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テンプレート:Sakujo/本体テンプレート:Copyrightsテンプレート:野球場情報ボックス阪神甲子園球場(はんしんこうしえんきゅうじょう)は、兵庫県西宮市甲子園町にある、阪神電気鉄道が所有する野球場。通称「甲子園球場」または「甲子園」。
全国中等学校優勝野球大会の開催を主目的に建設された日本で最初に誕生した大規模多目的野球場であり、収容人数は日本の野球場の中で最大である[1]。プロ野球セ・リーグの阪神タイガースの本拠地球場(専用球場)として知られているほか、全国高等学校野球選手権大会および選抜高等学校野球大会という2大高校野球全国大会が戦前から優先的に開催されており、大学野球における明治神宮野球場と並び、日本国内では「野球の聖地」と称される。この球場の名称である「甲子園」が高校野球全国大会の代名詞となっており、そのことに端を発して今や野球に留まらず高校生の各種全国大会の代名詞として「○○甲子園」などと使われることがある。近年は大学野球の試合にも使用され、毎年春・秋に開かれる関西六大学野球連盟と、関西学生野球連盟リーグ戦の一部試合が当球場にて実施されている。野球以外では、アメリカンフットボールの全日本大学選手権の決勝戦である甲子園ボウルが開催されている。
2007年秋より、老朽化対策、耐震補強、快適性の向上、環境への配慮を目的に3年計画でオフシーズンのみの改修工事を進め、2009年春に球場本体の改修工事が完了、2010年春には外構整備工事を完了させ、大幅にリニューアルした。また、2008年からは野球場としては日本では珍しいオフィシャルスポンサー制度を採用しており、2011年3月現在はアサヒビール・東芝・ミズノ・みずほ銀行(以上4社は当初より)・三菱電機(2009年より)・本田技研工業(2010年より)の6社がスポンサーとなっており、いずれの企業も施設命名権ないし球場設備に関わっている。
紙テープ、紙吹雪、ウェーブによる応援は常時禁止されている。また周囲が住宅地であるため、環境に配慮して午後10時以降はトランペット・太鼓を使った鳴り物応援は禁止となる。ただし、阪神勝利時の六甲おろしは午後10時以降でも合唱される。
この球場の広さから、関西では敷地などの面積を示す際に慣用単位として大阪ドームよりも「甲子園球場○個分」という表現が使用されるのが定番となっている[2]。
大正年間に始まった全国中等学校優勝野球大会は、豊中球場に始まり第3回大会から兵庫県武庫郡鳴尾村(1951年に西宮市と合併)にある鳴尾球場で開催されていたが、人気の高まりにつれ同球場の仮設スタンドでは大勢の観客を収容しきれなくなっていた。後に試合中に観客がグラウンドになだれ込んで試合が中断するという事態にまで発展し、特に1923年の第9回大会では鳴尾球場に近い地元甲陽中が決勝戦で和歌山中との近畿対決を制したことから、中等学校野球人気がピークに達した。
この事態を重く見た主催の大阪朝日新聞は、本格的な野球場建設を提案。また鳴尾球場の所有者である阪神電鉄も、鳴尾球場と同じ鳴尾村に流れていた申川(さるかわ・武庫川の支流)を廃川とした後にできた埋め立て地の開発の一環で新球場の計画を進めていたため、利害関係が一致した。当時国内にあった野球場では参考になるものがなく、ニューヨークにあったニューヨーク・ジャイアンツの本拠地、ポロ・グラウンズをモデルに設計されたと言われている。完成するまでは枝川運動場と名づけられていたが、この年が十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねのとし)という60年に1度の縁起の良い年であることから、後に甲子園大運動場(こうしえんだいうんどうじょう、看板表記は阪神電車甲子園大運動場)と命名された。起工式は1924年3月11日に行われ、同年8月11日に竣工式が行われた。
当初は陸上競技場や球技場としても利用されることを念頭に設計されたため、グラウンドは三角形で、ポール際のコーナーが丸みを帯びるという形状で、中堅119ないし120m・両翼110mに対し左右中間が128mもあるという、現在の目から見ても過大といえるサイズとなった[3]。さらに1934年にはホームベースがさらに9m程下げられたため、同年の日米野球に出場したベーブ・ルースをして"Too large."(デカすぎだ)と驚かせている。開設当時はまだ外野も土のままであった。また、スタンドは「5万人収容」と公称され、グラウンドの内野にあたる部分のみが鉄筋コンクリート製(50段、高さ14.3m)であり、現在のアルプススタンド、外野スタンドは土盛りの上に20段の木造スタンドがあった。内野席全体(現在のアルプススタンドを除く)には鉄傘が設置された。こけら落としは阪神間学童運動会で、同年夏から全国中等学校優勝野球大会の会場となった。また、大阪毎日新聞が主催していた日本フットボール優勝大会(サッカー、ラグビーの全国大会、詳細は後述)や選抜中等学校野球大会も翌年から開催されている。
球場完成後も周辺の開発が阪神電鉄によって進められ、遊園地、動物園、水族館(この3つは甲子園娯楽場として)、総合競技場(南甲子園運動場)、テニスコート(甲子園庭球場、甲子園国際庭球場)、競技用プール(甲子園水上競技場)などが設けられ、阪神電鉄のものではないがそれより前から存在していた鳴尾競馬場とゴルフ場(現在の鳴尾GCコースの前身)を含め一帯は阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなった。球場本体も改良が進められて外野に芝が張られ、現在のアルプススタンド・外野スタンドにあたるスタンドが増築され、公称収容人数は7万人となった。なお総合競技場の完成に伴って、陸上競技場や球技場としての球場の役割は終了したため、スタンド増築の際にフェアグラウンドの形状が変更され、現在に近い形となってほぼ野球専用となった。ただし、それでも当時の日本の野球場としては広大であり、小柄で非力な日本人選手の体型とボールの品質の低さもあって、本塁打が極端に出にくいことで知られていた。また、1935年には所有者の阪神電鉄によって大阪野球倶楽部(球団名大阪タイガース・現阪神タイガース)が設立され、甲子園を本拠地とした。ただしフランチャイズ制度が導入される以前はホームゲ-ムを本拠地で行う習慣はなく、阪急西宮球場や後楽園球場とともに各球団が使用していた。
しかし太平洋戦争が激化すると野球どころではなくなり、大日本学徒体育振興大会(幻の甲子園)を最後に中学野球が、1945年1月の正月大会(非公式大会)を最後にプロ野球が戦中の使用を終えた。球場や周りの施設は軍が接収し、スタンドは高射砲陣地、グラウンドは芋畑となってしまった。また鉄傘も金属類回収令のために供出を余儀なくされている。周りの施設も川西航空機の工場や鳴尾飛行場などに転用された。1945年8月には空襲を受けている。また機銃掃射による攻撃も幾度か受けており、弾痕が残った鉄扉が2007年に撤去されるまで長らく関係者入り口にあった(普段は開け放しになっていた。米軍接収時の試し撃ち跡ともいわれている。現在は甲子園歴史館に展示)。
終戦後は鳴尾飛行場とともに米軍に接収され、1946年はプロ、中学の各種野球の公式戦の開催ができず代わりに阪急西宮球場で行われ、選抜大会は中止となった。翌年にはスタンドの一部とグラウンドの接収が解除されたため、春と夏の中学野球、プロ野球が再開され、甲子園ボウルも始められた。なお球場全ての接収解除は1954年まで待たなければならなかった。ホームランを増やすため、プロ野球再開のシーズン途中にラッキーゾーンが日本で初めて設けられた(当初はプロ使用時のみ)。周りの施設の土地は住宅などに転用されたため、阪神電鉄関連のレジャー施設はプール(現在はテニスコートとクラブハウスになっている)と場所を移した遊園地(甲子園阪神パーク)のみに縮小された。
1948年にはプロ野球においてフランチャイズ制が暫定導入され、大阪タイガースが甲子園を専用球場とし、自前の大規模球場を持たない南海ホークスとともに主催試合のほとんどを甲子園でするようになった[4]。ただし南海ホークスの使用は暫定的なもので、1950年から名目上のフランチャイズであった大阪市内に新設された大阪球場に移転した。
1950年のセ・パ2リーグ制になってからは阪急西宮球場が阪急ブレーブスの本拠地となったため、パ・リーグの試合は専ら西宮で行われ、当球場は阪神タイガースを中心にセ・リーグの公式戦のみが行われる状態が続いた(逆に当球場が高校野球などで使用できない時でも、タイガースが西宮で公式戦を行うことは1991年までなかった)が、2011年に東北楽天ゴールデンイーグルスが2リーグ分裂から62シーズン目で初めて当球場でパ・リーグの主催試合を行った。(詳細は後述)
