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1993年1月19日皇太子浩宮徳仁との婚約が内定し、これまでマスコミに登場していた姿とは全くイメージが異なる真っ黄っ黄衣装に身を包み記者会見に臨んだ小和田雅子の姿を指す。なお当たくあん色衣装をデザインしたのは、小和田家と懇意の付き合いがあるファッションデザイナー角田明美(つのだあけみ、当時62歳)氏とのこと。
「雅子さまらしさが無くなった」だの「キャリアウーマンが皇室の型にはめられた」だのと批判を展開する識者もいれば、逆に「T・P・Oに合わせることが出来て素晴らしい」だのと大絶賛マンセーする識者もいるなど、たくあん衣装と共布帽子に対する評価はまっ二つに割れている。
関連項目:【皇太子・小和田雅子婚約内定記者会見】、【ぶりっこ】、【小和田恒】
1987年12月18日コートにストライプパンツを着用し革手袋をはめた通勤姿でカメラマンに向かい指差し恫喝【指差し恫喝】
1988年上までボタンを閉めたトレンチコートに身を包んだ通勤姿
1988年6月13日襟が特徴的な茶系スーツの通勤姿
1989年英国留学中、男物?かなりゆったりとしたカーディガンを着用【袖口折り返し】
1989年9月28日留学先の英国にてTV取材を受け「(皇太子妃問題に)私は関係していない」ときっぱり言い切る雅子、灰色トレンチコートに青シャツのマニッシュな雰囲気
1991年5月日米半導体会議スタッフとして、白地に細いストライプのスーツ姿【裕次郎ファッション】
但したまには「ぶりっこ」することも
1991年8月10日テニスをするにはどう見ても不向きな青いリボンカチューシャと審判台(椅子の重石付き)でぶりっこポーズの小和田雅子当時27歳8ヶ月
1992年3月15日海部俊樹元首相の長男:正樹氏の結婚披露宴に出席。光沢のある深緑色のドレス姿
1992年12月12日 皇太子からの求婚を受諾
1993年1月6日 皇太子妃内定報道
1993年1月8日キミジマのピンクチェックスーツにヘルノのカシミヤコート【テファニー】
1993年1月19日皇室会議後、両陛下へのご挨拶へ両親小和田夫妻と。ワンピースの上に共布真っ黄色ロングコートを着用
1993年1月19日会見開始直前着席時、たくあんワンピの股座に手をやり、まるでち○こポジションを直すような仕草をする雅子。後に『皇太子さまと雅子さん ご婚約記念写真集』(朝日新聞社編1993年2月発行)に掲載されることに
1993年1月19日たくあん衣装で記者会見着席
1993年1月19日全身たくあん衣装の小和田雅子
いかにも「女性的」ソフトなイメージの婚約時期
ヘアアクセサリーも、カチューシャやリボンバレッタなどを用いている。
1993年2月5日シャネルっぽい雰囲気の大きなリボンが特徴的なキミジマスーツ
1993年4月16日薄めのピンクのスーツ
1993年4月28日皇太后さま(香淳皇后)に婚約報告挨拶、何かを指差す徳仁とそれを目にして「ウェー!」と言うような変な表情になる雅子。中途半端なウエストギャザー入りのごく淡いベビーピンクワンピースは、婚約内定会見たくあん衣装と同じアトリエ角田明美にて同型紙で作られたらしい。ヘッドドレスのふわふわ羽飾りで「白鳥の湖」と揶揄される格好
1993年6月1日濃いピンクのドレープ使いボレロ付きワンピース
1993年6月4日小和田一家がレストラン・シェ松尾でお祝いディナー、オーナーシェフ松尾幸造氏と記念写真撮影するひらひら白大襟雅子
紀子妃・信子妃の模倣を繰り返す。これでは「個性」とやらが無くなるのは当然である。
【雅子のお召し物当たり屋シリーズ】
そしてストライプ衣装にはまりだし…
【裕次郎ファッション】
公務をしなくなった頃からは【ぶりっこ】路線復活と、【袖口折り返し】【甲の肉】ブランド既製品へ。
戦前では皇室の婚約内定記者会見は行われていない。
戦後の正田美智子嬢・津軽華子嬢の時は、本人とご両親の3名で会見が行われた。
