ボリス・サヴィンコフ

ページ名:ボリス・サヴィンコフ

ボリス・サヴィンコフ

本名

ボリス・ヴィクトロヴィッチ・サヴィンコフ

階級

ロシア共和主義人民党党首(1924-)

自由・祖国擁護同盟総裁(1918)

ロシア臨時政府陸海軍省次官(1917)

生年月日

1879年1月31日

現在

56歳

所属

ロシア共和国

政党

社会革命党(1903-1917)

自由・祖国擁護同盟(1918)

ロシア共和主義人民党(1924-)

出来事

ロシア革命、ロシア内戦

ボリス・ヴィクトロヴィッチ・サヴィンコフはロシアの政治家、小説家であり、かつては要人暗殺に携わるテロリストであった。青年時代に社会革命党の戦闘団に加わって政府高官やセルゲイ大公の暗殺に関わり、その後の執筆でも名声を高めた。

2月革命が勃発した際、亡命の身からロシアへと帰還し、陸海軍省次官として臨時政府に参加した。ボルシェヴィキへの徹底した反対派となり、ロシア内戦における反ボルシェヴィキ蜂起を組織する形で白軍への支援を行う。大戦後にロシア共和主義人民党(NRPR)を創設した。ドゥーマはサヴィンコフの党を禁止しようと試みたが、ラーヴル・コルニーロフの支援もあって法的措置は回避された。

目次

生涯[]

生い立ち[]

ボリス・サヴィンコフはロシア帝国の一都市、ハリコフで生まれワルシャワで育った。彼の父ヴィクトル・ミハイロビッチは治安判事であり、母ソフィア・アレクサンドラヴナは著名な画家ニコライ・ヤロシェンコの姉妹であった。彼らはボリスと彼の五人の兄弟にリベラル的自由主義的な教育を施した。

サヴィンコフはワルシャワのギムナジウムに通い、1897年にサンクトペテルブルク帝国大学で法学を学んだ。 ポーランドの学生によるロシア抵抗運動に協力したとして、彼の兄アレクサンドルとともにロシア帝国の警察に初めて逮捕された(アレクサンドルは最終的にシベリア流刑にあい、1905年に自殺した)。 ボリスは学生運動との関わりをもち続け、1899年に大学から退学を言い渡された。同年、彼は最初の妻であるヴェーラ・グレボフナ・ウスペンスカヤと結婚して、タチアナとヴィクトールの2人の子供をもうけた。 サヴィンコフはロシアを出てハイデルベルグとパリの大学で学び、そこで彼はさらに急進的な学生サークルに加わった。

1901年、サヴィンコフは革命運動に傾倒してサンクトペテルブルクに戻り、社会主義関連の出版物で執筆を行った。 そこでの活動により、当局による逮捕と10か月にわたる投獄を経験した。 しかしながら、1902年、政治犯が多数いた僻地の都市ヴォログダの国際亡命者たちの尽力により釈放された。 そこで彼は秘書および文芸評論家として働き、アレクサンドル・ボグダーノフ、ニコライ・ベルジャーエフ、アレクセイ・レーミゾフなどの反体制派知識人と関係をもった。 サヴィンコフはこの地で、社会革命党と、テロリズムによる政治的手法に関心を寄せた。

エスエル戦闘団[]

1903年、サヴィンコフはヴォログダを出てスイスのジュネーブへと渡った。ジュネーブでは社会革命党中央委員会が設立されていた。彼は社会革命党の軍事組織部門に参加し、社会革命党の指導者ミハイル・ゴーツの薦めによりエヴノ・アゼーフ率いる社会革命党戦闘団のメンバーとなった。(アゼーフは党の幹部として戦闘団によるテロ活動を掌握すると同時に、ロシア帝国内務省の秘密警察オフラーナと秘密裡に通じていた)