その後はナイター施設の新設や、座席、スコアボードの改修がされていった。特に1976年からは数年かけて座席の更新が行われている。またグラウンドの大きさの見直しもあり、1991年にはラッキーゾーンを撤去した。このように当時の基準に合わせる改良が幾度も行われたが、最新の球場に比べて施設の老朽化・陳腐化は避けられず、また建物の耐用年数を考慮すると、いつかは建て替え、もしくは全面的な改修をしなければならないことは明白だった。そのため1990年代初頭には阪神電鉄首脳がドーム球場化を念頭において、アメリカの主要ドーム球場を視察して廻った。当初は赤字だった阪神パークを閉鎖してドーム球場を建設する計画で進められていったようであり、実際に1993年には「(同年秋に開始する)西梅田再開発事業の終了の10年後を目処にドーム建設を始める」という報道がされている。もっとも、実際には阪神パークの用地だけでは不足で、周りの用地買収が必要だった。
1995年1月17日には兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生し、スタンドの一部に亀裂や崩落が発生した。基礎部分の検査が行われたが問題なく、この年の選抜大会を前に亀裂や崩落箇所のみの補修が行なわれた。住民感情に配慮して大会の中止も検討されたが、予定通り開催された。
この地震の被害やバブル崩壊により、阪神電鉄は事業計画を見直すこととなり、阪神パークのある場所(2004年にららぽーとを誘致)でのドーム建設計画は正式発表されることなく白紙撤回された。その後改めて球場本体の構造強度の検査結果を踏まえ、工期はシーズンオフ3期に分割し、基礎部分を残して大規模改修をすることとなった。2004年7月には「西大阪線延伸事業が一段落する2008年のシーズンオフを目途に着工し、2010年以降の完成を目指す」という構想の概要が報道されたが、正式発表は2005年11月となり、着工は2007年秋からとなった。2010年春には全体の工事が完了した(詳細は後述)。
ジェット風船を使用した応援スタイルが定着
ファイル:Hanshin Koshien Stadium 2007-24.jpg阪神電鉄本線、甲子園駅の臨時改札口を出て約20m先に設置されているモニュメント
正面チケット売り場付近・改修工事前の撮影。球場外壁を覆う蔦
ファイル:Hanshin Koshien Stadium 2007-9.jpg正面チケット売り場付近・改修工事前、蔦の伐採後の撮影。取り除かれた蔦の代わりに緑のパネルで覆われている。
ファイル:Hanshin Koshien Stadium Oct09 23.jpg新装後、ガラス張りとなった球場正面(2009年10月18日撮影)
ファイル:Hanshin Koshien Stadium Oct09 12.jpgライトスタンド入場口周辺の光景。タイガース神社前から撮影。
2005年11月に基本構想として正式発表された。改修に関する主な構想は下記の通り(詳細は外部リンクを参照)。
工事時期は以下の通り。
ドーム化見送りに関しては高校野球界から「青空の下でプレーできなくなり、高校野球に相応しくない」との反対論が続出していた可能性が高いとされる。また収容人数を減らすことにより今以上に阪神戦のチケットの競争率が高くなり、球場へ見に行けなくなるファンが今よりも増えてしまう可能性があるため、改修するのなら増席をするべきだという意見もあった。
なお、この改修により2007年 - 2009年のシーズンは阪神がホームとなるポストシーズン(クライマックスシリーズと日本シリーズ)のゲームを甲子園球場で行わないことが2005年11月の実行委員会で了承された。なお2008年まで阪神の監督を務めた岡田彰布はこの球団の対応に対し苦言を呈している。実際の代替開催先は以下の通り。
試合ではないが、毎年オフシーズンに行っていたイベントも場所を変えて開催された。
2006年7月に上記基本構想の工期を短縮することが発表された。変更後の工事予定は以下の通り。
これにより、2008年シーズンも旧銀傘が維持され、球場本体は2009年3月までに完成することになった。
また改修に先立つ形で、2007年2月に球場西隣のテニスコート(旧甲子園水上競技場跡)があった場所にクラブハウスを建築し、球場内にあったロッカー、トレーニングルーム等の選手関連施設や球団事務所を移している。また外壁の工事はシーズン中も行われた。
2007年オフから予定通り工事を開始し、2008年3月11日に大林組より引渡しを受け工事完了となった。内野スタンド部の構造は改修前とは全くと言っていいほど変わり、外見上は新築同様となった。工事以前の構造を確認できるのは主だった柱ぐらいである。これまで観客用の回廊だった1階が関係者専用エリアとされ、2階の回廊と3階の回廊が観客エリアとなった。また分煙化も図られ、喫煙室も新設された。
後に無観客で行われた練習試合において、グラウンドとダグアウトとの段差が90cmもあることや、後列のベンチに座ると天井が低すぎるなどの危険性を選手側から指摘されたため、ベンチを前にずらすなど手直しを行った。これ以外では特に問題はなく、3月22日に第80回選抜高等学校野球大会で内野エリアのリニューアルオープンを迎えた。
2008年5月には第2期改修の変更概要が発表され、同年10月より工事が開始、翌年3月12日に大林組より引渡し完了。アルプススタンドには2階回廊、外野スタンドには1階回廊が追加され、観客用施設面積が増やされたほか、銀傘とサブスコアボード、照明が替えられた。また外野の観客導線の変更により、スコアボード下にあった外野中央門が廃止された。銀傘の下には法人会員制の「ロイヤルスイート」と、リボン状LEDボード「甲子園ライナービジョン」が設置された。この改修で野球開催に関する球場本体の改修は全て終了した。また乳幼児を伴う観客への利便性向上のため、託児所(有料)、授乳室が新設された。
2009年10月から翌年3月まで行われた第3期の改修では、銀傘上部の太陽電池パネルの設置、グッズや軽食を販売する売店基地棟の設置、広場など各種イベント開催スペースの拡充、球場外野の外周道路の床面に煉瓦ブロックの敷設など、試合開催には支障をきたさない工事が行われた。
この工事に付随し、「タイガース史料館」をリニューアルさせて作る「甲子園歴史館」が外野席下にオープン。また、外周道路の煉瓦ブロックは「KOSHIEN NAMING BRICK MEMBERS」としてファンなどから購入者を募り、ブロック1個ごとに購入者の名前や短文を刻印して敷設される。
阪神甲子園球場 上空からの撮影(1985年、ラッキーゾーンが確認できる)。テンプレート:国土航空写真
外野席側からバックネット方面を望む。銀傘下に「甲子園ライナービジョン」が設置されている
ファイル:Hanshin Koshien Stadium 2007-23.jpgリニューアル前の銀傘(2007年)
ファイル:Hanshin Koshien Stadium 2007-20.jpg右側から、一塁側アルプススタンド席、外野席、スコアボード(リニューアル前)
ファイル:Hanshin Koshien Stadium 2007-30.jpg蔦に覆い尽くされていた旧外野スタンド外壁(2007年)
バックネット裏を覆う「銀傘(ぎんさん)」と呼ばれる大屋根、時計台型のスコアボードが特徴。かつては球場外周の外壁が蔦(つた)に覆われていたが、リニューアル工事に伴って一旦取り払われてから再植栽されている(後述)。
一層式にもかかわらず収容人員47,000人以上と、非常にスケールが大きい。内野席側の規模はそれほどではないが、外野席は他球場の倍程度の規模で全収容人員の4割程度を占めている(一般的なプロ野球球団の本拠地は2 - 3割の球場が多い)。よく阪神タイガースの新外国人選手が開幕前に球場フィールドに足を踏み入れて「非常に大きな球場だ」と驚く様子が関西のスポーツ新聞で報じられることがある。座席は緑色で統一されている。
開場した頃はグラウンドの内野に面した部分のみが鉄筋コンクリート製(50段、高さ14.3m)であり、現在のアルプススタンド・外野スタンドの位置には土盛りの上に20段の木造スタンドがあった。その後1929年にアルプススタンドが、1936年に外野スタンドが内野スタンド並みに改築されている。またファウルグラウンドの規則改正のため当初の設計より内野スタンドとアルプススタンドは全体的にグラウンド側に増築されている。そのため内野スタンドとアルプススタンドは最前列がグラウンドレベルになっており、戦前にはすでに現在のフィールドシートのような座席となっていた。通常グラウンドレベルにある本塁後方のアナウンス室などは半地下となっている。
内野スタンド、アルプススタンド、外野スタンドはそれぞれ分かれた構造となっており、リニューアル後もその構造を引き継いでいる。内野スタンドとアルプススタンドは、2階、3階がスタンド内の通路でつながっている。それぞれスタンド間にはグラウンドから球場外まで通じる通路があり、リリーフカーの出入りや観客の退場路などに使用されている。
2007年からの改修後は選手などの関係者向け施設は内野スタンドとアルプススタンドの1階に集中している。以前はアルプススタンドの1階の他、内野スタンドの2階部分、外野スタンドの1、2階部分を関係者エリアとしていたが、スタンドの観客向けの施設を増やすために各所に移動している。
