受付嬢の微笑み
作:青柳 ゆうすけ
カラフルな家具が並ぶワンルームの一室、ベッドで眠っているステラの耳元で充電器に差しっぱなしのスマートフォンから規則的な電子音が響く。腕に抱いた熊のぬいぐるみから手を伸ばし、音だけを頼りに画面を操作して電子音を消した。
「ん……っ……」
ぴくんと反応したのも束の間。そのまま再び意識を失ってしまい二度寝の心地良さに溺れてしまい……
「いけない!」
跳ね起きた彼女が再びスマホをひったくり画面を見る。
「キャ――!?もう八時半?!」
乱れたシーツを跳ね飛ばし、ぬいぐるみは壁際に置いて慌てて朝の支度を始める。
食べられるかは定かではないが、トーストをオーブンに放り込んでからすぐに洗面台へ。アイロンの電源を入れておく。即座に部屋に戻りワードローブを開いた。シャツを無造作に脱ぎ捨て、下着の入った引き出しの中から一瞬だけ悩んだ挙句一つを引っ張り出して着けると、すぐにワンピースを羽織る。次は洗面台だ。
鏡に映った自分の姿を見て、櫛で体毛を整えていく。特に髪は念入りに。
最近髪を切った。夏を前にあまり長い髪型はうっとおしいので、知り合いの美容師に頼んでサイドは肩にかかる程度でそのままに。後ろはショートボブにしてもらった。サイドにパーマもかけて軽く巻いたらかなり雰囲気も変わっていい感じだ。
しかし、この髪型は実は面倒くさい。ヘアアイロンをしっかりと当てないと微妙な髪型に落ち着いてしまうからだ。そしてこんな時間の無い時に限ってなかなかうまく決まらないのはいつものことだ。
格闘すること数分。なんとか自分的に合格点が出せる程度に落ち着き、ほっとするのも束の間。時間は出社の九時まであと10分を切っている。
一瞬悩んで、奥の手を使った。
パンを口に咥えたまま部屋を飛び出して鍵を締め、ステラは走り出した。
*
「……ふぇっ、ひょう、シイナさんおやふみなんですか?」
「まずはパンを食べろよ。口に咥えたまま喋るな」
呆れ顔で突っ込むのは青と白の毛並みを持つ狼の獣人、やなゆーだ。営業マンでありながら文芸部に属し、自分も筆を取る。作品の執筆ペースは遅いけれど、読みやすい文体と独特の世界観の物語で物書きとしての評判もそこそこだ。
「ふぉーして?」
私は受付の後ろでこっそりとバターも塗ってないパンを食べつつ問いかける。
やなゆーが振り返らないのは既に会社としての営業は始まっており、いつ来訪者が来てもおかしくないからだ。
「昨日呑みに誘われて、そのままぶっ潰れるまで呑んで自爆。何があったんだか知らないけどな」
呆れているのがわかる口調で彼は言う。
私はようやくパンを飲み込んで、口をハンカチで拭いてから彼の隣に座った。
「そうなんですかぁ……それで、やなゆーさんが今日は受付に?」
「あぁ、社長に直々に任命された」
受付はかつてひとりで行う業務だったのだが、昨今の検閲部隊や検閲賛同団体の妨害が予見されるだけに受付業務はふたりで行うのが良いのではないかと提案したのは他ならぬやなゆーさんだ。
もっともその提案は、先日の検閲騒動でこの会社がアズマールシティを管理することになり、来訪者が増えるだろうという予想のついでのようなものだったのだが。
「『やなゆーは忙しく動き回りすぎだから、たまにはまったりした仕事もしなよー!』とか思い立ったように言うんだもんなぁ」
社長がそういうのもなんとなく分かる。
やなゆーさんは外回りだけでなく、会社で行っている物書き向けの講座の講師も担っている。それに自身も作家として色々書きたいと思っているだろう。
「大変ですね、営業マンは」
私は外から出社する人や獣人達の入り乱れるエントランスを見つつ、呟いた。
やなゆーは微かに頬を染めながら、視線を逸らした。
「別に……自分が好きでやってる事だからな」
飲み物買ってくるの忘れた、と思い出したように付け足すとやなゆーさんはさっさと立ち上がって自販機のある休憩コーナーの方へと行ってしまう。
その背中を私は、微かに笑みを浮かべながら見送った。
*
それから幾ばくかして、やなゆーさんは水のペットボトルを持って戻ってきた。その頃には外回りに出かける数少ない彼の同胞でもある営業マンのために入口の世界を繋げる手続きをするのが受付の主な仕事になる。
「それでは、世界座標2555.5656トヤマシティの駅前にに繋ぐ」
「あぁ、頑張れよ受付マン」
「うるせぇ、案件取ってこなかったらぶっ飛ばすぞ」
繋いだ先の世界は気温が30度に近くなるというのに、きっちりとしたスーツにネクタイを締める若い営業マンにやなゆーさんは茶化すように笑われながら受付としての営業をこなしていく。
「今日の案件は個人の打ち合わせだ。挿絵を確認してもらって許可貰ったらそれで終わりさ。じゃ、また昼に」
「ここ」
やなゆーが営業に向かおうとする彼を呼び止める。首筋を指さして、
「鱗見えてんぞ」
