「保元」を含むwiki一覧 - 1ページ

源為朝 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

139-1170)は平安時代末期の武将。別名平安のモビルスーツ鎮西八郎。父は河内源氏棟梁の源為義。兄には源頼朝や義経の父である義朝がいる。『保元物語』によると七尺≒210cmの大男で、引く弓は五人張り*1という古今に聞こえた豪傑。世間の認知度としてはそこまでなものの、日本史におい

平清盛(大河ドラマ) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

序盤では平家や忠盛を誰よりも思っているが故に、平家の血を引かない清盛を忌み嫌う(清盛の素行が悪かったからでもあるが)。清盛が家督を継いだ後、保元の乱で一族滅亡を避けるために上皇側に付き、敗北した後斬首される。無理やり斬首役を押し付けられた清盛との最期の会話は名シーンの一つに挙げら

保元の乱とはなんですか? - クイズwiki

A. 保元の乱とは、皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1

1157年とはなんですか? - クイズwiki

A. 1157年とは、保元2年(1157年)のことです。保元2年(1157年)は、保元の乱が起きた年で、源義朝が敗死した年でもあります。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/1157%E5%B9%B4

1074年とはなんですか? - クイズwiki

A. 承保元年干支 : 甲寅日本 延久6年、承保元年皇紀1734年中国 北宋 : 熙寧7年遼 : 咸雍10年西夏 : 天賜礼盛国慶6年大理国 : 保徳末年朝鮮 ベトナム 李朝 : 太寧3年仏滅紀元 : ユダヤ暦 : カレンダーできごと 7月12日(延久6年6月16日) - 参考

近衛天皇とはなんですか? - クイズwiki

1142年1月5日 - 1155年8月22日近衛天皇は、平安時代後期に在位した第76代の天皇である。在位期間は13年と短く、在位中に内乱(保元の乱)が発生したことでも知られる。近衛天皇は、後白河天皇の第一皇子として生まれ、1142年1月5日に践祚した。しかし、父の後白河天皇は、

生存説 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

れており、いずれも正体は不明。源為朝義経の叔父に当たる平安末期の武将。某大河ドラマでガンダムと呼ばれるほど規格外の弓の名手だったとされるが、保元の乱で伊豆に流罪となり史実ではそこで反乱を起こして戦死した。琉球王朝の正史では、実は生き延びていて琉球王家の祖となったとされる。ほぼ東国

長命寺 - 巡礼 Wiki

その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の初見は、承保元年(1074年)3月2日付の「奥島庄司土師宿禰助正解文」(おくしましょうじ はじのすくねすけまさ げぶみ)という文書である[1]。長命寺

歴代天皇の一覧 - いにしえwiki

76 近衛 このえ 1141 永治, 康治, 天養, 久安, 仁平, 久寿 77 後白河 ごしらかわ 1155 久寿, 保元 78 二条 にじょう 1158 保元, 平治, 永暦, 応保, 長寛, 永万 79 六条 ろくじょう 1165 永

歴世記事詠史百首 - いにしえwiki

将門号を僣す 天慶の乱034.後三条帝精を励まし治を図る035.源頼義前九年の役036.源義家後三年の役037.源為朝策を献して用ひられす 保元の乱038.源義朝の叛逆 平治の乱039.小松重盛父を極諫す040.山法師の跋扈041.源頼政以仁王を奉して兵を挙く042.木曽義仲先つ

新燃岳 - Gravity Wiki

。新燃岳東方を流れる高崎川では泥流が発生している。一連の噴火活動は断続的に約1年半続き、八丈島での降灰が観測された[5]。同年11月9日(享保元年9月26日)夜半から再び噴火が始まった。周囲に数ヶ所の火口が形成され火砕流が発生し、付近の山林に火災が広がった。負傷者は31名、焼死し

八島氏 - 日本通信百科事典

蔵守の任期を終えた長徳4年(998年)の正月に治国の功として従五位上に叙された。またこの際に、摂津守の任官を望んだが叶わなかった[9]。翌長保元年(999年)の正月に正五位下に昇叙した[10]。寛弘元年(1004年)以前に藤原実方(藤原北家)の後任として陸奥守を務めていた[11]

