阪神タイガースは、前身の大阪タイガースも含めると80年の歴史があります。日本球界に現存する中で、最も古い球団の一つです。
- このページは、タイガースの歴史を編纂中です。
- 虎情報である限り、その記載内容は自由です。
阪神タイガースの歴史一覧[]
日本一へ(1970年~1985年)[]
1970年- シーズン2位
- 村山実、最優秀防御率 0.98(戦後日本記録)
1971年1972年1973年- シーズン2位
- シーズン終盤になっても1位のまま残り2試合となり、1敗1引き分けでも巨人のV9を阻止できるはずだったが、2敗して2位に終わる。
- 最終戦の10月22日は甲子園で巨人との優勝をかけた直接対決となる。しかし0-9と惨敗し、ふがいない試合を見せさせられたファンが暴徒と化して試合終了直後に巨人のベンチを強襲、巨人選手は胴上げもできずに一目散に逃げざるを得ず、また王貞治などがファンの下駄で殴られる事態に至った。
1974年1975年
1976年1977年1978年- シーズン最下位
- 3月、月刊タイガース創刊。2008年で30周年。
- ドラフト1位で江川卓入団するも、翌年小林繁と交換トレード。
1979年1980年1981年1982年1983年
1984年1985年日本シリーズで西武ライオンズを4勝2敗で下し、日本一。4月17日、3番ランディ・バース 4番掛布 5番岡田。巨人の槙原からバックスクリーン3連発ホームラン。本塁打54、打点134、打率.350で三冠王達成。他に最多安打、勝利打点、出塁率で打撃6冠。日本シリーズ3試合連続ホームラン。シーズン、日本シリーズ共にMVPと鬼神の活躍。暗黒時代(1986年~2001年)[]
1986年本塁打47、打点109、打率.389で三冠王。打率は日本新記録。他に4打席連続ホームラン、7試合連続ホームランで日本タイ記録。13試合連続打点記録、長打率.777は未だ日本記録。しかし、翌年吉田監督との確執が深くなり、活躍が低迷し、1988年、子供の病気の対処をめぐり突如解雇される。のちに球団の不手際が原因であったことが発覚するなど、このあたりから球団経営の不透明さが戦力低下の一因として、如実に表われてくるようになる。1987年- シーズン最下位、球団ワースト勝率.331
- 吉田監督退団するも特別功労賞受賞。背番号23が永久欠番に。
- マット・キーオ入団。低迷するタイガースにおいて孤軍奮闘する。(1991年退団。)
1988年- シーズン2年連続最下位
- 和田、大野、中野の少年隊
- バース、突然解雇
ランディ・バース、長男の病気療養ため5月に帰国、そのままシーズン途中の9月に解雇。ファンに神のごとくの崇められるほどの選手であったバースの解雇劇の詳細は長らく不詳であった。球団側は休養の間にバースの戦力が低下したことを理由にしていたが、バース本人が著書で球団が契約上の加入義務であった保険に実際は未加入であり、その違約金が払えないための解雇であったことを明かしている。1989年- シーズン5位
- セシル・フィルダー、大洋戦での3打席連続ホームラン、同一カード8試合連続ホームランなど、最下位大洋には力を発揮した。
- ドラフト1位で葛西、5位で新庄入団。
1990年- シーズン最下位
- 川藤守備走塁コーチ
- オフにニューヨーク・メッツからオマリーを獲得。
- ドラフト1位湯舟加入
1991年- シーズン2年連続最下位
- 開幕5連敗は球団ワースト記録
- オフに阪神甲子園球場のラッキーゾーン撤去される。
- オフに阪神タイガース、たけし軍団に敗れる。(→阪神13位)
- 大洋からパチョレック獲得
- ドラフト2位で久慈、4位で桧山入団
1992年最後までヤクルトと優勝を争うも、最終的には巨人と同率2位で終わる。このシーズンの優勝争いでは、はフェンス上部にあたって取り消された、八木の幻のサヨナラホームランや、応援団の旗にかかり取り消されるホームランなど、「もしもあれがなければ」というシーンの多いシーズンであった。優勝争いを続けた相手球団ヤクルトの監督は、野村監督であった。この後、野村ヤクルトと長島巨人の天下が数年続く。湯舟、ノーヒットノーラン達成。久慈、新人王。他にも新庄、亀山といった若虎の活躍が目立った年であった。1993年- シーズン4位