日頃は竜人の営業マンだが、人に化けるのは少し苦手らしい。彼は、指摘された部分を触ると確かに皮膚ではなく銀色の鱗がワイシャツの襟元から見えていた。
「気をつけろよな。トヤマシティは人しか居ない国なんだから」
「わりわり、気をつけるよ」
微かに苦笑した竜人をため息混じりに見送り、エントランスは静かになって一段落ついた。
私はやなゆーさんが買ってきてくれた、お茶のペットボトルを軽く飲んだ。やなゆーさんも水を少し飲む。
「この時間の受付って、大変なんだな」
「ここ最近は忙しかったですけれど、前はもっと大変だったんですよ。転移魔法が使える人が受付に交代で来て、口頭で説明して魔法を掛けてもらったりしてましたから」
「……かなり際どい運用だったんだな、昔は」
転移させるだけ転移させて、戻ってくるための手段を忘れてしまったりと笑えない出来事が幾つもあるが、転移の多いやなゆーさんの前なのでだまっておく。
「MUシステムが導入されてから、負担は減りましたけれどちょっと面倒くさくなりましたね」
……そうなのか? なんてやなゆーさんは首を傾げた。
「やなゆーさんがさっきからひとしきりやってたのって、MUの異世界転送システムですよ?」
「詳しいことは知らなかったな」
「知らないのに作業のスピードは早かったですよねぇ」
「外回りに出る時に毎回作業見てたからな……」
彼はしみじみとパソコンに触りながら呟いた。
MUシステムというのは、簡単に説明すれば人工知能と魔法工学を掛け合わせたものだ。見た目はパソコンだが、OSに人工知能がインストールされており、あらゆる情報処理を人工知能に任せることで更に利用者の負担を減らすことに成功した。
しかも画期的なのが、電気エネルギーを魔法エネルギーへと変換させることができ、様々な魔法を安定して簡易に扱うことができるようになったという事だろう。
異次元に存在するこの会社が異次元に存在し続けることが出来るのも、空間転移の魔法が簡単に出来るのも、会社内の環境が一定に保たれているのも、作家が作家業務以外に殆どすることがないくらい楽出来るのも、全てはMUシステムのお陰なのだ。
「なんでも任せちゃえばいいのにな」
やなゆーさんが呟くが、私は小さく首を振った。
「そういう訳にはいかないんですよ」
「何で?」
「所詮は人工知能ですから、私たちみたいに受付がちゃんと確認しないと、簡単に悪用出来ちゃうので」
異世界を行き交うにはそれなりに多いルールが存在し、それらの確認業務にMUは向かない。
MUに出来ることは確認のための質問を出すところまでであり、それらを正規利用と判断するか否かはやはり、人である私たちが行わなければならない。
「人工知能の限界、ってところか」
「そういう事です」
「難しいもんだな、テクノロジーの発達と仕事を融合させるのは」
もっと楽出来ないかねぇ、とやなゆーさんが呟いた。
私は、ちょっと考えてから、
「なんでもMUにばかり頼ってたら、面白くないじゃないですか」
「……というと?」
続きを促されるやなゆーさんの声に、慌てふためく私。
「なんとなく、そう思ったんです。なんでかは、よくわからないんですけれど……」
「苦労して腹が減れば、そのあとのご飯が美味くなるみたいな理屈?」
私は、やなゆーさんの冗談のような台詞に微かに笑ってみせた。
「多分、それに近いニュアンスはあると思います」
*
「あ、やなゆー!」
外出の流れも落ち着き時折やって来る来訪の客にコンタクトを取る以外に特にすることも無い、落ち着いたタイミングで声を掛けてきたのは小さな猫の獣人、アムールさんだった。
「ここで何やってんの? 外回りの行き過ぎでこんな所にデスク移したの?」
悪びれた様子もなくやなゆーさんにフランクに話すアムールさんの後ろには大きな白虎の獣人、スノールの姿もあった。目が合うと、彼は軽く目礼した。
やなゆーは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「喧しいわ。今日の仕事は受付だ」
「えっ、受付やなゆーがやるの? オトコなのに?」
ケラケラ笑うアムールにやなゆーさんが何か言い返そうとした矢先、彼女の頭をスノールが軽くグーで小突く。
「講師は仕事中だぞ、あまり茶化すな」
「えー……スノールのばかぁ……」
頭を抑えてスノールを見上げるアムールは子供らしく唇を尖らせた。
ふたりは先日に起きた検閲騒動の直後から付き合い始めたらしい。親子程の身長差や年齢差があってもふたりの距離感は近くて微笑ましく、羨ましい。
「お前がさらっと『講師』って言うのもやめてくんねーかなぁ……」
「いえ、講師は講師ですから」
スノールさんは確かにやなゆーさんの小説の講座に参加している。しかし、やなゆーさんの表情はこそばゆいそれのままだ。
やなゆーさんは多分、講師とはそれなりに遠い人種ではないかなと思う。それでも教鞭を振るうことから、教えるのは嫌いじゃないのかな?
