元平親王 - 日本通信百科事典
がある源満頼 : 臣籍降下以前の名は、「兼頼王」。兄の満季の子ともいわれ、祖父の元平親王の養子になったという昭子女王[5] : 藤原兼通室(藤原北家)、顕光らの生母脚注[]↑ 『系図纂要』↑藤原北家魚名流の系統で、藤原直道の子。↑ 孫の頼信の『頼信告文』より。↑ 為満の父、為公(
がある源満頼 : 臣籍降下以前の名は、「兼頼王」。兄の満季の子ともいわれ、祖父の元平親王の養子になったという昭子女王[5] : 藤原兼通室(藤原北家)、顕光らの生母脚注[]↑ 『系図纂要』↑藤原北家魚名流の系統で、藤原直道の子。↑ 孫の頼信の『頼信告文』より。↑ 為満の父、為公(
姉小路氏(あねこうじし)とは、藤原北家の氏族。約数系統が存在する。山城国乙訓郡姉小路庄[1]を拠点とした。姉小路家 : 藤原北家一門。約2系統が存在する。三木氏 : 飛騨三木氏(近江三木氏)、または姉小路三木家とも呼ばれる。近江国甲賀郡三木郷[2]を発祥地とした。秀郷流近江長野氏
25日(天慶3年2月14日)に「新皇」と称した甥の将門が良望の子である貞盛・繁盛・良正(良盛/兼任)兄弟と、兄弟の母方の叔父である藤原秀郷(藤原北家魚名流)、その従兄弟の藤原為憲(藤原南家)らに討たれて『平将門の乱』[8]が終焉していた。すると、良文は逸早く将門の嫡子で、従孫でも
石川義基・義広・義資・義長の父。石川義時 : 別称は時道。上記の源義時の後裔で、石川氏の当主の石川義忠の子、生母は下野国の小山秀朝こと高朝(藤原北家秀郷流武蔵太田氏一門の下野小山氏の当主)の娘、茂信の兄、朝成(宗忠/義助)[2]の父、氏房(義忠)[3]の祖父、泰信の曾祖父、政康(
源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。脇屋義助 : 新田氏(上野源氏)の棟梁である新田朝氏の子、大舘宗氏室・義貞の同母弟、義治・世尊寺行俊(藤原北家)室の父、義則(義隆)・義冬の祖父、義行・祐義の曾祖父。脇屋氏の祖となった。福原義助 : 福原氏の第10代目の当主の元盛の子、第11
要[]はじめは六孫王と称して、六宮および、八条御所を居邸とした。938年(承平8年)に同母弟の経生とともに臣籍降下して、太政大臣・藤原忠平(藤原北家)の命で、武蔵介として武蔵国に赴任した。同時に赴任した同族の興世王[6]が武蔵権守として、ともに早々に検注[7]を実施すると、土豪で
・春日家があった。三木氏 (飛騨国) : 飛騨三木氏(近江三木氏)、または姉小路三木家とも呼ばれる。近江国甲賀郡三木郷[2]を発祥地とした。藤原北家秀郷流近江長野氏の直系の近江多賀氏の系統とされる。庶家に飛騨古川氏、同族に近江土田氏・久徳氏・江馬氏(江間氏)[3]・飛騨白川氏があ
先立って早世したために、年若い子の貞国[3]が後を継いだ。足利家時 : 別名は義忠/義忍禅師。足利氏(下野源氏)の当主の足利頼氏と上杉重房(藤原北家勧修寺流上杉家一門)の娘との間の子、貞氏・岩松政経(道定入道)室の父、高義[4]・尊氏(高氏)[5]・直義(高国)、源淋(田摩御坊)
/義範)の孫、義国の子。祖父が下野国の『野木宮の戦い』で、対決した惣領家の源姓鎌倉氏(相模源氏)の当主で、従父の鎌倉頼朝が派遣した小山朝政(藤原北家秀郷流)と激戦して、大敗した。まもなく祖父は一族を率いて同じく従父の木曾義仲の傘下に入って従軍した。後に義仲が頼朝の異母弟である範頼