- 郭李来日。初勝利をあげる。
- FA制度がこの年開始し松永騒動が発生する。
- ドラフト1位で藪入団
1994年- シーズン5位
- オマリー3年連続最高出塁率達成
- 藪新人王。
1995年- 阪神・淡路大震災発生。タイガース、被災者のためにも優勝を約束するも、シーズン早々に失速し最下位。イチローのいたオリックスは優勝し、被災者との約束を実行した。このころが、もっともタイガースの状態がひどいころであった。
- 新庄、引退発言騒動。このころから、突然やめますという癖があった。
1996年- シーズン2年連続最下位。
- 新庄正座事件。[1]
- 新庄、塩谷の1イニング2満塁ホームラン。[2]
- ドラフト1位で今岡、2位で関本、3位で濱中が入団。
1997年球団史上最高年俸(推定3億円)でグリーンウェルを獲得するも、神の御告げがあるから引退するという理由でGWに帰国。球団経営のお粗末さが露呈する。この年頃から「負けても負けてもファンが来るから楽だ」という風に球団経営陣が言ったという噂がファンの間で流れ始める。- オールスターにおいて新庄、応援ボイコットを受ける。
- ドラフト2位で井川、4位で坪井入団。
1998年ファンにとって夢も希望も無い時期が続き、とうとう甲子園のライトスタンドも空席が目立つようになってきていた。- 野村克也ヤクルト監督、電撃的にタイガースの監督に就任。ついでにサッチーとカツノリ(翌年)もついてくる。
- ドラフト1位で藤川、3位で福原入団。
- 新人の坪井が打率.327の好成績。
- 5月26日の中日戦で川尻がノーヒットノーランを達成。
1999年野村監督のID野球が一定の成果を出し、前半戦は首位に立つこともあり、ファンは一時の夢を見ることができた。- 6月12日、新庄、巨人槇原からの敬遠球を三遊間に打ち、サヨナラヒット。
2000年葛西⇔遠山と1塁と投手を行ったり来たりする継投が話題をよぶが、他チームとの長年に渡って開いていた戦力不足は明白で、最終的には最下位。野村監督がID野球を叩き込もうと、四苦八苦した新庄であったが、後から考えると新庄にそのような野球が合うはずも無く、ニューヨーク・メッツへFA移籍。その後、まさかの大活躍を見せる。- ドラフト1位で藤田太陽、3位で狩野、4位で赤星、7位で藤本が入団。
- F1セブン結成。数年後上坂太一郎は、公道でポールポジションをとり、スピードスターとなる
2001年野村監督の下、着実に戦力補強の跡は見られるも、連続最下位、サッチー騒動もありファンの信任を失う。3年契約もあり、退団。後任は、星野中日監督がタイガース監督に就任。事前に大阪スポーツがそれをすっぱ抜いたときは、誰も信用していなかった。時期調査中- 来期のエースと4番はまだ見ぬ新外国人
- 桧山のショートフライ
猛虎復活(2002年以降)[]
2002年- 5年ぶり最下位を脱出し4位
- 闘将星野監督は、まずはタイガースに深く根付く負け癖の一掃を図った。オープン戦から全力で勝つことを徹底させた。オープン戦首位、開幕12年ぶり勝利、64年ぶり開幕7連勝と開幕奪取に成功した。W杯の間に連敗し最終的に4位に終わるも、タイガースに一筋の希望が見えた年であった。
- 井川、206Kで最多奪三振
- 赤星、26盗塁で2年連続盗塁王
- 星野監督、半ば強引にFAで金本選手を引き抜く
- ドラフト自由枠で杉山、江草、5順目で久保田、7順目で林威助が入団
2003年9月15日、18年ぶりセ・リーグ優勝。プロ野球史上初、4ヶ月連続15勝を達成するなど、最初から最後までぶっちぎりの首位であった。11月3日優勝パレード。闘将星野監督、翌日各誌に自費でファンへ一面広告を掲載する。優勝2日前、星野監督の母親が逝去されていたことがのちに判明。この年、日本シリーズを前に星野監督、勇退を発表。後任は現岡田監督。9月15日から16日にかけて、のべ5300人が道頓堀に飛び込む。東京のアナウンサーが冷静にたしなめるも、大阪のアナウンサーがそれに対し、涙声で「これでいいんです」とコメントする。- 井川、最多勝利、最優秀防御率 2.80、リーグMVP、沢村賞。