「そうだ。課題を持ってきたので拝読お願い致します」
「受付で封筒出されてもな……まぁいいや、割と暇してたし昼までに読んどくよ」
「あ、アタシもアタシも!」
アムールも活発な女の子らしい、派手でお洒落なリュックサックを下ろしてスノールとお揃いのA4サイズの封筒をやなゆーさんに差し出した。
ふたり揃ってやなゆーの講義を受けているとは今知った。
「ところで、やなゆーとステラさんはお昼いつから? 一緒に食べない?」
「午前の受付が終わるのが 12時丁度ですから、そのくらいの時間に合わせてくれればご飯一緒できますよ」
「じゃぁ、アタシ達も12時にお昼にするね! それじゃ、また後で!」
また後で、とやなゆーさんと私はカップルを見送った。アムールは手を振り、スノールさんはまた目礼をひとつしていた。
社内だというのにアムールが差し出した手をスノールはなんの躊躇いもなく握る。傍目から見ても互いに好きなことを感じさせる。
……いいなぁ、あぁいう関係。
「羨ましいか?」
不意に隣から声を掛けられた。「えっ?」と素っ頓狂な声を上げてしまう私。
「顔に書いてあるぞ。『幸せそうでいいなぁ』って」
受け取ったばかりの封筒を開けながら、事務的な口調でやなゆーさんは言う。言葉にドキリとして耳がぴんと立って、思わず鼻がヒクヒクとなった。
「そんなことないですよ!?」
「互いに独り身だからな、なんとなく気持ちはわかる」
引き抜いた原稿に目を通すやなゆーさんは完全に意識がそっちに向いているようだった。
私は、小さく息を吐いた。
「あのふたり、やなゆーさんの講義を受講してるんですよね。講義中もあんな感じなんですか?」
「席そのものは隣同士だけど、やるときは真面目だよ。話もちゃんと聞いてるし、課題もやってくるしな。互いにすべき事はちゃんとこなしてるイメージだ」
もっと浮ついてると思った、なんてちょっと酷いことを考えた自分が少し嫌になった。視線が自然と下に向く。
やなゆーさんが不意に声を掛けてきた。
「これ、推敲頼めるか」
「えっ?」
思わぬタイミングで目の前に差し出された原稿に、反射で手が勝手に伸びて受け取ってしまう。
「アムールのプロット原稿だ。赤は入れなくていいから、読んで感想を添えてやってくれないか。物書きはなかなか感想が貰えないから、感想に飢えてるんだ」
「はぁ……」
私はアムールの手書きのプロットに目を落とす。
子供の割に丁寧で、それでいて女の子らしい丸みを帯びた文字は1行目からスラスラと視線で追える程度に読みやすい。そのうち、ジャンルが分かってきた。
「恋愛モノ、かぁ……」
隻眼の伝説的に強い騎士が主人公であり、よくあるRPGのファンタジーな世界観が舞台だ。話は冒頭からいきなり魔王を倒して世界は平和になるところから始まる。騎士は世界を救った後、村人の頼みで家畜や田畑を荒らす龍の討伐に向かうことになった。しかしタイミングが悪く、パーティーの相棒は皆平和になった世界で帰省してしまい、残ったいたのは回復魔法を流暢に使う綺麗な女のエルフだけだった。
ふたりは龍の討伐に向かう。そして、その道中にエルフは冒険をしている時から騎士が好きだったのだと告白する。
騎士は困惑した。エルフを嫁にするなんて微塵にも思ってなかったのだから。
「なんかヘタレな主人公ね……」
ズバッとOKすればいいのに。勝手にそんな妄想を浮かべつつ、先を読む。
答えの出ないまま、道中で野営する。その時、エルフは自らの服をそっと脱いで、既成事実を作ろうとする。
「……あっ」
これヤバイやつだ。と思った時にはもう遅かった。
全年齢向けなので誤魔化してはいるものの、結局することはしてしまう。ふたりは気持ちはひとつ先に進んだ。関係も、距離感も言葉遣いも変化した。
ところが、目的地である場所に思わぬ刺客が現れる。討伐するはずだった龍だ。
雌の龍は騎士との激しい戦いの最中、騎士を好きになってしまう。結局騎士は降参する龍の首を跳ねることも出来ず、仲間になるという龍の言葉を無碍にすることも出来ず、ひとまずパーティーに入れることで中途半端に収めようとしてしまう。
それがいけなかった。
自らの姿を人に近いものへと変化させ、騎士は思い切り困惑してしまう。鈍感なので気づかないのだ。
エルフと龍は互いに同じ人を好きになってしまい――騎士の見えないところで血みどろの、それこそドロドロの戦いが繰り広げられることになった。
終盤はエルフが自らの寿命を削って龍に呪いを掛け、身体を蝕ませていったり、龍は自らの血を抜き毒を作るとエルフに盛ろうとする。
歪んでいない直接的な悪意が交錯する中、物語のクライマックスはお決まりの崖に追い込む所まで。
「どんな火サス……」
私は誰も幸せにならない物語に深い徒労感を覚えながらプロットを読み終える。まさかあんな歳ばいかない少女がこんな話を思いつくとは。
「読むの疲れたろ?」
隣から、ふと声を掛けられた。既にプロットに目を通して赤を入れているやなゆーさんの姿がある。
「アムールは元々孤児だったからな。何故か火サスが好きだし、持ってくる原稿も大体火サスだよ」
「もっと子供らしく可愛らしい話を書けばいいのに……」
ポツリと呟いた私は、微かにやなゆーさんに鼻で笑われる。
「小説ってのは、アイデンティティの詰め合わせだ。そしてアイデンティティの形成は幼少期の興味、関心がベース。その土台が形成されないまま孤児やってたんだ。歪んだ目で誰かを見て、そのフィルター越しにストーリーを考えれば自然とそうなるのも無理ないな」
やなゆーさんは、少しだけ声のトーンを落として囁いた。
私には孤児だった彼女の辛さはわからない。やなゆーさんももちろんそんな経験をした事がないと思う。
そんなやなゆーさんは、何を考えているんだろう。
「幸いなのは彼女がまだアイデンティティが固まる前に状況が改善された事だと思う」
「そうですね。アムールちゃんはきっといい創作者になれると思いますよ」
私は、アムールのプロットが入れられた袋とペンを取った。
とてもスリルがある物語でした。原稿が完成したら、是非読んでみたいです。完成を楽しみにしています。
それから、是非主人公が幸せな恋をするようなお話が私は好みです。いつか、そんな物語にもチャレンジしてくれたら嬉しいな。
ステラ
「アムールも喜ぶと思うよ」
やなゆーが微かに笑った。
私もつられるように笑みを浮かべていた。
