ネ、ペ

ページ名:ネ、ペ

敬宮愛子ちゃんが2歳の誕生日を迎える時期における「ネコ」「ペンギン」を示す言葉。正確には「ネコ→ネー」「ウサギ→ウ」「ペンギン→ペ」である。

『週刊女性』2003年12月16日号<満2歳の最新スナップ愛子さま ひとり遊びも上手に――すっかり「お利口さん」!>(カラーグラビア)より引用

 生後2年の検診では身長85.4cm、体重12.5kg。上下8本ずつの歯が生えそろったという。皇太子さまと雅子さまのことを「パパ」「ママ」と話せるようになって、大好きな動物も犬が「ワンワン」だったのが、最近では猫を「ネー」、ウサギを「ウ」、ペンギンを「ペ」と呼んでいるとか。

幼児の言語発達は個人差があるので2歳前後の時期では正常かどうか判断がつけにくいことが多いのだが、それにしてもペンギンが「ペ」となってしまう音節省略の甚だしさは強く印象付けられている。一般名詞を1音節のみで口にしようとする愛子の傾向は1歳過ぎの頃からのものであると、当時の映像・記事から確認できる。

  • ボール→ボ
  • ロバ→バ
  • ネコ→ネー(これのみ長音)
  • ウサギ→ウ
  • ペンギン→ペ

後に、言語発達に遅れが見られる愛子(1歳半程度)のために、金澤一郎皇室医務主管の推薦で児童メンタルヘルス専門の奥山眞紀子医師が東宮御所を訪問開始、その流れで雅子のカウンセリングも担うようになったが、皇室について愚痴をこぼす雅子に対し「ご自分も変わっていただかなければ」と進言した奥山医師が雅子の不興を買い関係杜絶。そして雅子実母小和田優美子が、奥山医師を紹介した金澤医務主管を電話恫喝する事件まで発生したとのこと。

シャネル足ご挨拶ができないといった振る舞いが顕著な愛子については、東宮職員の顔・フルネーム・職名を覚え、漢字は300字以上を書けるといった、かなり偏り・歪さが感じられる優秀伝説が流布されていたのだが、現在普通に言葉を使ったコミュニケーションがどこまで成立しているかかなりおぼつかず、揚げ句小学2年生で不登校、中学1年生にして不定期ランダム登校=不登校、さらに中学3年生でも不登校再々発に陥っているのが現在である。専門家奥山医師を切り捨ててしまったことで、愛子の発達を阻害してしまったとしたら、取り返しがつかず何ともご愁傷様なことである。

参照項目:【不本意】、【ゴニョゴニョ】、【私は感じ取ることができます】、【優秀伝説】、【小和田優美子】、【あり得ない事実

目次

「女性セブン」五十嵐美弥カメラマンが証言する、愛子の言語発達がやや遅いことを感じ取っている風の雅子[]

200412女性カメラマンによる皇太子ご一家秘話:平成15年(2003年)4月13日葉山海岸で撮影取材した「女性セブン」五十嵐美弥カメラマン証言
http://www.youtube.com/watch?v=SdbY83ZUXSs
連結まとめ画像

1分30秒あたりからの「女性セブン」五十嵐美弥カメラマン証言書き起こし:
(東宮一家が)通り過ぎられていかれるのを待っていたのですが、雅子さまと皇太子殿下の方から「ごくろうさまです、こんにちは」というようなことで、こちらに近づいてこられまして、ちょっとびっくりしました、はい。
初めはお天気の話をしてたんですけれども、「実は私も同じぐらいの娘がおりまして」っていうように申し上げましたら、雅子さまのお顔がパッと明るくなって、「えっ、そうなんですか、今日はどうされてるんですか」と色々とお話が弾んでしまいまして、で、お二人がお座りになったので、こちらもこう座って、なんか、膝を突き合わせて子供の話をちょっとさせていただきました。「愛子さまはお話されてますか?」とお聞きしたら、「まだ言葉にはちゃんとはなっていないけど、話そうとしている。『ボール』なら『ボ』と話していますよ」なんて、それで「でも皇太子さまがおっしゃっていることは、全部理解されてますよね」とお聞きしたら、「そうですね、あれを取ってきてと言うと、取ってきてくれたりしますよ」なんてすごく嬉しそうにお話されていて、それで「急に、あの今はお話されていないようですけど、急に子供って話し出しますよ」なんて申し上げたら、「そうなんですかー?」なんて、お二人で。はい。

