源義忠 - 日本通信百科事典
(信実)・頼兼の弟、仲重・範仲の父、盛仲(仲重の子)の祖父。石川義忠 : 義時流石川氏一門の武将。約2名ほど存在する。堀口義忠 : 新田氏(上野源氏)一門である堀口氏の当主の堀口貞満の孫、貞親の子、義興の父。足利義忠 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。佐竹義忠
(信実)・頼兼の弟、仲重・範仲の父、盛仲(仲重の子)の祖父。石川義忠 : 義時流石川氏一門の武将。約2名ほど存在する。堀口義忠 : 新田氏(上野源氏)一門である堀口氏の当主の堀口貞満の孫、貞親の子、義興の父。足利義忠 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。佐竹義忠
かね、保延5年(1139年) - 元久3年3月8日(1206年4月17日)[1])は、鎌倉時代の武将。通称は小新田次郎/新田小太郎。新田氏(上野源氏)の第2代目の当主。初代当主の新田義重の次子、里見義俊の異母弟、世良田義季(得川義秀)の同母兄、世良田義光(新田冠者)・合土義澄(額
曖昧さ回避この項目では、新田氏(上野源氏)の惣領家について記述しています。その他の一門の新田義貞については「里見義貞」をご覧ください。群馬県太田市世良田町の長楽寺にある新田義貞の肖像新田 義貞(にった よしさだ、?[1] - 1338年8月17日(延元3年/建武5年閏7月2日))
新田 義光(にった よしみつ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)の一門。約3名ほど存在する。世良田義光 : 通称は三郎・新田冠者(『尊卑分脈 』)。新田義重の3男で、里見義俊・新田義兼の弟、世良田義季(得川義秀)・合土義澄(額戸経義)・義佐(義任)・庄田義盛(義益)の
、松平姓を廃して「高柿氏」として通した。松平氏 (三河国)[3] : 「三河松平氏」[4]とも呼ばれ、後の徳川氏(三河源氏)[5]。新田氏(上野源氏)一門の義光流世良田氏の系統である。三河国賀茂郡松元(松平)郷(現在の愛知県豊田市挙母町)を本拠地とした。初代の親氏(親季/家氏/信
1]については「佐田氏」をご覧ください。新田氏の家紋(大中黒一つ引き)新田氏(にったし)は、陽成源氏(河内源氏)流の武家貴族(軍事貴族)で、上野源氏の嫡流である。上野国新田郡[2](現在の群馬県太田市)を中心に拠点とした。庶宗家の上野里見氏(上野竹林氏/高林氏)[3]をはじめ、庶
と/はるあき)・松平定国の弟、松平定永・真田幸貫(幸善=ゆきただ)の父。『寛政の改革』を実施して、学問の言論の弾圧をした。脚注[]↑新田氏(上野源氏)一門の義光流世良田氏の庶家。↑ 読みはとみむね。関連項目[]源氏河内源氏常陸源氏佐竹氏上野源氏新田氏義光流世良田氏三河源氏松平氏(
(1575年)の『長篠の戦い』で、織田信長と遠縁筋の徳川家康の連合軍に大敗すると、久能城・駿河田中城を相次いで、失った。そこで、勝頼は信安に上野国の箕輪城の城代を、白井城代・真田昌幸ととともに上野国西部の総支配を委ねた。天正7年(1579年)に、信安は没したという。彼は男子がなか
族。約4系統が存在する。唐から渡来した江田忌寸(いみき)を由来とする。陸奥国・上総国・丹波国・安芸国・肥後国などの異流も存在する。江田氏 (上野国) : 源姓江田氏/上野江田氏とも呼ばれる。新田氏(上野源氏)流義季流世良田氏一門で、江田満氏(光氏)を祖とする。上野国新田郡江田郷[
の武将で、通称は六郎[2]。桐生氏は下野国足利荘[3]を本拠地とする藤姓足利氏一門で、桐生氏(切宇氏)の祖にあたり[4]、父祖は不詳であり、上野国山田郡桐生郷[5]を本貫とした。概要[]忠利は惣領家の足利俊綱・忠綱(又太郎)父子の郎党をつとめた。1183年3月18日(寿永2年2月
として、諏訪氏の後を継ぎ[8]、「諏訪勝頼」[9]と名乗り、武田氏の親族衆に加わった。初陣は、1563年(永禄6年)に従弟の武田信豊とともに上野国箕輪城を攻略したことからはじまる[10]。長野業政の武将で、『長野十六槍』の筆頭格である浜川城主の藤井友忠(豊後守)が、勝頼一行が物見
要[]丹姓秩父氏流畠山氏一門で、父祖は不詳、顕実の父、小林経時室(顕実の娘)の祖父。正室は足利氏(下野源氏)一門の田中時氏の娘[3]。本貫は上野国利根郡大原郷栗生村[4][3]、勢多郡上田沢郷栗生村[5][6]、武蔵国入間郡栗生郷[7]などの諸説がある。同族の篠塚重広とともに、義
源氏)の祖の武田信義の第2子の板垣兼信を祖とする。甲斐国山梨郡板垣郷[1]を拠点とした。庶家に若狭板垣氏・安芸板垣氏などがあった。板垣氏 (上野国) : 上野板垣氏とも呼ばれる。上記の源姓板垣氏の当主の板垣信方(信形)の第3子の信広(所左衛門)の婿養子の何某が、上野国佐位郡下植木
