「松平家」を含むwiki一覧 - 1ページ

水戸氏 - 日本通信百科事典

、あるいは越前水戸氏とも呼ばれる。藤原北家秀郷流那珂氏一門の常陸江戸氏の直系。江戸重通の子の水戸宣通[2]を祖とする。江戸時代に越前国の福井松平家[3]の家老として仕えたが、曾孫の朝兼の代で嗣子がなく断絶した。同族に常陸平沢氏(常陸平澤氏)・戸村氏・常陸石田氏・鰐淵氏(鰐渕氏)・

松平家忠 - 日本通信百科事典

松平 家忠(まつだいら いえただ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約3名ほど存在する。松平家忠 (深溝松平家) : 深溝松平家の当主の松平伊忠(これただ)の子、忠勝・伊長(これなが)・玄成(はるなり)・末意(まつおき)の兄、忠利・忠貞・忠和・忠重・忠隆の父。著書に

松平信重 - 日本通信百科事典

(栄金入道)[2]・光英(光央入道)・元芳[3](忠景/正則)・光親[4]・家勝・親則[5]の末弟、戸田宗光室の兄。同母兄の親則とともに長沢松平家(長澤松平家)と称するが、彼の記録は皆無に等しく、その末裔の有無は不詳である。松平信重 (長沢松平家) : 上記の松平親則の曾孫、親益

河井継之助 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

うで、周囲の人物に後図を託したり、外山修造に「これからは武士ではなく商人を目指せ」とアドバイスしたりしている*2。その後、河井は亡命先の会津松平家領塩沢村で、傷口が悪化して慶応4年(1868)8月16日に没した。辞世の句は「八十里 腰抜け武士の 越す峠」*3戒名は忠良院殿賢道義了

松平正親 - 日本通信百科事典

松平 正親(まつだいら まさちか)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の武将。約4名ほど存在する。松平正親 (長沢松平家) : 法号は正周入道。長沢松平家の当主の松平宗忠[1]の曾孫、親宅(ちかいえ)の孫、親正の子、親茂[2]の弟、正勝の父。松平正親 (深溝松平家) : 深溝

松平與嗣 - 日本通信百科事典

形原松平家の家祖・松平與嗣(中央)松平 與嗣(まつだいら ともつぐ、生没年不詳)は、日本の室町時代後期~戦国時代初期の武将。通称は庄太郎/又七郎/彦太郎。法号は与副入道。文献によっては興嗣(おきつぐ)と表記されるが、誤りである。形原松平家の祖。『寛永諸家系図伝』および『寛政重諸家

松平家勝 - 日本通信百科事典

松平家勝の肖像、右側は正室松平 家勝(まつだいら いえかつ、生没年不詳)は、室町時代後期~戦国時代初期の武将。通称は源八郎。官職は美作守。松平信光の子[1]、親直(昌龍斎)・守家(全長/全祐)[2]・親忠・與嗣(与嗣)・光重(栄金入道)[3]・光英(光央入道)・元芳[4](忠景/

松平忠勝 - 日本通信百科事典

松平 忠勝(まつだいら ただかつ)とは、松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約5名ほど存在する。松平忠勝 (丸根松平家) : 松平信光の曾孫、家勝の孫、忠次の子。三河国賀茂郡丸根郷[1]の丸根松平家の当主で、父同様に大学頭と称した。後裔に康元(乗信)・康定[2]父子がいるという

常陸源氏 - 日本通信百科事典

れる場合がある。上記の世良田氏(義光流世良田氏)流の徳川家康の子の頼房を祖とする徳川氏(松平氏)の徳川御三家のひとつ。庶家に松戸徳川家・高松松平家[3]・府中松平家・宍戸松平家。守山松平家・由良松平家[4]・越智松平家[5]があった。江戸幕府の第15代目の将軍の徳川慶喜(のりのぶ

