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大瀧詠一(おおたき えいいち、本名、大瀧 榮一、1948年7月28日 - )は、シンガーソングライター・作曲家・アレンジャー・音楽プロデューサー・レコードレーベルのオーナー・ラジオDJ・レコーディングエンジニア・著述家など、多くの顔を持つミュージシャン。
岩手県江刺市(現・奥州市)生まれ、母親は教師。血液型AB型。釜石南高校卒業、早稲田大学第二文学部中退。
一般には歌手としての表記(1973年ごろから)である大滝詠一で知られている。代表曲に、『幸せな結末』、『夢で逢えたら』、『A面で恋をして』など。
最近は音楽家としては実質的に引退状態で、勉強家などと称している。非常に多くの別名を持ち、その時々・役割で使い分けている。熱心なファンは自らを「ナイアガラー」などと称し、大滝の才能に敬意をこめて「師匠」とか「福生の仙人」などと呼んでいる。非常に多趣味であるが、特に読売ジャイアンツの大のファンであり、敬愛する長嶋茂雄の復帰などは本人のその後の活動に大きな影響を及ぼしている。
少年時代からエルヴィス・プレスリーをはじめとするアメリカンポップスに親しみ、特に1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えているというほど精通している。高校卒業後の1967年春に上京し、製鉄会社でサラリーマンをしていたが、午後に出社したりと散々な勤務成績で、わずか3ヶ月の在籍期間の後、退社。一方で会社の宴会でビートルズの「ガール」を歌ったところ好評で、上司に「キミはこんな所にいてはいけない」とプロになる事を暗に薦められたというエピソードもある。翌1968年には早稲田大学に入学。友人の布谷文夫が所属していた「タブー」というバンドや、竹田和夫率いる「ブルースクリエイション」に参加している。同時期に細野晴臣とも知り合い、共通の友人であり中田喜直の甥である中田佳彦と3人で「ランプ・ポスト」という私的な音楽研究会を開く。
1969年、エイプリル・フール解散直後の細野と松本隆によって計画されていたバンドに加入。バンド名をヴァレンタイン・ブルーとし、細野、松本、大瀧、鈴木茂の4人で活動開始。1970年にはバンド名をはっぴいえんどと改名し、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。アルバム『風街ろまん』『HAPPY END』を発表するも、1972年末を持って解散。
はっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、アルバム『大瀧詠一』(1972年)を発表。はっぴいえんど解散後ソロ活動を本格化し、1973年には三ツ矢サイダーのCMソング「Cider '73」を制作する。自身のレコード・レーベル「ナイアガラ」を立ち上げ、「サイダー」をシングルとして発売する計画で、所属するレコード会社を探すも、当時CMソングをシングルとして商品化することは考えられなかったことで、どこに行っても断られるという状態であった。最終的には1975年にエレックレコードに所属することが決定し、アルバム『Niagara Moon』(1975年)を発表。また山下達郎や大貫妙子が所属していたバンド・シュガーベイブのプロデュースなどを行う。
しかし、間もなくエレックレコードは倒産し、移籍した先のコロムビアレコードでは、16チャンネルのマルチトラックレコーダーを与えられる代わりに、1年間にアルバム4枚という、作品の大量生産を余儀なくされた。そんな中で発売された『ナイアガラCMスペシャル Vol.1』(1977年)は、どのレコード会社に持って行っても断わられていた、純粋にCMのために書き下ろされた曲を集めてレコード化する企画をようやく実現させたものだが、このアルバムは1970年代のナイアガラレーベルのアルバムの中で一番のヒットとなる(ソニー以前のナイアガラレーベルで実売が5桁だったのはこのアルバムだけだったといわれる)。だが、この時期のアルバムには、音頭や洋楽のパロディ、ノベルティ・ソングなど、本人が「シュミシュミ音楽」と呼ぶようなマニアックな曲が並び、当時は一般的に理解されることはなかなかなかった。1978年には自身の事務所(その当時のナイアガラエンタープライズ)も閉鎖(倒産?)するという不幸も重なり、不遇の時代をすごした。
ただし、本人はナイアガラ時代の作品について、「売れないだろうし、何年経っても理解されないだろう」と、アルバム『Niagara Moon』の制作当初から考えいた様で、ナイアガラエンタープライズの立上げは、(セールス面においては)覚悟の上の船出であった。事実、大衆がどういったものを聴いてくれるか、という事は「Cider '73」で既に自覚しており、「Cider '74」にいたっては、大ヒットアルバム『A LONG VACATION』のサウンドに何ら劣らない出来であったと後にラジオ番組で語っている。