11月、アゼーフはサヴィンコフをサンクトペテルブルクへと送り、ヴャチェスラフ・フォン・プレーヴェ内務大臣の暗殺計画に協力させた。サヴィンコフの部隊は暗殺未遂を乗り越え、7月28日、エゴール・サゾーノフが馬車に爆弾を投げ込みフォン・プレーヴェの暗殺を成功させた。戦闘団の次なる標的はセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公(皇帝ニコライ2世の弟にしてモスクワ総督)に定められた。サヴィンコフはアゼーフの右腕として同志たちを連れて再び祖国へと潜入した。1905年2月15日、クレムリン郊外でイヴァン・カリャーエフにより大公の馬車へ爆弾が投げつけられ、サヴィンコフたちは再び標的の殺害を成し遂げた。

サヴィンコフはその後も政府高官の暗殺計画に関与しつづけたが、計画が露見するたびオフラーナによる弾圧をうけた。日露戦争中の1905年、「血の日曜日事件」を機に起きた全土での騒乱(ロシア第一革命)は彼らに革命到来の確信を深めさせ、戦闘団はさらなる政治的テロリズムへの信仰を強めた。1906年5月、サヴィンコフはセヴァストーポリでグリゴーリイ・チュフニーン海軍中将{前年に装甲艦ポチョムキン(当時の艦名はパンテレイモン)でおきたセヴァストーポリの蜂起を弾圧した}の暗殺のため赴いたがその場で拘束された。 彼はテロ容疑により死刑を宣告されたが、監獄を脱出すると小型の帆船でルーマニアへと亡命した。

サヴィンコフはジュネーブに戻ると国会ドゥーマが成立した報を知らされた。彼はドゥーマの成立によって社会革命党が政治的テロリズム活動を軽視する態度を示したことに愕然とした。くわえてエヴノ・アゼーフがオフラーナと通じている容疑が浮上したため戦闘団は内部から大きく動揺した。サヴィンコフと党中央委員会指導部は当初アゼーフを擁護したが、オフラーナへ数々の同志を売り渡した否定しきれない証拠が挙がったために、1909年1月、中央委員会はアゼーフを公式に「党の裏切り者」と発表、アゼーフはドイツへと逃亡した。戦闘団の指導的立場を引き継いだサヴィンコフは戦闘団存続のために努めたが、ピョートル・ストルイピンによる大量処刑、中央委員会による暴力手段の放棄によって戦闘団は党内でも孤立を深めた。1910年末までに酷く失望感を覚えたサヴィンコフは正式に戦闘団の解体を余儀なくされた。

この頃、サヴィンコフはフランス国内のロシア人移民コミュニティで生活していた。この頃までに妻とは離縁しており、今は亡き戦闘団同志の姉妹であるエヴゲニヤ・ジルバーベルクと再婚し、彼女との間に息子レフをもうけた。彼の文学的関心の高まりはドミトリー・メレジェコフスキーとジナイーダ・ジッピウスとの交流を始める切っ掛けとなった(二人はサヴィンコフの政治的パトロンとなると同時に文学的影響を与えた)。サヴィンコフは自身が戦闘団にいた頃の経験を綴った『テロリストの回想』(または『テロリスト群像』、1917年に初めて出版された)の執筆を始めた。さらに『蒼ざめた馬』(フォン・プレーヴェ暗殺体験をもとにした小説)を1919年にV・ロープシンの筆名で書いた(ロープシンの名はジッピウスがサヴィンコフに与えたもの)。『蒼ざめた馬』は数か国語で翻訳されてちょっとした文学的センセーションを巻き起こした。特筆することとして、主にパトロンやかつての同志から受けた経済的支援で過ごしていたサヴィンコフにとって、この小さな成功はわずかな収入を与えたが、祖国における政治的舞台から外され、社会革命党の主だったメンバーからも見放されていたことは彼を憂鬱とさせており、サヴィンコフはこの頃に「みずからの政治的キャリアは終わったのだ」と綴っている。

臨時政府、コルニーロフ一揆[]

1917年の4月、サヴィンコフは2月革命後のロシアへと帰国して再びロシアでの政治活動を始めた(第一次世界大戦が勃発した際、フランス軍に志願兵として入隊していた)。彼は臨時政府から第七軍の軍事コミッサールに任命され、6月28日、南西正面軍(South-Western Front)の軍事弁務官に就任した。ロシア新政府はいまだ中央同盟国との戦闘を継続しており、サヴィンコフは積極的に戦争継続を主張してドイツに占領されたポーランドリトアニア、バルト地方の奪還を要求した。サヴィンコフは臨時政府内部においても、アレクサンドル・ケレンスキー陸海軍省大臣とラーヴル・コルニーロフ将軍との間に協力関係を築いていることで知られており、7月半ば、アレクセイ・ブルシーロフ将軍(同盟軍の攻勢を止めれなかった責任により更迭された)の後任にコルニーロフを推薦した。