願わくば、彼女が平和なこの会社で過ごし、幸せな恋物語が描けるようになりますように。
*
「ところで、スノールさんの話はどんなものだったんですか?」
やなゆーさんの赤入れが一段落したらしいタイミングを見計らって声をかけてみる。
彼は、微かに苦笑した。
「ニッポンって国の歴史小説だ。サムライの話」
「さむらい?」
聞いたことのないフレーズに私はキョトンと小首を傾げる。
「昔、ニッポンって国には侍と呼ばれる人が沢山いたらしい。カタナと呼ばれる包丁のお化けのような切れ味鋭い武器を手に戦争で戦った人達だ」
包丁のお化け、と話しつつやなゆーが両手を広げた。もしそれが刃渡りの長さを示しているなら確かに包丁のお化けだ。
やなゆーは続ける。
「その生き様がスノールにとって凄まじく感銘を受けるらしい。敵に降参するくらいなら自ら死を選ぶべし、みたいな生き様が……ねぇ」
やなゆーさんが刀を自分の腹に向け、自分のお腹を裂く仕草をしてみせる。
当然私は意味がわからずにやなゆーさんがうううう……と苦しみながら自殺する姿を見てうぅんと唸る。
「いや、正直ごめんなさい。命を絶つのは何故? と思ってしまいます……降伏できるチャンスもあるのに、簡単に死を選ぶ感覚がわかりません」
やなゆーさんは、ふと起き上がって私を見る。
「戦場で死ぬということは、名誉なことだと言われてきたんだよ。それに、戦うのは常に誰かの為だった。愛する妻や子供を守る為には戦わなければならない。物語のように殺すことを躊躇いなくできるような戦闘狂は殆どいない。皆、戦うための理由が欲しかったんだ。自分が殺す理由、殺される理由が欲しかったんだ」
「戦うための理由……ですか」
それを、愛する人のために求めた。その言葉に、私は、1匹の女としてぐっと来るものを覚える。
まさか、やなゆーさんがそんなことを言わないと思いつつも、勝手に想像してしまう。
腰に刀を刺し、鎧に身を包んだやなゆー。
彼はボロボロで、それでも振り返って私に優しい微笑みを浮かべてくれる。そして伸びた手が微かに私の顎をくい、と上げる。
まるで、俺を見ろと言わんばかりに。
「ステラの為に、最期まで戦ってくるよ」
そして、近づいてきた唇が――
「皆、喜んで戦うものなどいない。躊躇いながら、悩みながら、それでも雄として見栄を張る。勇敢に戦ったと言われたい。だからこそ、全てを擲って覚悟を決め、戦い、散っていく姿は尊く魅力的に見えるんだろうな」
「やなゆーさんは死んじゃダメですっ!」
私は大声を出してしまい、キョトンと目を丸くするやなゆーさんと目があった瞬間に思わず身を縮めた。
「だって、それは絶対に男性の自己満足ですよね。好きな人が死んで、悲しまない人なんていないですよね? 周りの人はどうしてたんですか」
恥ずかしくて直視なんてとても出来なかったが、やなゆーは小さく長い息を吐いた。
「誰かの前ではなんとも無いと振舞っていたよ。けれど、誰しもが影で悲しんでいた。人知れずに涙を零すんだ」
「そんなの、当然ですよね」
「スノールも、きっとそういうところに自分を重ねているのかもしれないな。俺にはとてもそんな強い意志はない。だから、そういう男には憧れるよ」
彼は少しだけ自虐的に呟いた。
その表情で、私は先日の検閲抗争を思い出していた。
本当は検閲の罠に嵌ったオビリオさんだけを連れて帰ってきても良かったのだ。いや、あの時にはそうするべきだった。アムールとスノールを見捨てれば、簡単に逃げ通せる状況で、アムールの助けを見捨てなかった。
やなゆーさんは戦う人じゃない。なのに、後先のことなんて考えずに、検閲に遮二無二に立ち向かっていた。
さっきの表情がボロボロになって戻ってきたやなゆーさんのそれに重なったのだ。
「やなゆーさんだって、頑張ってますよ」
言葉は殆ど反射で出た。
「受付をしていればわかります」
彼が頑張る姿をこの席でずっと見てきたんだから、それは間違いないと自信を持って言える。
「……恥ずかしいんだよ、バカ」
コツン、と額に彼の拳が当てられる。
「自分で甘えに来てたんじゃないですか!」
「別に甘えてはいない。スノールがどんなプロット切ってたか教えてただけだ」
ぷい、とそっぽを向く彼は素直じゃない。
けれど、そんな所が憎めなかった。
*
時折来訪者が訪れ対応をする以外、基本的にはお喋りするばかりの受付だが、昼前にこんなことになるとは思っていなかった。
「もしもし、受付ですが。……あぁ部長。やなゆーです。今日は訳あって受付してるんですよ。それより、桃源社の方が待ち合わせ場所にお見えになっていますよ」
「あ、営業部の方ですか? メルノウス共和国のルシード様がお越しになってますが……えっ、担当がまだ戻ってない? それは困りましたね……」
あと小一時間もすればランチというところで、受付がにわかに騒がしくなった。来訪者が一瞬で集まってしまい、二人体制でもパンク状態となる。
そんな状況でもやはりプロは上手い。
「ご要件は……共和国式典に伴う幕の制作ですか」
「凄腕の書家がいると聞いてね、是非書いてもらいたいと依頼しに来たんだ」
金髪で、目の蒼い軍服姿の青年がステラに言う。
「アポイントはございますか?」
「アポイント? そんなものはないよ」
電話を切りながら、ステラの様子を見る。
あぁ、飛び込みの制作願いだ。口コミで伝わったか営業部の誰かが営業に言って、名刺は捨てたパターンだろう。
「現在担当が不在でして……暫くお待ちいただくことになるのですが」
「待つのかい? 時間が無いんだが、どうにか出来ないか?」
ルシードと呼ばれた青年は懐に手を突っ込むと、何かを引っ張り出した。ステラの手を取って、そっとそれを握らせる。
訝しげに彼女が手を開くと、金地に鮮やかな大粒のサファイアが埋め込まれたブローチが渡されていた。
「キミにとても良く似合うと思う」
面倒くさいパターンだ。多分ルシードは貴族とか王族と呼ばれる部類の人。
望めば何もかもが手に入る奴らにとって、こうやって札束に値するもので頬を張るような事をするのは日所茶飯事である。
幸い営業はここに居る。担当じゃねぇけど対応変わろうかと声を出そうとしたところで、ステラが俺の腿に触れた。
ステラは相変わらずに微笑みを浮かべている。
「全然足りませんよ」
俺は思わず目を剥いた。
お客様の前で何言ってんだ?!