しかし、この、いい意味でも悪い意味でも偏った作品群の制作の後、1980年にはCBSソニーに移籍。はっぴいえんど時代の盟友松本隆と組んだアルバム『A LONG VACATION』(1981年)がミリオンヒットし、商業的な大成功を収めた。1~2年も売れなかったらアーティストとしては終わり、といった当時のニューミュージック的な考え方からすると、5年も売れなかったアーティストが(急に)売れるなどというのは考えられないことで、一部では奇跡とも言われている。
その後は、佐野元春・杉真理とのアルバム『ナイアガラ・トライアングルVol.2』(1982年)、松田聖子のアルバム『風立ちぬ』(1981年)のA面のプロデュースや、アルバム『EACH TIME』(1984年)等、『A LONG VACATION』と同系統の作品を発表。1985年にはシングル『フィヨルドの少女/バチェラーガール』を発表するが、翌1986年には全ての大瀧のレコードシングルを廃盤にしている。これは本人曰く「アルバム『A LONG VACATION』が邦楽第一号でCD化された事で人一倍レコードに思い入れのあった自分が結果的にCD普及を早める事になってしまったから」らしい。また、ベストアルバム『SNOW TIME』(1985年)をサンプル盤のみで配布するが、それが市場流出し、法外な高値を呼ぶことともなった(後に正規盤が発売することとともに、事態は収束していった)。
この頃、歌手としての活動を休業。歌手「大滝詠一」としてのライブ活動に関しては、1985年のはっぴいえんど再結成ライブなど「大滝詠一」以外のものを除くと、1983年7月24日に西武球場で行われた、サザンオールスターズ、RATS&STARと競演した「ALL NIGHT NIPPON SUPER FES. '83」以後は一切していない。それに伴って、「快盗ルビイ」(小泉今日子、1988年)などの曲提供以外では新曲を発表することもなくなった。
しかし、1997年には12年ぶりにシングル『幸せな結末』を発表し、月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌としてミリオンセラーを達成。2003年には6年ぶりのシングル『恋するふたり』を発表。同じく月9ドラマ『東京ラブ・シネマ』主題歌となる。以降の作品はいまだ発表されていない。
海外の音楽についての豊富な知識をもち、それを駆使して制作される音楽は、時として極めてマニアックであり、本人が「シュミシュミ音楽」と呼ぶような、独特であり、かつ、閉じた世界を形作ることが多い。作品によっては、パスティーシュとも言えるような作品もあるといわれるが、海外の音楽に詳しくないと(あるいはある程度詳しくても)、どの作品に由来しているのか、よくわからないことが多いようである。そのせいか、本人の楽曲は他の音楽作品(特に洋楽)と似通った部分がいくつかあり、しばしば指摘されることもあるが、そのことについては本人も言及している。
また、定期的に自身の作品群をマスタリングする等し、多くの“バージョン違い”が存在することでも有名である(下記記載の「シングル」「アルバム」「プロデュース」の項についてもその詳細は大瀧詠一著『All About Niagara』(増補改訂版、白夜書房、2005年)に委ねられる)。
一方自ら音頭好きと称して多数の音頭を発表してもいる。代表曲に「ナイアガラ音頭」(アルバム『Niagara Triangle Vol.1』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『NIAGARA CALENDAR '78』収録)、金沢明子に提供した「イエローサブマリン音頭」等がある。緻密に練られたポップス系とは異なるお気楽さが身上。70年代から独自の路線を貫き、また、ライブでは洋楽と自身の楽曲をつなげて演奏したりと言った遊び心もあり、他のミュージシャンと競演した際にはよくこういった試みがなされていた。このことから、元祖日本のマッシュアップアーティストとの説もある。
日本のポピュラー音楽に与えた影響には小さからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、渋谷系などへの影響を指摘する声もある。また、早くからのCMソングの重視も、その後のニューミュージック・J-POPにおけるテレビのCMや番組とのタイアップという路線の先駆をなしている。音楽プロデューサーの小林武史もラジオではっぴぃえんどを特集するなど、非常に影響を受けていると語っており、タイアップの話が持ち上がった際に大滝の自宅まで出かけ相談したそうである。大滝は小林の楽曲の良さを認めたうえで、「自分はここまで長く自分の曲を封印しているからこそ、自分の手だけで次曲を作りたい」というふうに小林曰く「気持ちよく断られた」とのことである。桑田佳祐は英語の発音から意味不明的な歌詞を作ることで有名だが、「それは僕が先にやってたんだよね」と語っており、実際、そういう作詞は多く見られる。桑田はラジオで「こんばんわ、大滝詠一です」とモノマネをすることもあった。