「アルプススタンド」は元々は通称であったが、現在は正式名称として使われている。この通称は拡張直後の夏の中学野球の折、観客の着衣でスタンドが白く映え上がって見えたことから、朝日新聞に連載記事を持っていた当時の人気風刺漫画家・岡本一平が、「ソノスタンドハマタ素敵ニ高ク見エル、アルプススタンドダ、上ノ方ニハ万年雪ガアリサウダ」の一文をつけた風刺漫画を載せたのが由来である。これには、「一緒に観戦していた息子の太郎(後の芸術家・岡本太郎)がふと呟いた」という説と「登山家の藤木九三(当時朝日新聞勤務)がスタンドをアルプスに形容したのを一平が伝え聞いた」という説がある。このアルプススタンドの部分が内野スタンドと分かれていて、座席が背もたれなしの長椅子形式となっているのはプロ野球球団の本拠地球場の中では唯一甲子園のみである。また外野スタンドは拡張後に同じく朝日新聞紙上で「ヒマラヤスタンド」と名付けられたが、あまり普及しなかった。
放送席や記者席はバックネット裏にある。記者席・ラジオブース(上段)の入り口は別の所にあり仕切りもあるため隔離されているが、テレビ放送席(中段)は特に仕切りがない場所に仮設される。高校野球が行われる場合、NHK大阪放送局、毎日放送(選抜)、朝日放送(選手権)のそれぞれの放送席に大会公式ポスターが数枚(ABCの場合は大会スローガンが大書きされたものも)貼り付けられたパネルセットが仮設される。
座席区分[]内野はバックネット裏の「グリーンシート」を中心として、外野スタンドに向かって「アイビーシート」(ここまでが銀傘下)、アルプススタンドの「アルプス席」と続いている。さらにフィールドシートとして、グリーンシート下部に「TOSHIBAシート」、アイビーシート下部に「みずほ銀行シート」を設けている。これらのフィールドシートの名称はネーミングライツによるもので、2008年からの5か年契約(高校野球開催時を除く)である。なお他の多くの球場と違い、フィールドシートには防球用の金網があり、さらに後列との往来は制限されていない[5]。また2009年からは銀傘真下に法人向けの個室「ロイヤルスイート」(33室。1室平均1000万円。室内には大型モニターやビアサーバーなどが設けられている)、3塁側内野席上段に掘りごたつタイプのグループシート(ボックスシート)「三ツ矢サイダーボックス」(4人用6組と5人用11組の79人分の座席を用意している。利用者には三ツ矢サイダーやバヤリースなどアサヒ飲料商品が贈呈される)が設置されたが、使用はプロ野球開催時に限られている。なお「三ツ矢サイダーボックス」のネーミングライツの契約内容は明らかにされていない。また2006年からレフトスタンドに「ビジター応援席」が設置されるようになった(詳細はこちらを参照)。
プロ野球ウエスタン・リーグ公式戦の開催日においては、基本的にバックネット裏のグリーンシートとTOSHIBAシートのみ開放される(全席自由席・有料)。
高校野球においては全席自由席となり、グリーンシートとTOSHIBAシートが「中央特別自由席」、アイビーシートとみずほ銀行シートが「1塁特別自由席」と「3塁特別自由席」になる。アルプス席はそのままであるが、学校の応援団が優先となる。外野席は無料開放されるが、満員の際は入場制限がある。
2001年まで「アルプス席」という名称は高校野球開催時のみ使用されていたが、プロ野球でも「アルプス席下さい」という人が後を絶たなかったので、2002年以降はプロ野球公式戦でも「アルプス席」という名称を用いている。巨人戦 およびオールスター戦・日本シリーズなどの特別試合では「内野B指定席」と呼ばれていた。その他のプロ野球公式戦では、アルプススタンド=「内野自由席」であった。
改築前の座席区分はフィールドシート部分が「ボックスシート」(グループシートではない)、アイビーシート部分が「イエローシート」(一塁側)・「オレンジシート」(三塁側)であり、グリーンシート部分は今より狭いものであった。また席の色は緑・黄・オレンジとそれぞれ名称別に塗りわけられていた。2001年シーズンまではアルプスを除いた内野席上段部全体を『内野A指定席』と設定し、緑色のシートが設置されていた。
星野仙一は阪神監督時代、オレンジシートを指して「あれじゃジャイアンツカラーじゃないか、変えたほうがいい」と言っており、実際に他の色に塗り替えられるのでは、とよく噂された。また星野は「あのシートをファンで埋めて、見えないようにしたい」という趣旨の発言もした。そのため、インタビューなどで「甲子園に来てください」と発言するようになった。さらに選手も同様の発言を行い、観客増加に力を入れた。ただ、オレンジシートのメンテナンスはイエローシートほど行き届いておらず、色が褪せたり傷んでいる椅子もいくつか見受けられた。
銀傘[]銀傘は開設当初「鉄傘(てっさん)」と呼ばれ内野席全体(後のアルプス部分を除く)を覆っており、その素材から「大鉄傘(だいてっさん)」と呼ばれて、更に1930年には女性客の人気を狙ってアルプススタンドまで拡張された。しかし、第二次世界大戦中の1943年に鉄材供出のために取り外され、その後1950年までの7年間は青天井の状態が続いた。その後1951年にジュラルミン製の銀傘として復活したが、一・三塁内野席の半ばからネット裏の客席にだけの開設当初より小さいものが設置され、1982年にはアルミニウム合金製に葺き替えられた(柱はそのまま)。
2009年には4代目のガルバリウム鋼板製のものに架け替えられた。大きさは開設当初と同じ大きさであり、アルプスを除く内野席全体を覆っている。銀傘の下には個別の観覧席であるロイヤルスイートがあり、その壁面下部にリボン状LEDボード「甲子園ライナービジョン」が設置されている。また2代目の銀傘からは中央に外野席向けのサブスコアボードがある。
2010年には屋根上に太陽電池パネルを設置し、同年3月1日より稼動を開始した。パネルは本田技研工業の子会社・ホンダソルテック製で推定発電量は年間193,000kW/h、またこれによって年間133トンの二酸化炭素排出を抑制できるという[6]。
銀傘を支えるための柱は客席内に立てられており、後ろの客席(約10段ほど)からは柱が邪魔になるため観戦しにくくなっている。なお、代を重ねるごとに下段側の柱は上方に移っている。
銀傘の中央部には、野球中継で使用するためにテレビ各局が共同でハイビジョン対応のリモコンカメラを設置している。このカメラは2台設置されているため、地上波の並列中継(高校野球ではNHKと民放、プロ野球では在阪局とサンテレビ)があってもそれぞれ1台ずつ使用できる。
改修後のフィールド(2009年8月)
現在は中堅118m、両翼95m、グラウンド面積約13,000m2と公称され、左右中間は118mということが公表されている。2007年オフからの改修以前は中堅120m、両翼96m、グラウンド面積14,700m2(この数値は日本プロ野球球団の本拠地中で最大)と公称され、左右中間は119mあるといわれていたが、この数値には長年疑問が呈されており、たとえば野球場研究家の沢柳政義は、著書『最新野球場大事典』(大空社、1999年)で、中堅118.1m、両翼94.7m、左右中間117.9mとする数値を発表していた。甲子園は落成以来たびたび改修を行いフィールド等の形状が変更されてきたが、それに伴う不動産登記の合筆は行われておらず、法務局にすら正しい図面が存在していなかった[7]。1991年にはラッキーゾーン撤去に伴い測量が行われているが、この時の記録は全く残されておらず、球場自身も正しい数値を把握していなかった。結局は改修に伴う実測により2008年にグラウンド面積の数値が、2009年に中堅、両翼の数値が現在のものに改められた[8]。すでにグラウンドは改修によってやや狭くなっていたが過去にさかのぼって13,500m2だったと訂正された。しかし、阪神タイガースオーナーの坂井信也は、それでもフェアグラウンド面積が日本プロ野球球団の本拠地中で最大と主張している[9]。
ファイル:Hanshin Koshien Stadium 2007-21.jpg2007年8月時点のフィールド
フェアグラウンド面積の大きさの根拠としては左右中間から両翼寄りの広さがあげられる。外野フェンスはセンターからゆるやかな曲線となる独自の形状で、セカンドベース後方の一点を中心とする真円の弧の形状をとることが多い国内の他の球場には見られないものである。両翼の数値自体は小さいが、外野フェンスがファウルポールのそばで急に角度を増すためであり、左右中間からポール手前にかけては国内ではフィールドが改装前の甲子園と同じになるように且つかつての公称値通り作られた広島県立びんご運動公園野球場(尾道・しまなみ球場)の一例をのぞき最も深い。ファウルグラウンドはかつての公称値からしばしば広大であると言われていたが、実際のところは千葉マリンスタジアムや札幌ドームに及ばないものであり、さらに2007年オフからの改修で塁線及びベースから60ft(約18.3m)という規定に近いところまで削られている。