『女性セブン』2003年5月1日号<ほのぼの皇太子妃雅子さまと本誌ママさん写真記者が育児談義>
pp.42-43より引用
 この日(補足:2003/4/13葉山海岸にて)、ご一家の様子を本誌も取材していたが、その撮影会が終わってご一家が御用邸に戻られる途中の砂浜でのことだった。本誌女性記者(34才)にふと目をとめられた雅子さまが近づいてこられ、
「いつも、ご苦労さまです」
と、声をかけられたのだ。
 思いがけない妃殿下からの言葉にすっかり緊張した記者は、
「今日は、いいお天気でなによりですね」と挨拶すると、雅子さまも「ええ、昨夜は本当に晴れてくれるのかとも思いましたけれど…」と、笑顔を返された。
 愛子さまを抱っこされた皇太子さまもすぐそばでしゃがまれて微笑まれる。自分も同じく娘を持つママである本誌記者も気さくな雅子さまのお言葉に、思わずこういった。
「私にも、愛子さまと同じくらいの娘がおります。愛子さまより、5ヶ月前('01年7月)に生まれました」
 すると雅子さまが満面に笑みをたたえて、
「まあ、そうなんですか。いまはどちらに?」
と尋ねられ、
「今日は主人が面倒をみてくれています。仕事が休みのときは、協力してくれています」
とお答えすると、雅子さまはうなずかれながら、皇太子さまの方をご覧になった。
 以前から皇室関係の取材で、雅子さまは、記者を覚えてくださったようで、お声を掛けていただいたのだろう。
 そしてこの“ママさん写真記者”に雅子さまは、さらにこう尋ねられた。
「仕事と家庭の両立はたいへんでしょう?」
「いえ、両方、楽しんでおります」
すると雅子さまは、記者が肩にかけているカメラを見つめて、
「カメラがとても重そうですね」
と、ねぎらうような調子で目を細められた。
「お持ちになってみますか」
 記者がいうと、雅子さまはカメラを両手に持たれ、その重さに驚かれたご様子だった。そこで、
「愛子さまは、カメラにご興味を持たれませんか?」
とお聞きすると、皇太子さまと顔を見合わせ、こう話された。
「小さいカメラをときどき……。でも殿下の大切なものは、みんなわからないところに隠してありますから」
と、皇太子さまと顔を見合わせて微笑まれた。
 東宮御所での生活が垣間見られた一瞬だった。そして育児談義となった。
「うちの娘は最近、よくしゃべるようになったんですが、愛子さまはいかがですか」
と記者がいうと、雅子さまは微笑まれながら、
「まとまった会話はまだですね。でもボールを“ボ”とか、ロバのことを“バ”などといいます(笑い)」
記者「ある日突然、おしゃべりするようになるんですよね」
雅子さま「そうですか、突然、話すようになりますか」
記者「はい、本当に突然、おしゃべりするようになって、とても楽しいですよ。
 愛子さまも、ご両親のおっしゃられることは、もうおわかりですよね」
雅子さま「(とても嬉しそうに)そうです。こちらのいうことは、わかってます。“あれを取ってきて”というと、取ってきますから。話すことは理解しているようです」


『週刊文春』2014年10月30日号<「セラピーが必要」と洩らされて…美智子さま80歳が憂慮される愛子さま「独りぼっちの特別授業」 先週の中間試験もご欠席学習院は箝口令>より、言葉を話さず頷くか首を横に振るかしかできない愛子(1歳半程度)のために金澤一郎皇室医務主管の推薦で児童メンタルヘルス専門の奥山眞紀子医師が東宮御所を訪問開始、その流れで雅子のカウンセリングも。しかし宮内庁はひどい所と訴える雅子に奥山医師「ご自身も変わっていただかなければ」と進言→なんと小和田優美子が金澤医務主管に「とんでもない。次の人を探してほしい」と電話恫喝www[]