1958年11月27日、正田美智子嬢(後の皇后陛下) - 白ドレス、長手袋、ショール、白バッグ。頭部にはカチューシャ風のヘッドドレス。足元は白パンプス(おそらく共布か)
1964年2月28日、津軽華子嬢(後の常陸宮妃華子殿下) - 淡いピンクのドレス、長手袋、真珠のネックレス、白バッグ。頭部にはカクテルハット。足元は黒パンプス(材質不明)
三笠若宮寛仁親王の婚約内定会見で初めて当人たち男女2ショットとなり、以後この形式が踏襲される。
1980年4月18日、麻生信子嬢(後の三笠宮家寛仁親王妃信子殿下) - ピンクのスーツ、黒いバッグ。帽子・髪飾り・手袋なし。足元不明 ※ヒゲ殿下は煙草を手にされており、婚約会見とは言えくだけた雰囲気であることに注意。
1984年8月1日、鳥取久子嬢(後の高円宮妃久子) - オレンジのワンピース、真珠のロングネックレス、手袋無し、バッグ不明。帽子は使わず、髪をバレッタ?でまとめている。足元不明
1989年9月12日、川嶋紀子嬢(後の秋篠宮妃紀子殿下) - 濃紺ワンピース、真珠のネックレス、白手袋、黒いバッグ。帽子は使わず、髪には濃紺リボン。足元は黒?パンプス
1993年1月19日、小和田雅子 - 黄色のワンピース、真珠のネックレス、白手袋、共布の黄色バッグ。頭には共布の黄色帽子。足元はこれまた共布の黄色パンプス
朝日新聞 1993年1月20日<雅子さん「私の言葉で」会見 仕事「悔いはない」 皇太子さまご婚約>より引用
○会見を見て
●作家の林真理子さん テレビのスイッチを入れたとたん、軽いショックを覚えた。そこには、我々のよく知っている小和田雅子さんではなく、全く別の女性が座っていたからである。あまりお似合いとはいえない帽子と、伏し目がちの硬い表情は、小和田さんが本当に遠いところに行ってしまわれたのだという思いを深くした。
マスコミは、小和田さんのような方が皇太子妃になられると、皇室に新風が起こると安易に考えているがとんでもない話だ。一時期、神ともなった家族の歴史とエネルギーはそんなやわなものではない。一人の女性の存在で変わるものではない。巨大な力が瞬時に、その女性を「規格品」に変えるさまを今日、この目で見てしまった。
「お役にたちたい」と話す雅子さんのけなげさに涙がこぼれて仕方ない。どうかこの方の聡明(そうめい)さや明るさが生かせる未来であってほしいと祈るような気持ちだ。
救いは皇太子殿下の闊達(かったつ)さで、男らしく力強い言葉をいくつか聞いた。だからこそ残念でたまらない。この知的で若いカップルに、なぜ皇室の展望をお聞きしないのか。「子供は何人」などということより重要なはずである。
毎日新聞 1993年1月20日<素敵、ハキハキ雅子さん あふれる祝賀ムード-皇太子妃決定・街の声>より引用
◇等身大に近づかれた 芥川賞作家の荻野アンナさん
皇太子殿下は日ごろのお言葉から、折り目正しさの権化のような印象が強かった。しかし、会見では好きな女性を「守ってあげたい」と願う一人の男性の顔が垣間見え、等身大に近づかれた感じだった。逆に雅子さんの発言でエッと思ったのは、今までとはうって変わり、すべて敬語づくしだったこと。皇室という別世界に入ろうと、背伸びしているように見えた。
週刊新潮 1993年2月4日号<もう始まっている「雅子妃」いじめ>
p.55より引用
何でも杓子定規に考え、前例のないことは一切しない。それが宮内庁だ。
例えば雅子さんは、婚約会見のときに、帽子とワンピースの、いわゆる"皇室ルック"で現れた。若い女性のファッションとしてはポピュラーではないし、雅子さんにはもっと似合う服装があったように思われる。しかし、紀子さまは同じスタイルの濃紺、三笠宮妃殿下は同じスタイルの水色と言う前例がある。宮内庁は
「雅子さんの服装については全く関知していません」と言うが、無言の圧力をかけ、暗黙のうちに前例に従わせるイヤらしさは宮内庁のお手のものである。
