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テンプレート:未検証テンプレート:野球選手記事
阪神タイガース #6 | |
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ファイル:HT-Tomoaki-Kanemoto.jpg | |
基本情報 | |
国籍 | 日本の旗 日本 |
出身地 | 広島県広島市南区 |
生年月日 | 1968年4月3日(55歳) |
身長 体重 | 180cm 85kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 左翼手 |
プロ入り | 1991年 ドラフト4位 |
初出場 | 1992年6月2日 |
年俸 | 4億円+出来高(2011年)[1] |
経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。 ■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
金本 知憲(かねもと ともあき、1968年4月3日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(外野手)。ファンやマスコミからの愛称はアニキ(兄貴)など、友人からはかねもっちゃん、カネ。
右投げ左打ちの打者としては日本プロ野球歴代最多の本塁打を放っており、連続フルイニング出場試合数、連続出場イニング数の世界記録保持者。日本プロ野球の連続試合出場記録では現役最多、歴代2位である。
広島県広島市南区青崎出身。広島市立青崎小学校4年時にリトルリーグの広島中央リーグで野球を始めたが、練習についていけず1年で退部。その後は町内会のソフトボールや広島市立大州中学校の軟式野球部でプレー。広陵高校に進学し硬式野球部に入部、2年からクリーンナップに座り外野手・三塁手・投手を兼任したが、当時は同校の低迷期で甲子園出場はなかった。高校通算20本塁打。
その後、中央大学硬式野球部のセレクションを受験するが学業成績があまりにも不良であったため不合格となり、1年間の浪人生活を経験した。この間、ヤクルトスワローズの入団テストを受けたがまたも不合格。失意の中、知人から当時は無名だった東北福祉大学を紹介され一般受験で入学。恩師として名前を挙げる伊藤義博監督の下で1年からレギュラーとなり佐々木主浩、大塚孝二、矢野輝弘、斎藤隆、浜名千広ら後にプロ入りするメンバーと共に主力として4年連続で全日本大学野球選手権大会に出場。テンプレート:By第37回大会では決勝で近畿大学に逆転負けを喫して準優勝。第38回大会では連続優勝した近畿大学に3回戦で敗れ、第39回大会では小池秀郎、高津臣吾、川尻哲郎らを擁する亜細亜大学に決勝で敗れて準優勝。翌テンプレート:By、4年時の第40回大会では3度目の決勝で関西大学と延長17回の末に勝利し初優勝を達成。左手首をはく離骨折していながら勝ち越しの2点適時打を放ち、初優勝の立役者となった。同年、第20回日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、チームの勝利に貢献。後にチームメイトとなる桧山進次郎と同室になり、本人曰く「人に話せないようなことを色々した」という。これが縁となって阪神入団後に雑誌で2人の対談が行われた。この部屋で洗濯係だった鳥越裕介は「金本さんにめちゃくちゃいじめられた」と後に語っている。秋のドラフト会議で広島東洋カープから斉藤肇の外れ4位指名を受け入団。
入団後の2年間は芽が出ず年下の前田智徳、江藤智らに追い抜かれ、打撃は当時のコーチから「転がして足を活かせ」と言われるほど非力で、外野守備も送球を地面に向かって投げてしまう悪癖から「モグラ殺し」のあだ名を付けられるなど、本人曰く「クビを覚悟していた」という。それらの悔しさから筋力トレーニングを本格的に取り入れ、地道な身体作りを行う。山本一義コーチと出会ったことも転機となり、テンプレート:By後半から頭角を現し17本塁打を放つなどレギュラーに定着。テンプレート:Byにベストナインを受賞。以降、主に5番打者としてテンプレート:Byに初の打率3割を記録すると、テンプレート:Byには2年連続3割、初の30本塁打を達成、テンプレート:Byは規定打席には達したものの、成績は前年に比べて大幅に落ちた。7月5日の阪神12回戦で舩木聖士から死球を受け、試合は最後まで出たものの腫れが引かず、翌日からの2試合を欠場。10日の対ヤクルトスワローズ15回戦から復帰して以降は2010年途中まで連続フルイニング試合出場を続けた。テンプレート:By4月24日にはサイクル安打を達成し、初の全試合出場をするなど復活。