寛保津波 - なんでもある Wiki

寛保津波(かんぽうつなみ)は、1741年(寛保元年)8月27日に、北海道西南沖で発生した、渡島大島の噴火ないし火山性地震に伴う大津波である。死者2,033人。対岸の熊石から松前にかけて大きな津波被害があった。概要[編集]1741年8月27日(寛保元年7月16日)に、北海道・渡島大

園城寺 - 巡礼 Wiki

と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。三井寺は、平安時代には朝廷

桃園天皇 - なんでもある Wiki

1月5日(寛延元年11月17日)元号延享寛延宝暦時代江戸時代征夷大将軍徳川家重徳川家治先代桜町天皇次代後桜町天皇誕生1741年4月14日(寛保元年2月29日)崩御1762年8月31日(宝暦12年7月12日)陵所月輪陵追号桃園院(桃園天皇)諱遐仁称号八穂宮茶地宮父親桜町天皇母親藤原

寛保津波の碑 - なんでもある Wiki

寛保津波(かんぽうつなみ)は、1741年(寛保元年)8月27日に、北海道西南沖で発生した、渡島大島の噴火ないし火山性地震に伴う大津波である。死者2,033人。対岸の熊石から松前にかけて大きな津波被害があった。概要[編集]1741年8月27日(寛保元年7月16日)に、北海道・渡島大

保元とはなんですか? - クイズwiki

A. 保元とは、平安時代の後期、1156年から1159年までの期間を指します。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83

Y染色体D1b系統 - 遺伝子ペディア -世界は大きな家族だった-

調査の参加が期待されている。     (鎮西八郎源為朝)        (舜天王)              (尚泰王) 舜天王は、保元の乱で伊豆に流刑となった源為朝(鎮西八郎)の子で、『中山世鑑』によれば、為朝の船が嵐に遭い、沖縄本島の今帰仁に漂着し、その地の豪族・大里

吉田経房とはなんですか? - クイズwiki

A. 平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿で、後白河天皇の側近として仕え、保元の乱や平治の乱では後白河天皇方につき、その功績により左大臣に昇進しました。また、後白河天皇の第一皇子・以仁王を寵愛し、その令旨を全国に発して平家打倒を呼びかけ、その結果、源頼朝が挙兵し、平家追討が

弁護士・高林鮎子 - ドラマウィキ

:山田光一、千野:木下浩之、営業部長:キモサベポン太、マネージャー:平田桃介、コンビニ主人:つじしんめい、巡査:川島一平、福田:佐々木敏、久保元治:工藤俊作、亀山刑事:小林正希、松田真知子:樋口しげり、コンビニ女房:呉恵美子、山川伴子:菅野玲子、滝口警部補:久富惟晴、細野局長:木

浦添城 - 御城プロジェクト:RE Wiki

はわからないなー。「おもろさうし」っていう琉球最古の歌謡集によると、舜天王は源為朝の子なんだってー。源為朝は平安時代の武将で、1156年の「保元の乱」で活躍した人だよ。戦いに負けて伊豆大島に流される時、乗っていた船が難破して、琉球に流れ着いたんさ。もちろん、あくまでも伝説なんだけ

ののちゃん - スタジオジブリ Wiki

の頼りない一人息子。他の2人と比べて少し気が弱い。死神タイガースでキャッチャー。学級新聞に4コマ漫画を寄稿したことがある[6]。クボくん(久保元政)3バカトリオ。家は建具店。仕切り屋だが役に立たない。幼い2人の弟がいる。死神タイガースでピッチャー。スズキくん(鈴木喜三郎)3バカト

雨月物語 - 映画ペディア

侮りを禦(ふせ)げよ」という一節を説き、ついに院の、私怨がゆえである、との本音を引き出すことに成功する。院は、「経沈め」[15]の一件の後、保元の乱で敵方にまわったものたちを深く恨み、平治の乱がおこるように、操ったのだ、という。そして、大風がおき、ここではじめて院の、異形のすがた

鎌倉頼賢 - 日本通信百科事典

為朝・為仲・行家(新宮十郎義盛)の兄、義久(頼定)・実春(大宮蔵人)[2]の父[3]。次兄の義賢と仲が良好のために、長兄の義朝と対決した。『保元の乱』で、長兄と戦って敗れたために、捕らえられて父と多くの兄弟とともに処刑されて、晒し首となった。堀江維純 : 別名は頼賢[4]、通称は