「宮内庁も形式的になりすぎてはいけません。形式を尊ぶあまりに内容を忘れてしまうという部分はそろそろ変えていかなくては、皇室だけが時代に取り残されることになってしまいます」と、元東宮侍従の浜尾実氏は心配している。
本文中、「紀子さまは同じスタイルの濃紺、三笠宮妃殿下は同じスタイルの水色と言う前例がある」という意味不明の部分がある。確かに秋篠宮妃紀子殿下は、濃紺のワンピースをお召しだったが、頭部には帽子など被っていない。また、そもそも戦前時期の三笠宮妃百合子殿下の婚約内定記者会見など存在していない。仮に三笠若宮妃信子殿下と勘違いしてのことだったとしても、納采の儀(or告期の儀)で細身の水色ワンピースをお召しであるが、婚約内定記者会見ではない。唯一帽子を被っていらっしゃるのは常陸宮妃華子殿下のみであり、「前例に従わせる」といった表現は全く的外れである。 |
毎日新聞 1993年2月20日<(記者の目)29歳の転身 「新しい道で自分を」の言葉に雅子さんの強さを見た>本橋由紀記者 署名記事より引用
皇室会議の日、私は小和田邸前にいた。午前中「雅子さんは紺色のスーツ」と聞き、ご結婚決定の日、秋篠宮妃紀子さまが紺色のワンピース姿だったことを思った。ところが、雅子さんは淡い黄色でそろえたジャケットにワンピース、帽子、白い手袋のスタイルで現れた。これまでの「キャリアウーマン」から「ロイヤル」ファッションに変わった。
しっくりしないものを感じたが、そこに雅子さんの決意が表れていたのではないか。「新しい道で自分を役立てる」と決めた以上、形も合わせたように、思える。
会見で雅子さんは「自分」を譲らなかったようにみえた。皇太子さまの申し出に「殿下にお幸せになっていただけるように、そして私自身も良い人生だったと振り返れるような人生に出来るように努力したい」と返事したと語った。雅子さんの言葉に「甘さ」はなかった。
「雅子さんは紺色のスーツ」の部分について、他報道記事によれば、皇室会議の結果を待っていた際にはスーツ着用だったようである。 |
日本経済新聞 1993年6月4日<ご成婚の周辺「昭和と平成」(上)>より引用
「一番困っているのは服のこと」と雅子さんは友人に漏らす。行事の際、同じものを着るわけにはいかないので、限りなくたくさんの服が必要だという。その服は宮内庁が指示する。「紺など深い色が好みで、皇室会議の当日着たような黄色など明るい色の服は彼女の趣味ではない」と友人らは言う。時代が変わり、美智子さまのような苦労を背負うことはなさそうな雅子さんも、当面、服装に対する“圧力”には耐えなければならないようだ。
朝日新聞 1993年6月5日<黄色い帽子 キャリア期待先走り>より引用
「皇室会議に間に合うように、雅子さんの帽子をお願いしたいのですが」
皇太子妃内定が報じられた直後、東京・麹町の帽子専門店「ベル・モード」に、皇后さま側近の井上和子女官長から電話があった。細かい指示はなく、注文は「洋服地と同じ生地で」だけだった。皇室との取引が長く、三十四年前の皇后さまの時も、依頼を受けた。
店長らが小和田家を訪ねると、パステル調の黄色い絹地の服が、すでに仮縫いまで進んでいた。帽子のデザインは、室内用だと小さめで、つばがない方がよりフォーマル。店長らの説明をもとに、雅子さんと母優美子さんが決めた。
皇室会議の朝、いつもの美容師が小和田家に呼ばれた。一枚の写真を示され、「帽子のかぶり方は、この写真と同じように……」と母親から頼まれた。
だが、写真の通りにはならなかった。
この日は記者会見、宮家へのあいさつ回り、赤坂御所での夕食会と、予定が詰まっていた。夜は服を替え帽子を外すが、髪を直す時間はない。そこで、帽子を外すだけで済むよう、帽子の下で髪を結んだ。帽子はやや後ろにずれ、浮いた感じになった
「キャリアウーマンの雅子さんが入れば、皇室も変わるかも知れない」。雅子さんに決まった直後、「外交官からの皇太子妃」に期待が集まった。「女性総合職の時代のお妃選び」と意義づける分析もあった。