- 今岡、首位打者。
- 赤星、61盗塁で3年連続盗塁王
2004年- シーズン4位
- 井川、ノーヒットノーラン達成。228Kで最多奪三振。
- 金本、113で最多打点。
- 赤星、64で4年連続盗塁王
- ドラフト自由枠で能見、4巡目で橋本健太郎、6巡目で赤松入団。
2005年9月7日、2位中日とのシーズン最大の天王山。審判の誤審が続き荒れた試合になったが、延長11回、中村豊の1号ホームランで勝負が決する。これでこのシーズンは勝負が決まり、そのまま突っ走り9月30日2年ぶりセ・リーグ優勝。ただし、タイガースファンにとっては、この年日本シリーズは濃霧やなんやらの諸事情により、開催されなかったことになっている。この年以降、落合中日とタイガースとの優勝争いが熾烈になる。- 金本、リーグMVP。
- 今岡、147打点で最多打点賞。
- 下柳、15勝で最多勝。
- 赤星、60盗塁で5年連続盗塁王。
- 藤川、シーズン80試合登板で日本記録。
2006年球児の涙から発する歴史に残る猛追を見せ、8月末に首位中日との9ゲーム差を埋めるも、今一歩足りず最終的には2位に終わる。- 村上タイガース騒動
- 金本が904試合フルイニング出場世界記録達成(記録継続中)。
- 藤川47回2/3無失点の球団記録更新。2年連続最優秀中継ぎ投手賞。
- 井川194Kで最多奪三振。ポスティングでヤンキースに移籍。
- ドラフト大学・社会人枠3巡目で上園入団。
2007年巨人、中日、阪神の3強とそれ以外の力の差がはっきりと分かれたシーズンであった。8月下旬から9月にかけて、25年ぶりに10連勝、藤川10連投。一時首位に立つも、その後連敗が重なり、最終的には3位。この年から始まったクライマックスシーズンでは、シーズン2位の中日に敗れる。中日はそのまま、巨人、日ハムを破り日本一へ。- 4月3日、金本が対ヤクルト戦にてバースデー逆転満塁ホームランを決める。
- 5月に7年ぶり9連敗。
- 上園新人賞
- 藤川最多セーブ投手
- 10月、この年から阪神甲子園球場が改修工事に入る。2010年までに3期に分けて改修する。
- 11月、北京五輪アジア予選で、矢野、藤川、新井(当時広島)が出場。
2008年- 新井貴浩が広島よりFAで移籍。金本の後輩であり、入団早々いじられまくる。
- 濱中治がオリックスへ移籍。代わってが平野入団。
- 3月、春の選抜高校野球の前に甲子園の第1期改修工事が終了。内野席が大幅に改修。高校野球大会前日に、照明電源が切れる(原因不明)といったハプニングが起こる。
- 4月12日、対横浜5回戦横浜スタジアム。金本通算2000本安打、新井通算1000本安打達成。
- 7月8日、宿敵の巨人に13ゲームをつけ、1962年の南海ホークス(7月6日)に次ぐ速さでマジックナンバー49を点灯させる。
ここから阪神は優勝へ向け、ダントツで独走体制を固める……はずだった。- 10月8日、この日は1973年10月22日同様に阪神ファンにとって永遠に忘れられない屈辱の日となる。
- 10月10日、横浜で阪神ファンが涙を流す。
金本にとっては同じ相手から12年前と同じ屈辱を味わうことが決定した日となった。- 10月20日、岡田監督が胴上げされる。8月以降の試合を見なかったことにすれば、この年のファンの思い出は美しく飾られるであろう。
ペナントの最終成績は?CSは?日本シリーズは? そんな質問を阪神ファンにしてはいけません。脚注[]
- ↑藤田平 - ウィキペディア
- ↑「1イニングに満塁弾2発」『デイリースポーツ-バックナンバー』1996年10月9日
参考情報[]
- 『月刊タイガース』2008年3月号、(株)阪神タイガース
- 「阪神タイガースヒストリー」『阪神タイガース公式サイト』
- げんまつWEBタイガース歴史研究室
- 松木謙治郎 『大阪タイガース球団史 - 1985年度版』桓文社、1985年、ISBN 4-7704-0634-7
ウィキペディア[]
- 阪神タイガース
- 日本野球機構
- セントラル・リーグ
- ダイナマイト打線
年度別スポーツ記事[]
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