松平忠明 - 日本通信百科事典

三河源氏)一門および、松平姓を与えられた人物。約6名ほど存在する。松平忠明 (松平奥平家) : 加納藩初代藩主・奥平信昌(貞昌)の子、家昌・松平家治・松平忠政の弟、忠弘・清道・牟利(僧侶)の父。生母は徳川家康の長女・加納御前(於亀の方/亀姫)。松平奥平家(忠明流)の祖となった。松

松平元芳 - 日本通信百科事典

2]・光英(光央入道)の弟、光親[3]・家勝・親則[4]・信重・戸田宗光室らの兄、元心(もとむね/もときよ/もとさね/もとなか)・忠定(深溝松平家の祖)・宮重十左衛門室の父。概要[]三河国宝飯郡御油郷[5]を拠点として、御油松平家の祖となった。彼の後裔は、代々が松平氏惣領家(安祥

松平家次 - 日本通信百科事典

松平 家次(まつだいら らいえつぐ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平家忠 (東条松平家) : 別名は家次。東条松平家(東條松平家)の祖である松平義春の孫、忠茂(甚太郎)[1]の子。松平広忠(家康の父)の又従弟でもある。嗣子がなく、族子でもあ

改易 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

由:1(無嗣廃絶)処分:所領没収(後に異母弟徳川義直に与えられる)徳川家康の四男。徳川秀忠の同母弟に当たる。生まれてすぐに親戚筋に当たる東条松平家の養子となる。その後関ヶ原の戦いでは舅に当たる井伊直政に付き従い初陣を飾るが、運悪く島津義弘らの決死の退却に遭遇し負傷してしまう。その

松平信次 - 日本通信百科事典

松平 信次(まつだいら のぶつぐ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を賜った人物。約2名ほど存在する。松平信次 (長沢松平家) : 松平信光の6世の孫、親則[1]の玄孫、親益の曾孫、親清の孫、信重[2]の子、長次の兄、信宗・信則(甚五兵衛)の父。松平信次 (御

松平忠重 - 日本通信百科事典

松平 忠重(まつだいら ただしげ)とは、松平氏(徳川氏)一門で、約3名ほど存在する。小栗忠重 : 松平庶宗家(挙母松平家)の当主の松平親長の孫、小栗忠吉(ただきち)[1]の子、吉忠(とみただ)の弟。松平忠重 (深溝松平家) : 御油松平家一門の深溝松平家の当主の松平家忠の子[2]

交代寄合 - なんでもある Wiki

に将軍と拝謁した。太字は維新立藩により大名として認められた家。家領地伺候席備考菅沼家三河設楽郡新城領7,000石帝鑑間詰元丹波亀山藩藩主竹谷松平家三河宝飯郡西郡領4,500石帝鑑間詰元吉田藩藩主榊原家駿河有度郡久能領1,800石帝鑑間詰久能山東照宮門番 家督時に五位諸大夫任官 榊

松平親正_(大給松平家) - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、大給松平家一門について記述しています。その他の三河松平氏一門については「松平親正」をご覧ください。松平親正の肖像松平 親正(まつだいら ちかまさ、天文15年(1546年) - 慶長5年8月1日(1600年9月8日))は、戦国時代末期の武将。通称は五左衛門。

松平康定 - 日本通信百科事典

平 康定(まつだいら やすさだ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門、および松平姓を与えられた人物。約4名ほど存在する。松平康定 (深溝松平家) : 深溝松平家の祖の松平忠定の子、好景(すみかげ/たかかげ)・定正・定清の弟、好之(すみゆき/たかゆき)・景行・正親の兄。松平康定

松平家広 - 日本通信百科事典

松平 家広(まつだいら いえひろ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平家広 (形原松平家) : 形原松平家の当主の松平親忠の子、家忠・家正(左近)の父。松平家広 (桜井松平家) : 桜井松平家の当主の松平忠正の子。嗣子がなく、従弟で異父弟でもあ

松平忠次 - 日本通信百科事典

平 忠次(まつだいら ただつぐ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を与えられた人物。約5名ほど存在する。松平忠次 (丸根松平家) : 松平信光の孫、家勝の子、忠勝の父。三河国賀茂郡丸根郷[1]の丸根松平家の当主で、大学頭と称した。松平長親 : 別名は忠次/長忠

