山上伊太郎 - 映画ペディア
ョンのそれであった。1929年(昭和4年)7月25日に牧野が死去、同社は混乱の様相を呈する。映画監督を目指し、1932年(昭和7年)、山上は片岡千恵蔵プロダクションに転じ、やがて1934年(昭和9年)に嵐寛寿郎プロダクションで、嵐寛寿郎主演の『兵学往来髭大名』で監督としてデビュー
ョンのそれであった。1929年(昭和4年)7月25日に牧野が死去、同社は混乱の様相を呈する。映画監督を目指し、1932年(昭和7年)、山上は片岡千恵蔵プロダクションに転じ、やがて1934年(昭和9年)に嵐寛寿郎プロダクションで、嵐寛寿郎主演の『兵学往来髭大名』で監督としてデビュー
、および同シリーズの主人公である架空の探偵の名。「七つの顔の男」シリーズまたは「藤村大造(ふじむらたいぞう)」シリーズと呼ばれることもある。片岡千恵蔵主演で、1946年(昭和21年)〜1948年(昭和23年)に大映が4作品を、1953年(昭和28年)〜1960年(昭和35年)に東
ている[1][2]。小説『風流活人剱』は、野村胡堂の著作権が消滅いていないため青空文庫には収められていない。映画『風流活人剱』は、山中貞雄が片岡千恵蔵プロダクションに出向して監督した最初の作品である[3]。公開の当時、小津安二郎が前年に監督した現代劇『出来ごころ』(1933年)を
8月29日 - 2004年10月12日)は、日本の映画監督。本名小沢茂美(-しげよし)。東映時代劇・任侠映画の巨匠である。時代劇ブームの際は片岡千恵蔵主演作で、任侠映画時代は鶴田浩二主演の博徒シリーズで大きな観客動員力を誇った。目次1 略歴2 作風3 主要監督作品4 著書略歴[]
→新興→大映第二(東横)を引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する路線も引き継ぐ。1950年代に入ると、戦前から活躍する時代劇スターの片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗を擁し、さらに東映娯楽版によって若者に人気を得た中村錦之助、東千代之介をデビューさせ、大川橋
監督池田富保 - 与七の女房お浪『塚原小太郎 前篇』 : 監督仏生寺弥作『桃咲く花』 : 監督木藤茂 - 主演『火陣』 : 監督井上金太郎、片岡千恵蔵プロダクション / 日活 - 女房お仲『安達元右衛門』 : 監督志波西果『壁虎藤十郎』 : 監督仏生寺弥作『修羅城 水星篇・火星篇
俳優、舞台演出を経て、1933年(昭和8年)、新興キネマ京都撮影所に入社、翌1934年、日活太秦撮影所に移籍、1935年には監督昇進[1]、片岡千恵蔵プロダクション製作の『初祝鼠小僧』で監督としてデビュー、同作は新興キネマの配給で同年12月31日、電気館や新宿大東京などで公開され
1年)、26歳のころ、山中原作・萩原脚本によるトーキー『お茶づけ侍』で監督としてデビュー[1][2]、同作は同年7月1日に公開された。すぐに片岡千恵蔵に注目され、日活と配給提携をしていた片岡千恵蔵プロダクションで、梶原金八オリジナル脚本による『荒木又右衛門』を監督、さらに翌193
ンに入り、吉川英治原作の『万花地獄』に出演したのを皮切りに精力的に出演するが、これといった作品にめぐまれなかった。1928年(昭和3年)、「片岡千恵蔵プロダクション」を創立。監督に伊藤大輔を迎えようとしたが、彼は辞退して代わりに伊丹万作、稲垣浩監督を推薦し、「君は明るい時代劇が似
用スタジオを建設し、前年に東映動画(とうえいどうが、現東映アニメーション)と改めた旧日動映画(旧日本動画映画)を移転させた。1950年代には片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵らを擁して時代劇ブームを巻き起こした(東映時代劇)。195
テンプレート:文学『赤西蠣太』(あかにしかきた)は、志賀直哉の小説。1936年、片岡千恵蔵プロダクションにより同名映画化された。目次1 作品のあらすじ2 映画『赤西蠣太』2.1 スタッフ2.2 キャスト2.3 関連項目作品のあらすじ[]テンプレート:ネタバレ白石城主、片倉景長から
走番外地』での「鬼寅親分」のセリフには、「十五の年からいたずら(賭博)をしてきた」というものがある。ここには、市川右一(のち市川右太衛門)、片岡千恵蔵、林長丸(のちの長谷川一夫)など将来のライバルたちが所属していた。1921年(大正10年)、叔父・六代目嵐徳三郎の縁を頼って歌舞伎