  • 『週刊文春』2014年10月30日号<「セラピーが必要」と洩らされて…美智子さま80歳が憂慮される愛子さま「独りぼっちの特別授業」 先週の中間試験もご欠席学習院は箝口令>

pp.28-29より引用
 実は美智子さまは、子供のメンタルヘルスを専門にする医師と交流を持たれている。それは奥山眞紀子氏(国立成育医療研究センターこころの診療部・部長)だ。
 国立成育医療研究センターは、子供の発達に関わる診療を行う代表的な病院で、奥山氏は小児精神保健が専門で、トラウマ発達障害不登校、虐待を受けた子供の治療経験も豊富な医師である。
 この奥山氏、愛子さまとは浅からぬ縁がある。
「奥山氏は約十年前、よく東宮に参内していたのです。雅子さまの主治医が大野裕先生に決まる前のことです。奥山氏は当時、埼玉県立小児医療センターに所属していました」(宮内庁関係者)
 小さい頃、愛子さまはコミュニケーションを取られることが苦手だったという。学習院関係者によれば、「初等科に入学される前も、私がお目にかかった時は、意思表示のために首を縦に振るか横に振るかだけでした。『声が出ないのかな? 出る?』とお尋ねしたのですが、コクンと頷かれるだけで」
 奥山氏の知人が当時を振り返る。
「東宮に参内していたのは古い話ですね。まだ愛子さまがお小さい一歳半から二歳ぐらいの間のことです。その頃は何回も何回も、東宮御所に伺ったようですよ。
 ただ、彼女が参内を続け、雅子さまのお話を聞くうち、妃殿下のカウンセラーのようになっていって」
 奥山氏はいつしか雅子さまのために参内するようになったという。しかし、ある決定的な出来事が起こり、彼女にお声がかかることはなくなった。
「カウンセリングの中で、宮内庁はひどい所と悩まれていた雅子さまに対して、あるとき奥山氏は『ご自身も変わっていただかなければ』という進言をした。以来、奥山氏にはぷつんと連絡が来なくなってしまったようです。そして、奥山氏を紹介した金澤一郎元皇室医務主管に、雅子さまの母である小和田優美子夫人から、『とんでもない。早く次の人を探してほしい』と電話があったのです」(前出・宮内庁関係者)
 以降、奥山氏が皇室とどのように関わってきたかは不明だ。当の奥山氏に話を聞いたが、ひと言、「ご進講はしています」と話した。ご進講の内容については話さなかったが、前出の奥山氏の知人によれば、最近でも「短時間の場合もありますが、参内をしているようです」という。


2015年7月26日千代田区昭和館の戦後70年特別展「昭和20年という年空襲、終戦、そして復興へ」を東宮一家観覧、昭和館関係者に向かって徳仁「愛子にとって勉強になった」、愛子の発語記述皆無[]

http://www.news24.jp/articles/2015/07/26/07305386.html (archive.is記録)

愛子さま、「戦後70年」の特別展へ
2015年7月26日 23:55
皇太子ご夫妻と愛子さまは26日、都内にある資料館「昭和館」を訪問し、終戦前後の国民の生活ぶりを取り上げた戦後70年の特別展をご覧になった。愛子さまが戦争についての展示を見るのは初めてで、皇太子さまは「愛子にとって勉強になった」と話された。
記事全文
 皇太子ご夫妻と愛子さまは、終戦前後の国民の生活ぶりを取り上げた戦後70年の特別展をご覧になった。
 皇太子ご夫妻と長女の愛子さまは26日夕方、都内にある国立の資料館「昭和館」を訪問し、終戦前後の様子を実物資料の展示で紹介する戦後70年の特別展をご覧になった。愛子さまが戦争についての展示を見るのは初めてのことで、当時の小学5年生が終戦を告げる玉音放送を聞いた直後に「泣けて仕方がなかった」と書いた作文などを、真剣な表情でご覧になっていた。
 また、戦中・戦後の生活の苦労が体験できる常設展示のコーナーでは、ご一家で防空壕(ごう)に入ったり、手押しポンプを使って井戸水をくむ作業などを体験されたりした。皇太子さまは「愛子にとって勉強になり、いい体験になった」と話されたという。

http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00298483.html (魚拓記録、WebArchive記録)