テンプレート:Byに前年まで不動の4番だった江藤が読売ジャイアンツにFA移籍したことで4番に抜擢され、史上7人目のトリプルスリーを達成。テンプレート:Byには39年ぶりに毒島章一の記録を大きく更新する1002打席連続無併殺打の日本記録を樹立。また出塁率でも.463と驚異的な数値を記録し、松井秀喜と分けてロベルト・ペタジーニに次ぐ2位に入った。出塁率.450以上が2人以上出るのは日本プロ野球史上初めてのことであったが、この年は一気に3人も出すほど歴史的な出塁率争いであった。
テンプレート:Byオフ、FA権の行使に悩み球団幹部に「今季は成績が悪かったので年俸は1,000万円減で構わないが、FAの再契約金を100万円でいいから出してほしい」と相談した。しかし、球団は厳しい財政事情から再契約金高騰の前例が作られることを懸念してFA権を行使しての残留は認めない方針を曲げなかったため、最終的にFA権利を行使して阪神へ移籍した。
テンプレート:Byに阪神の球団改革の一端として移籍し、「過去に藤田平、和田豊らが付けていた背番号6を引き継げて嬉しい」と話し阪神ファンの心を掴んだ。もっとも、本当は大学時代の背番号だった5番を付けたかったと話しており、当時阪神への移籍が取り沙汰されていた中村紀洋のため6番にしたという。かつて広島から巨人にFA移籍した川口和久や江藤が広島市民球場で激しく野次られるのを見ていたため自分も野次られるのではないかと恐れていたが、移籍後初の広島市民球場での試合で逆に声援を受け安堵したと語っている。同年は開幕から3番に定着し、2番赤星憲広をアシストして盗塁王獲得に協力するとともに主軸として活躍し、18年ぶりのリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは4本塁打、3試合連続本塁打、1試合2本塁打と3つのシリーズタイ記録を達成したが、チームは日本一に届かなかった。
テンプレート:Byは岡田彰布新監督の意向で開幕から4番として起用され長打を量産。7月29日の対中日ドラゴンズ戦で左手首に死球を受け軟骨損傷をした後は自分のものより軽い久慈照嘉のバットを借りて出場を続け、8月1日には連続試合フルイニング出場の日本新記録を樹立。最終的に打率、本塁打(1999年と同数)、打点の3部門で自己最高記録を達成し、初タイトルとなる打点王を獲得する。左手首の故障についてシーズン後「この時だけは記録のために出続けた」と語ったが、故障後は本塁打のペースこそ落ちたが打率はむしろ上がっていた。
テンプレート:By6月10日の対北海道日本ハムファイターズ戦で入来祐作から本塁打を放ち史上4人目の全球団から本塁打を達成。過去の3人はいずれもセ・パ各4球団以上に所属して記録したが、金本は同年から導入された交流戦のおかげで2球団に所属しただけで達成できた。6月28日には米子市民球場での対広島戦で本塁打を放ち、現役選手では最多の32球場でアーチをかけた。この記録は2007年に田中幸雄が33球場で本塁打を放ち現役1位は一旦譲ったが、田中が同年限りで引退し再び現役1位となっている(日本記録は山内一弘の39球場)。8月11日の対中日戦では1,000試合連続出場、8月25日の対広島戦で1,000得点、9月9日の対広島戦で1,000打点、10月4日に阪神ではテンプレート:Byのランディ・バース以来、日本人選手ではテンプレート:Byの掛布雅之以来、阪神甲子園球場のラッキーゾーン撤廃後は初となる40本塁打を達成。打率、本塁打、打点の3部門で前年の自己記録を更新し、チームも優勝してMVPに選ばれた。
テンプレート:By3月31日にカル・リプケンの8243イニング連続出場を更新。4月9日の対横浜ベイスターズ戦でリプケンを抜く、904試合連続フルイニング出場の世界新記録を達成し、8月15日に同カード、同球場の試合で1,000試合に伸ばした。オフの契約更改では推定年俸5億5,000万円と日本人選手では球界トップとなった。
テンプレート:By7月8日の対中日戦で1死満塁から金本の安打で生還しなかった二塁走者の鳥谷敬に対し「あのヒットで1人しか還ってこれないなんてもったいない」「足の速い若い選手が緊張感とか集中力がないのかなと思う」と叱咤。それまで後輩に対して苦言を呈することはあまりなかったことから、翌日のスポーツ新聞各紙では大きく取り上げられた。同年はシーズン中に左膝半月板損傷の大怪我をしながら2004年同様強行出場を続け、31本塁打95打点を記録したが打率は.265と4年ぶりに3割を下回った。なお、左膝はオフの10月に人生初という手術を受けた。