「どうしても私に動いて欲しかったら、もっと綺麗な装飾品を持ってきてくださいよ。私、そんなに安くないの」
営業の俺はこんなことを言って機嫌を損ねないかとドキマギするが、
「そうか。君は確かによく見たらその程度のブローチだけじゃ華やかさが無いね」
ルシードはいっそ楽しそうに笑う。
懐に手を突っ込み、更に装飾品が出してくるのかと思ったが――
「その右胸に納められているナイフ、切れ味良さそうですね? ちょっと拝見させてもらえませんか」
ステラは真っ直ぐにルシードを見上げている。
刹那、俺の視界に大きくナイフが飛び込んできた。紙一重のところでかわせたのはステラに突き飛ばされたためだ。
ステラはテーブル下の警報装置を押しつつ、ルシードによって振り回されたナイフをバックステップでかわす。
「ステラ!」
「伏せてて!」
彼女は、受付に置いてある鮮やかなオレンジのカラーボールを握りしめると素早くルシードに投げつける。
が、ルシードはそれを素早く避けてしまう。
「うわあっ?!」
聞き覚えのある叫び声はたまたまその背後に出社してきたオビリオだ。大きな画板を片手に思い切りカラーボールを顔面にぶつけられていた。
「チッ!」
ルシードは踵を返して会社内に逃げ込もうと走り出す。出社ゲートを飛び越える。
「待ちなさい!」
ステラは跳躍し、受付デスクを飛び越えると、出社ゲートも二歩の助走から一気に飛び越えた。
「ステラ!」
俺は受付をすっぽかして走り出す。出社ゲートに社員証をもどかしく当て、彼女を追った。
だが、あっという間に廊下を疾走する彼女を見て、
「速ぇ……っ」
角を曲がった彼女を懸命に追う。
「無駄よ私の方が速いッ!!!」
ステラの声が聞こえて、揉み合いになる音が聞こえる。どがっ! と殴打する音が数発。
俺は最悪の状況を想定した。
「ステラっ!」
彼女の名前を叫びながら曲がり角を曲がると――
「やなゆーさん、手錠!」
「そんなもん持ってねぇよ!」
思わず声に突っ込んだ。同時に呆れる。
ステラがルシードを押し倒し、馬乗りになっていた。背後から見ても完全にステラが優勢の状況だ。
「私の腰に下がってるので、取ってください!」
手でルシードの両手を拘束しているのだろう。俺は彼女に背後から近づき、確かに服の下に隠し持っている手錠を引っ張り出すと彼女へと差し出した。
ひったくるように取り、ルシードの両手にはめる。
「全く、肝が冷えたぜ」
「驚かせてすみません。不法侵入者、確保しました」
振り返るステラの顔を見た瞬間、俺は思わず息が詰まった。
満面の笑みに殴ったルシードの返り血が飛んでいたからだ。
「大丈夫か、ステラッ!!」
その時、警備員が続々と到着した。確保したルシードを引き継いで数人が事務室方向へと向かっていく。その中にはスノールと野次馬であろうアムールの姿もあった。
隊長らしきドーベルマンの獣人にステラは報告をする。
「受付にて不法侵入者を確認、乱闘後ここまで追い掛け拘束に至りました。ステラは怪我等ありません。通常業務に戻ります」
「うむ、ご苦労だった」
隊長が敬礼し、ステラは軽く頭を下げると俺の近くに寄ってきた。
「びっくりさせた?ごめんね」
彼女は、微かに苦笑混じりの表情を浮かべた。
「別に謝ることじゃないだろ。俺も、受付だからって甘く見てた。まさかあいつがそんなことをするとは思っていなかった」
俺が一人でいたら絶対に抜かれていたに違いなかった。今ステラが止めてくれてなかったら何をされたかわからない。
「多分、検閲賛同団体のメンバーだと思う。王族や立場ある人ほど検閲をしたがるから……」
社内だからって安全ではないということを改めて認識させられた。俺は、そういう団体に狙われるような立場に会社を追い込んでしまったんだなと改めて思う。
……というか、それ以前の問題で。
「血!血がついてるんだよ!」
俺はポケットからハンカチを取り出し、ステラに差し出した。
「ごめん、ありがとう……」
ステラはそれを拒まず、受け取って水色のハンカチをしげしげと眺めた。ややあって、顔を拭く。
「ダメだ。血が広がるだけだ」
ちょっと待ってろと言い残して俺はハンカチをひったくると近くのトイレで濡らした。
「ほら」
俺はハンカチを広げて、彼女に近づくように手招きする。
受け取ろうとする彼女の顔にハンカチを押し付ける。濡れたハンカチは血をしっかりと彼女の毛並みから拭いとった。
「凄い運動神経だった……真似出来ない」
「男の人にに真似出来ないなんて言われると、どうリアクションしたらいいかわかんない」
「俺も自分より凄い女になんて言えばいいかわからないんだよ」
やはり苦笑混じりの笑みを返される。
俺は、彼女をそっと引き寄せて抱きしめた。
「怪我が無くて良かった」
ステラは検閲騒動からすぐに警備部特殊検閲対抗課に異動になった。会社が検閲部隊に目をつけられるような存在になった以上、最も警備強化をしなければいけないのは入口受付とその周辺だからだ。