皇太子ご夫妻と愛子さま、戦後70年の特別展をご訪問
07/27 05:04
皇太子ご夫妻と長女・愛子さまは、26日、東京都内で開催中の戦後70年の特別展をご覧になった。愛子さまが戦争に関する施設を訪問されるのは初めて。
東京・千代田区の昭和館では、戦後70年にあたり、終戦を迎えた激動の1945年の様子を紹介する特別展を開催している。
中学2年生の夏休みを迎え、戦争に関する展示に初めて足を運んだ愛子さまは、疎開先で終戦の玉音放送を聞き、一生懸命勉強して日本を取り戻そうと決意した、小学5年生の作文や絵日記など、当時の苦労を示す資料1つひとつにじっと見入られていた。
ご一家は、防空壕(ごう)の音や振動を再現したブースなども体験し、皇太子さまは「愛子にとって勉強になり、良い体験になりました」と話されたという。

http://www.news-postseven.com/archives/20150801_339331.html

昭和館ご訪問の愛子さま 玉音放送聞き綴った女児の作文に衝撃
2015.08.01 07:00
 東京・九段下にある『昭和館』。戦中・戦後の歴史的資料を展示するこの施設では、今年戦後70年を迎えるにあたって、『昭和20年という年~空襲、終戦、そして復興へ~』という特別企画展が8月30日まで開催されている。
 7月26日の午後6時ごろ、皇太子ご夫妻と愛子さま(13才)が同館を訪問された。雅子さま(51才)の白いセットアップに合わせるように、オフホワイトのふわっとした袖のボレロとワンピースをお召しになっていた愛子さまは、沿道に詰めかけた人々から歓声があがると、満面の笑みで力強く手を振られた。
「今までとは違う愛子さまの様子に驚かされました。愛子さまはお出ましの際にはいつもどこか緊張された面持ちで、手も低い位置で小さく振られていただけでした。それがこの日は、沿道に集まった100人ほどにしっかりと体を向けられ、長い時間手を振られていました。足元も白いパンプスという装いで、3cmほどですがおそらく初めてのヒール靴だったと思います。その高さもひとまわり大きく成長された愛子さまを象徴しているかのようでした」(皇室記者)
 愛子さまにとって、公務において戦争に関する施設を訪問されるのは今回が初めてのこと。天皇皇后両陛下は、これまで多くの“祈りの旅”を続けられ、そのお気持ちは皇太子ご夫妻にも受け継がれてきた。一方で、愛子さまは「戦争や平和」について触れる機会が決して多くはなかったという。
「学習院の社会科の授業は、“思想教育はしない”“皇室批判はしない”“特定の政党や企業に加担も批判もしない”といった特徴があります。これは、皇族のお子さまや歴史上の人物の末裔、有名企業の子弟も学習院で学んでいるということに対する配慮から生まれたものともいわれていますが、裏を返せば、教科書通りに淡々と授業が進んでしまうという一面もあります。 しかし、“皇族だからこそ戦争についてきちんとした知識を持つ必要がある”と皇太子ご夫妻はお考えです。“どうしたら戦争を知らない世代に、日本がたどった歴史を正しく伝えられるか”とおふたりで相談されて、今回の昭和館のご訪問を決められ、愛子さまをお連れになったそうです」(宮内庁関係者)
 昭和館で皇太子ご一家はまず、3階の特設企画展の会場に向かわれ、1945年の終戦当時の写真や手紙などをご覧になった。「そこで愛子さまは国民学校の女子児童が書いた作文をお読みになりました。その作文は昭和天皇が終戦を告げた“玉音放送”を聴いて綴られたもので、同じフロアには実際にその音声が流れているコーナーもあり、とりわけ女子児童と年齢の近い愛子さまは強い衝撃を覚えられていたようです。神妙な面持ちで、静かに説明に耳を傾けられていたそうです」(前出・皇室記者)
 集中してご覧になっていた愛子さまのお姿を見て、皇太子さま(55才)も今回の訪問にさぞ成果を感じられたことだろう。昭和館を後にする際、車に乗り込まれた愛子さまは、後部座席から後ろを振り向いて、カーテンごしにもかかわらず手を振り続けられていた。
「愛子にとって勉強になり、良い体験になりました」
 ご訪問後、皇太子さまはそう感想を述べられた。
※女性セブン2015年8月13日号