)以降、全成は還俗して、有朝と名乗り、駿河国駿東郡阿野荘(現在の静岡県沼津市周辺 )を与えられた。以降の有朝の動向は、藤原公佐(全成の女婿、藤原北家流阿野家の祖)や阿波局の関連で言及されているだけで[7]、頼朝の時代には一切登場しない[8]。正治元年(1199年)に兄の頼朝が54
曖昧さ回避この項目では、藤原北家山蔭流について記述しています。その他の氏族については「浮嶋氏」をご覧ください。浮島氏の家紋(変わり散り桜)浮島氏(うきしまし)は、藤原北家山蔭流[1]の系統で、常陸国信太郡浮島郷[2]を拠点とした[3]。目次1 概要2 歴代当主3 脚注4 関連項目
は「常平太郎」。官位は従四位下・左馬允・鎮守府将軍・常陸大掾・陸奥守・丹波守。平高望(高視王)の孫で、平良望(国香王)と下野大掾・藤原村雄(藤原北家流秀郷の父)の娘[2]との間の嫡長子。異母弟に繁盛[3]・良正(良盛/兼任)らがいる。目次1 生涯2 家族3 脚注4 関連項目生涯[
の埼玉県比企郡嵐山町)にて、義賢とその岳父の秩父重隆を討ち取り、そのために義賢の子の仲家と駒王丸(木曾義仲)はそれぞれ、畠山重能・斎藤実盛(藤原北家利仁流)の計らいで、京と信濃国西筑摩郡木曽福島(現在の長野県木曽郡木曽町福島大字)に逃れた。駒王丸は乳父であった中原兼遠のもとに養育
木幡氏(こはたし/こわたし)とは、日本の氏族。約3系統が存在する。木幡家 : 藤原北家高経流の藤原維岳[1]の系統が、山城国宇治郡木幡庄[2]に住居したことからはじまる。後裔に木幡雅秋と木幡雅遠がいた。木幡氏 (陸奥国) : 奥州木幡氏とも呼ばれる。丹姓平氏良文流千葉氏(房総平氏
音寺潮五郎の著書『武将列伝』では、「道三は武芸ではなく智謀で出世した人であるから、この逸話自体が与太話で怪しい」と、これを疑問視している。↑藤原北家利仁流である美濃国守護代の斎藤利藤の末子。↑ 美濃斎藤氏一門の美濃長井氏の当主。↑ 族父の揖斐基信の婿養子。↑碓井姓鎌倉氏流相模長江
橋本氏(はしもとし)とは、日本の氏族。約複数の系統がある。「橋元氏」とも呼ばれる。橋本家 : 藤原北家閑院流西園寺家の庶家。庶家に梅園家があり、同族に今出川家・洞院家[1]・清水谷家・室町家[2]・大宮家・常磐井家[3]・冷泉家・竹林院家・西園寺氏(伊予国)があった。橋本氏 (近
A. 平安時代前期から中期にかけての公卿で、藤原北家の嫡流である藤原北家道長の四男です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E5%BF%A0
家(いちじょうけ)とは、日本の氏族。約数2系統が存在する。山城国葛野郡一条庄[1]を拠点とした。一條家とも呼ばれる。一条家 (藤原氏) : 藤原北家一門。約5系統が存在する。一条家 (源氏) : 源氏(宇多源氏・後陽成源氏)一門。約2系統が存在する。脚注[]↑ 現在の京都府京都市
A. 惟宗忠康は平安時代後期の摂関家(藤原北家)に仕えた京侍です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%AE%97%E5%BF%A0%E5%BA%B7
の父。守随信義 : おなじく武田信義の後裔で、通称は彦太郎。武田信玄(晴信)の孫、義信(信雄)の子。父が廃嫡されたため、外祖父で秤師でもある藤原北家秀郷流伊賀氏一門の吉川茂済(小太夫)の養子となった。主に秤の製造・販売をする秤座の主となった。1582年に叔父の勝頼[2]が織田信長