走番外地』での「鬼寅親分」のセリフには、「十五の年からいたずら(賭博)をしてきた」というものがある。ここには、市川右一(のち市川右太衛門)、片岡千恵蔵、林長丸(のちの長谷川一夫)など将来のライバルたちが所属していた。1921年(大正10年)、叔父・六代目嵐徳三郎の縁を頼って歌舞伎
江戸っ子祭り(1967)稲妻街道(1957)命を賭ける男(1958)いれずみ判官(1965)鶴田浩二いれずみ判官 桜花乱舞の巻(1950)片岡千恵蔵いれずみ半太郎(1963)いろは若衆 ふり袖ざくら(1959)歌ごよみお夏清十郎(1954)唄祭り 江戸っ子金さん捕物帳(1955
影所があった。大谷竹次郎や白井信太郎らが設立に深く関わっており、事実上松竹の傍系会社であった。監督には伊丹万作、溝口健二、新藤兼人、俳優には片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗、山田五十鈴らが在籍した。子役時代の森光子も同社に籍を置いている。初期には嵐寛寿郎プロや入江たか子の入江
鴛鴦歌合戦Singing Lovebirds監督マキノ正博脚本江戸川浩二オペレッタ構成・作詞 島田磬也製作日活京都撮影所出演者片岡千恵蔵市川春代志村喬服部富子ディック・ミネ音楽大久保徳二郎撮影宮川一夫編集宮本信夫配給日活公開1939年12月14日上映時間69分 (7巻)製作国日本
詰まり、監督を目指して衣笠貞之助の「衣笠映画連盟」に参加し、1928年衣笠監督の『十字路』のチーフ助監督を務める。その後、伊藤大輔の紹介で、片岡千恵蔵プロダクションに入り、同年、『天下太平記』をはじめ、片岡千恵蔵の個性に合った「明るく楽しい時代劇」を次々と発表し、好評を博した。1
。物語は作者が人伝いに聞いた話を纏めたという形式をとっている。映像化は早くも小説発表の翌年1947年に映画が製作・公開されているが、このとき片岡千恵蔵が演じた金田一は、戦前からの名探偵(明智小五郎など)のイメージを踏襲したスーツ姿で登場する。さらに1975年の二度目の映画版では中
大正元年)、国家当局の要請を受け、当時の横田商会ほか国産映画会社四商社が合併して創立。尾上松之助主演の映画でその名を知られる。大河内傳次郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎、入江たか子らも活躍し戦前は時代劇の名門映画会社だったが、昭和初期より業績が下降し、経営権を巡る争奪戦が勃発。東宝・松
、横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会の国産映画会社4商社が合併して創立した。尾上松之助主演の映画でその名を知られる。大河内傳次郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎、入江たか子らも活躍し、大正期は時代劇の名門映画会社だったが、昭和初期より業績が下降し、経営権を巡る争奪戦が勃発。東宝
場映画化作品[]人生劇場(1936年日活 内田吐夢監督 瓢吉:小杉勇)人生劇場 残侠篇(1938年日活 千葉泰樹監督 瓢吉:小杉勇、飛車角:片岡千恵蔵)人生劇場 第一部 青春愛欲篇(1952年東映 佐分利信監督 瓢吉:佐分利信、飛車角:片岡千恵蔵)人生劇場第二部残侠風雲篇(195
子、吉良常:山本礼三郎、半助:古谷久雄、三平:村田宏寿、甚:横山運平ほか人生劇場 残侠篇(1938年・日活) 千葉泰樹監督キャスト/飛車角:片岡千恵蔵、青成瓢箪:小杉勇、吉良常:山本礼三郎、黒馬先生:高木永二、寺兼:北竜二ほか人生劇場 第一部 青春愛欲篇(1952年・東映) 佐分
、横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会の国産映画会社4商社が合併して創立した。尾上松之助主演の映画でその名を知られる。大河内傳次郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎、入江たか子らも活躍し、大正期は時代劇の名門映画会社だったが、昭和初期より業績が下降し、経営権を巡る争奪戦が勃発。東宝
、横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会の国産映画会社4商社が合併して創立した。尾上松之助主演の映画でその名を知られる。大河内傳次郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎、入江たか子らも活躍し、大正期は時代劇の名門映画会社だったが、昭和初期より業績が下降し、経営権を巡る争奪戦が勃発。東宝
