐずぐずしていた東宮家の雅子が、秋篠宮妃殿下からのお見舞いスケジュ...
MasakoCalendar作成奥様が組んでくださった、1993年1月婚約発表時期からの【雅子さまワクワク☆静養カレンダー】もご参照ください。雅子夫人についてのニュースにおいて、一緒に使われる確率が非...
自らの知識・技術を活かしたいと考える青年を発展途上国に派遣する[ JICA(独立行政法人 国際協力機構)]の事業のこと。「エリート外交官家庭に生まれ育った私が発展途上国なんてpgr」という意識があるの...
2011年7月21日付で愛子養育担当東宮家出仕となった女性。それまで愛子養育担当出仕には福迫美樹子氏、筒井美奈氏がいたが、霜鳥氏は3人目となる。ほぼ同時期に愛子養育担当人員として雇用された存在として、...
学習院幼稚園に通っていた敬宮愛子ちゃんとその母雅子とが偶にやっていたこと。タイトー制作の電車運転シミュレーションゲームソフトのことではなく、雅子・徳仁夫妻の「(娘愛子に)一般の子供たちと同じ経験をさせ...
]No.日付見出し注目内容2131.7元日にも陛下のご負担軽減策年末の表参道…東宮大夫「良かった」の理由は?新年行事について新年ご一家撮影会裏話、一同並んで撮影している場面ではしりとり新年一般参賀、女...
広義では「東宮家雅子夫人に関する様々な問題事」を表す。この単語は『週刊新潮』2008年4月10日号<男の担任も「横ヤリ交代」 学習院初等科「愛子さまご入学」シフト>記事中にて「雅子さまマター」で登場し...
Part826スレッドのとある奥様(レス番号371・377・379)が、以前ここに書かれていた「迷惑外交武勇伝」という言葉が気に入ったとのことで、海外における雅子のgdgd振舞い事件を端的にまとめてく...