グラウンドの広さはしばしば変更されている。1934年の夏にはファウルゾーンの広さの規則改正(1931年、90ftから現行の60ftへ)によりホームベースをバックネット裏方向へ移設し、両翼の数値こそ短くなったが全体はさらに広くなった。1936年には外野スタンドの改築とアルプススタンドのグラウンド側への増設に伴い現在に近いものとなった。1950年代などの写真ではセンターと左右中間の3ヶ所に「390ft」(≒118.9m)の表示が確認できる。ラッキーゾーンは1947年に設置され1991年まで使用された。当初、高校野球時には取り外していたが、1949年の夏の大会からはそのまま使用していた。設置中には幾度か位置が変えられている。1976年には内野スタンドの改造に合わせてホームベースを移設、中堅120m、両翼91mと公称されるようになった。また、このときラッキーゾーンを従来より前にせり出す改修もおこなわれている[10]。1991年オフにはラッキーゾーンを撤去、一部は甲子園歴史館と甲子園に近い兵庫県立西宮今津高等学校の中庭に保存されている。
グラウンド整備は阪神電鉄子会社の阪神園芸の手によって行われている。内野は黒土、外野は天然芝だが、内野スタンド(アルプスを含まず)沿いは全て人工芝が張られている。
土[]内野グラウンドは独特の黒土である。鹿児島、岡山、鳥取、大分など日本国内の黒土と中国福建省の白砂をブレンドしている。季節の雨量や太陽光量などを考慮し、春は白砂を多く(黒土5.5:白砂4.5)、夏は黒土を多く入れる(黒土6:白砂4)などしてブレンド具合を変えている。内野で激しい動きを見せるボールの行方が、スタンドの観客にも見えやすくするための配慮である。当初は淡路島の土が使われていた。
高校野球では出場選手がこの土を持ち帰ることが慣習になっている。テンプレート:Main
芝[]外野グラウンドは、日本のプロ野球の本拠地としては稀少となった天然芝である。開場当初は外野も土のグラウンドであったが、1928年12月から1929年2月にかけて芝が張られた。
1982年からオーバーシードといわれる芝の二毛作方式を採用している。夏芝「ティフトン」と冬芝「ペレニアル・ライグラス」を用いることによって、一年中緑の芝生でプレーできるようになった。夏芝から冬芝への切り替えが9月下旬から10月上旬、冬芝から夏芝への切り替えが4月下旬から5月上旬である。2009年オフには同じ品種のものに張り替えられた。撤去したものは大阪府と兵庫県の公立校に譲渡されている。
外野が天然芝の球場ではフェンス際は芝の育成が難しいために、通常はウォーニングゾーンも兼ねて土となっているが、甲子園ではフェンス際まで芝が張られておりウォーニングゾーンは白線を引くことにより設けている。外野ファウルライン付近は2008年まで白線に沿って土のままであったが、阪神タイガース選手会からの要望により2009年より芝が植えられ、芝の上に直接白線が引かれている。
マウンド[] ファイル:Hanshin Koshien Stadium 2007-27.jpgピッチャーマウンドのプレート後部蛇口を使用して内野グランドの水撒き作業
ピッチャーマウンドのプレート後部には、放水用の蛇口がある。高校野球の試合前に、7~8人の整備員が一列に並んで内野全体に大型のホースで水を撒いている姿がよくテレビで放映される。この水は井戸水で、海から近いために若干の塩分を含んでおり飲用には適さない。かつて、近畿で真夏に異常渇水に見舞われた時、井戸水を使用していることを知らない人たちが「水の使いすぎ」と問題視したこともあった。
フェンス[]前述の通り、外野フェンスは独特の形状となっており、特にファウルポール際はクッションボールの処理が難しい。フェンスの構造はラバーと金網の組み合わせという一般的なものだが、ラバーは2004年から太陽工業製のメジャー風の厚いものとなっており、ラバーの最上部で打球が跳ねることも多い[11]。なおアルプススタンド部分のラバーは2009年より帝人ファイバー製[12]である。現在のラバーにする以前にもラバーの最上部で打球が跳ねることがあり、ラッキーゾーン撤去元年にはいわゆる「幻のホームラン」事件が起こり、ルールに新たな取り決めが加えられた。外野フェンスの高さは公表されていないが、沢柳政義は2.6m(ラバー部1.9m、金網部0.7m)としているほか、3.0mとされることがある。
アルプススタンド一階内部は簡易室内練習場となっており、プロ野球では1999年からここにあるブルペンを使用している。投手交代時は、リリーフ投手がリリーフカーに乗り、アルプススタンドと外野スタンドの間にある通路からマウンドに向かう。室内練習場になる前は、一塁側は体育館、三塁側は25mの温水プールであった。「三塁側の室内練習場は床が高くなっている」、「三塁側室内練習場の外にはマンホールが多数設けられている」など、元がプールであったことを彷彿とさせる部分が今も確認できる。
高校野球では、室内練習場を次の試合のチームのウォーミングアップ場として使用するため、ファウルゾーンに投手板とホームペース1組のブルペンを高校野球の期間のみ設置している。なお2007年オフの改修以前は広めだったファウルゾーンにマウンドが常設されており、投手板とホームベースが2組設置されていた。ラッキーゾーン撤去後の数年間(1992年 - 1998年)は、プロ野球でもこちらのブルペンを使用していた。
1991年以前はラッキーゾーンにブルペンがあり、リリーフカーもあった。車両の採用は1960年代途中からであったが、自動車ではなくバイクであった。1970年代終盤から自動車やサイドカーとなったがラッキーゾーン撤去時に一旦廃止され、のち1999年にブルペンの変更に伴い復活した。
リリーフカーはダイハツ工業製の電気自動車で、1999年に復活してからは現在で2代目である。1塁側リリーフカーと3塁側リリーフカーでは若干仕様が異なる。カラーリングが違うほかに、3塁側リリーフカーの右側(すなわち、投手が座る助手席側)にカーテンが設けられてる。
2011年のシーズンから、メルセデス・ベンツの日本法人がスポンサーになり、カラーリングも変更になった。[13]
室内練習場は1978年に3塁側アルプススタンド(現在のブルペン)に設けられたが狭いものであった。2004年には甲子園水上競技場跡にあったテニスコートの場所に新しく室内練習場が造られた。総工費は約9億円で広さは3,600㎡。一塁側と陸橋でつながれている。
旧レフトスタンド照明塔を横から撮影
銀傘の上の2基と、照明塔4基で構成されている。この構成は1956年の新設時のままであるが、ランプの位置と形状は異なる。銀傘の上のものは新設時のものより細長くなっている。
2008年の外野席改修工事実施までの照明塔はスタンドにせり出す鉄塔方式であった。そのため1つの照明灯につき2本の柱が観客席内に建てられていたため、柱の直後の観客席からは大幅に視野が狭められていた。2009年からスタンド外の2本とスタンド最上段の2本の鉄柱で支える方式となり、外野の2本には大型看板が設置されるようになった。
3年目の蔦(画像の部分は植栽後1年程度)
完成当時の球場外壁はコンクリートのままであり、1924年12月に安価で見た目を向上させる策として外壁を覆う蔦が植栽された。正面の7号門と8号門の周りには日当たりの悪いところでも生育しやすいウコギ科の蔦を、その他の部分は冬に葉を落とすブドウ科の蔦を採用し、阪神園芸の手で管理されていた。かつては約430株ほどが植えられ、葉の総面積はおよそ畳8,000畳分あると言われた。
この蔦はリニューアル工事に伴いいったん取り払われ、外壁をレンガで覆った後に再び植えられている。蔦を取り払った後でレンガ張りにするまでは代わりに蔦をイメージした緑のパネルで外壁が覆われていた。蔦は、2000年(平成12年)に高校野球20世紀メモリアル事業の一環として全国の高校野球連盟加盟校4170校に配布され、現在も育てられている。そのうち生育状態の良い苗が233校から集められ、2008年6月14日、「ツタの里帰り」として甲子園に植えられ始めた。この233校の名前を刻んだ銘板がレフトスタンド照明塔支柱の根元にある。約10年がかりで蔦に覆われた外壁に戻る予定。
スコアボードは現在の球場のシンボルマークとなっている。
歴史[] ファイル:Hanshin Koshien Stadium 2007-17.jpg3代目スコアボード(2007年第89回全国高等学校野球選手権大会)
ファイル:Waseda JH v. Komazawa Tth 1.jpgスコアボードの右半分(2006年第88回全国高等学校野球選手権大会の決勝再試合)
開設当時の甲子園のスコアボードは得点掲示のみをする仮設の板であった。これは1924年の夏の高校野球の開催に間に合わせるために球場を建設したため、常設のものが間に合わなかったためである。1925年に選手名も表示するスコアボードが正式に開設された。この当時から球場独特の明朝体の選手・チーム名表記がなされていた。位置は両方とも現在のセンター後方ではなくややライト寄りに位置していた。この頃にはまだバックスクリーンの概念がなく、センター後方も全て座席となっていた。
しかし、当時のスコアボードは最大で16回までしか書き記すことができなかった。1926年の夏の大会・静岡中学 - 前橋中学の試合は延長19回まで続き、常設のスコアボードにやぐらで仮設のスコアボードを急ごしらえして凌いだ。その後1933年準決勝の明石中学 - 中京商業の試合は延長25回まで0-0の同点という試合となり、その仮設のやぐらに0のパネルが並び続けたため見づらいということから、1934年にスコアボードをセンター後方に造りなおすことになった。1936年には外野スタンドの改築と同時にバックスクリーンが設置されている。