松平家久_(牧内松平家) - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、牧内松平氏の祖について記述しています。族祖父にあたる出雲守については「松平家久」をご覧ください。松平家久(張忠)の肖像松平 家久(まつだいら いえひさ、生没年不詳)は、室町時代後期から戦国時代初期の武将。通称は助十郎、別名は張忠(ひらただ)、官職は右京亮。

松平親貞 - 日本通信百科事典

松平 親貞(まつだいら ちかさだ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約4名ほど存在する。松平親貞 (大草松平家) : 大草松平家の祖の松平光重の子、信貞(正安)[1]・貞光の兄。生母は三河国の山中城主の碓井姓鎌倉氏流相模長江氏の系統の美濃長屋氏の庶家の三河西郷氏一門

松平親忠 - 日本通信百科事典

]らの父。生母は源姓一色氏(三河源氏)の娘で、その嫡子である。1501年9月21日(文亀元年8月10日)に72歳で逝去した。松平親忠 (形原松平家) : 通称は弥太郎。形原松平家の当主。上記の松平與嗣の孫、貞嗣の子、忠治の兄、家広の父、家忠・家正(左近)の祖父。惣領家の松平清康が

松平親正 - 日本通信百科事典

松平 親正(まつだいら ちかまさ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。松平親正 (長沢松平家) : 通称は清左衛門/市右衛門、法名は浄入入道。長沢松平家の当主の松平宗忠[1]の孫、親宅(ちかいえ)の子、親茂[2]・正親(正周入道)の父。松平親正 (

松平重信 - 日本通信百科事典

松平 重信(まつだいら しげのぶ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平重信 (滝脇松平家) : 滝脇松平家の当主の松平正勝[1]の子。嗣子がなく、族子である形原松平家の当主の松平典信の子の信孝を婿養子に迎えた。松平重信 (形原松平家) : 形原

松平親長 - 日本通信百科事典

親長(まつだいら ちかなが)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門およし、松平姓を与えられた人物で、約3名ほど存在する。松平親長 (岩津松平家) : 松平氏惣領家の当主の松平親忠の次子、乗元の弟、超誉存牛(僧侶)・長親(忠次/長忠)・親房(宗安入道)・家久(張忠)[1]・親光

徳川家康(戦国武将) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

清康死後にお互いの連れ子同士が結婚して子供が出来る行為をした結果生まれたと言う現代人の法律でもギリギリセーフだが、かなり破天荒な出生である。松平家は今川の庇護下にあったが、まだ2歳の時に、母・於大の方の実家である水野家が織田家と同盟した為に、広忠はやむなく於大を離縁し、竹千代は母

三河国 - なんでもある Wiki

郷。江戸時代の藩[編集]三河国には大藩はなく、旗本領、寺社領、幕府直轄領(天領)も多かった。三河国の藩の一覧藩名居城藩主三河吉田藩吉田城竹谷松平家:3万石、1601年 - 1612年(無嗣断絶)深溝松平家:3万石、1612年 - 1632年(三河刈谷藩3万石に移封)水野忠清:4万

松平親次 - 日本通信百科事典

松平 親次(まつだいら ちかつぐ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約3名ほど存在する。松平親次 (大給松平家) : 松平信光の6世の孫、親忠の玄孫、大給松平家の祖の乗元の曾孫、親清[1]の孫、親正の子、和生(かずなり)[2]の弟、正吉(まさとみ)の兄。松平親次 (

松平忠正 - 日本通信百科事典

平 忠正(まつだいら ただまさ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門および、松平姓を与えられた人物。約4名ほど存在する。松平忠正 (桜井松平家) : 通称は与一郎、法号は道春入道。桜井松平家の当主の松平家次の子、忠吉(ただとみ)の兄、家広の父。松平忠正 (三木松平家) : 三