テンプレート:Byは左膝のリハビリテーション優先のため1月後半からアメリカに滞在し、2月後半の安芸キャンプからチームに合流。4月6日に1999本目の安打を記録してから3試合18打席無安打だったが、4月12日の対横浜戦で史上37人目の通算2000本安打を達成、リーチをかけてから連続打席無安打の歴代最長記録だった。この試合では広島からFA移籍したばかりの新井貴浩も1000本安打を達成した。5月13日の対広島戦では阪神所属(達成時点)及び右投げ左打ちの選手として初の通算400本塁打を達成した。6月に自身3度目となる月間MVPに選出され、最終的に2年ぶりに3割、3年ぶりに100打点に到達した。オフには2年連続で左膝の手術をした。また、現役選手でありながら同年からエイベックス・エンタテインメントとマネジメント契約を結んだ。
テンプレート:Byは手術の影響でオープン戦にはほとんど出場できなかったが、41歳の誕生日でもある4月3日に行われた東京ヤクルトスワローズとの開幕戦でリーグ最年長記録となる開幕戦本塁打を放った。4月8日の対広島戦、4月10日の対巨人戦で3打席連続本塁打を記録し、史上初となる月間2度の3打席連続本塁打を達成した。得点圏で27打数13安打21打点と好調だった4月には、自己最多となる月間30打点を記録し、自身4度目となる月間MVPに選出された。しかし5月以降の月間打率は全て2割台前半で最終的には移籍後ワーストとなる打率.261で、本塁打数も21本だった。
テンプレート:Byは順調なキャンプを送ったが、3月17日、ヤクルトとのオープン戦前の練習中に味方選手と激突して右肩を痛め[2]、後の診断で右肩の棘(きょく)上筋部分断裂という重傷であることが判明[3]。それでも試合出場は続けていたものの、4月14日の対巨人戦で犠牲フライを本塁に返球できなかったり[4]、17日の対横浜戦では二塁走者の生還を二度許したりするなど満足な送球ができず、打撃でも打率.167と不振であったため[5]、翌18日の試合前に真弓明信監督に「これ以上出ても迷惑をかける」と自ら申し出て[4][6]スタメンから外れた。これにより連続試合フルイニング出場の記録は1,492試合で止まり、同年5月15日にギネス・ワールド・レコーズによって世界記録に認定された。それ以降は下記の2011年4月15日まで毎試合代打で出場させて連続試合出場は継続した。ただし、金本の記録のために、試合中の選手の起用方法に悪影響を与えた可能性も指摘されている[7]。
スタメン復帰した時期もあったが結局最後まで調子が上向くことはなく、守備面でも補殺0、打率(規定打席数未到達)、本塁打、打点全て阪神移籍後最低の成績に終わった。この年の規定打席未到達で全試合出場はNPB史上初の珍記録となっている。また、中日戦の成績は.096(52-5)、打点1、16三振であった。連続試合出場と関係の無いクライマックスシリーズファーストステージ第2戦では出場機会が無かった。この時期、金本の右肩は棘(きょく)上筋が完全に断裂していた状態であったとも言われている。
テンプレート:By4月15日の中日戦で、8回表二死一塁で投手の代打として途中出場。しかし打席中に一塁走者の俊介が盗塁失敗しイニングが終了、打席未完了のまま真弓監督は金本に代え投手を出したので、連続出場記録がこの日に1,766試合で途絶えた(この場合のルール上、試合出場は記録されるが、連続試合出場記録には反映されないため[8])。
両親は韓国人で、金本は在日韓国人3世にあたる。2001年に日本人女性と結婚するにあたり、日本に帰化した[9][10]。帰化前の本名は金知憲(キム・ジホン/김지헌)。広陵高校時代の1986年に在日韓国人学生野球団の一員として渡韓した経験を持つ[11]。
少年時代に博成(ひろなり)から知憲に改名している。ファンやマスコミからは「兄貴」と呼ばれるが、実生活では4人兄弟の末っ子である。公私混同を嫌い、2001年に結婚した際も夫人を写さないことなどを条件に取材を受けている。
広島中央リーグ時代のチームメイトに野村弘樹と山本圭一がおり、山本の実家には当時の写真が保管されている。『極楽とんぼのとび蹴りヴィーナス』に山本の弟分として出演し、加藤浩次と野球で対決した。結果は外野フライで、怒った山本に鼻くそを付けられそうになった。また、高校時代のライバル校県立広島工業高校には同学年の高津がいたが、高津の方が控えで直接対決はなかった。広島在籍時には一緒に飲むこともあったという。野球界の他では島田紳助と仲が良い[12]。