2代目のスコアボードは1934年から1983年までの延べ半世紀にわたって使用された。スコアボード左側に選手名表記、真ん中に時計とボールカウント(ただしストライクも赤色ランプ)、審判団、右にスコア(当初は上段に9回まで、延長10回以後は下段に記した)を表記するものだった。外野スタンドは改築前でそのスタンドに合わせて建設したため、高さは現在の3代目スコアボードの半分程度(スコア表示部分と三菱電機の広告がある緑色の部分の境目あたり)であり位置もホーム寄りだったため、外野スタンドの改築後は見えにくくなっていた。
当初は阪神電鉄の車両部のスタッフが遠隔操作でスコアやボールカウントを操作していたが、ナイター設備が1956年に完成すると、機械部分を雨からカバーする目的で使われていたガラスが反射して見づらいことから、ガラスを外して手動に改修。1958年にはスコア表示を12回までとし、下段はその日の試合結果(プロ野球の場合は他球場の経過)を表すものに変更された。2代目スコアボードの選手名、(高校野球の)チーム名は、全て球場係員の手による白ペンキを用いた手書きであった。選手名は全て明朝体に近い独特の書体で書かれており、明朝体よりもやや横幅が広いので字全体がひしゃげた感じであった。電光掲示が少なかった当時においても、明朝体で選手名を表示する球場は少なかった。ただし基本的には2文字分記入するのが精一杯のサイズだったために、3文字はまだしも4文字以上の選手名の表示や記入作業は難しく、チーム名も広島商業が「広商」となるなど、基本的には2文字分の大きさだった。書体ともども、職人芸といえる高度な技術が必要であった。さらに作業はスコアボードの裏側で行われたため、夏期は屋外以上の熱気がこもり、肉体的にも消耗度の高い大変な作業であった。また、雨中の試合においては手書きの部分のペンキが雨で流され、時間の経過とともに読みとれなくなることが多かった。この状態はよく「(スコアボードが)涙を流す」とか「洟(はな)を垂れる」などと表現されていた。高校野球において、プロ選手(特に阪神タイガースの選手)と同じ苗字の選手がいた場合は、プロ選手用のボードを使いまわすこともあった。また、プロ選手のボードは金属製であったが、高校野球用はベニヤ板だった、との証言もある。これらの特徴もまた甲子園の独特の雰囲気を演出していたため、2代目のスコアボードへ強い思い入れを持つオールドファンは多い。1979年にはバックスクリーン部分に2面広告装置「トライビジョン」が設置された。
その後、球場開設60年を機にスコアボードの近代化を実施することになり、1984年に2代目をモチーフにした電光掲示板を設置した。高さと位置は外野スタンドに合わせたもので、表示部分より下側はバックスクリーンとなっている。トライビジョンはそのまま残したためバックスクリーンが前後2つになる形となった。発光素子は白色電光にして日本初の白黒ボードとして2代目の雰囲気を残した。イニング単位のスコア表示は10回までに省略されたが、新たに合計得点(計)・ヒット数(H)・エラー数(E)も表示できるようにした。延長戦で11回以上となった場合は、1回〜10回のスコアを全て消去した上で11回の得点を1回のところに、それ以降の回はイニング数の下1桁と同じ漢数字のところに表示していた。スコア部分はチーム名や各イニング得点などの部分ごとに分割されていた。スコアの下には白黒の大型フリーボートがあり、プロ野球時には打席に立った打者の打率(AV)とホームラン数(HR)が表示されていた。バックネット裏のサブスコアボードも同時に電光表示化され、本体と同じスコア表示とボールカウンター、球速、プレーの記録(ヒット、エラー、野選)の表示ができるものとなった(球速表示は1992年から)。
1993年から右半分に三菱電機のブラウン管方式オーロラビジョンを採用して、スコア部分を含めたフルカラーフリーボードとした。動画も取り込めるようになったため、勝利インタビュー後の阪神タイガースの歌(六甲颪)合唱時のアニメーションがカラー化され、また試合中のリプレイや、攻守交替時にCMが放映されるようになった。スコア表示は更新されなかったサブスコアボードに合わせそれまでと同じ方式を採った。11回からは10回までのスコアを消去した上で11回からのスコアが入力され、11回以降のイニングの漢数字は1文字分のところに2文字が縦書きで表示される。スコアのイニング表示は大会の規定イニング(春の選抜大会と夏の全国大会の高校野球は15回、プロ野球は12回、プロ野球の日本選手権シリーズは15回)までとなる。プロ野球時の打者の打率とホームラン数も以前ととほぼ同じ位置に表示されている[14]。また、広告も変更されている。
1997年には左側の選手名部分を明るい新型の三原色によるカラーブラウン管に更新した。ある程度の多色表示が可能で、現在の攻撃中チームとバッターを表示する赤いランプを廃止して代わりに赤いラインで表示するようになった。2003年9月15日、阪神のサヨナラ勝ちでリーグ優勝へのマジックナンバーを1としたデーゲーム終了後、マジック対象チームであるヤクルトの試合(対横浜)がオーロラビジョンで中継されたさいには、ビジターチームの選手名が表示される部分の1番打者から9番打者のところに横浜・ヤクルト戦の1回から9回までのスコアが、また10番目(DH制のときに投手名が表示される)のところに合計得点(計)が表示された。このときイニングの数字と計の文字は緑色で表示された。また、球場には電車で来るように呼びかけている「ノーマイカー甲子園」の表示も左側、選手名の欄で表示されることがあるが、この時は赤色や黄色が表示された。
2005年からオーロラビジョンがブラウン管方式からLEDに変更され、よりクリアな映像が楽しめるようになった。スコア部分の1文字あたりドット数も16×16から24×24に増えている(文字自体の大きさはブラウン管方式の時と同じ)。現在のオーロラビジョンは49万1520個ものLEDによって構成され、内部には人はいない状態。
なお、2代目以降、大時計下にはSEIKO、3代目の途中2001年頃からCITIZENの広告が入る。2002年から2008年までは右側オーロラビジョン下部にトヨタ自動車、2010年の途中からLED掲示方式で三井住友銀行の広告が入っている。
2008年からはスコアボード棟手前、2枚のバックスクリーンの中間部分にプロ野球開催時に限り時計カウンターが仮設された。これは2008年から試合の攻守交代時のインターバルをできるだけ2分15秒(投手交代時は2分45秒)以内に収めて試合時間短縮をしようという球界の奨励に基づいて義務付けられた時刻表示のため[15]。
2009年からは銀傘の更新とともにサブスコアボードが更新され、スコア表示部がメインスコアボード同様のフリーボードに変更された。メイン・サブ共にレイアウトが自由になったのを機に、高校野球時はイニングスコアの10回の部分をなくして1回から9回までの表示とし、チーム名の部分をそれまでの3文字表記から4文字表記できるようにした。なお延長時には10回から新規に表示しなおしている(プロ野球時のイニングスコアは従来通り1回から10回まで)。
サブスコアボードの両サイドに2009年はきんでんと奥村組が、2010年は奥村組とビルボード大阪が広告を出している。
メインスコアボード、サブスコアボードは2010年オフに改修が行われた[16]。メインスコアボードは、左側の選手名部分を動画も表示できるLEDフリーボードにし、ほっともっとフィールド神戸に次いで日本2つめの2面式ビジョン[17]になる。中央下部のプレーの記録(ヒット、エラー、野選)表示と審判名表示が統合されLED化し、試合経過時間・守備交代経過時間もここに表示できるようになった。また、サブスコアボードと共にアウトカウント表示も現在のSBOから国際基準のBSOに変更された。投球数も表示されるようになった。従来からあった右側のビジョンも更新が行われ、解像度・動画表示性能が向上している。
表記[]電光板左側の選手名・チーム名表記は、手書き時代と同じように明朝体の字体を忠実に再現している。ただ、選手名を表示する枠は一行で最高6文字までしか表示できないため、7文字を超える選手は文字を小さくして枠の中に二行に分けて表示している。
DH制を使用したスコアボード(2011年4月23日 パ・リーグ公式戦楽天対オリックス)
普段は使用する機会が少ないが、DH制に備えて選手名は10人分確保されている(9番打者の右横が投手枠)。また、試合開始30分前の先発バッテリー発表時には9番目の枠に投手、10番目の枠に捕手の名前を表示する。
審判員の名前は球審と塁審の4人制のみの対応のため、高校野球時のナイターやプロ野球のオールスター・日本シリーズ開催時の線審は名前が表示されない。プロ野球開催時で外審がいる場合、試合開始前にスコアボード右側のカラースクリーン部分に並列する形で表示して紹介する。2010年までは「UMPIRE」であったが、2011年以降は「UMPIRES」と複数形の表記に変更されている(写真を参照)。球審の表記は、2010年までは他球場で用いられている「Plate umpire(プレート・アンパイア)」の略であるPLではなく、プロ野球12球団の本拠地の中では当球場が唯一「Chief umpire(チーフ・アンパイア)」の略であるCHとなっていた(過去では平和台野球場が球審をCHと表記)が、スコアボード改修後、PLとされた。また塁審の表記は、一塁→IB・二塁→IIB・三塁→IIIBのように、ローマ数字とBの組み合わせとなっている。
