三ツ子島(空母葛城空母天城終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ
三ツ子島倉橋島の北にある周囲約580mの小さな島三ツ子島は海軍呉鎮守府の検疫所である『呉海軍病院三ツ子島消毒所』が開設されたことにより海軍の島となりました。検疫所とは戦地から帰還した兵士からの伝染病の発生を防ぐための防疫施設で、元々は似島にありましたが老朽化のため昭和3年にここ三
三ツ子島倉橋島の北にある周囲約580mの小さな島三ツ子島は海軍呉鎮守府の検疫所である『呉海軍病院三ツ子島消毒所』が開設されたことにより海軍の島となりました。検疫所とは戦地から帰還した兵士からの伝染病の発生を防ぐための防疫施設で、元々は似島にありましたが老朽化のため昭和3年にここ三
(本庄ダム) 鉄管道路 長ノ木隧道 東辰川の防空壕跡倉橋島倉橋島 音戸の瀬戸と音戸大橋 坪井(戦艦伊勢終焉の地) 情島(戦艦日向終焉の地) 三ツ子島(空母葛城・空母天城終焉の地) 重極湾(巡洋艦北上終焉の地) 倉橋本浦(駆逐艦樫終焉の地) 倉井(空母阿蘇終焉の地) 音戸漁港のコン
ほぼ無傷で終戦を迎えました。また、戦後も復員船として活躍したので厳密にはここが終焉の地ではありません。楠田から瀬戸内海を挟んで対岸の倉橋島に三ツ子島があり「日本海軍最後の空母」の空母葛城の終焉の地が見えます。(写真右奥にある白い島が三ツ子島)「日本初の空母と日本最後の空母が同じ海
でないものはめずらしいです。艦艇終焉の地には防空壕が多く残っていますが、渡子は戦艦伊勢終焉の地である坪井と空母天城・空母葛城の終焉の地である三ツ子島の中間に位置するため、防空壕も多く作られたものと思われます。 備考 ・坪井の山側から渡子多目的グランドの前までの
物を臨時病棟として使用したこともありました。明治33年に練習部(現在の看護学校)を併設開院し、大正14年には伝染病の防疫施設として呉海軍病院三ツ子島消毒所を開設します。昭和16年に太平洋戦争が始まると患者疎開のため愛媛県松山市や島根県松江市等に分院を開設します。昭和20年7月の第
め、本当はこの辺りに巡洋艦青葉がいたのかもしれません。右に見えるのは呉海軍工廠製鋼部、左に見える白い島のは空母葛城と空母天城の終焉の地である三ツ子島と、戦艦伊勢の終焉の地である坪井です。 備考 ・警固屋5丁目バス停が最寄りだが鍋桟橋バス停で降りる方が便数が多く
いたとしても戦争末期の海軍には搭載できる航空機や搭乗員は無かったのではないかといわれています。また、姉妹艦の空母葛城と空母天城も同じ倉橋島の三ツ子島で戦没しています。Q基地跡北西沖空母阿蘇終焉の地は「倉井沖」とする資料と「Q基地の北西沖」とする資料があります。Q基地跡の西に倉井が
は似島学園南の高台と堀口海産の前にある ・安芸小富士の登山道はなかなか勾配がキツいためそれなりに体力が必要 ・同じ検疫所として海軍の三ツ子島がある 住所 広島県広島市南区似島町 駐車場 なし トイレ
渡子峠倉橋島北部の音戸と渡子の間にある渡子峠(標高108m)ここには太平洋戦争末期の空襲に備えて呉鎮守府所属の音戸防空砲台が作られました。音戸防空砲台は太平洋戦争末期の昭和20年1月に竣工し『四〇口径一〇式12cm単装高角砲』が4門配備されました。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲
旧呉海軍工廠造船部呉海軍工廠造船部は太平洋戦争終戦まであった海軍の造船工場その歴史は呉鎮守府開庁と同じ明治22年に『呉鎮守府造船部』として海軍艦艇の建造や修理を行うため設置されたのが始まりです。現在のJMUでも設計部と製造部に分かれていますが、この時からすでに計画科と製造科が置か