監督渡辺邦男、原作逓信省簡易保険局、脚本鈴木紀子、撮影碧川道夫、主演山本嘉一直八子供旅 監督・脚本稲垣浩、原作長谷川伸、撮影石本秀雄、主演片岡千恵蔵 ※片岡千恵蔵プロダクション、トーキー三家庭 監督・脚本熊谷久虎、原作菊池寛、撮影永塚一栄、共演杉狂児 ※日活多摩川撮影所1935
さらい・ヤクの売人・宇宙猿人・ガッツ石松等が揃った九度山はさながらDQNの溜まり場である。真田安房守昌幸(さなだ あわのかみ まさゆき)演:片岡千恵蔵「よせばいいのに石田三成とかいうバカに味方した真田昌幸とかいうバカ」(穴山小助・談)家康に二度も煮え湯を飲ませた稀代の名将。関ヶ原
A. 片岡千恵蔵は、日本の映画俳優です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B2%A1%E5%8D%83%E6%81%B5%E8%94%B5
た形見。大菩薩峠の映画[]大河内傳次郎主演、稲垣浩監督大菩薩峠第一篇甲源一刀流の巻(1935年)大菩薩峠鈴鹿山の巻壬生島原の巻(1936年)片岡千恵蔵主演、渡辺邦男監督大菩薩峠 甲源一刀流(1953年)大菩薩峠 第二部(1953年)大菩薩峠 第三部(1953年)片岡千恵蔵主演、内
長女)を母とし、その長男として東京府東京市に生まれる。1923年、「小笠原明峰」を名乗り、23歳にして京都で「小笠原プロダクション」を設立。片岡千恵蔵(当時本名の植木進)らが専属となった。当時華族と映画界のかかわりは深く、同社には古川ロッパ(男爵加藤照麿の六男)も専属となっていた
月25日、浅草「大東京」で公開された。1928年(昭和3年)、月形龍之介と直木三十五によるツキガタ・プロダクション、1929年(昭和4年)、片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションでそれぞれ監督作を発表、年末に松竹下加茂撮影所に入社する。第二次世界大戦中も製作本数が減るなか撮りつづけ
『十三人の刺客』(じゅうさんにんのしかく)は東映京都撮影所製作、工藤栄一監督、片岡千恵蔵主演により、昭和38年(1963年)12月7日に封切られた日本映画の時代劇である。実録タッチの作風による集団抗争時代劇として有名。約30分に及ぶクライマックスの13人対53騎の殺陣シーンは、時
記 昭和時代3 関連事項4 註5 外部リンク概要[]マキノ・ジュニアの苦難と明るさ[]本作が製作される2年前、1928年(昭和3年)の4月、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎ら若手スターを中心とした俳優50数名が総退社する事件が起きた(日本映画プロダクション連盟の項を参照)が、その苦境を『浪人
5日)は、京都府生まれの映画監督、映画プロデューサー、実業家である。日本最初の職業的映画監督であり、「日本映画の父」と称される。阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介といった多くのスター俳優、マキノ正博、衣笠貞之助、二川文太郎、井上金太郎、内田吐夢といった俳優出身のスター監
が「国産初のトーキー映画」とされる『マダムと女房』(監督五所平之助)を発表、翌1932年(昭和7年)から松竹、日活、月形陽候プロダクション、片岡千恵蔵プロダクション、新興キネマ、新映画社、音映の各社が数本ずつのオール・トーキー、サイレント映画にトーキー部分を織り込んだパート・トー
ん映像化リスト[]映画[]赤穂浪士 第一篇 堀田隼人之巻(1929年、日活、監督:志波西果、主演:大河内伝次郎)堀田隼人(1933年、主演:片岡千恵蔵)赤穂浪士 天の巻・地の巻(1956年、東映、監督:松田定次、主演:市川右太衛門)赤穂浪士 前編・後編(1961年、東映、監督:松
続清水港監督マキノ正博脚本小国英雄出演者片岡千恵蔵、轟夕起子、志村喬音楽大久保徳二郎主題歌続清水港撮影石本秀雄編集宮本信夫配給日活公開1940年続清水港(ぞくしみずみなと)は1940年の映画。日活製作。戦後改題短縮されて『清水港代参夢道中』というタイトルで再公開された。長門裕之の
30周年を迎えたことを記念して製作されたアンソロジー映画である[1]。映画の引用のほか、柄本明とベンガルがナレーションによって解説し[2]、片岡千恵蔵、市川右太衛門、萬屋錦之介、大川橋蔵が実際に登場し、引用された作品の撮影当時を回想するドキュメンタリー映画でもある[1]。第二次世