ヒット、エラー等の判定は審判の名前の上にある横3文字分の枠の中に、ヒットの場合はH(赤色)、エラーの場合はE(赤色)とエラーをしたポジションの数字(白色)が表示される。1ヒット1エラーの場合はHE7のように表示される。また1つのプレーで2人がエラーをした場合にはE53(この場合はサードとファースト)と表示される。
スコアボードのチーム名(得点側)は電光化されてから漢字3文字(詰めても3.5文字)までしか表示できなかったため、高校野球時には智弁和歌山→和智弁、駒大苫小牧→駒大苫などのように工夫して表示してきた。この表示方法は、NHKやABCテレビの高校野球中継でも用いられることが多い。また、1991年夏の大会では同名の高校を区別するため、詰めれば3.5文字入ることを利用して、智弁和歌山→和・智弁、智弁学園(奈良)→奈・智弁、大阪桐蔭→大・桐蔭、桐蔭学園(神奈川)→神・桐蔭と中点(0.5文字分)付きで表記された。
ただし、秋田経法大付(現・明桜)→経法大付(2002年選抜)、日高中津分校→日高中津(1997年選抜)と4文字で表示された例がある(いずれもLED化前)。また、2009年の選抜大会からはバックネット上のスコアボード改修を機に高校野球時に限り、イニングスコアの10回部分をなくし1回から9回までを1イニング分ずらして表示することでチーム名が漢字4文字まで表示できるようになった。ただし早稲田実→早実(2010年選手権では早稲田実)、新潟明訓→明訓(2010年選手権)、鹿児島実→鹿実(2011年選抜)、智弁和歌山→和 智 弁(兄弟校の智弁学園と区別をつけやすいようにという事情がある)などの伝統校の中には表記を変えないように要請したり、県岐阜商のように得点側の表記変更と同時に選手名側の表記も変更(県立(改行)岐阜商→県岐阜(改行)商)した学校もあった。
なお右半分のフリーボード化以前は、下部の試合結果表示部分には5文字まで表示されていた。
選手名側のチーム名は、通常4文字以上の場合は上下2段に表記し上下段ともに最高3文字ずつ(最高6文字)であるが、市和歌山商(現・市和歌山)→市立(改行)和歌山商(2005年選抜ほか)、県和歌山商(現呼称・和歌山商)→県立(改行)和歌山商(2007年選抜)や九州国際大付→九州(改行)国際大付(2009年選手権)、日本航空石川→日本航空(改行)石川(同)など、3文字以内ずつに分けにくい場合は1段が4文字で表示されることもある。枠内には余裕があるものの、表示スペースは他チームと同様、中央の3文字分×2段の部分であるため、4文字の場合は通常より小さい文字で表示される。以前はこのような場合でも4文字で表示されることはなく、秋田経法大付は1990年の選抜大会などで秋田(改行)経法大と表示されていた。
なお、プロ野球の試合ではどちら側のチーム名も漢字ではなくアルファベットの略称(阪神タイガース→T、読売ジャイアンツ→G、横浜ベイスターズ→YB、サーパス神戸(2008年までのオリックス二軍)→SKなど)で表示される。
高校野球では、ボーク、守備妨害など観客からは分かりにくいプレー・判定に対し、場内に説明がされないので「表示してほしい」と要望があったことから、このようなケースの際にはスコア表示の下に判定を表示するようになっている。
また、現在のバッターが誰かを表示するランプは2代目スコアボードのときから上段のビジターの選手名と下段のホームの選手名の中間に9個の赤いランプがつけられていた。3代目スコアボードにも9個の赤いランプ(選手名の表示は10人分あるが、DH制の場合ピッチャーは打席に入らないため)が踏襲されていた。1997年からは、ランプとそれまで選手名とポジションの間で攻撃中のチームを表示していた赤いライン(1番から9番まで、DH制の場合はピッチャーのところまでが1本につながっていた)を廃止し、選手名ごとに区切った短い赤いラインで表示するようになった。
他の球場の多くが代打のポジションを「H」・「PH」、代走のポジションを「R」・「PR」としているのに対し、甲子園では代打は「打」、代走は「走」と漢字表記しているのも特徴である。ただし、オープン戦などDH制で行う場合の指名打者は「DH」、投手は「P」[18]と表記される。
ポジションや得点部分で使用される数字の「3」には平仮名の「ろ」に似た形のものが用いられている。
2008年オフの銀傘改修の際に設置された三菱電機製リボン状LEDボード(オーロラリボン)である。サイズは縦1.2m×横250m。アメリカでは広く採用されているもので、日本初として2006年に採用が発表されたが、設置はクリネックススタジアム宮城(2007年に日本初設置)・千葉マリンスタジアム(2008年設置)に先行されている。プロ野球の試合ではタイガースの応援や選手紹介の映像動画、CM、打席に立った選手のシーズン通算成績と当日の打撃記録、デジタル数字表示によるボールカウント[19]、他球場速報(オーロラビジョンの映像と連携した映像が流されることもある)などを、高校野球でもその日の試合結果を表示する。
また、NTTドコモ提供で「ドコモオーエン甲子園」(プロ野球・阪神主催試合開催日のみ)をファンからメッセージを募り、試合前、イニングのインターバルを利用して応援メッセージが流されている。
2011年の楽天イーグルス主催試合では「がんばろう東北」(ワインレッド地白文字)と楽天イーグルスロゴ、または同チーム協賛スポンサーの企業の広告を表示。
甲子園球場ではフェンス、スタンド、ベンチに広告看板を掲出しているが、高校野球の全国大会期間中は日本高校野球連盟との取り決めでバックネット付近のフェンスとベンチのものについては広告をシートで隠している。高校野球の兵庫県大会、あるいは1998年に開かれた「AAAアジア野球選手権大会」(アジアの高校生年代の野球大会)の時は広告フェンスを隠さず、通常と同様の状態で試合を行っている。
外野フェンスに関しては、選抜高等学校野球大会時のみ、歴代優勝校の校章と校名、優勝回が書かれた白い校板を掲示していた。この校板は1932年の第7回大会から掲示されていたが、1984年の第56回大会2日目第1試合に行われた佐賀商対高島の試合において、外野でワンバウンドしてラッキーゾーンに入る、本来ならばエンタイトルツーベースとすべき当たりを審判が間違えてホームランと判定してしまう事件が起きたことから、その翌日から伝統の校板は撤去された。これは校板が白くて大きいためにボールが見えにくかったためである。
フェンス部分は1983年夏の大会まで内外野全て脱着式だったが、1984年に内野部分にラバーが貼られるようになってからは内野部分の広告はそのまま露出し、外野部分とバックネット付近の広告を隠す(ラッキーゾーンの付近にある広告は取り外し式)ようになった。左中間・右中間にある大会名表示は春の大会は1985年・第57回以後、白パネルから緑地白文字のシートで広告を隠す方式に変更。夏の大会は元々から緑地白文字で、1985年の第67回大会までは1文字ずつ(大会の回数については2桁の数字を1枚にまとめた)切り離したパネル式のものだったが、1986年の第68回大会以後は春の大会同様シートをかける形になった。
1992年にラッキーゾーンが外され外野にラバーが貼られた際には大会名の入ったグリーンのシートで広告を隠すようになった。
1995年選抜大会には阪神・淡路大震災の復興を祈念する文言が右中間側に、復旧作業のお礼を示す文言が左中間側に、また2008年の第80回大会記念には大会歌「今ありて」の歌詞の一部「今ありて未来も扉を開く」が右中間側にそれぞれ掲示された。
2010年からは外野フェンスの広告をそのまま出すことになり、大会名はバックネット付近のフェンスに掲示することになった。これは、外野フェンスの広告を提供する14の企業・団体[20]が外野席下に新設された「甲子園歴史館」の協賛社となったため、この協賛社から歴史館の運営費用を捻出するためと、歴史館に高校野球に関する資料を大量に展示したためである。このため、高校野球大会を主催・後援する高野連、朝日、毎日の両新聞社と協議したうえで、高校野球期間中もフェンス広告を隠さないことになった。[21]
本塁後方のフェンス広告(2か所)は2004年まではカネボウが、2005年からは江崎グリコおよびグリコ乳業が広告を出している。2005年から幕巻き取り式による電動で複数の広告パターンを交代で出せるようになった。試合前の打撃練習中の際「阪神甲子園球場」の幕が出ている時がある。オールスターゲームの時のみ協賛企業(三洋電機→マツダ)の広告となる。なお、高校野球の時は2005年までは広告部分は緑のシートで覆って隠され、電動表示幕変更後は広告のない緑一色の表示を出していたが2010年選抜大会から大会名表示を行なうようになった。(大会名はバックネット左側、主催団体表示は同右側のそれぞれ回転広告看板に表示される。なお、バックネット裏の「日本生命」とベンチ側の広告は従来どおりシートで隠してある)