また、山下達郎と共に、多重録音コーラスを行うアーティストとして非常に有名である。山下の様にアカペラアルバムこそ制作していないものの、活動初期から多重録音コーラスを行った作品を数多く制作しており、特に『GO! GO! NIAGARA』(1976年)では大滝1人によるコーラスグループ「Jack Tones」を登場させている。また他人への提供曲においても、後にスターダスト・レビューで活躍する根本要が在籍していたクレージーパーティーへ「がんばれば愛」を提供した際には、作ったデモテープをスタッフに聞かせた所、入っていたコーラスをレコードでも入れてほしいと言われて多重録音コーラスを行っている。
プロデューサーとしては、当初、フィル・スペクターのように、アイドルまたはガールグループをある程度「もの」としてとらえ、自分の考えを押し付けるという思想を持っていたふしがあり、その失敗例が吉田美奈子である。吉田の「夢で逢えたら」は客観的に見ると、作品としての質は高いが、大瀧の持っていたイメージに吉田を無理に合わせたということがあったようで、吉田は吉田で嫌いな作品と明言しており、大瀧の方も、決定盤は吉田の作品ではなくシリア・ポールの「夢で逢えたら」と考えているようである。このときの反省に基づいて松田聖子のプロデュースには成功した、という話もある。
もともと「夢で逢えたら」は、アン・ルイス用に書いた曲がお蔵入りになってしまい、大瀧、吉田の両者とも不承不承、製作側の強い意向によりアルバム「フラッパー」に収録することになり、レコーディング、発表されたもの。明らかに当時の方向性が違う吉田としては、この曲を代表曲扱いされてしまったことに対し激しい嫌悪感を抱くことになる。その為、吉田本人はシングルカットの際に拒否していたが、シリア・ポールのバージョンが一部で話題になったことを受けて、結局アルバム発売から2年後の1978年にシングルカットされた。カップリングは同じく「フラッパー」に収録されていた「Last Step」だった。
なお、大滝も方向性の違いを承知し、吉田の意向を理解していたため、これより前に、それまでの経緯から顔ぶれとして参加する必要があった事や、「シャレ」という意味からアルバム「MINAKO」のために「わたし」を提供・制作に参加した段階で吉田作品に自分が参加するのは最後にするつもりで、「フラッパー」には参加するつもりはなく、「夢で逢えたら」の提供についても彼女との方向性の違いを理由に大瀧は一旦断っている。しかし、制作側に押し切られる形で結局受諾せざるを得なくなり、ここでも「シャレ」という意味を強調する為に間奏に台詞を入れたりもしたが、編曲に協力した山下達郎を始めとしたレコーディングメンバーの才能が結集した事から、結果として「最高の作品」が出来てしまったという。そのため、彼女が嫌悪感を抱いた理由について「その気持がよく分かる」のコメントをしている。
こうした経緯から、吉田のデビュー前からの知り合いであり、吉田のデビューのきっかけに大瀧が絡んでいたにもかかわらず、その後の交流は私的なものは別として、音楽面では公的には行っていない。ただ、その「嫌いな曲」である「夢で逢えたら」を完全に自分のものとして消化しているとして、彼女の才能を高く評価している。
シリア・ポールのバージョン及び同曲を収録したアルバムは、この曲を高く評価していた朝妻一郎(フジパシフィック音楽出版社長・音楽評論家)が、「せっかく出来た素晴らしい曲を埋もれされるのは勿体無い」として大瀧に持ちかけた企画だったという。
諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上でその成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称する由である。
1970年代の大滝自身の作品はほぼ大滝自身が、笛吹銅次(笛吹童子から考え出された)名義でレコーディングエンジニアを担当している。また、はちみつぱい唯一のシングル盤「君と旅行鞄(トランク)/酔いどれダンスミュージック」にもレコーディングエンジニアとして参加。現在、再発売された唯一のアルバム『センチメンタル通り』に2曲とも追加収録されていて聴くことができる。
(版違い他多数あり)
(他多数)
(その他多数)
大滝が最初に作ったバージョンは、却下された。
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