享徳二年晴之御鞠記 - いにしえwiki
かとりの御なをしさしぬき。じうとくのすがたにいでたち給へり。むしやの小路の前內大臣〔公保〕もおなじなをしにしろきあやのさしぬきをぞき給へる。式部卿のみこ〔貞常〕今日の御まりにまいらせ給。まづ北の方より出させたまふて座につき給へり。ちかき世には親王などのさぶらはせ給ふこともたえにた
かとりの御なをしさしぬき。じうとくのすがたにいでたち給へり。むしやの小路の前內大臣〔公保〕もおなじなをしにしろきあやのさしぬきをぞき給へる。式部卿のみこ〔貞常〕今日の御まりにまいらせ給。まづ北の方より出させたまふて座につき給へり。ちかき世には親王などのさぶらはせ給ふこともたえにた
編集]幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受ける。843年(承和10年)、父仁明天皇の御前で元服して親王となり、四品に叙せられる。以後、中務卿、式部卿、相撲司別当、大宰帥、常陸太守、上野太守と、親王が就任する慣例となっている官職のほぼすべてを歴任し、 882年(元慶6年)、一品に叙せ
どやまの さねかづら さねずはつひに ありとみましや (大織冠)004.山しろの いは田のをのゝ はゝそ原 みつつやきみが 山路こゆらむ (式部卿宇合)005.谷風に とくるこほりの ひまごとに うちいづる浪や はるのはつ花 (源當純)006.あきかぜに こゑをほにあげて くる舟
各話タイトル草木第廿九646.草木有枯花有開落天地萬物無所遁於衰變無常事647.延喜十三年十月新菊花合事648.貞信公忠平愛棗自移植式部卿親王家棗木事649.天曆七年十月殿上殘菊競合事650.南殿櫻者,自式部卿重明親王家所移植後,數度燒亡事651.康保三年八月于清涼
空にことわる 中ならば なほざり事を まづやたゞさん (秋好中宮)036.蔭ひろみ たのみし松や 枯にけん 下葉ちりゆく 年のくれかな (式部卿宮)037.としくれて 岩井の水も 氷とぢ 見し人かげの あせもゆくかな (王命婦)038.人目なく あれたるやどは 橘の 花こそのき
乗谷曲水宴詩歌和歌部 422 畠山匠作亭詩歌和歌部 423 後鳥羽院御集和歌部 424 順徳院御集和歌部 425 光厳院御集和歌部 425 式部卿邦高親王御集和歌部 426 等持院贈左府御集和歌部 427 慈照院准后御集和歌部 428 後福照院殿御詠草和歌部 428 後妙華寺殿御
儲けたという[3]。目次1 概要2 子3 脚注4 関連項目概要[]左侍従・弾正尹を歴任して、930年12月14日(延長8年11月22日) に式部卿となり、三品に昇進した。958年6月12日(天徳2年5月23日)に没した。齢62あるいは64または68という。子[]源満仲(満明/満名
てに重病を得て死去。『源氏物語』の正編はこの人の追憶のうちに過す光源氏の姿を描くところで終る。大辞泉を引用すると、源氏物語の女主人公の一人。式部卿宮の娘。藤壺の姪。光源氏に理想の女性として育てられ、葵の上の没後、正妻となる。源氏在世中に病死。この藤壺という女性は、源氏の女性関係の
ため、将軍といえども名目となっていた。そのため、就任は10歳前半までに行ない、長じても20歳代までに将軍職を辞任して京都に戻されて、中務卿・式部卿などに任ぜられることが通例であった。ただし、最後の将軍であった守邦王は幕府滅亡のためもあってか京に戻れず鎌倉で出家している。この背景に
で、皇帝とはかくも尊く、玉座とはかくも座り心地が良いものだとは知らなんだ。雲の上に座っておるかのようじゃ」と別人のように喜び、叔孫通を太常、式部卿に任命、後には太子傅*60まで命じるようになる。彼が推挙した儒者たちも取り立てられた。この時から、儒教は漢王朝に受け入れられたというこ