もう愛子は中学2年生にもなっているのだから、自身で昭和館関係者にご挨拶と感想とお礼を述べるべき場面であり、愛子から感想とお礼の言葉が出たのならそれはもう当然記事に書かれているはずである。ろくに発語がない娘の言葉を父親徳仁がフォローする形でごまかしているとお察しされる場面である。

参考:2015年8月7日秋篠宮ご一家が昭和館ご訪問、悠仁殿下の発語「やっぱり広島(の被害)が多い」「皇居は」「3年生」[]

http://www.47news.jp/CN/201508/CN2015080701001313.html

悠仁さま、戦争展見学 秋篠宮夫妻と佳子さまも
 秋篠宮ご夫妻は7日、次女佳子さま(20)や長男悠仁さま(8)とともに、戦中や戦後の生活の苦労を次世代に伝える東京都千代田区の国立施設「昭和館」を訪れ、空襲や学童疎開などに関する資料を集めた常設展を見て回られた。
 悠仁さまは、空襲による被害者数が都道府県別で分かるタッチパネルを操作しながら「やっぱり広島県が多い」と話し、秋篠宮さまから「原爆でね」と説明を受けていた。戦時中の教科書にも興味を持ったようで、紀子さまや佳子さまと共に熱心に見入っていた。
 戦後70年の節目に合わせて開催されている特別企画展「昭和20年という年~空襲、終戦、そして復興へ~」も見学。
2015/08/07 11:10 【共同通信】

ttp://www.ji ji.com/jc/c?g=soc_30&k=2015080700319

秋篠宮ご一家、昭和館を訪問
昭和館で常設展示を見学される秋篠宮さまの長男悠仁さま=7日午前、東京都千代田区(代表撮影)
 秋篠宮ご夫妻は7日午前、長男悠仁さま(9)、次女佳子さま(20)と共に、東京都千代田区の昭和館を訪れ、戦時中の生活などに関する展示物を見て回られた。
 常設展示室には、1935~55年ごろの国民生活を伝える資料があり、悠仁さまは「サイタサイタ」と書かれた当時の小学校教科書などを熱心に見学。全国の空襲被害が分かるタッチパネル式地図では、広島県を自分でタッチし「(犠牲者は)やっぱり広島が多い」と確認していた。佳子さまは、写真が空襲後の東京・数寄屋橋だと説明を受け、静かにうなずいていた。
 続いてご一家は、戦後70年の特別企画展「昭和20年という年」も見て回った。(2015/08/07-11:11)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150807/k10010181621000.html (魚拓記録 / WebArchive記録)

秋篠宮ご一家 戦時中の暮らし伝える資料館に
8月7日 13時08分
終戦からまもなく70年を迎えるのを前に、秋篠宮ご一家は7日、戦時中の人々の暮らしなどを伝える東京の資料館を訪ねられました。
秋篠宮ご夫妻と、夏休み中の次女の佳子さま、長男の悠仁さまは、東京・千代田区にある国立の資料館「昭和館」を訪ねられました。
昭和館には、昭和10年代から昭和30年ごろまでの人々の暮らしぶりを伝える資料800点余りが展示されています。
ご一家は、氷を入れて冷やす冷蔵庫やかまどなど、昭和10年ごろの家庭で使われていた日用品の展示や、太平洋戦争中にアメリカ軍が日本人の戦意を失わせるために飛行機からまいた日本語のビラなどをご覧になりました。
全国の空襲の被害を伝える展示では、悠仁さまが「やっぱり広島の被害が多い」と話したり、「皇居は」などと質問されたりしていました。

http://www.asahi.com/articles/ASH872RKWH87UTIL00K.html (魚拓記録 / WebArchive記録)