義忠流武蔵河内氏一門の河内盛広の子、家広[8]の弟。足利義広 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約5名ほど存在する。新田義広 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。脚注[]↑ いずれも同族の新田義重の婿養子となった。↑戦国時代の越後国の国人の志駄氏・梅田氏・楢崎
: 佐竹氏(常陸源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。足利義房 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。新田義房 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。石川義房 : 通称は太郎左衛門。義時流源姓石川氏の末裔で、石川数正の族弟という。遠縁筋の徳川家康に
光流世良田氏一門の三河松平氏(三河源氏)の直系については「徳川氏」をご覧ください。得川氏の家紋(二つ引き両)得川氏(とくがわし)は、新田氏(上野源氏)流義季流世良田氏(世良田氏)一門で、同族に朝谷氏(常陸源氏)・上野江田氏があった。上野国新田郡得川郷[1]を拠点とした。庶家に因幡
、戦功を挙げたために美濃国を賜った。室町時代に室町幕府奉公衆をつとめた義尚、戦国時代の基親[35]はその後裔である。美濃里見氏 : 新田氏(上野源氏)流源姓里見氏の庶家。美濃竹林氏(高林氏)とも呼ばれる。里見義成の子の義直を祖とする。義直の6世の孫の義宗の代に『観応の擾乱』で足利
社所在地福井県鯖江市神中町1丁目5-22連絡先 TEL.0778-52-4575FAX.0778-52-4579東京支社 東京都台東区上野3-22-8 新ジイドビル8階従業員数藤田光学 60名フジコングループ合計 200名売上高藤田光学 100億円2021/3フジコングルー
糸井氏(いといし)とは、日本の氏族。約4つの系統が存在する。陸奥国[1]・下野国[2]などにも異流がある。糸井氏 (上野国) : 上野糸井氏とも呼ばれる。新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門の上野大島氏の庶家。同族に大井田氏(越後源氏)・上野篠原氏があった。上野国勢多郡糸井郷[3]
開いた。鎌倉時代には多くの庶家を輩出した。矢田氏・梁田氏(簗田氏)・広沢氏・仁木氏(三河源氏)[5]・細川氏[6]・戸賀崎氏[7]・岩松氏(上野源氏)[8]・下野田中氏・畠山氏(武蔵源氏)[9]・桃井氏[10]・斯波氏(奥州源氏)[11]・源姓一色氏[12]・石塔氏(石堂氏・奥州
名である。貞光は『今昔物語』には源頼光の四人あるいは三人の家来の一人として、その名が記されている[7]。伝承によると、頼光四天王は越後国から上野国にと向かう途中で、道中に野宿する事になった貞光が読経をしていると「汝が読経の誠心に感じて四万の病悩を治する霊泉を授ける。我はこの山の神
越後源氏(えちごげんじ)とは、陽成源氏流の摂津源氏系の源姓多田氏と河内源氏系の新田氏(上野源氏)と足利氏(下野源氏)一門、および宇多源氏流佐々木氏(近江源氏)一門、嵯峨源氏流渡辺氏一門などの越後国を本貫とする源氏の総称である。小国氏 : 摂津馬場氏一門の馬場頼行の孫で、宗頼の子の
け)とは、陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。足利義任とも呼ばれる。桃井義佐 : 別称は義任。の桃井氏(上野源氏)の当主の桃井満氏[1]の曾孫、尚義[2]の孫、義通[3]の子。渋川義佐 : 別称は義任。上野渋川氏(上野源氏)一門の渋川義長の子。
。その他の氏族については「田中氏」をご覧ください。田中氏の家紋①(大中黒一つ引き)田中氏の家紋②(二つ引き両)田中氏(たなかし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野田中氏とも呼ばれる。上野国新田郡田中郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 経氏系2.2 政綱
ミニッツマスコット デフォルトのキャラクターは「耳長メイドのらんぷさん」グループユーティリティ利用用途デスクトップマスコット開発者上野智弘DLL不要デスクトップ常駐型のキャラクター表示アプリといえば、パソコンだと「ぱらちゃん」、スマートフォンには「i コンシェル」というものが存在
に板取氏・大畑氏[4]・美濃延友氏・三河西郷氏・遠江植村氏・桑良氏・美濃石谷氏・三河島田氏(三河嶋田氏)・美濃森氏[5]があった。高山氏 (上野国) : 上野高山氏とも呼ばれる。丹姓秩父氏一門。秩父重綱の三男の高山重遠を祖とする。上野国緑野郡高山郷[6]を拠点とした。南北朝時代に