富士山の噴火史 - Gravity Wiki

、剣丸尾第1溶岩を噴出させた噴火とされる。「日本紀略」の記述では承平7年旧暦11月某日の条に、甲斐国言、駿河国富士山神火埋水海999年 (長保元年) 噴火1033年初頭 (長元5年末) 噴火1083年 (永保三年) 噴火1435年または1436初頭 (永享7年) 噴火1511年

足利義康_(陸奥守) - 日本通信百科事典

ついては「斯波義康」をご覧ください。足利氏の祖の足利義康像足利 義康(あしかが よしやす、1117年(永久5年)? - 1157年7月7日(保元2年5月29日))とは、平安時代末期の武将。はじめは義保/義泰、通称は足利次郎/又太郎。官位は、従五位下後・陸奥守・大夫尉。足利陸奥判官

鎌倉氏_(源氏) - 日本通信百科事典

曾義仲)はそれぞれ、京と信濃国西筑摩郡木曽福島(現在の長野県木曽郡木曽町福島大字)に逃れた。翌1156年に崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が争う『保元の乱』では、為義は上皇方に義朝は天皇方についたために、激戦の末に、上皇方の為義らは大敗して、鎌倉郷に逃れようとしたが、断念して子の義朝に

富士山 - Gravity Wiki

浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士

山鹿温泉 - Gravity Wiki

。入り口前には、飲泉設備がある。再々開発を望む声もある。歴史[]山鹿温泉は熊本県内で最も歴史のある温泉地の一つであると言われ、伝説によると、保元の乱で京都から敗走した宇野親治が山狩りをしていたところ、傷を負った鹿が湯に浸かっているのを見て、この温泉を発見したとされる。温泉名で地域

源為義 - 日本通信百科事典

新羅三郎義光の陰謀に関わって、義光の異母兄でおなじく従祖父の賀茂次郎義綱父子を討伐して、これを滅ぼした。以降は左衛門尉・検非違使を歴任し、『保元の乱』では、長子の義朝と対決して、これに大敗した。義朝の懸命の助命が叶わずに、涙を呑んだ義朝の手勢によって、息子たちとともに処刑されて、

磨勘留島 - Gravity Wiki

に見えることから、一名を帆掛岩(ほかけいわ、千島アイヌはハイノコ)と言うことがあり、アシカや海鳥の繁殖地となっている。歴史[]1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ

計吐夷島 - Gravity Wiki

している[3]。歴史[]計吐夷島には古来定住者がなく、羅処和島に住んでいた千島アイヌが冬季に来島して、鷲を捕らえていたという。1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ

渡島大島 - Gravity Wiki

500m で水深 100m となる。火山活動の歴史[]離島のため、噴火活動の記録はほとんど残されていない。数少ない記録では、1741年(寛保元年)8月27日の寛保岳の大噴火。噴火の翌日、津波が発生し、対岸の熊石から松前にかけて1,467人の死者を出した。津波の原因は、噴火による

知林古丹島 - Gravity Wiki

に噴火している(1955年のものは噴火かどうか不明)。岸辺は切り立った崖が続き、小舟が辛うじて接岸できるに過ぎない。その他[]1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ

松輪島 - Gravity Wiki

域は「大和湾」と呼ばれ、1,500 トン級の船舶が停泊できる好錨地である。歴史[]かつて、千島アイヌの中には土着する者がいた。1644年(正保元年) - 「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描

志林規島 - Gravity Wiki

陸したとしても切り立った崖が構えている。船の接岸は困難で、北側の浜辺に 15 - 20 メートルの深さをもつ所がある。歴史[]1644年(正保元年) - 「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描

戸田忠太夫 - Gravity Wiki

世に水戸の両田といわれ、尊王の志と学識を備えた優れた指導者として知られる様になった。また、この両人と武田耕雲斎を合わせ水戸の三田ともいう。天保元年(1830年)には藩内争議のため、無願出府して免職され、留守居同心頭列となるものの、斉昭の意向により同年3月に江戸通事として復帰。天保