明るくチームのムードを大事にし、多くのチームメイトにいたずらを仕掛ける。和田豊コーチによると「調子の良さに比例していたずらも増える」とのこと。そのいたずらの矛先は新井貴浩はもちろん、2006年までヘッドコーチ、2010年に2軍監督だった平田勝男にまで向けられたことがあり、実際TVインタビューのオチで「でも何で平田さん(2010年で)クビになったんですかね?」と言うこともあった。連続フルイニング出場試合数の世界新記録達成時には「セレモニーを見て、オレ引退するのか?と思った」と発言するなどインタビューでも度々ジョークを言う。
1学年上の桑田真澄と清原和博のKKコンビは当時多くの高校球児にとって憧れの存在で、金本も高校入学前の春休みに甲子園へ清原を見に行くなど学生時代は清原マニアであったことを自認しており、常々「俺のアニキは清原さん」「俺にとってのスーパースター」と公言している。現在は清原自身と深い交友関係にあり、清原の引退試合に駆けつけ花束を贈呈した際には頭が真っ白になったという。
甲子園では「金本兄貴のスタミナハラミ丼」という弁当が販売されている。金本が大学時代によく食べていたという弁当を本人の協力をもとに再現したものであるが、大学でルームメイトだった大塚光二からはe2 by スカパー!のe2プロモチャンネル内で同弁当が紹介されたときに「食べているのを見たことない。アイツそんな金あったのか?」と言われている。
肉体年齢は25歳前後と診断されたこともあるテンプレート:いつ。年中筋力トレーニングに励み、体脂肪率は8~9%を維持している。一方でビールは水のように飲み、好物の芋焼酎「森伊蔵」の酒量もさほど減っておらず、「ストイックなタイプではなく、後輩の新井をよく弄る」と自認する。しかし上記のようなトレーニングをはじめ、サプリメント、鍼灸、アンチエイジング治療、どんなに飲んでいても自分が決めた睡眠時間はキープするなどの体調管理が肉体を支えている。自身が通っているスポーツジム「アスリート」の金本専用ベルトには、広島時代の背番号10と共に名前が書いてあり、名前の上に「ヒクソン・グレイシー」とフリガナが振られている。
1996年に巨人が首位広島に付けられた11.5ゲーム差をひっくり返して優勝したメークドラマと2008年に巨人が首位阪神に付けられた13ゲーム差をひっくり返して優勝したメークレジェンドの双方を、逆転される側として経験した唯一の選手である。
最後のフルイニング試合で着用していたユニホームや手袋などは、甲子園歴史館での一時展示を経てアメリカの野球殿堂館に寄贈されている。また、無類の餃子好きであり、新井とともに甲子園付近の店で、餃子を食べる姿をしばしば目撃される。
1992 | 広島 | 5 | 5 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .250 | .000 | .250 |
1993 | 42 | 95 | 89 | 9 | 17 | 3 | 0 | 4 | 32 | 9 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 1 | 16 | 4 | .191 | .242 | .360 | .602 | |
1994 | 90 | 293 | 257 | 41 | 69 | 14 | 2 | 17 | 138 | 43 | 2 | 0 | 3 | 2 | 31 | 2 | 0 | 64 | 3 | .268 | .345 | .537 | .882 | |
1995 | 104 | 438 | 369 | 72 | 101 | 15 | 1 | 24 | 190 | 67 | 14 | 10 | 0 | 3 | 61 | 2 | 5 | 78 | 5 | .274 | .381 | .515 | .896 | |
1996 | 126 | 511 | 423 | 84 | 127 | 18 | 2 | 27 | 230 | 72 | 18 | 7 | 0 | 7 | 77 | 2 | 4 | 104 | 2 | .300 | .407 | .544 | .951 | |
1997 | 133 | 552 | 465 | 77 | 140 | 17 | 2 | 33 | 260 | 82 | 13 | 9 | 0 | 4 | 80 | 5 | 3 | 104 | 8 | .301 | .404 | .559 | .963 | |
1998 | 133 | 573 | 499 | 77 | 126 | 33 | 3 | 21 | 228 | 74 | 9 | 6 | 0 | 1 | 68 | 0 | 5 | 94 | 2 | .253 | .347 | .457 | .804 | |