秋篠宮ご一家、戦後70年展示を観覧 東京の昭和館
2015年8月7日11時41分
常設展示の「昭和10年頃の家庭」をご覧になる秋篠宮ご夫妻、佳子さま、悠仁さま=7日午前9時50分、東京都千代田区の昭和館、代表撮影
常設展示の「昭和10年頃の家庭」をご覧になる秋篠宮家の悠仁さま=7日午前9時52分、東京都千代田区の昭和館、代表撮影
 秋篠宮ご夫妻は7日、東京都千代田区の昭和館を訪れ、戦後70年に合わせた展示などを観覧した。次女佳子さま、長男悠仁さまも同行し、真剣な表情で見て回った。
 全国の空襲被害を示すタッチパネルを見た悠仁さまが「やっぱり広島は多いの?」と尋ね、自ら操作。赤く染まった広島市の拡大図が開くと、秋篠宮さまが「原爆でね」と説明した。

http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000056314.html

佳子さま、悠仁さま “戦時中の生活”展示を見学(2015/08/07 13:42)
 秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さま、長男の悠仁さまが太平洋戦争に関する資料を集めた展示をご覧になりました。
 東京・千代田区にある「昭和館」は、主に昭和10年ごろから30年ごろにかけての戦中戦後の生活ぶりなどを次の世代に伝えるために造られた国立の施設です。佳子さまと悠仁さまは、昭和10年代の小学生の成績表や教科書を熱心にご覧になりました。現在、小学3年生の悠仁さまは、当時の3年生の女の子が書いた手紙を見て、佳子さまに「3年生」と声を掛けられました。また、悠仁さまが空襲で亡くなった人の数を都道府県別で表示するタッチパネルを自分で操作して、「やっぱり広島県が多い」と話されると、秋篠宮さまは「原爆でね」と説明されていました。

http://www.news24.jp/articles/2015/08/07/07306354.html

佳子さま、悠仁さま 戦後70年特別展鑑賞
2015年8月7日 14:00
秋篠宮ご夫妻と佳子さま、悠仁さまが7日、都内の「昭和館」を訪問し、戦後70年の特別展などをご覧になった。悠仁さまは空襲被害を表したパネルの前で「皇居は?」と言って都内の被害を見た後、広島県の被害を見て「やっぱり広島県が多い」と話していた。
記事全文
 秋篠宮ご夫妻と佳子さま、悠仁さまが、戦後70年の特別展などをご覧になった。
 秋篠宮ご一家は7日午前、東京都千代田区にある国立の資料館「昭和館」を訪問し、昭和の国民生活の様子を紹介する展示や戦後70年の特別展をご覧になった。
 昭和10年代の日用品が展示された部屋では、秋篠宮さまが悠仁さまに対し「これ分かる?」と聞かれ、悠仁さまは時折、腰をかがめてのぞき込んで見ていた。
 また、悠仁さまは空襲被害を表したパネルの前で「皇居は?」と言って都内の被害を見た後、広島県の被害を見て「やっぱり広島県が多い」と話していた。

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2557780.html

秋篠宮ご一家、戦争展をご観覧
 秋篠宮ご一家は、7日、戦中・戦後の生活の苦労などを伝える東京・千代田区の展示施設を訪問されました。
 7日午前、秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さま、長男の悠仁さまは、千代田区にある国立施設「昭和館」を訪れ、空襲や学童疎開など戦中から戦後にかけての暮らしぶりを伝える資料を熱心に見てまわられました。
 悠仁さまは、都道府県別で空襲による被害者数を示すタッチパネルに触れ、「やっぱり広島が多い」と話すと、秋篠宮さまが「原爆でね」と説明されていました。
 また、防空壕の体験ができるコーナーに紀子さまと悠仁さまが入り、空襲警報のサイレンなど次々聞こえる音声に、じっと耳をすまされる場面もありました。(07日12:21)

http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/newsanswer/news/post_95220 (魚拓記録 / WebArchive記録)

