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『阪神タイガース』誕生と2度の優勝(1960年代)[]
1960年(昭和35年) ‐ セ・リーグ 3位前年度、2位阪神と13ゲーム差と断トツの優勝であった、巨人は戦力が揃わず3位に沈む。そして肝心のタイガースは、打線はチーム打率1位をマークし、藤本が本塁打王、打点王になるなど、大きな活躍を示していた。しかし投手陣が小山が25勝19敗と活躍した以外に目立った活躍が無く、特に村山が8勝15敗と2年目のジンクスに苦しんだことが大きく響き、最終3位。優勝したのは、三原監督が率いた前年最下位の大洋であった。この年と翌年は、田中に代わり金田が監督に就任している。また、この年阪急の監督を辞任した藤本定義が投手コーチとして就任している。- 個人記録
- 藤本勝巳、本塁打王 22本、打点王 76点
- 吉田義男、ベストナイン 遊撃手
- 並木輝男、ベストナイン 外野手
1961年(昭和36年) ‐ セ・リーグ 4位4月1日、球団社名が大阪タイガースから株式会社阪神タイガースと変更された。それにともない、大阪タイガースの歌も阪神タイガースの歌となり、今の歌詞となった。この年、阪神は開幕から投・打がかみ合わず連敗を重ね低迷する。6月6日には、金田監督が休養を表明し、オフにそのまま退任することになる。代わって球史に残る名将、藤本定義が投手コーチから監督代理となる。しかし、名将の指揮もシーズン途中からでは追いつかず、60勝67敗3分で12年ぶりBクラス。特に、不動の1番吉田義男の不調が響いた。
1962年(昭和37年) ‐ セ・リーグ優勝- 大洋との熾烈な優勝争いの果て、阪神タイガース優勝する
阪神タイガースは、オフに藤本定義が正式に監督に就任。名将の采配の下、開幕から巨人に2連勝し一気に勢いに乗る。後半まで大洋と首位争いをつづけるが、9月25日、26日に大洋に連敗苦しい状況に追い込まれる。しかし、大洋もその後連敗し、10月3日、阪神甲子園球場。6対0で広島を破り、15年ぶり、2リーグ制では初の優勝を果たした。村山、57試合22勝11敗、防御率首位。小山、47試合27勝11敗防御率2位。この両エースの活躍が際立った。この年、東映との日本選手権に2連勝するも引き分けの後4連敗し、日本一を逃す。10月27日、東京球場におけるデトロイト・タイガース対全日本は皇太子ご夫婦の観覧戦となった。この時の全日本投手は、村山実。そして村山はメジャーリーグに対し、日本野球史上初の完封勝利投手となった。- 個人記録
- 村山実、最優秀選手、最優秀防御率 1.20、ベストナイン 投手
- 小山正明、最多奪三振 270個、最高勝率 .711
- 吉田義男、ベストナイン 遊撃手
- 並木輝男、ベストナイン 外野手
1963年(昭和38年) ‐ セ・リーグ3位この年の2月、アメリカ、デトロイト・タイガースのキャンプに参加。しかしなんと向こうのコーチから「開幕から2ヶ月も前からハードにトレーニングする必要はないよ」とアドバイスされ、真に受けた選手たちは、昨年度優勝の慢心も加わり海外キャンプはもう旅行気分となってしまった。本格的な練習をせず、基礎づくりが間に合わなかった。結局これがひびき、阪神はスタートから不調。そのままの調子でずるずるとシーズンを終えた。ベストナインを含め、個人タイトルを一人も取れない年であった。12月26日、阪神の2枚エースの小山正明と大毎の主砲山内一弘との主力同士の交換トレードが成立した。両者ともトレード後も活躍し、理想的なトレードと評されている。
1964年(昭和39年) ‐ セ・リーグ優勝6月までは、巨人を含めた3チームの首位争いであったが、その巨人が脱落。大洋と阪神が、首位を何度も入れ替わる熾烈な優勝争いを9月下旬まで続けた。9月25日、大洋は2.5ゲーム差で首位で最後2試合が阪神との直接ダブルヘッダー対決。一試合でも勝てば、大洋の優勝が決まる。しかし、小山の抜けた後を見事に埋めたバッキーと、村山の好投で阪神勝利する。これで0.5ゲーム差に縮め、阪神も残り3試合。あと一試合も負けられない状況で、9月29日バッキー国鉄に勝率する。そして運命の9月30日、中日とのダブルヘッダーに連勝し、2年ぶりの優勝を決めた。バッキー29勝9敗、村山22勝18敗。阪神の80勝56敗4分けであったが、二人で6割以上の勝利を上げていた。特にバッキーは、巨人の王が本塁打55本の日本記録を達成したこともありMVPこそ逃したが、外人初の沢村賞を受賞した。- 猛烈日程、スタンカ、そしてあの人がタイガースに襲いかかる
この年、東京オリンピックが開催されたため、ダブル・ヘッダーで優勝を決めた9月30日の翌日には、南海との日本シリーズ(日本選手権試合)が開催されるという超猛烈な日程であった。あまりの連戦に虎戦士も完全に疲弊しており、村山が一勝もできない状態であった。それでも3勝3敗まで詰め寄ったが、パ・リーグMVP投手スタンカの押し切られた。スタンカは4勝中3勝する大活躍。また、この時タイガースの前に大きく立ちはだかったパ・リーグ2冠王の名捕手がいた。野村克也である。- 個人記録・タイトル
- バッキー、沢村賞、最優秀防御率 1.89、最多勝利 29勝、ベストナイン 投手
- 石川緑、最高勝率 .769 (10勝3敗)