河足利氏(古河公方)から分かれた足利晴泰(大内五郎/大和守)[3]祖とする。武蔵国葛飾郡大内郷[4]にある鷲宮(栗橋)城を拠点とした。晴泰は藤原北家秀郷流の武蔵田原氏一門の武蔵大内氏の当主の娘を娶って、大内足利家と称した。彼は相模北条氏こと伊勢北条家(相模平氏)の家老となった。晴
樋口郷[8]であったが、後に甲斐国山梨郡塩山郷[9]を拠点とした。明治時代の女流小説家の樋口一葉(奈津/夏子)はこの系統である。樋口家 : 藤原北家高倉家一門。同族に堀河家・藤大路家が、庶家に初川家・中条家があった。脚注[]↑ 現在の奈良県北葛城郡河合町樋口大字↑ 中原兼遠の子、
) : 敏達天皇(阿毎氏[1])の系統である葛城(葛木)王こと、橘諸兄(美努王の子)を始祖とする。公家貴族として繁栄するも、皇室の外戚である藤原北家の圧迫を受けて、徐々に衰退してその末裔は地下家(下級公家貴族)として在続した。同時に一部の庶家は武家として栄えた。橘氏 (物部氏)
て、江戸時代には繁栄した。嫡流は松平榊原家と称し、庶家に駿河榊原氏・三河落合氏[6]がある。榊原氏 (藤原氏) : 藤姓榊原氏とも呼ばれる。藤原北家秀郷流の佐藤公光の後裔の基重(主計允)が、上記の伊勢国壱志郡榊原郷村を拠点として、その次男の基氏(藤次郎)が榊原氏と称したという。上
、日本の氏族。常陸国那珂郡水戸郷[1]を拠点とした。約2系統が存在する。水戸氏 (越前国) : 藤姓水戸氏、あるいは越前水戸氏とも呼ばれる。藤原北家秀郷流那珂氏一門の常陸江戸氏の直系。江戸重通の子の水戸宣通[2]を祖とする。江戸時代に越前国の福井松平家[3]の家老として仕えたが、
、鎌倉時代になると同族の斯波氏(奥州源氏)に従い、その一部が尾張国守護となった斯波氏嫡流の尾張武衛氏(尾張源氏)の守護代となり、尾張簗田氏は藤原北家利仁流織田氏と張り合う仲となったという。その後裔には戦国時代に、織田信長に従った梁田政綱(簗田正綱)・広政(広正)父子と斯波氏一門の
る。森氏 (源氏) : 「源姓森氏」とも呼ばれる。武家源氏の系統で、約複数の系統が存在する。森氏 (藤原氏) : 「藤姓森氏」とも呼ばれる。藤原北家秀郷流の森氏。森氏 (清原氏) : 「豊後森氏」とも呼ばれる。物部姓十市氏流中原氏一門の清原氏の庶家、豊後国玖珠郡森郷(現在の大分県
野斯波家となった。越前国・遠江国守護も兼ねた義敏の子の義寛(大野義良)の代に尾張国守護になったことではじまる。しかし、尾張国守護代の織田氏(藤原北家利仁流)の勃興によって、義統の代に衰退して、その子の義銀(義親)・義康父子の代で没落した。義康の甥で、義銀の孫の親光(親元)[1]は
』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年)による。↑ 庶家に出羽板垣氏があった。↑ この系統に陸軍大将の板垣征四郎を輩出した。↑ 伊沢家兼(藤原北家流の藤原兼仲(兼信の父)の女婿、家景・宮城家業(家成)の父)を祖とする。↑ 庶家に留守氏のほかに、奥州宮城氏(陸奥国宮城郡宮城野郷(
衛門) : 通称は三左衛門。上記の柴田勝家の養孫、勝政(勝安)[8]の子、勝次の兄、勝興・三浦信勝[9]・勝平・行重・勝昌の父。脚注[]↑ 藤原北家秀郷流藤姓足利氏一門の説あり。↑伊佐助宗の子、伊達朝宗・中村行政の弟。↑ 織田道広(信友の父)の家老。↑ 4.04.1 勝家の先妻で