同月、サヴィンコフは陸海軍省次官に任命されてケレンスキー唯一の右腕となった。この時点で彼は、臨時政府での(戦時という例外状態にともなう)独裁権力を行使する事実上の指導者たちに名を連ねることとなった。サヴィンコフは「革命家による独裁政権」を新たに樹立して、戦時内閣の三閣僚による中央集権的な戦時体制を構築するべく計画をめぐらせた。サヴィンコフはコルニーロフと会談を行い、彼を説得させてこの野心的陰謀に軍事的協力をするよう約束を取り付けた。9月初旬にコルニーロフは前線からペトログラードへと向かったが、ケレンスキーはサヴィンコフとコルニーロフとの間にある秘密裡の関係を疑って、彼の拘束を命じた。コルニーロフによるクーデターと噂されたこの事件はコルニーロフ一揆と呼ばれることとなる。臨時政府にたいする陰謀が露見した際、彼はケレンスキーに対して「もしも、まだ君が僕を信じて、きっと僕自らがコルニーロフを逮捕するだろうと思っているのなら、君はまず僕を逮捕するべきなのだ」といった。ケレンスキーはサヴィンコフの疑惑について何も言及しなかったが、社会革命党は数週間後にサヴィンコフの党員資格を剝奪、党からの追放を行うことが党内部多数の支持をうけて決定された。

十月革命とロシア内戦[]

1917年10月、コルニーロフ一揆後に勢力を強めたボルシェヴィキたちはケレンスキー臨時政府に対する武力蜂起にうって出た。ペトログラードから遠く離れたクバンの地で、ボルシェヴィキ蜂起の報を聞いたサヴィンコフは、コルニーロフ将軍の釈放をケレンスキーに求めたがすげなく拒否された。サヴィンコフはケレンスキーの柔弱で無分別な態度のせいで、わずか少数の武装集団による蜂起を許してしまったと見なすと、この十月革命により成立したソヴィエト政権と徹底的に敵対することを決意した。すぐさま彼はペトログラードへと引き返して包囲下の冬宮殿にいる臨時政府の下へ向かったが、その道の途上で臨時政府がボルシェヴィキの手により陥落したことを知った。ペトログラードに到着してもボルシェヴィキへの抵抗は困難であると考え、クバンへと戻ってミハイル・アレクセ―エフ(元陸軍参総謀長)やピョートル・クラスノフ(ドン・コサックのアタマーン)などの高級将校、軍事士官との接触をはかり、ロシア内戦において最も名を馳せることとなる"義勇軍"(コルニーロフ率いる後の"南ロシア軍"の母体)と、ドン・コサック軍の提携に協力した。

1918年初頭、サヴィンコフはモスクワへと向かい自由・祖国擁護同盟(白軍と協力関係を持ち800名ほどの人員を抱える反ボルシェヴィキを掲げた地下軍事組織)を設立した。この組織はソヴィエト政権を打倒して新たな軍事独裁政権を樹立し、ブレスト・リトフスク条約によって失われたドイツ占領地を奪還することを目的として掲げていた。18年の夏、モスクワの東部(ヤロスラブリ、ムーロム、ルイビンスク)でおきた一連の蜂起では、サヴィンコフ自ら潜入を行い軍事的指揮を担った。各地の戦闘員はルイビンスクでサヴィンコフの部隊と合流し、郊外でヤロスラヴリから追撃してきた赤軍を打ち負かした。 その後、短期間ながらもヤロスラブリを奪還することに成功した。