俺は、彼女に悪いことをしたと思っている。彼女は元々イラスト部だったのだ。主線を殆ど書かないホップなデザインが彼女の画風であり、児童書や絵本の挿絵を描いている時は本当に嬉しそうな表情で創作を楽しんでいるのが彼女の本当のいい所なのに。
その創作する時間を、今は訓練に費やしている。
大学時代は本格的に絵を学んだことのなかった彼女だ。陸上部に所属し三段跳や走り幅跳び、徒競走で全国大会に出場するような類稀な運動神経を持つ彼女は、採用された時こそクリエイター枠だったが、俺と同じように様々な仕事を任されるようになった。
だが、この異動は……
ステラはそっと俺の胸を押して腕の中から出る。
「仕事に戻りましょうか。受付、きっと警備部の人が代わってくれている筈です」
彼女は、目を伏せたまま囁くように呟いた。
「走ったんだから、シャワーくらい浴びてきたらどうだ。受付は俺がやっとくから」
「……すみません、お願いします」
彼女は振り返って微かに頷くとロッカールームの方へと向かっていった。
*
彼女はシャワーを浴びて戻ったきたところでランチタイムとなった。
「酷いですよ……出社早々いきなりカラーボールぶっつけられるなんて」
食堂でうどんを頼んだ俺の隣には不幸体質のオビリオがいた。彼もまたシャワーを浴び、換えの着替えが無かったのか警備部の制服を着ていた。
「ごめんごめん! ちゃんと狙ったんだけどよけられちゃって!」
カレーのスプーンを持ったまま掌を合わせて謝罪するステラにオビリオは微かに笑う。
「事情が事情ですから、仕方ないですよ。それより、やなゆーさんも受付やってたんですね?」
「あぁ、急遽ピンチヒッターでな」
俺は自然と言葉少なめになった。彼女に対しての引け目がまだ消えていなかったためだ。
ステラもあれからどことなく視線を合わせようとしなかった。
「しっかし、オビリオの警備服サイコーに似合わないね。他に服無かったの?」
「普通のクリエイターは私服で出社して着替えなんて余程のことが無ければ用意しませんよ」
油絵を専門とする人は着替えを持ち合わせていたりするが、普通はそんなものは持ち合わせていない。泊まりも少ないのが基本方針だ。
「その私服もトレンド的には今ひとつだしね」
「別に流行なんて気にしてないからいいんですッ!」
さすがにオビリオが吠える。けれど、そこに威圧感はほとんど無い。アムールは楽しげにケラケラと笑った。
「服は似合ってるから大丈夫だよ。オビリオらしさが出てる」
「全くもう……」
オビリオは食が細いらしく、少しばかりの菓子パンに手を伸ばす。
「いや、見事な絵だ。これが汚れなくて本当に良かった」
アムールの向かいに座るスノールが見つめていたのはオビリオが持っていた画板だ。
「久々に雨が上がったので、気晴らしに散歩に出かけたんです。その時に、目に留まったんで……」
褒められてはにかむオビリオが持ってきた画板には紫陽花のスケッチが描かれており、鉛筆の濃淡だけで描かれたそれは絵を描けない俺にとって魔法のような技術に思える。
俺同様に絵が不得手なスノールも同様の感想を抱いたのだろう。素晴らしい、凄い、と褒めている。
「ていうか、絵よりも先に僕かペイントまみれになったのをまず心配してもらいたかったんですけれどね……」
スノールは微かに肩をすくめた。若干の失言だ。
「悪いな。容疑者確保と連行が最優先なんだ」
スノールは容疑者を連行している間に入口でペイント塗れになっていたオビリオを発見したものの、容疑者を片手に気遣える余裕はなかった。
そこに駆け寄ったのはアムールだった。
ペイント塗れになって固まっているオビリオをシャワールームへエスコートしつつ事情を聞いた。警備部所属のステラが投げたペイントボールが元凶だと察すると、すぐに警備部の部長に掛け合い制服を奪い取ったらしい。
「オビリオだからまぁいいやってなったんじゃない」
そんなアムールがここぞとばかりに突っ込んだ。容赦ない。
「ひっど……僕って所詮そんなもんですか?」
「違うぞ!そんなことは断じて思ってない!」
食ってかかるようにスノールは否定する。それが面白いのかアムールは茶化す。オビリオは勝手に凹んでいる。そんな状況が続き、さっきから誰も箸が動いていないように思える。
「ていうか、アムール。そんな有能っぷりは見せない方が良いぞ。警備部の部長、いい奴が居ると引っ張りたがる癖があるから」
「えっ、そんなことあるの? アタシ未成年だけど」
相変わらず笑みを浮かべるアムールは仕事する大人の厳しさを知らないのだろう。
「あのオッサン強引にコトを進めたがる悪い癖あるから、そんなもんじゃ済まされないかもしれないぜ」
「そ、そういうものかな?」
頬を掻き甘える声を出すアムールはやはりまだどこか俺の話を信じられていないような気がする。
俺は味噌汁を啜ってから、アムールを箸で指しながら続けた。
「あと、お前のプロット見た。火サスの見過ぎだ。あんなにドロドロなファンタジー見たこと無い」
「えー?! あのくらいドロドロなのがイイじゃん!興奮するじゃん!プロット書いててアタシは楽しかったよ!」