濃国加茂郡飛騨瀬郷(現在の岐阜県美濃加茂市飛騨瀬大字)を拠点とした。↑美濃福島氏の祖。↑ 美濃国山県郡(現在の岐阜県山県市)を拠点とした。↑藤原北家秀郷流武蔵太田氏一門の吾妻下河辺家の当主。↑ 別名は頼綱/頼幸、頼康・頼邦・綱頼の父。この記事は 『源国政』 のための曖昧さ回避ペー
秀忠によって、徳川将軍家の親藩としての直参旗本となり、清和松平家(せかひまつだいらけ)の祖となったといわれるが[6]、仔細は不詳。脚注[]↑藤原北家長良流の御堂雅教の子、俊教・公房の兄、家信・兼教・雅成・長経・長信・雅海(僧侶)・清顕・覚雅(僧侶)の父。↑ 資長・亮順(僧侶)・亮
統が存在する。湯浅氏 (紀伊国) : 紀伊湯浅氏と呼ばれる。紀伊国造の系統で、紀伊国在田郡湯浅郷[1]を拠点とした。湯浅宗重を祖として、彼は藤原北家秀郷流の藤原宗永(湯浅左近大夫)[2]の婿養子となった。鎌倉時代には御家人となり、地頭職に就いた。湯浅氏 (上野国) : 上野湯浅氏
甲斐源氏)一門。約3名ほど存在する。松平信正 : 松平氏(三河源氏、後の徳川氏)一門。約数名ほど存在する[1]。脚注[]↑内藤松平家も含む。藤原北家近衛氏(五摂家)一門の鷹司氏の系統の「鷹司松平家」と氏素性不詳の大河内氏の系統の「大河内松平家」などの松平氏でない人物も存在する。関
河内家)3.1 概要4 歴代当主(野長瀬氏(野長瀬河内家))5 脚注6 関連項目概要[]初代の経国は、成人すると讃岐国の国司である藤原経隆(藤原北家)に仕えて、その代理の目代として赴任した。経国の子の盛経は寿永2年(1183年)に族子の木曾義仲に従軍して、加賀国の『篠原の戦い』に
水野氏(みずのし)とは、日本の氏族。約数系統がある。水野家 : 藤原北家近衛家の系統。鎌倉時代初期に右大臣の近衛道経[1]の次子の経村(近範)[2]が同族である勧修寺流上杉家の当主の上杉清房(上杉氏の祖)の婿養子となって、山城国葛野郡(西嵯峨野)水野庄[3]に定住して、清房と改名
蔵六郷氏・武蔵丸子氏・飯倉氏・渋谷氏[2]などがあり、同族に畠山氏・武蔵小山田氏などがある。江戸氏 (常陸国) : 常陸江戸氏とも呼ばれる。藤原北家秀郷流那珂氏一門。常陸国那珂郡江戸郷[3]を拠点とした。同族に常陸太田氏(藤姓太田氏/常陸藤原氏)、直系に越前水戸氏、庶家に常陸平沢
国埴科郡英田郷(江田郷)[3]を拠点とした[2]。後世に清和源氏流貞保親王の系統と仮冒した。江田氏 (備後国) : 備後江田氏とも呼ばれる。藤原北家秀郷流と称した備後広沢氏(備後広澤氏)一門。備後国三谿郡江田郷[4]を拠点とした。南北朝時代に江田泰氏(源八郎)が、庶家の美作江田氏
概要[]初めは、同族の尾張国守護である斯波氏(奥州源氏)こと尾張武衛氏(尾張源氏)の当主である斯波義統に仕えていた。後に義統が守護代でもある藤原北家利仁流織田氏本家の織田信友(彦五郎)[2]に弑されると、その分家である勝幡織田家の当主の織田信長のもとに奔ってそのまま仕え、尾張国春
板垣政純(佐々木直作)の孫、板垣政徳の子、政一(賛造の父、進吾の祖父)・政参の弟、盛の兄、正の父。↑ 現在の山形県飽海郡遊佐町菅里菅野大字↑藤原北家秀郷流武藤氏一門。関連項目[]土佐乾氏板垣退助板垣征四郎この記事は 『板垣氏』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共