サヴィンコフはロシア国内の白軍に対する共鳴者たちから英雄として歓迎された。時を同じくして、協商国によるカレリア、アルハンゲリスクの軍事占領が行われた。彼はロシア北部へと向かい上陸した英軍のため可能な限りの支援を行った。北ロシア軍はサヴィンコフのシンパを通じて各戦線での白軍運動と連携し、彼らの活躍によりサヴィンコフは白軍同士の仲介役として立ち回った。 8月初旬にヤロスラヴリからサヴィンコフは自らの部隊を連れて出発、ヴォログダとヴェリスクへ向かった。

(空白)

内戦終結後[]

ロシア共和主義人民党(NRPR)党旗

これまでエスエル右派の一角としてしか見なされてこなかったサヴィンコフは、ロシア内戦が終わると国家人民主義と目されるロシア共和主義人民党(NRPR)を新たに創設した。1932年の経済危機に乗じてNRPRは旧白軍将校や資産家、農民の間で急速に支持を高めた。

サヴィンコフはケレンスキーの弱腰外交と(内戦でボルシェヴィキに協力していたと観られる)エスエル左派との協力関係を指摘することで、エスエル右派を政権から離脱させ、野党連立に加わらせることに成功した。しかしながら、サヴィンコフがケレンスキー政権の転覆のみならず、現政権を支持する穏健派までも(野党側に)吸収せんとしているとケレンスキーは気づいており、わずかな権限しか持たない元老院に穏健な保守派を据えることに加え、実権をもたないとしてもケレンスキー政権が操縦可能な程度に拒否権を与えて彼らの懐柔を図った。この行為は選挙を目前にして、ケレンスキーがエスエル左右両派が嫌う政策を告示した際に裏目に出た。続く選挙においてケレンスキーの連立与党は大敗北を喫し、NRPRを中心とした連合は25%の得票率を獲得した。これを機に、NRPRはケレンスキーと自由主義諸政党による連立に次いで議会第二の勢力へと上り詰めた。

引用[]

・「一つの国家、一つの祖国、一つのロシア」

・「いずれ偉大なるロシア共和国が、古き帝政よりもより強く、より豊かに、より自由を手にするだろう。しかし、どれほどの血がそのために流されるのだろうか」

・「クリミア、ノヴォロシア、小ロシア、我らの土地、我らの民、これらが我々を待っている。大ロシア人、小ロシア人、白ロシア人、彼らはドイツの頸木をはめられている。我々は厄災の中にある彼らを見捨てるのだうか?ありえない。我々は彼らを救えるのだろうか?そうだ。我々は、我らの兄弟姉妹を忘れはしない。信義なき時代は終わった。我々は不死鳥である、我々はドイツの侵略者たちにたたき伏せられたが、我々は復活した。我々を待て。我々は必ず迎えに行く。ロシア人こそがロシアを救うのだ」

・「諸君は、草原に生まれた息子たちだ。そして諸君は、砂漠に生まれた遊牧者たちだ。諸君のほとんどがロシア全土に住んでいる者たちだ。諸君は皆、ロシアが救いを求めたときにそれを裏切った。諸君はボルシェヴィキの脅威を前にして、だれも同胞に救いの手を差しのべることをしなかった。我々はそのことを忘れない。しかし、我々はそのことを許すことができる。新たなるロシアはその力を取り戻すため、諸君の助けを求めている。祖国が再び栄光を手にするため、自らの祖国を救え。祖国に、英雄たちに誇りを持て。それが祖国なのだ」

著作[]

Boris Savinkov

・『蒼ざめた馬』(1909)

・『存在しなかったこと』(1912)

・『テロリストの回想』(1917)

・『黒馬を見たり』(1923)



特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

英国革命

英国革命と暴動が勃発する決定的瞬間は、今なお秘密に覆われ不明瞭なままである。確実なのは、南ウェールズのタレニー炭鉱での一連の騒動によって、その後のゼネストが急速に広まっていったということだ。ゼネスト宣...

練習用ページ

歴史ゲーム.下書き用ページでございます。どうぞ、ご自由にお使いくださいませ。練習用ページさいたま埼玉旗正式名称北武蔵および神聖なる風が吹く埼玉帝国一般名埼玉標語神は我らと共に(Gott mit Uns...

白ロシア

白ロシアWhite Ruthenia Flag白ルーシ王国旗正式名称白ルーシ王国Königreich WeißruthenienКаралеўства Беларусь(Karalieŭstva Bi...