- 吉田義男、ベストナイン 遊撃手
1965年(昭和40年) ‐ セ・リーグ3位村山25勝、バッキーも18勝を上げ、巨人相手にノーヒットノーランを達成するなど、投手王国を維持し続けた。チーム防御率も、優勝した前年以上の2.47とリーグ1位をキープしていた。一方チーム打率.220でリーグ最下位。吉田義男の.265がチーム首位という体たらく。これではどうしようもなかった。プロ野球創設から、数々のチームで優勝を導き、阪神にも2度の優勝をもたらした稀代の名将藤本定義。タイガースを監督最後の球団と選び、前年のシーズンをもって輝かしい監督人生を終えた…かに思えた。- 個人記録・タイトル
- 村山実、沢村賞、最多勝利 25勝、最多奪三振 205個、ベストナイン 投手
- 吉田義男、ベストナイン 遊撃手
- 山内一弘、プロ野球初の300号本塁打(7月4日、対巨人戦)
1966年(昭和41年) ‐ セ・リーグ3位この年、藤本の後に監督を継いだのは、1964年から投手コーチに入っていた杉下茂が昇格した。しかし、4月下旬に5連敗、6月下旬に6連敗。頼みの村山・バッキーもバッキーが不調。8月9日からの巨人3連戦に3タコをくらい、杉下監督心労でダウン。これにより、前年ユニフォームを脱ぎ総監督になっていた藤本が緊急に指揮を取った。この後、何とか勝ち星も増やしていったが、前半の借金が尾を引き3位がやっとの状況であった。チーム打率5位の.233と、打線がつながらない状況は続いた。しかし、そんな状況でも、村山実は24勝と2年連続の最多勝をあげ、沢村賞も2年連続獲得した。- 個人記録・タイトル
- 村山実、沢村賞、最多勝利 24勝、最多奪三振 207個、ベストナイン 投手
1967年(昭和42年) ‐ セ・リーグ3位新人江夏豊が入団。初年度から、村山の18勝に続く球団2位の12勝をあげる。また最多奪三振225個を記録する。また野手でも、2年目の藤田平が球団3位の.291の打率と本塁打16本をあげるなどの活躍を見せた。オールスターやベストナインにも選ばれ、プロ野球史上最高のショートストッパー・吉田義男から、見事に遊撃手の座を継承した。9月23日、大洋戦。ふり逃げをめぐりるトラブルを発端に、阪神に対し放棄試合が宣告される。- 個人記録・タイトル
- 藤田平、最多安打 154本、ベストナイン 遊撃手
- 権藤正利、最優秀防御率 1.40
- 江夏豊、最多奪三振 225個
1968年(昭和43年) ‐ セ・リーグ2位開幕5連敗でこの年をスタートした阪神。懸念の打撃不振はこの年も続く。頼みの投手陣も村山が前半戦不調で、6月には右手首炎症で入院し、7月まで戦線離脱するという事態にまで陥った。8月にはやっと調子を取り戻し、7連勝、1敗後の9連勝、月間でも19勝2敗。8月はじめに10.5ゲーム差あった首位巨人に、1.5ゲーム差まで猛追した。しかし、そこで夏の疲れがたまってきたのか、9月には勢いが止まり、28日からの巨人直接対決で、連投の江夏が打ち込まれ負け越し、終戦を迎えた。最終的に5ゲーム差の2位。この年、村山が前半不調も15勝8敗の好成績を残す。さらには、2年目の江夏が、数々のタイトルや三振記録を築き、新たな阪神のエースとなった。残念なことに、オフに近鉄へ移籍したバッキーであるが、阪神での最後のシーズンも13勝をあげ、8年連続2桁勝利を記録した。チーム防御率も2.67とセ・リーグ1位であった。一方打撃陣は、チーム打率.229と低迷し、長年球団が抱えている最大の課題を解決できていなかった。- 個人記録・タイトル
- 江夏豊、最多勝利 25勝、最多奪三振 401個(日本新記録)、最優秀投手賞、1試合16奪三振のセ・リーグタイ記録(8月8日、対中日戦)
1969年(昭和44年) ‐ セ・リーグ2位この年、防御率1位から3位までを江夏、村山、鈴木と阪神の選手が独占した。しかし一方、積年の課題低調な打線は、チーム打率.222と一向に回復の兆しを見せなかった。これが足をひっぱり、防御率2位、3位の村山、すずきまで負け越すという状態にまで陥った。シーズンを通じて、巨人との競り合いを続けるも、この状況では勝ちきれず、最終的に6.5ゲーム差をつけられ2位。藤本が、前年度で監督を引退し、後藤監督へと継承された。さらなにこの年、エース村山と、史上最高のショート吉田義男が、将来の球団幹部育成のため兼任コーチとなった。田淵がドラフト1位で加入。初年度から本塁打22本、打点55をあげ新人賞を獲得。一方、1954年に新人王を獲得した、牛若丸・吉田義男がこの年オフに引退する。- 個人記録・タイトル
- 田淵幸一、最優秀新人
- 江夏豊、最優秀防御率 1.81、最多奪三振 262個
- 藤田平、ベストナイン 遊撃手
参考情報[]
- 「阪神タイガースヒストリー」『阪神タイガース公式サイト』
- 松木謙治郎 『大阪タイガース球団史 - 1985年度版』桓文社、1985年、ISBN 4-7704-0634-7
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- 1960年‐1961年‐1962年‐1963年‐1964年‐1965年‐1966年‐1967年‐1968年‐1969年
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