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藤村監督問題(ふじむらかんとくもんだい)とは、1956年のオフに球団全体を巻き込んだ一大騒動である。藤村監督排斥事件、藤村排斥騒動などともいう。
1955年より阪神電鉄本社から送られてきたフロントが、大阪タイガースの選手の給料を抑える施策をとっていたこともあり、選手たちには球団運営に対して大きな不満が抱えていた。この不満が爆発し、金田正泰主将はじめ選手達から藤村監督解任要求をそのフロントに出すという事態が発生した。
その事態をデイリースポーツ(大阪本社版)が1956年11月10日にスクープした。これに契機に、事態単なる球団内のトラブルの枠を超え、報道、球界、社会全体を巻き込こんだ、劇場型お家騒動となっていった。
松木謙治郎が監督の頃は、監督を軸にまとまっていた大阪タイガースであったが、1954年の辞任以降、球団選手内で派閥が発生していた。大きく分けると球団方針に従順な藤村派と、それ以外の3つの派が存在していた。事態の背景には、この3つの派が結束し、監督辞任要求を出していた。
運動の中心となったのは金田派であった。この派閥から運動に参加した選手達の目的は、純粋に「賃上げ要求」のようである。ただ領袖であった金田自身は、比較的給料の高い位置にあり、藤村とも仲が悪いわけではなかった。そのため金田本人は、今の選手会長のような立場で動いていたと思われる。
青木派[]この運動を影から支え、絵を描いていたのは、名スカウト青木一三のようである。青木がひっぱってきた若手選手がこの派を支えていた。若手選手も活躍すれども年俸が上がらない状況に不満を持っており、直接スカウトしてきた青木もそれを責任に感じていた。青木本人は、この問題を以前から予見していたと言われる。
真田派[]真田重男が中心のグループ。和歌山出身の甲子園スターが中心であった。藤村には、選手の状態を考えず、故障を呼んでしまうことがあったため、真田はその采配に不満をもっていた。さらに、藤村の個性も、鼻についたようである。金田派とは解任要求への主目的は異なり、本気で監督解任が目的であったようである。
当然藤村を中心としたグループ。藤村にしてみれば、金銭には特に固執しない性格もあり、毎年の契約更改で球団側から提示された年俸金額をいつも即契約していただけであった。しかしそれは、他の選手から見れば、トップ選手の藤村の年俸が抑えられていたため、それがために自分達の金額も上がらないのだという不満があった。また選手の待遇に対する不満に対し、何らの手も打ってくれないため、その矛先が向けられた。(カリスマ的監督であった松木謙治郎であれば、選手の矢面に立って戦う姿勢を見せていたことも、藤村に物足りなさを感じた要因もあったと思われる)
本社フロント・球団代表[]この事態に際し、本来であればその収拾を図るべき立場にいた田中義一球団代表が、当時入院していたことも事態激化の一因となった。そこで急遽、戸沢一隆が新代表として就任し事にあたった。戸沢は、当時野球に関しては素人であったが、事態解決に大きな役割を果たすことになる。
選手にすれば、監督解任もあくまで名目で、金銭面での不満が主な動機であった。その不満も、戸沢新代表が個々の選手から丁寧に拾い上げ説得していったことで、徐々に解消されていった。むしろ不満を懐に溜めて鬱屈とするよりも、騒動によりエネルギーを使い果たしたために、結果的にすっきりしたという面もあったかと思われる。
また解任を出された藤村も、戦前・戦後の動乱期のタイガースを支えた人物で肝が据わっており、反藤村運動のトップであった金田とも仲が悪いわけでもなかったので、藤村は解決後には禍根を感じていない様子であった。また歴史的に個性の強い選手を数多く輩出していたタイガースには、喧嘩は喧嘩、野球は野球という精神が、早くから根付いていたのだと思われる。
そのため事態収拾後はチームは元の雰囲気を取り戻し、翌年のペナントレースも巨人との優勝争い(2位)を続けることができた。
この事態解消に大きな役割を果たした戸沢は、その後も選手の声を良く聞き、本社に対しても交渉をする態度を続け、選手の給料も大幅に改善していった。選手の強い信任を得た戸沢は、その後20年間も球団代表を務めた。
ただ解任要求まで出された藤村監督は、球団・球界からの信任を落とし、1957年オフの監督解任、1958年の退団と続き、そしてその後の処遇は決して前向きなものではなかった。
本社フロントも選手からの信任がなく、翌年わずか2年という短期で役職を外されている。
運動の中心であった金田も、若手選手からすると途中で球団サイドに寝返ったと見られたようである。そのため、その後の選手からの信任は今一歩であり、数年後に金田監督が実現したさいも、選手からの信頼が薄くわずか2年の短命に終わった。
真田は、藤村が監督である限り球団にいられないとして引退。青木は当初から計画していた通り大映へ移った。
当時3年目選手としてこの運動に参加していた吉田義男は、運動に参加したことに関し、藤村と球団に対し深く後悔していると後に語っている。
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