セ・パ交流戦開催期間中のみ、本塁後方のフェンス広告の横に「日本生命 セ・パ交流戦」の広告文字が追加される。2008年は交流戦終了後も本塁向かって左側のフェンス広告横のみ、「セ・パ交流戦」だけを削除した「日本生命」が掲出され、2009年も公式戦開幕時からそのまま継続して掲出されている(これはバックスクリーンからの中継カメラがレフト寄りにあるため)。
2011年は東北大震災被災地への復興支援として、選抜高校野球では「がんばろう!!日本」(大会特別スローガン)を、プロ野球では「みんなに笑顔を届けたい。」(グリコ協賛広告)をそれぞれ随時表示している。また、同4月のパ・リーグ公式戦「楽天イーグルス対オリックスバファローズ」では「がんばろう(イーグルス球団ロゴ)東北」の広告を掲げている。
スコアボード側のバックスクリーンには三菱電機が広告を出している。2010年現在は「三菱電機オーロラビジョン」。バックスクリーン部分の広告はプロ野球時の試合開始前、攻守交代時、本塁打時、試合終了後に点灯する。過去に「三菱ビデオファンタス」「モバイルは三菱電機」「携帯は三菱電機」「霧が峰ムーブアイ(エアコン)」などと出していた。
下側にあるバックスクリーン(ペンタビジョン)の広告(1979年から2004年まではカネボウ、2005年からはグリコグループ)は電動により5種類のパターン(そのうち1種はプレー中に使用する緑一色のパターンなので、広告として使用できるのは4種類)を掲示することができる。本塁打時には周囲の電飾が点滅するとともに「ホームランおめでとう!」のパターンが掲示される。2010年現在は「おいしさと健康glico」「ビールにCratz=クラッツ」「Posca」(ホームラン用のみポッキー)の広告が入っている。高校野球期間中と阪神球団以外の主催試合では一切使用しない。表示中の故障により緑一色に戻らなかった時の為に、上部に巻き上げ式スクリーンが収納されている。1999年頃に、阪神戦で1度故障により使われた。現在の名称はペンタビジョン(4面広告+緑一色)であるが、1979年から1996年まではトライビジョン(2面広告+緑一色)という名称であった。
スタンド最上段には縦約2m×横約15mの看板が全面に設置されていた。リニューアル工事に伴い内野スタンド部分のものがロイヤルスイート上部壁面へ移設され、外野照明塔設備の両サイドがそれまでのものから、縦に大きい照明内蔵式看板になっている。またこれとは別に、銀傘先端直下に横断幕形式の広告(銀傘から吊り下げる形で掲出されており、札幌ドームとほぼ同じ)が採用されている。
テンプレート:Main
1985年に、ライトスタンド1階部分の一角(22号門の跡)に「阪神タイガース史料館」が作られた。ここでは選手の記念品やチャンピオンフラッグなどが展示され、スタンド内部へは直接の通行不可ながら試合開催時などに無料開放されていた。その後外野スタンドの改修工事に伴う準備により、2008年の夏に展示物は一旦撤去され、夏の高校野球の期間中に高校野球の記念品の展示を行った後、閉鎖された。その後2010年3月14日に、レフトスタンドの1階(17号門の跡)とレフト・ライトスタンドの2階部分で新たに「甲子園歴史館」として、高校野球や甲子園ボウルに関するものも展示に加えて新規に有料施設としてオープンしている。
入場料は一般500円、小中学生・幼児=4歳以上は300円。(20人以上の団体観光客向け割引あり)前述したとおり、外野の広告フェンスを提供している企業・団体が甲子園歴史館の協賛社にもなっており、その運営費捻出のため、2010年春の選抜選手権以後、高校野球期間中も外野フェンス広告を掲出している。3代目野球塔
甲子園のスタンド外には、高校野球を記念して建立されたモニュメント「野球塔」が存在する。
初代[]1934年、夏の甲子園20回大会を記念して、大阪朝日新聞社が建設。球場北東の松林(現在の甲子園警察署付近)に高さ30mの塔のほか、20本の柱廊、直径35m・8段・2,500名収容の階段型観覧席を備え、柱には第1回大会から第20回までの優勝校・選手名が1枚ずつ銅製の銘板に刻まれていた。しかし存在していた期間は短く、塔は近くに新設された鳴尾飛行場への離着陸の邪魔になると太平洋戦争中に撤去、銘板は軍に供出され、残りの列柱も空襲で崩壊、跡地も戦後に道路(現在の国道43号)の拡張時に区画整理され無くなった。現在は鋳潰されなかった銘板がいくつか残されており、そのうち第2回・慶應義塾普通部のものが野球体育博物館に、第20回・呉港中のものが甲子園歴史館に展示されている。
2代[]正式名称は「選抜高校野球塔」。1958年、春のセンバツ30回大会を記念して、毎日新聞社が建設。球場西側の敷地に高さ4.5mのモニュメントを建設し、台座には第1回大会からの優勝校が刻まれた。リニューアル工事に伴い、2006年に撤去。
3代[]2010年のリニューアル第3期工事の完工にあわせて高野連・朝日新聞社・毎日新聞社の3団体により建設された。場所はレフトスタンド後方(「甲子園歴史館」の入口ゲート前にあたる)で塔の高さは15m。20本の列柱の一部には、春・夏それぞれの優勝校名が刻印された銘板が取り付けられている。
2010年に一塁側場外へ整備されたイベント広場はミズノがネーミングライツを取得しており、ミズノスクエアと名づけられている。契約期間は5年間。リニューアル前まで球場正面に設置されていたベーブ・ルース記念碑が移設されているほか、ミズノのグラブ、バット、スパイク・ボールの歴史について学べるパネルが設置されている。
野球の開催シーズン(特に夏季の晴天時)はライトからホーム方向へ海風が吹くことが多く、球場の特徴の一つとなっており、「浜風」と呼ばれている。ただし海風でありながら昼間から強く吹くこともある。浜風が強い日は、上空で風が舞っていて野手を悩ませる球場である。特にライトへ打球を飛ばす左打者にとっては不利な球場であり、また右打者にとっても完全な追い風になることは少なくこの浜風で本塁打を損している選手は非常に多い。夏の高校野球の際にはライトからレフト方向に吹くことが多く、左方向の打球がよく伸びる。
この浜風の特性とラッキーゾーンを利用して、左打者であった掛布雅之やランディ・バースらは、芸術的と評される流し打ちでレフト方向への本塁打を量産した。
アルプススタンドと外野スタンドの“隙間”は風の抜け道となっており、浜風が舞っている日でも右翼ポール際への打球はよく伸びる。赤星憲広が2005年に放った唯一の本塁打(現役中に放った3本のうち、これが最後のものとなった)は、この球場で右翼ポール際に放ったもの。
“奇跡のバックホーム”のように、この浜風が試合結果を左右してしまうこともある。
ただし2009年の銀傘架け替えにより、内野スタンド上の従来の広告看板があった場所が金網のみになったために風の吹き方が変わり、浜風が弱まったのではないかとも言われている[22]。
球場初の日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズ)はタイガースの試合ではなく、1950年11月25日の松竹ロビンス - 毎日オリオンズの第3戦である。この年はフランチャイズがまだ正式に制度化されておらず、シリーズは1試合ごとに会場を代えて行われた。
1953年10月12日にも日本ワールドシリーズ・南海 - 巨人の第6試合が開かれたが、有料入場者は6,346人でシリーズワースト記録となった。これは当時の規定に「第1・第3・第5・第7試合と第2・第4・第6試合の使用球場は毎年両リーグが交互にこれを指定する。ただし、第1・第2試合と第3・第4試合と第5・第6試合の使用球場はそれぞれ連続して同一地域にある球場を指定する」とあったためで、この年の偶数試合の球場指定権はセ・リーグ、つまり巨人側にあったためである。
1973年10月22日の阪神 - 巨人戦、勝ったチームがセ・リーグ年度優勝を決める試合で、巨人が9-0で勝ち、日本プロ野球記録の9年連続リーグ優勝を決めた。ところが試合終了後、余りに不甲斐ない試合に激怒した阪神ファンがグラウンド内に乱入したため、巨人は胴上げを宿舎で行った[23]。これが後に各地の球場のフェンスが高くなった一因とも言われている。更に、2002年9月24日に巨人がリーグ優勝を決めるが、このときも警備員はいつもの試合より多く配置された。
阪神による日本シリーズの開催は1962年、1964年、1985年、2003年、2005年の5度となっている。このうち、3度(1962年、1964年、2005年)は甲子園球場で相手チームの胴上げを見ているが、一方で阪神の日本一の胴上げは甲子園球場では一度も行われていない(1985年は西武ライオンズ球場で日本一になったため)。
日本シリーズの記録として、1試合最多有料入場者数が1985年甲子園で開催された第4戦の51,554人である。
2011年は、東日本大震災の影響により東北楽天ゴールデンイーグルスが本拠地球場として使用している日本製紙クリネックススタジアム宮城での試合が4月28日まで不可能となったため、阪神球団の厚意もあり、4月15〜17日の東北楽天対オリックス戦が当球場で開催され、3日間で計6万3千人が来場した。パシフィック・リーグ球団主催による公式戦の開催は、現行の2リーグに分立した1950年以来、初の出来事であった[24]。
