名(迷)言集 その3

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名(迷)言集 その3

 

34その名前は774人います (ヒッナー df67-wl/W)2018/03/03(土) 18:07:20.54ID:95B+uMSc00303

2018年2月、日本中が冬季五輪での日本人アスリートのメダルラッシュに沸く中、 
アッチキ節炸裂をさせるも1000人いるフォロワーからは完全スルーされてしまう。 

https://twitter.com/ReiyaDQX/status/964763022731309056 

1)ぼくはスポーツが嫌いだ。スポーツ新聞はふつうにコンビニでも売られていて、球技の結果は毎日テレビのニュースで伝えられるのに、 
「才能ある作家がいまこういった作品に取り組んでいる」だとか「絶版になっていたあの名作が再版される」だとか、そういったことは話題にのぼらない。 

2)ぼくのいちばん好きなマンガも、二番目に好きなマンガも、打ち切りで終わった。一方この世界では、球を投げたり打ったりするのが 
人並み外れて上手だと、それだけで何十億ももらえるらしい。ぼくはそれを憎む。 

3)だからせめてもの(むなしい)抵抗として、高校卒業以降、オリンピックもメジャーリーグもワールドカップも、およそ「スポーツ」と名のつくものは一度も観賞したことがない 

4)スポーツをするのは嫌いじゃないし、見るのもきっとたのしいのだろう。しかしぼくが自分にそれを許すことはけしてない。無数のゴッホが、生身のまま焼かれている光景がどうしても脳裏を去らないからだ。 

5)スポーツは、その競技に精通していなくても、ひいきの選手や団体が活躍しさえすればたのしめる。芸術はそうではない。 
観る側にも、能力が必要とされる。つまりスポーツは大衆のものであり、芸術はそうではない。 


6)「大衆」というのは、人類という種が存続するために必要不可欠な「システム」である。 
現状をキープしようとする力と、変えていこうとする力、社会にはどちらも必要だが、「頭数」が求められるのは圧倒的に前者だ。 
だから、「大衆」の割合というのは、時代や国がちがってもある程度は一定である。 

7)たとえば90年代の松本人志は、自分の作品を受け入れさせるため、客の質そのものを向上させようと考えた。 
それは一個人の革命としては異例といっていい規模で成功をおさめた。あのころの彼がいなければ生まれなかった笑いは、数えきれないくらいあるだろう。 

8)しかし結局、彼も「大衆」に勝利することはできなかった。それはいまも変わらず、1年後にはすっかり忘れられてしまうような質の低い笑いが、わがもの顔でのさばっているのを見ても明白である。 

9)けれど言うまでもなく、すべての人間が芸術家を気どっていては、たちまち社会は滅びる。だから最初からこの闘争に勝ち目などないのだ。 
10年後も20年後も、人々は「あしたもがんばる」ためにおいしいものを食べ、わかりやすいものだけを見て暮らすだろう。ぼくの革命は、きっと失敗に終わる。 

10)だけど負け戦だとわかっているからって、やめるわけにはいかないのだ。勝手にはじめた弔い合戦を、勝手にあきらめるわけにはいかないのだ。

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