監督二川文太郎、原作三上於菟吉、脚本藤井滋司、主演林長二郎 - お磯1935年『京洛浅春譜 同志闘争篇』 : 監督・原作・脚本西原孝、主演片岡千恵蔵、片岡千恵蔵プロダクション - 娘萩江P.C.L.映画製作所[]1935年『いたづら小僧』 : 監督・脚本山本嘉次郎、原作佐々木邦
るために「そんな了見だから昇太さん、あんたんとこには嫁が来ない」と少し変えたネタにし、座布団を取られていた。他にも、大河内伝次郎や嵐寛寿郎、片岡千恵蔵といった時代劇の名役者の真似をするが、如何せん随分前に鬼籍に入った人たちだらけなので似てるかどうかさえ分からない。さらには田中角栄
二、上田吉二郎※トーキー獄門島 企画・製作マキノ光雄、監督松田定次、監督助手萩原遼・宮城文夫、原作横溝正史、脚本比佐芳武、撮影伊藤武夫、主演片岡千恵蔵 ※監督助手陰獣をめぐる七人の女1951年主演原健作、上田吉二郎関連事項[]マキノ・プロダクション (牧野省三)市川右太衛門プロダ
アン・ルイスキャロライン洋子ジュディ・オング渥美清大谷直子前田吟高峰三枝子山内久司佐々木守中山千夏河原崎長一郎浜田光夫林隆三佐々木剛沢田雅美片岡千恵蔵秋野太作范文雀池内淳子倍賞美津子新藤恵美天地真理野村将希緒形拳山口崇あおい輝彦京塚昌子三木のり平朝丘雪路児島美ゆき山本陽子淡島千景
昭和10年)、マキノトーキー製作所を設立した。同社では全作、正博が録音技師として責任を持った。この間、日活に所属していたスター、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、月形龍之介らの主演作を休む暇もなくスピーディに撮りつづけ、『鴛鴦道中』を28時間で撮り上げるという超人的な離れ業もやってのけた。
五郎(いわしたさごろう)…私立探偵映像化リスト[]映画[]『三つ首塔』(1956年4月25日・東映、監督:小林恒夫・小沢茂弘)出演/金田一:片岡千恵蔵、宮本音禰:中原ひとみ、佐竹建彦:三条雅也、佐竹由香利:日野明子、上杉欣吉:宇佐美諄、品子:松浦築枝、黒川誠一郎:小沢栄、堀井敬三
て全国公開された。同日封切られたのは、東宝が、渡辺邦男監督、上原謙主演の『愛の宣書』、大映(現在の角川映画)が、マキノの義兄・松田定次監督、片岡千恵蔵主演の『七つの顔』であった[1]。当時マキノの妻であった轟夕起子は、松田の『七つの顔』にも出演している[2]。本作の上映用プリント
た[1]。マキノ家[]テンプレート:Mainフィルモグラフィ[]助監督続清水港 1940年 監督マキノ正博、脚本小国英雄、撮影石本秀雄、主演片岡千恵蔵 ※日活京都撮影所監督愛憎乱麻1941年原作下村悦夫、脚本数寄屋五兵衛、主演近衛十四郎※大都映画海賊旗吹っ飛ぶ1943年監督・脚本
黒川に代り比嘉良篤が社長に就任。同年10月1日、映画配給会社「東京映画配給」を設立、従来の大映から配給を移管。移管後の第1作は松田定次監督、片岡千恵蔵主演による『獄門島』で、同年11月20日から公開された。同年12月、比嘉に代り鈴木幸七が社長に就任した。1951年(昭和26年)4
ラを演じ分けている。意外なところだとカセットブック*2で金田一耕助役で出演したこともあるが、えらく凛々しい金田一耕助になっている。もしかして片岡千恵蔵が主演していた昭和20-30年代初頭の映画版のイメージか…?なお毛利小五郎の声については神谷自身が「こんな声の30代はいない*3」
る[1]。同様に松竹キネマも松竹蒲田撮影所を閉鎖し、松竹下加茂撮影所を開所[4]、同商店に小道具を発注した[1]。1928年(昭和3年)には片岡千恵蔵プロダクション、嵐寛寿郎プロダクションを初めとしてスタープロダクションの設立が広がり、さらに受注先が増えた[1]。1931年(昭和
係者の努力により、『長恨』、『忠治旅日記』、『斬人斬馬剣』の一部が発見されるなど、再評価が進んでいる。その後、嵐寛寿郎を主役に『鞍馬天狗』、片岡千恵蔵の『宮本武蔵・二刀流開眼』などを撮り、スターを育て上げると同時に、時代劇人気を支えた。しかし、元々極めて奔放な性格で映画会社とトラ
設立した[1]。小説家の川口松太郎、映画監督の伊藤大輔、溝口健二、犬塚稔、女優の山田五十鈴、原駒子らが同社に参加[1]、同社は、嵯峨野にある片岡千恵蔵プロダクションのステージをレンタルし、伊藤監督による同社設立第1作『建設の人々』を撮影した[1]。同撮影所は、同年9月21日の室戸