だが、皇室会議用の写真撮影には八センチほどのハイヒールで出掛けた雅子さんが、皇太子さまとのデートでは、やや低めの中ヒールをはいた。皇太后さまへのあいさつの際は、皇太子さまの後ろを一、二歩遅れて歩いた。
「期待」は冷めたかに見えた。
宮内庁幹部は、「すぐに何かを期待するのは酷ではないか」とかばう。
女性が公的な場で帽子をかぶるのは皇族のしきたりだ。背が高過ぎる、前に出過ぎるなどの批判は、できれば受けたくない。それに、皇室の「外交」など本来ありえない。
「私は、外交官として生きる」。皇太子さまとの交際が中断した時期、雅子さんは決意を語っていた。皇太子妃にはならない、との意思表示でもあった。
再会後も、仲介者らに「心を決められない」と訴えた。外交官としての人生を断ち切ることへのためらいも理由のひとつだった。
「国の政策に関与できない皇族だからこそ、逆に、福祉や環境など、広い立場に立つことができる」。国際社会で皇族が果たしうる役割が、雅子さんへの説得の言葉になったという。
(中略)
皇太子妃時代の皇后さまの服を手掛けるなど、長く女性皇族のドレスを製作しているファッションデザイナーの芦田淳さんはアドバイスする。「皇太子妃になられても、妃殿下という名の堅苦しい洋服ばかりを着る必要はない。似合っていた外務省時代の服も持って行って、着て欲しい。十分着られますよ」
朝日新聞 1993年6月18日<(コラム・私の見方)雅子さまファッションとは>堀江瑠璃子氏 署名記事より引用
雅子さんから雅子さまへ。
皇太子さまとの「結婚の儀」から「饗宴の儀」までの雅子さまを拝見していると、キャリアウーマン時代のきりっとしたシャープな感じが薄れ、ローブデコルテやイブニングドレスが似合う優雅さを早くも身につけられたように見える。
皇太子妃内定後の雅子さまは、外出のたびにカメラの放列にあい、そのファッションがテレビや女性誌で過剰なほど話題になった。同じスカーフやコートがとぶように売れたという。でも、もし雅子さまがいわゆる「お嬢さま」で、現代女性を代表する知的で美しいキャリアウーマンでなかったら、これほど注目されなかったと思う。
しかし、皇室会議で正式に婚約が決定し、皇太子さまと共に記者会見に臨まれたときを境に「雅子さんが、変わった」と感じた人は、少なくない。明快で堂々とした話しぶりには魅了されながら、あの黄色いカクテルドレスと帽子姿には「え、もう皇室ファッションなの!」と、驚かされた。
ファッション業界のプロの女性たちで構成する国際組織ザ・ファッショングループ・インタナショナルの日本会長の尾原蓉子さんは、「最初は、雅子さまが同じ働く女性だったということで、会員も共感をもち、ファッションセンスも含めて皇室に新風を吹き込んで下さるのではないかと、大きな話題でした。ところが、記者会見後の雅子さまからは、個性がどんどん消されていくようで、関心が冷めてきました」と、落胆する。
ファッションはその人の立場や心のありようを映すもので、ある種のメッセージ性を持っている。雅子さまの場合も例外ではない。
靴デザイナーの河村龍介さんが、雅子さまの靴をデザインするきっかけとなったのは、皇太子さまとのご婚約だった。記者会見でお召しになる黄色い服に合わせた靴を、晴れの日に間に合わせるためいん、河村さんに白羽の矢が立った。
「そのときは急なことでしたので、雅子さまの靴を1足お借りして、それをもとに作ったんです」 木型も目白にある河村さんの工房に用意してあるもので間に合わせた。その後も何足かご注文をいただいたが、「靴のフィッティングがぴったりいっていないように思われますが」というご指摘を受けて、「もしお許しいただけるなら、雅子さまのおみ足をじかに測らせていただけないでしょうか?」と申し出て、目黒の小和田家で計測をする運びとなった。
「通常ストッキングをはいた上で計測するので、雅子さまにもそうしていただきましたが、足形をなぞるペンが緊張で震えてしまったのを覚えています」