「悪いとは言わない。だが、あの読んでて読者がずっと疲れそうな展開は少し考えものだな」
「私には少し刺激が強すぎましたね」
すかさず切り込んだのはステラだ。
「途中で騎士さんと龍さん、エルフさんがデートしたりしたらどうです?そういうほのぼのなシーンを混ぜるのも、決して悪くはないと思うんですが……」
「書いててテンション下がるなー……そんなほのぼのしたシーン」
プロットの変更を頑なに拒むアムールはううんと唸る。
「書いててテンション下がる自分の嗜好と違うシーンも書かなきゃ自己満足で終わっちまうぞ」
アムールが微かに目尻を下げたので「ま、最初は自己満足でもいいんだけれどな」とフォローしておく。
つい自分のレベルでものを言ってしまう悪い癖が出た。俺くらい書いてきたら色々読者を驚かせることを考えるが、アムールはまだ物語を書くために精一杯の段階だ。ここで余計なことを言ったら書く事そのものが嫌いになってしまうだろう。
「でも、あそこまでエグい話が思いついて堂々と完結までストーリーが練れるのが逆に凄いですよね。あんなにエグいの思いつく方が難しいですよ」
ステラも俺の気持ちを察したらしく、話をポジティブに切り替えてくれた。
「そうかな?」
「少なくとも俺はあんな話は書けないね」
俺の言葉に対しても本人は自覚が無いらしく、小首を傾げている。
だが、書き終えた時にそれがわかるだろう。
似たような作風の作品を読んだ時「自分ならこうするけどなぁ……」といつしか考えるようになる。それが感じられるようになったら一端の物書きだ。
「ところで講師、俺のはどうでした?」
横でそわそわと自分の番を待っていたスノールが待ちきれずに問い掛けてきた。
「読んだけど面白さがわからん」
時代小説を書けることが凄いが、評定を下せる程そのジャンルを知ってる訳じゃないから何とも言えない。
「文芸部の部長に評定貰うからもう暫く待ってろ」
フリーズしたスノールに俺から言えるのはここまでだ。
*
「あの、やなゆーさん」
受付業務とランチを終え、午後の受付嬢達に午前にあったことを引き継ぐ。これで俺達の受付業務は終了ということになった。
二人揃って廊下を歩く。俺は今日中に片付けなければならない書類の優先順位を考えていた。
そんなタイミングでステラに呼び止められる。
「なんだ?」
「忙しくなければ、少し見てもらいたいものがあるんですけど……」
「あぁ、いいぜ」
正直忙しくないとは言えないが、常日頃から仕事を抱えている俺が呼ばれるのはいつもの事。それにステラの今日の仕事ぶりを間近で見ていたのにこのまま断る筈がない。
俺はエレベーターのボタンを押して開いたドアにステラを先に乗り込ませた。
彼女が向かったのは創作室だ。席順は決まっておらずどこに座ってもいい。部屋の半分はパーテーションに区切られた小さなスペースとパソコンで絵や文章をゆっくり書くことができる。もう半分のスペースはテーブルと少しの本が置かれた本棚があり、談話室も兼ねた憩いの場となっている。
ステラはあまり人のいないパーテーションエリアの奥へと入っていき、一つのパソコンを立ち上げると自分の社員番号でログインする。データは全て会社サーバーに保存されるので、どのパソコンからも好きに自分の作品を執筆、閲覧、することができる。が、成人コンテンツだけは御法度だ。その場合は個人パソコンを使う。
慣れた手つきでステラはペイントソフトを立ち上げると、一つの作品を開いた。
「これ、本にしようかなって思ってるんです。やなゆーさんに、一度感想を聞かせて貰いたくて……」
囁くような声量のステラは、明らかに不安の色が出ていた。
「わかった、ちょっと読ませてもらう」
彼女が席を立とうとしたが、俺は立ったままマウスを操作していた。正直な話、表紙から惹かれていたのだ。座る時間も惜しかった。
「俺が知る限り初めての絵本作品だな」
「はい……前に、やなゆーさんに挑戦してみたらどうだと言われていましたが、やっと描きたいテーマが決まったので」
ステラは今までイラスト作品を中心として創作活動を行っていた。彼女の表情が初めての絵本作品だと物語っている。
初めての作品制作を終え読者に読んでもらうとき、作家は誰しもが緊張する。彼女がその初めてを俺に向けてくれたのはとても光栄なことだ。
それは児童向けの絵本だ。クレヨンで描かれる彼女のホップな絵柄が引き立ち、意外にも文字が多めだった。恐らくは親が子に読み聞かせをするように狙って描いている。
その内容は――
* * *
『プレゼント』
作、絵:ステラ
あるところに雌の白猫と牡の黒猫がいました。二匹は大の仲良しでいつも一緒です。
外で遊び回るのももちろん好きでしたが、ふたりはふたりしか知らない秘密基地で絵を描いたり物語を考えるのが大好きでした。
たくさんたくさん絵を描いてるうちに、白猫はとても絵が上手くなりました。
たくさんたくさん物語を考えるうちに、黒猫は面白い物語を考えるのが得意になりました。