戦争の展示ご鑑賞  8月7日
広島の被害に驚かれていました。秋篠宮ご夫妻と佳子さま、悠仁さまはきょう、戦中戦後の国民生活を伝える国の施設「昭和館」を訪問されました。空襲による被害者数が都道府県別でわかる展示では、悠仁さまがタッチパネルを操作しながら、「多いのはやっぱり広島県だね」と話されると、秋篠宮さまは「広島は原爆があったから」と説明されていました。また、当時の生活道具として展示されていた洗濯板について、紀子さまが「着物をこうやって洗濯したんですよ」などと、やさしく教えられていました。

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2557780.html (魚拓記録 / WebArchive記録)

語り継ぐ戦争、秋篠宮ご一家が昭和館を訪問
 秋篠宮ご一家は7日、戦中・戦後の生活の苦労などを伝える東京・千代田区の展示施設を訪問されました。秋篠宮さまは以前から、平和への思いを語られてきました。
 7日午前、秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さま、長男の悠仁さまは、千代田区の国立施設「昭和館」を訪れ、空襲や学童疎開など、戦中から戦後にかけての暮らしぶりを伝える資料を見てまわられました。
 「子どもの頃から度々に両陛下から戦争の話を聞きました。(戦争を)二度と繰り返してはいけないということを強く思ったわけです」〔去年11月〕
 去年の誕生日の記者会見で、このように述べられていた秋篠宮さま。秋篠宮ご夫妻はお子さま方にも自然に平和の尊さを感じてほしいと、これまでもご一家で戦争関連施設への訪問などをされてきました。 おととし12月、ご夫妻は悠仁さまと共に、沖縄県を訪れ、沖縄戦などで亡くなった24万人あまりの名前が刻まれる「平和の礎」を訪問。また、去年8月には太平洋戦争中にアメリカ軍に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の企画展を、ご一家で見学されています。
 そして7日の昭和館訪問。都道府県別で空襲による被害者数を示すタッチパネルに触れ、「やっぱり広島が多い」と悠仁さまが話すと、秋篠宮さまが「原爆でね」と説明される場面も。親から子、子から孫へと平和への思いは引き継がれています。(07日16:00)


取材ソースにより多少の語尾の相違はあるが、悠仁殿下の発語は間違いなく存在していることがわかる記事の書き方である。

2015年8月22日日比谷図書文化館戦後70年企画展示会「伝えたいあの日、あの時の記憶」を東宮一家観覧、愛子が「これも義手なんですね」「(太平洋戦争のことについて)新聞やテレビでよく見ている」と発言したというニュース[]

http://www.sankei.com/life/news/150822/lif1508220032-n1.html
先の大戦の戦傷者に香淳皇后が贈った装飾用と作業用の義手を見た皇太子ご夫妻の長女、敬宮(としのみや)愛子さまが「これも義手なんですね」と学芸員に尋ねる場面もあるなど、ご一家で展示品やパネルなどを熱心に見て回られていた。

http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20150823k0000m040026000c.html
長女愛子さまは戦傷病者が使ったいくつかの義手を見ながら説明者の女性に「これも義手なんですか」と質問していた。

http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00300886.html
愛子さまは、傷痍(しょうい)軍人が使っていた義手などを見て、「これも義手なんですね」などと、質問をされていた。

http://www.news24.jp/articles/2015/08/23/07307607.html
中学2年生の愛子さまが戦争に関する展示を見るのは2回目で、腕を失った傷痍(しょうい)軍人に贈られた義手にさまざまな種類の作業用アタッチメントがあるのを見て、「これも義手なんですね」と尋ねられていた。
愛子さまは太平洋戦争のことについて、「新聞やテレビでよく見ている」と話されたという。