春牟古丹島 - Gravity Wiki

から咲いている。歴史[]かつて、アイヌはオオウバユリといった食用の野草を採りに訪れており、島の北西には穴居の跡があったという。1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ

源頼仲 - 日本通信百科事典

の当主の源為義の子、義朝(義頼)・義賢・義広(義憲/義範)・頼賢の弟、為宗・為成・為朝・為仲・行家(新宮十郎義盛)の兄、義嗣(頼次)の父。『保元の乱』で父と兄弟とともに大敗して、長兄の義朝直々が、後白河上皇に上奏して助命嘆願されるも、平清盛らの猛反対で叶わず、止むなく義朝の配下に

新田義重_(大炊介) - 日本通信百科事典

た甥の矢田義清(義康の庶長子)を婿養子に迎えて、義清と義重の娘との間に庶長子・山名義範(太郎三郎/三郎義節)を儲けている[6]。1157年(保元2年)、平氏方の藤原忠雅に申請して新田荘の立券に成功し、正式な新田荘司として就いた。当時の上野国司・藤原重家の舅が鳥羽院御願寺金剛心院の

阿頼度島 - Gravity Wiki

ような島)」からである。この由来が差す「島の列の外側」とは、千島列島の列から外れた西側に阿頼度島が存在するためである。歴史[]1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ

保元 - いにしえwiki

保元(ほうげん)とは、日本の平安時代の75番目の元号である。保元の年表保元期は、久寿3年4月27日(西暦1156年5月18日)から、保元4年4月20日(西暦1159年5月9日)まで。年西暦出来事生誕死去(享年)元1156保元の乱021157031158041159関連項目 平安時

平治 - いにしえwiki

平治(へいじ)とは、日本の平安時代の76番目の元号である。平治の年表平治期は、保元4年4月20日(西暦1159年5月9日)から、平治2年1月10日(西暦1160年2月18日)まで。年西暦出来事生誕死去(享年)元1159平治の乱021160関連項目 平安時代の元号一覧タグ一覧: カ

平安時代の元号付き出来事 - いにしえwiki

元 - 永観 - 寛和 - 寛和の変永延 - 永祚 - 永祚の風正暦 - 正暦寺長徳 - 長徳の変, 長徳の入寇, 宝樹山長徳寺長保 - 長保元年令, 長保楽, 長保寺, 長保屋寛弘 - 長和 - 長和寺寛仁 - 治安 - 万寿 - 万寿地震長元 - 長元の乱長暦 - 長久 -

平安時代の元号一覧 - いにしえwiki

にんぴょう 1151-1154 近衛 74(092) 久寿 きゅうじゅ 1154-1156 近衛, 後白河 75(093) 保元 ほうげん, ほげん 1156-1159 後白河, 二条 76(094) 平治 へいじ 1159-1160 二条 77(

鎌倉時代の元号付き出来事 - いにしえwiki

の青石塔婆応長 - 応長のころ、伊勢の国より, 応長の大津波, 応長地蔵, 応長元年大日板碑正和 - 正和銘尽文保 - 文保の和談, 文保本保元物語, 文保記, 松尾山文保寺元応 - 元応の清暑堂の御遊に, 元応本沙石集元亨 - 元亨釈書, 曹洞宗元亨寺, 元享の梵鐘正中 - 正

群書類従(公事部) - いにしえwiki

109 除目抄 じもくしょう 110 蝉冕翼抄 せんべんよくしょう 花山院師継 110 大間書 おおまがき 保元四年 111 伝宣草 でんせんそう タグ一覧: カウンターページ全体:今日:昨日:脚注

古今著聞集(巻第三) - いにしえwiki

朝外記事096.院禮拜時,八條太政大臣實行一拜再致事097.宇治賴長悔依最勝講講師座立姿之僻說而送怠狀事098.保元三年正月再興內宴事并次年內宴主上彈玄象事099.後白河院御詣熊野時,紀伊國司於御前積松煙事100.三條左大臣

群書類従(和歌部) - いにしえwiki

あわせ 細川高国 223 元久詩歌合 げんきゅうしいかあわせ 九条良経 223 内裏詩歌合 だいりしいかあわせ 建保元 藤原定家 224 現存卅六人詩歌 げんそんさんじゅうろくにんしいか 建治2 日野資宣, 藤原光俊 224 五十四番詩歌