松平正忠 - 日本通信百科事典

松平 正忠(まつだいら まさただ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平正忠 (麻生松平家) : 松平長親(忠次/長忠)の玄孫、滝脇松平家の祖の乗清の曾孫、麻生松平家[1]の祖の親正の孫、清房の子。嗣子がなく、宗家から族孫の正勝[2]を婿養子に迎

松平忠吉 - 日本通信百科事典

松平 忠吉(まつだいら ただとみ)とは、松平氏(徳川氏)一門の人物で、約4名ほど存在する。小栗忠吉 : 岩津松平家の当主の松平親長の孫、忠勝の子、親足(ちかたり)の弟、吉忠(とみただ)・忠重の父。常陸国から三河国に逃れた桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸源氏)一門の小栗氏(常陸小栗氏)の

松平家久 - 日本通信百科事典

松平 家久(まつだいら いえひさ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。松平家久 (出雲守) : 世良田有親の孫、松平泰親(政親/義英/益氏)の子、益親[1]・守久の弟、家弘・久親[2]・教念(僧侶)の兄。下記の家久(張忠)は、族孫にあたる。松平家久

松平忠清 - 日本通信百科事典

松平 忠清(まつだいら ただきよ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約3名ほど存在する。松平忠清 (三木松平家) : 三木松平家の祖の松平信孝(徳川家康の大叔父)の孫、重忠の子、忠利[1]の兄。松平忠清 (竹谷松平家) : 竹谷松平家の当主の松平家清の子、清正の兄。

松平氏 - 日本通信百科事典

進出して、本姓の世良田氏をそのままにして、「松元から、三河国全域を平定する松平と改称する!」と称して、「松平氏」と改姓した[7]。庶家に挙母松平家(庶宗家)・三河小栗氏(小栗松平家)・内藤松平家・清和松平家(せかひまつだいらけ)[8]などがある。脚注[]↑依上宗義を祖とする。↑藤

内藤信成 - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、内藤松平家の祖について記述しています。その他の松平氏一門については「松平信成」をご覧ください。家康の異母弟・信成像内藤 信成(ないとう のぶなり、天文14年5月5日(1545年6月13日) - 慶長17年7月24日(1612年8月20日))は、日本の室町時

松平信吉 - 日本通信百科事典

松平 信吉(まつだいら のぶとみ)とは、松平氏(徳川氏)一門の人物で、約3名ほど存在する。松平信吉 (挙母松平家) : 官職は隼人佐。挙母松平家の祖の松平広親(信広)の曾孫、長勝の孫、勝茂の子、信茂の弟、勝吉(かつとみ、伝十郎)・親長・重正・親信の父。今川義元[1]の旗下で、族孫

松平信光 - 日本通信百科事典

]・光英(光央入道)・元芳[4](忠景/正則)・光親[5]・家勝・親則[6]・信重・戸田宗光室らの父。内藤信光 : 上記の信光の後裔で、内藤松平家一門の内藤信広の子、松平乗真・信雪・信直、信通の兄、弌信・信清・信之の父。岡田信光 : 旧華族の上野吉井氏(松平上杉家)の当主の吉井信

征夷大将軍(江戸幕府) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

だが。それでも室町時代の「応仁の乱」クラスの争いが起こらなかっただけ、十分平和であったと思う。余談だが、徳川宗家現当主である徳川恒孝氏は会津松平家の分家出身(ただし、血筋は水戸系)のため江戸期の継承ルールに従えば、宗家の継承権は無い。最高権力者である徳川家の将軍の「諱の漢字」は「

松平親清 - 日本通信百科事典

まつだいら ちかきよ)とは、日本の戦国時代から江戸時代にかけての松平氏(徳川氏/三河源氏)の一族の人物。約2名ほど存在する。松平親清 (長沢松平家) : 松平信光の曾孫、長沢松平家の祖の親則の孫、親益の子、親宗の兄、勝宗・信重[1]の父、和忠・宗忠兄弟(勝宗の子)と信次・長次兄弟

松平清成 - 日本通信百科事典

は右京大夫・右京進。別名は忠政・正直。年少の族父でもある三河松平氏(三河源氏)の惣領家の松平清康から偏諱を与えられて「清成」と名乗った。大給松平家の当主の松平乗勝(1482年 - 1541年)の子、親乗(1514年 - 1577年)の弟、長姉の於久の方(妙淋院)は、族弟の松平広忠