1999 | 135 | 576 | 502 | 84 | 147 | 21 | 2 | 34 | 274 | 94 | 10 | 3 | 0 | 1 | 70 | 1 | 3 | 92 | 3 | .293 | .382 | .546 | .928 | |
2000 | 136 | 588 | 496 | 96 | 156 | 20 | 2 | 30 | 270 | 90 | 30 | 10 | 0 | 4 | 80 | 7 | 8 | 101 | 2 | .315 | .415 | .544 | .959 | |
2001 | 140 | 615 | 472 | 101 | 148 | 28 | 1 | 25 | 253 | 93 | 19 | 9 | 0 | 6 | 128 | 16 | 9 | 69 | 1 | .314 | .463 | .536 | .999 | |
2002 | 140 | 604 | 540 | 80 | 148 | 30 | 2 | 29 | 269 | 84 | 8 | 5 | 0 | 2 | 60 | 4 | 2 | 99 | 5 | .274 | .348 | .498 | .846 | |
2003 | 阪神 | 140 | 632 | 532 | 94 | 154 | 24 | 2 | 19 | 239 | 77 | 18 | 4 | 0 | 2 | 93 | 5 | 5 | 89 | 6 | .289 | .399 | .449 | .848 |
2004 | 138 | 613 | 521 | 92 | 165 | 32 | 4 | 34 | 307 | 113 | 5 | 0 | 0 | 8 | 79 | 2 | 5 | 100 | 10 | .317 | .406 | .589 | .995 | |
2005 | 146 | 662 | 559 | 120 | 183 | 35 | 3 | 40 | 344 | 125 | 3 | 1 | 0 | 2 | 98 | 4 | 3 | 86 | 6 | .327 | .429 | .615 | 1.044 | |
2006 | 146 | 634 | 545 | 85 | 165 | 24 | 4 | 26 | 275 | 98 | 2 | 2 | 0 | 5 | 79 | 18 | 5 | 98 | 5 | .303 | .393 | .505 | .897 | |
2007 | 144 | 624 | 533 | 74 | 141 | 17 | 3 | 31 | 257 | 95 | 1 | 0 | 0 | 7 | 81 | 11 | 3 | 113 | 9 | .265 | .361 | .482 | .843 | |
2008 | 144 | 623 | 535 | 87 | 164 | 33 | 2 | 27 | 282 | 108 | 2 | 1 | 0 | 8 | 77 | 9 | 3 | 99 | 8 | .307 | .392 | .527 | .919 | |
2009 | 144 | 619 | 518 | 66 | 135 | 37 | 0 | 21 | 235 | 91 | 8 | 1 | 0 | 8 | 88 | 6 | 5 | 98 | 7 | .261 | .368 | .454 | .822 | |
2010 | 144 | 396 | 353 | 39 | 85 | 12 | 0 | 16 | 145 | 45 | 1 | 1 | 0 | 1 | 39 | 0 | 3 | 90 | 3 | .241 | .321 | .411 | .732 | |
2011 | 122 | 372 | 348 | 27 | 76 | 11 | 1 | 12 | 125 | 31 | 1 | 1 | 0 | 0 | 24 | 4 | 0 | 53 | 5 | .218 | .269 | .359 | .628 | |
通算:20年 | 2452 | 10025 | 8559 | 1406 | 2447 | 424 | 36 | 470 | 4353 | 1491 | 164 | 71 | 4 | 71 | 1319 | 98 | 72 | 1649 | 94 | .286 | .383 | .509 | .892 |
---|
年 度 | 外野 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
1992 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 |
1993 | 26 | 38 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