邦)の父。概要[]義国の次嫡子のして、父から下野国足利荘(現在の栃木県足利市周辺)を相続して、当地名を名字とした。同時に父・義国の本領である上野国碓氷郡八幡郷(現在の群馬県高崎市八幡町)を相続し、庶宗家として分家した異母兄の義重は、父とともに上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)
里見 義綱(さとみ よしつな)とは、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門の武将。約2名ほど存在する。里見義綱 (里見義秀の子) : 当主の里見義秀の子、忠義(基秀)[1]・時秀の弟、義氏の兄。里見義綱 (美濃里見氏) : 竹林義綱/高林義綱とも呼ばれる。新田氏(上野源氏)流美濃里見
をご覧ください。田中氏(たなかし)とは、源氏(陽成源氏(河内源氏)・村上源氏)一門で、約3系統が存在する。源姓田中氏とも呼ばれる。田中氏 (上野国) : 上野田中氏とも呼ばれる。新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。里見義俊の次男の田中義清を祖とする。上野国新田郡田中郷[1]を拠点
綱(盛綱)・頼季(頼重)の兄。源姓田代氏の祖となった。鎌倉頼成 : 源姓鎌倉氏(源家)一門の武将。約2名ほど存在する。新田頼成 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。万喜頼春 : 別名は頼成。土岐氏(美濃源氏)一門の万喜氏(上総源氏)の当主の万喜頼房の曾孫、頼定の
戦死し、このことを聞いた義明は激怒して、北条軍に突撃するが、その反攻に遭い呆気なく戦死した(『第一次国府台の戦い』)。新田義明 : 新田氏(上野源氏)の惣領家の新田義貞の6世の孫、義興の玄孫、義和の曾孫、義光の孫、義高の子、横瀬泰繁[6]室の父。新田氏惣領家の当主で、一族の上野細
槻氏一門の若槻義持の子、義長の弟、義繁の兄、義信の父。足利義清 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。新田義清 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。村上義清 : 頼清流信濃村上氏(信濃源氏)の当主で、村上顕国の子、義勝・義利・義照・義邦・国清(子
義広・義資・義長の兄、義久・義遠・義助の父。石橋義盛 : 義綱流美濃石橋氏の一門の盛重の子、継盛[2]の兄、忠盛の父。新田義盛 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。源行家 : 初名は鎌倉義盛、通称は新宮十郎。官職は備前守・備後守。源為義の十男(末子)、義朝(義頼
義・曾禰厳尊(玄尊)・奈胡(奈古)義行・浅利義遠(義成)・八代信清の弟、道光(僧侶)・光賢(僧侶)・遠信(僧侶)の兄。新田義氏 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。足利義氏 : 足利氏(下野源氏)一門の人物。約4名ほど存在する。関連項目[]源氏河内源氏常陸源氏甲
姓佐竹氏(常陸源氏)の一門の武将。約2名ほど存在する。足利義綱 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。里見義綱 : 新田氏(上野源氏)流里見氏一門の武将。約2名ほど存在する。脚注[]↑親清(四郎三郎)の父。↑時綱の兄。↑ 景宗の父。↑ 経長・若旅経家の父。関連項目
春義(春儀入道/長氏/春茂)の孫、清広[5]の子。佐竹義時 : 源姓佐竹氏(常陸源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。新田義時 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。足利義時 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。脚注[]↑ 義資・季義の父。↑ 通
吉見氏(武蔵源氏)の当主の吉見頼忠の孫、頼行の子、頼直・下瀬頼右(よりすけ)の弟、頼視(よりのり)・頼重・長行の兄。新田義直 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。足利義直 : 足利氏(下野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。脚注[]↑義久(頼定)の弟。関連項
源 義興(みなもと の よしおき)とは、陽成源氏(河内源氏)流の人物。約数名ほど存在する。新田義興 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。大崎義興 : 足利氏(下野源氏)一門の斯波氏(奥州源氏)の庶家である出羽大崎氏の当主の大崎義隆の子、義宗・義易・義清の弟、義成