http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000057280.html
愛子さまは展示物の説明に熱心に耳を傾けられ、戦争で腕を失った軍人が身に付けていた作業用の義手について「これも義手なのですね」などと話されました。



http://www.asahi.com/articles/ASH8S3F2FH8SUTIL00D.html
(皇族方の素顔)両陛下の平和への願い、次世代へ
宮内庁担当 伊藤和也、島康彦2015年8月27日11時26分
特別展「伝えたい あの日、あの時の記憶」を鑑賞する皇太子ご一家=8月22日午後、東京都千代田区の日比谷図書文化館、代表撮影
 戦後70年にあたり、皇太子ご一家や秋篠宮ご一家は戦争関連の展示会や行事に足を運びました。天皇、皇后両陛下の平和への願い、戦没者慰霊への思いは次世代、孫の世代に引き継がれようとしています。 皇太子ご夫妻と長女愛子さま(13)は8月22日、東京都千代田区の日比谷図書文化館で開催中の特別展「伝えたい あの日、あの時の記憶」を鑑賞しました。
 戦後70年にあたり、戦中・戦後の暮らしぶりを伝えようと、いずれも都内にある昭和館(千代田区九段南)、しょうけい館(同)、平和祈念展示資料館(新宿区西新宿)が合同で企画したものです。
 この日、会場では、鹿児島大空襲で7人の家族を亡くした春成幸男さん(90)、父親がシベリアなどで過酷な抑留生活を送った俳優の石丸謙二郎さん(61)、漫画家・妖怪研究者として知られ、戦時中に南方ラバウルで負傷した水木しげる(本名・武良茂)さんの長女原口尚子さん(52)が講演しました。
 皇太子ご一家は聴講しませんでしたが、講演終了後に3人と懇談しました。貴重な機会でしたが、残念ながら、報道陣に公開されたのは冒頭のみ。事後に春成さんらに懇談の様子を聞きました。
 春成さんは1945年6月17日、米軍のB29爆撃機が鹿児島市に焼夷弾(しょういだん)を投下した「鹿児島大空襲」で、両親や姉、妹ら家族7人を亡くしました。市によると、この空襲の犠牲者は2316人。終戦までに8回の空襲を受け、死者数は計3329人に及びました。地方都市で最大規模の被害を出したことはあまり知られていません。
 春成さんの話をご一家は熱心に聞いていたといい、皇太子さまは「大変でしたね」と声をかけたそうです。春成さんは「皇太子さまに家族のことを報告できたのが、何よりの供養になりました。帰ったら仏壇に報告します」と話していました。
 原口さんによると、父・水木しげるさんの妻・武良布枝さんの自伝をもとにしたNHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」の話題にもなったそうです。皇太子ご一家は家族で放送をみていたようで、雅子さまが「見ていました」と伝えたということです。
 皇太子さまは、ドラマの中で原口さんをモデルにした登場人物・村井藍子(あいこ)と、ご自身の長女・愛子さまとが同じ名前だということに触れ、「原口さんは、あいこという名前でしたね」と話し、愛子さまはにこやかに笑みを浮かべていたそうです。
・・中略・・
 22日の懇談では、原口さんが愛子さまに「戦争に興味がありますか」と尋ね、愛子さまは「新聞やテレビでよく見ています」とこたえる場面もあったそうです。雅子さまが、愛子さまが学習院女子中等科学校の宿題で、ビルマ戦線の日本兵を描いた「ビルマの竪琴」について読書感想文を書いたことも明かしたそうです。
 続いて、ご一家は戦時中の暮らしを伝える特別展を鑑賞しました。愛子さまはシベリアなどで抑留者の一日分の食糧だった黒パンの模造品を手に持ったり、負傷者の義手を見て「これも義手なんですか」と質問したりするなど熱心に見て回っていました。
 8月中旬に静岡県の須崎御用邸で静養した際、毎日遅くまで海で泳いでいたという愛子さま。黒く日焼けした表情から充実した夏休みだったことがうかがえました。
・・後略・・

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