教皇領

教皇領ファイル:教会旗,png教皇旗正式名称ローマ教皇庁一般名教皇領標語神を信じる国々に神のご加護があらんことを国歌マルシア・トリオンファーレ(偉大なる凱旋行進曲)公用語ラテン語、イタリア語首都ローマ...

大清帝国

大清帝国Qing Flag黄龍旗正式名称大清帝國(大清帝国)一般名大清帝国清清朝標語天造皇清国歌「鞏金甌」(鞏金甌/Cup of Solid Gold)公用語北京語、満州語、モンゴル語、その他首都北京...

大日本帝国

大日本帝国日章旗日章旗正式名称大日本帝国一般名日本標語五箇条の御誓文 など国歌君が代公用語日本語(事実上)朝鮮語、台湾語など首都東京都政治体制立憲君主制国家元首天皇首相犬養毅通貨日本円台湾銀行券朝鮮銀...

大戦(Weltkrieg)

世界大戦とは、1914年の夏に開戦したヨーロッパを中心とした大規模な戦争である。実質的に戦闘は1919年の11月に集結したが、公式に終戦が宣言されたのはその2年後のことである。この戦争には世界中の列強...

国粋フランス

国粋フランスフランスフランス共和国旗正式名称フランス共和国一般名国粋フランス標語自由、平等、団結(Liberté, Égalité, Fraternité)国歌ラ・マルセイエーズ(La Marseil...

国家

目次1 アジア2 中華3 インド4 中東5 ヨーロッパ6 アフリカ7 北アメリカ8 中央アメリカ9 南アメリカ10 オセアニアアジア[]アフガニスタンシャム王国大日本帝国トランスアムール(傀儡国)トル...

名誉の平和

名誉の平和とは、1921年に中央同盟と協商国の間で結ばれた公式な世界大戦の講和条約である。停戦期間[]世界大戦における殆どの戦闘は厳密には1919年の停戦条約により終結したが、アイルライド内戦のような...

南アフリカ

歴史ゲーム南アフリカ南アフリカ南アフリカ国旗正式名称南アフリカ連邦一般名南アフリカ標語団結は力なり(Ex Unitate Vires)国歌「南アフリカの呼び声(Die Stem van Suid-Af...

八省連合

八省連合 (英:League of Eight Provinces)もしくは南直系軍閥(英:Southern Zhili Clique)とは、孫伝芳を盟主として1925年に結成された、中国における軍閥...

両シチリア王国

両シチリア王国Two Sicilies両シチリア王国旗正式名称Regno delle Due Sicilie(両シチリア王国)一般名シチリアナポリ両シチリア国歌「国王への賛歌」(Inno al Re/...

ロシア共和国

歴史ゲームロシア共和国Russian Repロシア共和国旗正式名称ロシア共和国一般名ロシア国歌自由ロシアの歌(Гимн Свободной России)公用語ロシア語首都ペトログラード政治体制半大統...

ルーマニア王国

歴史ゲームルーマニア王国Iron Guard三色旗と共に併用される軍団旗正式名称ルーマニア王国一般名ルーマニア標語神無くして何ものも存在しない国歌「国王万歳!」(Long Live the King!...

リベリア

歴史ゲームリベリアリベリアリベリア国旗正式名称リベリア共和国一般名リベリア標語自由への熱愛が我々をここに導いた(The Love Of Liberty Brought Us Here)国歌万歳、リベリ...

リトアニア

歴史ゲームリトアニアリトアニア王国リトアニア王国旗正式名称リトアニア王国一般名リトアニア標語国家の強さは団結にあり!(Tautos jėga vienybėje)国歌「国民賛歌(Tautiška gi...

メインページ/テーマ

Wikiテーマ用画像[]このページでは、Wikiのテーマとして使われる画像が特別:使われていないファイルに表示されないようにしています。File:Wiki.pngFile:Wiki.png特に記載のな...

ポーランド

歴史ゲームポーランドポーランド王国ポーランド王国旗正式名称ポーランド王国一般名ポーランド国歌「神よ、ポーランドを救いたまえ(Boże, coś Polskę)」公用語ポーランド語首都ワルシャワ政治体制...