新百人一首(徳川光圀撰) - いにしえwiki
める心の たのしみや まづさきだちて 夢に見ゆらん (板津不守一)011.散らばまた 花にうつらん 恨みまで かずある月に 思ひ侘びぬる (権大納言政為)012.立ちならぶ かひこそなけれ 桜ばな 松に千とせの 色はならはで (僧正信玄)013.あはずはと 思ひながらも 片糸の
める心の たのしみや まづさきだちて 夢に見ゆらん (板津不守一)011.散らばまた 花にうつらん 恨みまで かずある月に 思ひ侘びぬる (権大納言政為)012.立ちならぶ かひこそなけれ 桜ばな 松に千とせの 色はならはで (僧正信玄)013.あはずはと 思ひながらも 片糸の
はあせなん 世なりとも 君に弐心 われあらめやも (鎌倉右大臣実朝)047.神垣や 三室のさか木 ゆふかけて 祈る八千代も たゞ君のため (権大納言実雄)048.我君を 松の千年と いのるかな 代々につもりの 神のみやつこ (津守国平)049.足乳根の 在ていめしさ 言の葉は な
里を 見果てぬ夢の 面影に 涙かたしく 小夜の中山 (参議源忠興入道)013.五月雨に 軒漏る雫 聞きなれて なか/\をやむ 隙ぞ淋しき (権大納言源頼宣卿)014.幾日数 木曽の山路の 旅衣 夢は寝覚めの とこの松風 (権大納言源光友卿)015.行き/\て 峯越す程は 山もなし
集(宇都宮景綱)隣女集(飛鳥井雅有)為信集(藤原為信)三位中将公衡集(西園寺公衡)権中納言実材卿母集拾藻鈔(法印公順)実兼公集(西園寺実兼)権大納言俊光集(藤原俊光)為兼卿集(京極為兼)為兼卿遠所詠歌為兼卿家集(北川真顔)権大納言典侍集(従二位為子)徽安門院一条百首前参議為冬卿集
土と 別にし そのいにしへも 袖そしるらむ (勝定院贈太政大臣義持)084.霜むすふ 野原の浅茅 うらかれて 虫のねよはる 秋かせそふく (権大納言源義嗣)085.郭公 まつよひ過て 難面は 明るくも井に 一こゑも哉 (源頼元朝臣)086.聞き馴し 木葉の音は それなから 時雨に
は土と 別れにし 其の古へは 神も知るらむ (勝定院贈太政大臣源義持)084.霜むすぶ 野原の浅茅 うらがれて 虫の音よわる 秋風ぞ吹く (権大納言源義嗣)085.ほととぎす 待つ宵すぎて つれなくは 明くる雲井に 一声もがな (源頼元朝臣)086.聞きなれし 木の葉の音は それ
めの ふるまゝに いろ/\になる すゝか山かな (摂政家三河)062.言とへと こたえぬ月の すみた川 都の友と 見るかひもなし (後二条院権大納言典侍)063.波こさは いかにせむとか たのめけむ つらきなからの 末の松山 (後嵯峨院大納言典侍)064.いかにせん 立つ名はかり
式部続集和歌部 449 馬内侍集和歌部 449 源重之女集和歌部 449 殷富門院大輔集和歌部 449 後堀河院民部卿典侍集和歌部 449 権大納言典侍集和歌部 454 後撰集正義和歌部 455 難後拾遺抄和歌部 456 古今打聞(秘蔵抄)和歌部 456 新撰髄脳和歌部 457
大樹のもとに 這ひなびかなむ*35 (平篤胤)=平田篤胤036.わが君の 御代なが月の 秋毎に くみこそつきね 菊のさかづき*36 (三条権大納言)=三条実万037.さきがけて 散りなむものは 武士の 道ににほへる 花にぞありける*37 (源斉昭)=徳川斉昭038.すなほなる
日(ユリウス暦1207年3月9日*12)十日(ユリウス暦1207年3月10日*13)任大臣節会。右大臣隆忠を左大臣に、内大臣忠経を右大臣に、権大納言藤原道経を内大臣に任ず。是日、道経、大饗を行ふ。*14十一日(ユリウス暦1207年3月11日*15)水無瀬蓮華寿院修二月会。*16幕
A. 鎌倉時代の公卿で、正二位権大納言、正親町三条家の祖。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E8%BA%AC
臣秀忠左中辨藤原朝臣總光傳宣權中納言藤原朝臣光豐宣奉 勅件人宜爲征夷大將軍者慶長十年四月十六日中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉(訓読文)権大納言源朝臣秀忠(徳川秀忠)左中弁藤原朝臣総光(広橋総光、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)り権中納言藤原朝臣光豊(勧修寺光豊、従三位・武
A. 鎌倉時代中期の公卿で、権大納言、右近衛大将、参議を歴任した人物です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E5%AE%A3
A. 藤原氏の一派で、藤原道長の六男・権大納言 藤原長家を祖とする。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%AD%90%E5%B7%A6%E5%AE%B6
A. 柳原資明は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿であり、鎌倉時代後期に権大納言、後に右大臣に昇進しました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E8%B3%87%E6%98%8E
。天皇すら凌ぐ権勢は「帝王の如し」とまで畏れられた。【日本史上最も幸運な男】後の摂政・藤原兼家の五男として誕生。父の引き立てで26歳の若さで権大納言(大臣に次ぐ地位)に昇進したものの、道隆・道兼ら兄の陰に隠れて目立たない存在だった。……だが、道長30歳のとき。歴史は大きく動き出す
年小笠原家が改易の危機に陥る度に「父祖の勲功」として救われる一因となった*20 小田原戦前の官位は正二位内大臣で秀吉の弟・秀長や家康(従二位権大納言)より上*21 この時は越前国大野郡に5万石を領していた息子秀雄の後見に復帰しただけで、大名として復帰するのはもう少し後という説もあ
石、原長頼は2万石を与えられた。また信長は「越前国掟」を作っている。こうして、柴田勝家を総司令官とする北陸軍団が誕生した。11月4日に信長は権大納言に任じられ、さらに7日には征夷大将軍に匹敵する官職で、武家では武門の棟梁のみに許される右近衛大将を兼任する。第三次包囲網しかし、毛利
駿河徳川家にも幕府から附家老が配置されたが、御三家附家老並の立場にあったのは朝倉宣正と鳥居成次の2名であった。徳川秀忠の治世下において従二位権大納言は尾張家義直(61万9,500石、慶長5年生まれ)、紀州家頼宣(55万5,000石、慶長7年生まれ)、駿河家忠長(55万石、慶長11
、朝廷内の尊王論者の若い公卿が幕府によって大量に処罰された。宝暦12年(1762年)、22歳で崩御。系譜[編集]桜町天皇の第一皇子で、生母は権大納言姉小路実武の娘で典侍の藤原定子(開明門院)。父の嫡妻、二条舎子(青綺門院)の「実子」としてその御所で育てられた。女御:一条富子(恭礼
二条為重 240 亜槐集 あかいしゅう 飛鳥井雅親 241 為和卿集 ためかずきょうしゅう 冷泉為和 241 権大納言言継卿集 ごんだいなごんときつぐきょうしゅう 山科言継 242 明日香井和歌集 あすかいわかしゅう 飛鳥井雅経