)[1]・蓮勝房永慶[2]・岡部義綱の弟。逸見重氏 : 逸見義重の子、維長・義継の弟、義利・義直・重継の兄、重政の父。新田重氏 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。足利重氏 : 足利氏(下野源氏)当主の足利泰氏の曾孫、氏継[3]の孫、兼氏の子、俊氏の父。八島重氏
。逸見義重 : 逸見維義の子、深決(大桑)重正室の兄、維長・義継・重氏・義利・義直・重継の父、重政(重氏の子)の祖父。新田義重 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。木曾義隆[1] : 別称は義重[2]/義高[3]/義基[4]。木曾義仲と葵御前(栗田寺別当大法師範
氏(河内源氏)流の人物で、約数名ほど存在する。源義経 : 別名は義顕/義行。源頼朝の異母末弟、有朝(全成)の同母末弟。新田義顕 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。佐竹義顕 : 佐竹氏(常陸源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。足利義顕 : 足利氏(下野源氏)一
信の子、義道の父、義忠・義継(義純)[1]の祖父。佐竹義貞 : 源姓佐竹氏(常陸源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。新田義貞 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約数名ほど存在する。武田義貞 : 武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)一門の若狭武田氏の第7代目当主の武田信豊の子、信統(義統
、親朝の祖父、茂義の曾祖父、房義・義之兄弟の高祖父、房朝の6世の祖、朝利の7世の祖[7]。本家筋の源姓佐竹氏に仕えた。新田義行 : 新田氏(上野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。佐竹義行 : 源姓佐竹氏(常陸源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。六角義行 : 佐々木氏(近江源
新田 宗氏(にった むねうじ)とは、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門の武将。約3名ほど存在する。大舘宗氏 : 通称は次郎。新田氏(上野源氏)一門の大舘宗貞(宗員)[1]の子、綿打為氏[2]の弟、金谷重氏[3]・有氏[4]の兄、氏明・幸氏・宗兼・氏兼・時氏の父。妻は新田
のぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の武将で、武家貴族(軍事貴族)でもあった。官位は従四位下・前兵衛尉・右衛門少尉・陸奥守・常陸介・検非違使・上野介。桓武平氏の棟梁である平貞盛の嫡長子[1]で、生母は関口貞信の娘[2]。弟に維将(維正)・維敏・維衡らがいる。妻は藤原忠平(藤原北家)
の作品も展示された。また、会場では限定のガンプラが販売された。開幕イベントの際は『機動戦士ガンダム』生みの親である富野由悠季が招かれたほか、上野の森美術館での開催以降、富野自身の手による作品も新たに加わった。アニメをテーマとした美術展は非常に珍しく、その題材が人気作品である『機動
ときを得て 雲井にのぼる 折もありける (御子上典膳忠明)024.よしなしと 人にとがめそ めのまへに 哀れを見つゝ 過ざらめやは (清水上野介妻)025.たらちねの 親のをしえを つゝしみて 夫の為には 身をもをしまず (奥村助右衛門妻)026.君がため 数ならぬ身を すつる
辻に鎧宮八幡神社がある。前川棚(まえかわだな):現存。宅地附(宅地附耕地)(たくちつきこうち)立野(立野耕地)(たてのこうち):1987年に上野一・二丁目になった。立野堤附(たてのつつみつき):1987年に上野一丁目になった。立野川棚(たてのかわたな):現存。参考文献・ 南埼玉郡
つゆけかるべき 秋ぞとは 我が袖しらで 思ひけるかな (尾藤景綱)018.木綿かげて 夘月にまつる 神山の ならの木蔭に 夏は来にけり (上野十郎朝村)019.一声に 明くるならひの 短夜も 待つにひさしき ほととぎすかな (北条政村)020.頼むるを またいつはりと 思ひても
の 流れにも 終のあふせは おなじかのきし (小林筑後守氏則)087.越えゆかむ 死出の山路は かはるとも みつせはおなじ 法の友舟 (山名上野介重清)088.わかれては 又あふまでと 思ひきや かたみなりけり 世の乱れがみ (喜家九郎昌邑)089.から錦 立田の奥に ひとむらの