↑ 満季の子ともいわれ、祖父の元平親王の養子になったという。↑ 有明親王(醍醐天皇の皇子)の娘の能子女王と同人物とする説があり、藤原兼通室(藤原北家)、顕光らの生母。↑ 醍醐源氏の源高明の孫、忠賢の子、致任(致佐)の父。↑満持(持教の父)の兄。↑ 持氏・持仲の父。↑ 満康の父、満
日野氏(ひのし)とは、日本の氏族。約5系統が存在する。出羽国・武蔵国・伊勢国・近江国・美作国などの異流も多く存在する。日野家 : 藤原北家真夏流の嫡流。山城国宇治郡日野庄[1]を拠点とした。庶家に広橋家[2]・柳原家[3]・烏丸家[4]・外山家・豊岡家・大谷家[5]などがあった。
。山城国愛宕郡春日庄[1]を拠点とした。春日家 (源氏) : 源氏(宇多源氏・村上源氏)一門。約2系統ほど存在する。春日家 (藤原氏) : 藤原北家魚名流六条家一門。春日家季を祖とする。同族に紙屋河家があった。家季の子の季範、季範の子の顕範と世襲したが、顕範に嗣子がなく、南北朝時
もに、東山道・利根川という水陸交通路や凝灰岩石材の産地であった天神山一帯を掌握して経済的な基盤を固めた。その一方、義重は 周囲の藤姓足利氏(藤原北家秀郷流)や武蔵国の丹姓秩父氏(武蔵七党)と、従子の源義賢(従兄の為義の子)と対立するが、甥である足利義兼(源姓足利氏(下野源氏)の祖
鳥山義俊(源姓里見氏一門)と足利氏(下野源氏)一門の桃井義繁(義茂)とともに、近江国北部で、北朝方に備えた惣領家の新田義貞の執事の船田義昌(藤原北家秀郷流)[2]麾下で、殿軍をつとめた。里見義時 : 源姓里見氏一門の里見家成の玄孫、義重(義繁)の曾孫、義政の孫、義貞の子、政成の父
谷甚左衛門・倉知平左衛門・山田八蔵(丹姓良兼流長田氏一門尾張山田氏の一族)とともに昌幸のもとに逃亡しようと企てたが、忠次は家康の近侍であった藤原北家利仁流の近藤利用(壱岐守/登之助)[9]を派遣して、康用の友人である山田八蔵を買収したため、八蔵は変心して弥四郎の反逆を漏らした。こ
が著名である。庶家に志水氏(信濃清水氏)・信濃山下氏・信濃大石氏・上松氏などがあった。脚注[]↑ 現在の長野県木曽郡木曽町福島大字↑ 実際は藤原北家秀郷流の系統で、上野国利根郡沼田郷(現在の群馬県沼田市周辺)を拠点とした沼田氏の当主の沼田家国(伊予守)の子で、義仲の義弟(側室の弟
後陽成源氏(ごようぜいげんじ)とは、元来は藤原北家の嫡流の五摂家であったが、男系がなく天皇の皇子が臣籍降下して、それぞれの源氏(宮家)となった家門(皇別摂家)である。約2系統が存在する。近衛家 : 源姓近衛家とも呼ばれる。藤姓近衛家の当主の近衛信尹[1]の外甥で、後陽成天皇の第4
の一部を与えられ、その子の家久・宗貞父子は常陸得川氏の当主と称して、源姓佐竹氏の家老として仕えた。源姓佐竹氏が義盛の代で断絶すると、上杉氏(藤原北家)から佐竹義人(義仁/上杉義憲)が婿養子となって、藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)の祖となり、その後を継ぐと、宗貞の子の宗生(むねなり)は引
宗・沼田 基宗(きそ もとむね/ぬまた もとむね、生没年不詳)は、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。官位は刑部少輔。藤姓木曾氏の祖。上野国の藤原北家秀郷流沼田氏の当主の沼田家国(伊予守)の子、為教(沼田太郎)[1]の弟、宗仲・宗詮の父、基家・家仲・家教(兵庫頭)[2]兄弟の祖父、