ふたりは協力して絵本を書く事にしました。黒猫が考えた物語を、白猫が素敵な絵でわかりやすく纏めます。
出来上がった絵本は、秘密基地の本棚から溢れるくらいになりました。ひとつひとつの絵本に、たくさんの楽しい思い出が詰まっています。
しかし、ふたりが絵を描いたり物語を考えるのはふたりだけの秘密でした。
実は、誰にも見せることができなかったのです。
白猫は、黒猫と会うことを禁止されていました。黒猫は卑しくて、ずる賢い。白猫を陥れる。だから、会ってはいけないと白猫の王が言ったためです。
黒猫は、白猫と会うことを禁止されていました。白猫は我儘であり、傲慢だ。黒猫と陥れる。だから、会ってはいけないと黒猫の王が言ったためです。
ふたりは、本当は会ってはいけなかったのです。
けれど、ふたりはその後もずっと秘密基地で会い続けました。物語を考えて、絵を描き続けました。
ある日の夜、絵本を仕上げたふたりは原っぱにやってきました。黒猫はごろんと仰向けになり、白猫はそっと彼のそばに座ります。
「ねぇ」
黒猫が不意に呟きました。
「なぁに?」
「僕らは、どうして会っちゃいけないんだろう」
「王様がダメって言ったからよ」
「だって僕らは普通の猫だよ。ただ毛の色が違うだけで、どうして会えないんだろう」
「みんながダメって言ってるから……」
「白猫は、僕が卑しくてずる賢いと思ってるの?」
黒猫の問いかけに、白猫はすぐに首を横に振りました。
「僕は、白猫が我儘だとも傲慢だとも思わないよ。同じ猫だもん。一緒に居て、何が悪いんだろう」
白猫は困ってしまいました。会ってはいけない理由が見つからないからです。
お父さんもお母さんも会ってはダメだというけれど、何故ダメなのか自分の中で納得ができないのです。
「ねぇ」
黒猫はまた白猫に問いかけます。
「明日僕の誕生日だけど、会ってくれる?」
白猫はすぐに肯けませんでした。
黒猫は今夜、十歳の誕生日を迎えます。この国で十歳ということは、大人になるということです。
子供のうちはそれまではダメだと言われ続けていたことを破っても怒られるだけで許されてきました。けれど、大人になると違います。
大人になると、ダメだと言われたことを破ると罰せられるようになります。牢屋に入れられたりします。
黒猫が白猫と会うことは、とても大きな「ダメ」でした。破ると殺されてしまいます。
白猫は黒猫に渡す誕生日のプレゼントを持ってきていました。それは黒猫のことを描いた絵でした。
お父さんとお母さんは黒猫の絵を描いているのを見ると怒るので、お父さんとお母さんが眠ってから少しずつ少しずつ描いた絵です。
本当はその絵を、今夜笑顔で渡すつもりでした。
「ごめんね。もう会えない」
白猫は背中に彼を描いた絵を隠しながら、言いました。
黒猫は目を大きく見開いて、驚いた表情をしました。
「大好きな黒猫と一緒に絵本を描いたこと、忘れないから」
白猫は笑顔でした。けれど、大粒の涙を流していました。
そして、逃げるように走り去りました。
それから秘密基地を訪れるのは、黒猫だけになりました。
どれだけ待ち続けても、白猫は現れませんでした。
おわり
* * *
「……これは」
「私なりに検閲に反対した物語を描いたつもりです」
「やっぱり、か」
検閲のことは何も書いていない。けれど本を作るのが好き、という主人公の猫達が作家を連想させる。そして「ダメ」が悲しい結末しか生まれないという本質を突いている。
「この絵本を同人誌にするのは勿体ない」
「えっ、でも……私の初めての作品ですし」
「初めてだからどうした。これは親が子供に読み聞かせをして、初めて伝わるメッセージを含んだ絵本だ。同人誌としての領布じゃ本当に読んでもらいたい層に届かない可能性が高い」
俺は躊躇うステラを置き去りにしたまま、頭の中で絵本を扱う幾つかの出版社のどれに売り込むかを考えていた。
「児童向けで強いのはツバサ文庫だ。けれど、賞で繋がった桃源社も児童向けの作品をたくさん出版してる。正直、今は児童向け作品を書く作家は少ないから、十分出版できると思う」
悪くない提案だと思った。だが、ステラは小さく息を吐いた。
「……やなゆーさんを見て、思いついたんです。この話」
不意に呟いたステラの言葉に、俺は「えっ?」と思わず聞き返した。
「検閲に真っ向から立ち向かうやなゆーさんを見て、私もひとりのクリエイターとして何かできないかって思ったんです。だから受付の話も引き受けたし、こういう作品も少しずつ描いていこうと思うようになったんです。だから、私は受付嬢になったことを嫌だなんて思ったことはありませんよ」
どうやら俺の内心は透けているらしかった。
「やなゆーさんが引け目に思うことはありません。私は、私のできることを思い切りやるだけです」
「……ステラ」
「だから、どこの出版社に売り込みに行くかの打ち合わせも兼ねて、どこかに呑みに行きませんかっ」
俺は苦笑する。
「俺の仕事が終わるまで待っててくれるのなら」
「もちろんです」
受付嬢は微かに微笑みを浮かべてみせたのだった。
fin.