松平信和 - 日本通信百科事典

松平 信和(まつだいら のぶかず)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約3名ほど存在する。松平信和 (藤井松平家) : 通称は勘四郎、法号は信壱入道。松平長親(忠次/長忠)の孫、利長の子、久清の父。嗣子の久清が父に先立ったために、桜井松平家から久清の族孫の信吉(のぶと

松平親良 - 日本通信百科事典

親良(まつだいら ちかなが)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)流の人物および、松平姓を与えられた人物。約3名ほど存在する。松平親良 (長沢松平家) : 官職は兵庫介。長沢松平家の当主の松平正忠[1]の子、康忠[2]の弟。惣領家の徳川家康の族子で、従弟(松平広忠(家康の父)の妹を

松平長頼 - 日本通信百科事典

松平 長頼(まつだいら ながより)とは、松平氏(徳川氏)一門の武将。約2名ほど存在する。松平長頼 (永見松平家) : 福井松平家の福井藩主の松平忠直[1]の子、光長の弟、長良(ながなが)の兄。綱国の父、国親(安藤国近)の祖父、親倫(安藤近倫)の曾祖父。永見松平家(安藤松平家)の祖

新田光重 - 日本通信百科事典

三河国の山中城主の碓井姓鎌倉氏流相模長江氏の系統の美濃長屋氏の庶家の三河西郷氏一門の西郷稠頼(つぐより/ちかより、清海入道)[6]の娘。大草松平家の祖となった。大舘光重 : 大舘氏の当主の大舘尚氏(重信/常興入道)[7]の子、高信(視綱[8])[9]・晴光[10]・藤安の兄、元重

松平正勝 - 日本通信百科事典

松平 正勝(まつだいら まさかつ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)一門の人物。約2名ほど存在する。松平正勝 (長沢松平家) : 長沢松平家の当主の松平宗忠[1]の玄孫、親宅(ちかいえ)の曾孫、親正の孫、正親[2]の子、正尹(まさただ)・正次の父、正員(正尹の子)の祖父、正木(

松平信光_(惣領家) - 日本通信百科事典

平由緒書』より。『朝野旧聞裒藁』では、叔父の泰親の子とする。↑ 足利氏一門の源姓一色氏(三河源氏)の当主。↑ 守親・秀信(弥七郎)の父。竹谷松平家の祖。↑大草松平家の祖。↑ 読みはもとふさ/もとみち。↑ 重親の父、重吉(しげとみ)の祖父。能見松平家の祖。↑ 親益の父、親清・親宗の

松平正直 - 日本通信百科事典

まさなお)とは、日本の戦国時代から江戸時代にかけての松平氏一族の人物。約2名ほど存在する。松平清成 : 別名は忠政・正直、通称は勘六郎。桑谷松平家の祖という。大給松平家の松平乗勝の子、親乗の弟。当時40歳前後だった長姉の於久の方(妙林院)が惣領家の松平広忠の側室になったため、内藤

尾張源氏 - 日本通信百科事典

政綱を輩出した。名古屋徳川家 : 源姓名古屋氏と呼ばれる場合もある。徳川家康の子の義直(義知/義利/義俊)を祖とする徳川氏の親藩。庶家に高須松平家(四谷松平家)・梁川松平家(大久保松平家)・川田久保松平家などがあった。この系統から江戸幕府の徳川将軍家(武蔵源氏)を輩出することはな

松平清吉 - 日本通信百科事典

松平 清吉(まつだいら きよとみ)とは、三河松平氏(徳川氏/三河源氏)の一門の人物。約2名ほど存在する。松平清吉 (竹谷松平家) : 竹谷松平家の当主の松平家清の孫、清正[1]の子、清雄・清勝・清直の弟、浅野長賢の兄。松平清吉 (鵜殿松平家) : 鵜殿松平家の祖の松平康孝(徳川家