1994 | 82 | 155 | 3 | 0 | 0 | 1.000 |
1995 | 102 | 178 | 5 | 1 | 0 | .995 |
1996 | 121 | 227 | 6 | 3 | 3 | .987 |
1997 | 128 | 225 | 9 | 4 | 1 | .983 |
1998 | 131 | 209 | 11 | 5 | 1 | .978 |
1999 | 135 | 197 | 10 | 6 | 1 | .972 |
2000 | 136 | 226 | 4 | 6 | 0 | .975 |
2001 | 140 | 200 | 5 | 3 | 0 | .986 |
2002 | 140 | 205 | 8 | 2 | 2 | .991 |
2003 | 140 | 222 | 9 | 6 | 0 | .975 |
2004 | 138 | 186 | 12 | 10 | 3 | .952 |
2005 | 146 | 197 | 8 | 2 | 3 | .990 |
2006 | 146 | 204 | 6 | 3 | 1 | .986 |
2007 | 144 | 186 | 9 | 1 | 1 | .995 |
2008 | 144 | 193 | 4 | 2 | 0 | .990 |
2009 | 144 | 184 | 2 | 7 | 1 | .964 |
2010 | 73 | 90 | 0 | 4 | 0 | .957 |
2011 | 101 | 81 | 0 | 2 | 0 | .976 |
通算 | 2418 | 3403 | 111 | 67 | 17 | .981 |
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テンプレート:名球会
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テンプレート:広島東洋カープ1991年ドラフト指名選手
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阪神タイガースが正式承認した阪神タイガース(はんしん-)という芋焼酎が存在する。製造元は小正醸造株式会社。蔵は日置蒸溜蔵謹譲。アルコール分25%。芋焼酎で飲むとしっかりと芳醇な香りが鼻をぬけるが、意外...
テンプレート:出典の明記阪神タイガース会社名株式会社阪神タイガース創設年度1935年所属リーグセントラル・リーグ歴代チーム名大阪タイガース(1935年 - 1940年途中)阪神軍(1940年途中 - ...
1990年代は阪神タイガースの不甲斐なさが目立ったが、それを象徴する言葉のひとつが阪神13位(はんしん-い)である。対たけし軍団[]1991年、ファン感謝デーの余興として阪神タイガース一軍はたけし軍団...
開幕戦で初回先頭打者ホームランは、1955年4月5日、対大洋戦、金田正泰が浜松球場にて記録している。ちなみにこの試合は12-2で大阪タイガースが勝利している。勝利投手、西村一孔。監督、岸一郎。また、2...
長谷川 尚生(はせがわ ひさお、1969年8月10日 - )とは、1988-1989年に阪神タイガースに在籍していた選手である。ポジションは投手、外野手。背番号64。右投右打。富山県入善高校出身。19...
銀傘(ぎんさん)は阪神甲子園球場内野席についている雨よけ、日よけの覆いのことである。バッターボックスより後ろは銀傘によって日が当たらないようになっている。また、内野席の大部分も、銀傘によって雨風も当た...
2002年オフ、FA権を取得した金本知憲が広島カープから阪神タイガースに移籍した。金本は、広島生まれで広島カープに育てられたと思っており、根っからのカープの選手であった。FA権取得した当初も、広島残留...
テンプレート:未検証テンプレート:野球選手記事金本 知憲阪神タイガース #6ファイル:HT-Tomoaki-Kanemoto.jpg基本情報国籍日本の旗 日本出身地広島県広島市南区生年月日1968年4...
連続無併殺(れんぞくむへいさつ)は金本選手が有している日本記録である。概要[]プロ初試合から起算してダブルプレーに打ち取られない。金本選手は1002試合連続でダブルプレーにならなかった。特に記載のない...
西村 幸生(にしむらゆきお、1910年11月10日‐1945年4月3日)とは、戦前大阪タイガースに所属していた、名投手である。右投右打。学生時代は、東西交流戦において東京六大学全てに勝利をおさめた関西...