過去には社会人野球の大会もあった。1973年まで行われていた日本産業対抗野球大会(サンベツ)が廃止されたことを受けて新たに作られた「社会人野球日本選手権大会」の1974年第1回から1979年第6回までの大会を当球場にて行った。それ以後は社会人野球の公式大会は行われていない。
現在は全日本大学アメリカンフットボール選手権決勝である甲子園ボウルが毎年12月に開催されている。テンプレート:Main
開場翌年の1925年から1928年(うち1927年は大正天皇が1926年末に崩御したため取りやめ)までは全国高等学校サッカー選手権大会及び全国高等学校ラグビーフットボール大会の前身の大会(1925年は2競技合同の「日本フットボール優勝大会」、1926年と1928年はそれぞれ「全国中等学校蹴球選手権大会」と「全国中等学校蹴球大会」)の会場となった。1929年には新設の南甲子園運動場での開催となったため、球場での開催は3回のみとなった。
1994年2月19日には、第10回全国中等学校蹴球選手権大会以来66年ぶりとなるサッカーの試合が開かれた。これはJリーグのプレシーズンマッチ(シーズン開幕前の公開練習試合)として開かれたガンバ大阪対ヴェルディ川崎の試合で、翌々年の1996年にも開催された。外野の部分を使用したが大きさが足らないために内野の一部に天然芝が仮設された。
西宮市では、市立の全ての小学校および中学校の生徒による体育大会を、阪神甲子園球場にて毎年秋にそれぞれ1回開催している。内容は、学校対抗でリレーなどのトラック競技を行ったり、市内全学校が地区毎に数ブロックに分かれて共同でマスゲーム・組体操を披露するものである。もちろん球場のフィールド内で行われるため、参加者全員が「甲子園の土を踏む」わけである。つまり西宮市立の小学校高学年または中学校に通った者であれば、その多くが「甲子園の土を踏む」ことを、男女を問わず実際に体験していることになる。
小学校と中学校は別々の開催であり、それぞれ「小学校連合体育大会(略称・小連体)」、「中学校連合体育大会(略称・中連体)」と呼ばれている。中連体は全員参加だが、小連体は6年生のみの参加である。かつては5年生も参加していた。中連体では、全プログラム終了後には、各校ごとに校歌を歌いながら人文字やエール交換をする。
球場まで市内南部の学校からはいずれも徒歩で向かうが、北部(生瀬駅、西宮名塩駅周辺など)の学校からはバスで向かっている。
参加各校の生徒はスタンドで待機しつつ、観戦および応援をする。なお、観戦場所は学校毎に指定されているため、学校によって外野席になったり、屋根・テーブル付きのグリーンシートになったりして差が出る。ただし、場所は毎年順番に変わる。
甲子園の外野部分の天然芝の中にはミミズが多数生息しており、特に裸足で行う組体操の時には、このミミズがしばしば参加者を驚かせることがある。また、連合体育大会開催前日には、甲子園球場近くの小・中学校が、甲子園球場周辺を掃除している。
球場の改修工事に伴い、小連体・中連体共に2007年度から2009年度までの3年間は休止となった。
戦前は特に色々なイベントが行われていた。スキーのジャンプ大会も開催したことがある(全日本選抜スキー・ジャンプ大会)。1938年と1939年に観客4万人を呼ぶ人気のスポーツとして外野のグラウンドを利用して開催したが、長野県から運ぶ雪の輸送コストや天候不順が心配されて、僅か2年でその大会寿命を終えた。他にも野外映画会や鷹狩り、野外歌舞伎、馬術大会、戦車博覧会、1940年には「紀元2600年奉祝・興亜厚生大会」と銘打たれた極東・東南アジア各国の代表との交流会等が開催されることもあった。戦後はボクシングやコンサートなどでよく使用されていたが、他にそれらの用途に向いた施設(大阪ドームなど)ができたため現在ではほぼ使用されていない。
その中でもTUBEは毎年9月にコンサートを開催している。過去に当球場でコンサートを開いたアーティストにはエマーソン・レイク・アンド・パーマー、イーグルス、Mr.Children、サザンオールスターズ、JUDY AND MARYなどがいる。コンサートでは天然芝である外野にステージを設営するため、設営に時間がかかる大規模なステージは組むことが不可能となっている。
2002年公開の長嶋一茂主演の映画『ミスター・ルーキー』ではタイガースの全面協力の下、現役選手や本物の球場スタッフを揃えてロケが行われた。主にペナントレース終了後の11月頃に撮影されたため、シーズン中の真夏の試合のシーンでは、出演者、エキストラ共に薄着で寒さに震えながらのロケであった。
2005年冬季編成(1 - 3月)にTBS系(JNN)全国ネット放送の木曜22時ドラマ「H2~君といた日々~」で、高校野球の全国大会に出場するシーンの撮影に当球場が実際に使用された。ただし、この時は実際の大会(当時)のようなフェンスのシート隠しはしなかった。またバックネットのフェンス広告は当時回転広告盤を設置する工事が行われていたため、通常より高めの仮設フェンスを使って隠していた。
2007年の夏に発売されたDVD「THE HANSHIN KOSHIEN STADIUM ~大正・昭和・平成悠久の時を経て~」では阪神甲子園球場の様々な位置にカメラが入っている。これはリニューアル前の映像であるため、現状とは違っている。
1985年10月17日と2010年3月19日に『おはようパーソナリティ道上洋三です』の、1991年8月31日に『おはよう朝日です』の公開放送が当球場で行われている。
甲子園駅西口。開催日には多数の観客で混雑するが、阪神電気鉄道では大量の乗客の扱いに比較的慣れており、試合展開を先読みして臨時列車を運転するなどの対策を行う。
阪神本線甲子園駅下車の経路が最も多く利用されている。
甲子園駅の隣駅である鳴尾駅(大阪側)、久寿川駅(神戸側)までは1km弱の距離である。特急列車を利用しない観客の中には、試合終了後の混雑を避けるためにこれらの両駅を利用する者もいる。
阪神なんば線開業後は、大阪市此花区からはもとより、特に相互乗り入れ先の近鉄奈良線沿線の東大阪市・奈良県生駒市・同奈良市、更に大阪難波駅から近鉄特急を利用すれば名古屋、伊勢志摩、同駅乗り換えで南海沿線からのアクセスも格段に向上している。また京セラドーム大阪への最寄り駅、ドーム前駅へも乗り換えなしで行けるようになった。
JR神戸線甲子園口駅からは約2km離れており、徒歩だと30分程かかる。阪神バスで約10分、阪神甲子園下車。
バスの場合、阪神バス阪神甲子園またはららぽーと甲子園西下車。なお、阪神バス宝塚甲子園線では、定期便終了後もナイトゲーム終了20分後には、宝塚行き臨時便が運行される。同様にナイトゲーム終了20分後に出発する臨時便として、2005年シーズンから、大阪・なんば(JR難波駅前)への直通バスを阪神バスが運行している。さらに2008年シーズンから、阪急神戸線西宮北口駅への直通バスを阪神バスと阪急バスが共同運行している。
球場周辺には駐車場がないため、電鉄・球団側はCMや駅や車内の広告などで告知する形で、阪神西宮駅などの少々離れた駅近くの駐車場に車を停めて、電車や路線バスで来場することを勧めており、球場内でも頻繁にアナウンスされている。高校野球出場校の中には自校の応援貸切バスを球場近くのマンションといった一般住宅の駐車場を開催期間借用する形で使用したり、球場至近のダイエー甲子園店の駐車場や野球開催時にのみ営業される私営駐車場を観客が利用するといったことも多々見られる。
球場の南方約1kmの場所にごく少数だけ駐車場が用意されているが、あくまで高校野球大会などの際の遠方からの来客と観戦ツアーバスのために用意されているものである。球場まで距離があるため、夏の高校野球時にはシャトルタクシーが用意される。
ロイヤルスイート席の利用客は球場至近に用意された駐車場を1室につき1台分利用することができる。
甲子園阪神パークが閉園した2003年までは、阪神パークの南側にあった大駐車場を球場の客向けに使用していた。また、2002年までは甲子園競輪場の駐車場を借用することで、両駐車場合わせて2000台以上の駐車スペースを確保していた。
甲子園阪神パークの跡地にあるららぽーと甲子園の駐車場は、当球場での試合開催日は観戦客の駐車を排除するため3時間を超える駐車には本来の駐車料金に加え、特別駐車料金6000円が加算される(買い物客およびキッザニア甲子園利用客には一定の条件で特別駐車料金は免除される)。
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テンプレート:Start boxテンプレート:本拠地の変遷テンプレート:本拠地の変遷テンプレート:End box
テンプレート:日本プロ野球の本拠地野球場テンプレート:Coor title dms
de:Kōshienen:Koshien Stadiumfr:Koshien Stadiumit:Stadio Hanshin Kōshienko:한신 고시엔 구장th:โคชิเอ็งzh:阪神甲子園球場
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