そんな緊張をほぐしてくれたのが愛犬のショコラ。「私の前にちょこちょこやってきて、顔をのぞきこんだり、なめようとしたりするのを雅子さまが『ショコラ、いけませんよ』とたしなめられましてね」
婚約内定発表に際し靴を注文するものの、靴デザイナー河村龍介氏にそれまで履いていた既製品靴を渡して製作させ、後に「靴のフィッティングがぴったりいっていないように思われますが」と文句をつけるおかしな雅子。靴の採寸作業最中に飼い犬ショコラをうろちょろさせる非常識ぶりも見逃せません。 参照:【甲の肉】 |
真実かどうかはともかく、以下が小和田家的「史実」として友納尚子に公表させた内容であります。
さすが元女湯盗撮カメラマンが手がける仕事ぶりというか、小和田家コンクリ御殿内の現場記録映像でも撮っていなければ到底書けないような、あまりに細かすぎる描写表現にご注目ください。
『週刊文春』2012年6月14日号ご成婚20年目ザ・プリンセス雅子妃物語 第1回初公開エピソードで綴る素顔幸せの黄色いワンピース友納尚子署名記事【プリババ】
pp.46-47より引用
その日の午前は、朝から青空が広がっていた。東京・目黒区南の小和田邸には、出来上がったばかりの二着のワンピースが届けられた。平成五年(93年)一月上旬のことである。
一階のリビングに集まっていたのは、小和田雅子さん(29=当時、以下同)と母親の優美子さん(55)、久しぶりにベトナム・ハノイから帰国した妹で次女の礼子さん(26=国連難民高等便務事務所職員)、洋服デザイナーの角田明美さん(62)と手伝いに来ている人たちだった。
角田さんが作る注文服は、品格が高く華やかなデザインが評判で、東京・港区青山のブティック「アトリエ 角田明美」には、多くの著名人の妻たちが客として訪れていた。この日は来客などもあり、慌ただしい一日だったというが、明るい室内は幸せそうな女性たちの笑い声で満ち溢れていた。
部屋の壁には、書家・小川東洲による『優雅礼節』という、優美子さん、雅子さん、双子の妹の礼子さんと節子さん(26=三女・東大教養学部文化人類学専攻)の文字を綴った掛軸が飾られていた。
ソファの上に並んでいたのは、急いで仕立てられた絹の二着のワンピース。ひとつは淡いピンク、もうひとつは、レモンイエローだった。ワンピースのデザインはどちらも同じで、襟なしで腰のところで切り替えがあった。
来客によると「同じデザインなのに色が違うだけで、とても雰囲気が違って見えた」という。
「どちらの色もいいわねぇ」
いつも明るい礼子さんは、まるで自分のことのように声を弾ませていた。優美子さんと角田さんも頷いたり、笑ったりしていたという。
いつまでたっても決まらないやり取りの途中で、節子さんも顔を見せたが、姉たちの様子に微笑みながら、そっと通り過ぎたという。
一度、別室に行った雅子さんがピンクのワンピースを試着し登場した。皆が「とてもお似合いね」と見惚れる。はにかむ雅子さんに皆が黄色のワンピースも着るように勧めた。
別室で着替えた雅子さんに優美子さんが、「黄色もいいわね。春らしくて、希望の色という感じね」と語りかけたという。
そこへ父親の外務省事務次官の恆さん(60)が帰宅した。すかさず礼子さんが、
「お父さまは、どちらが似合うと思う?」
と声を掛けると、最初恆氏は照れ笑いしながら通り過ぎようとした。
しかし追い打ちをかけるように、礼子さんが「ねえ、どちらがいいと思う?」と聞くと、恆氏は困ったような恥ずかしいような微妙な顔をして、「いま着ている黄色の方でいいんじゃないのかな」と答えた。
雅子さまは、その言葉を聞いて「黄色にするわ」と輝く笑顔を見せて言った。
について、小和田雅子婚約内定記者会見では着用されなかったピンク色シルクワンピースと思しきものを、1993年6月9日徳仁雅子結婚の儀に出席した礼節姉妹の片方が着用している。皇室からのお支度金で妹結婚式出席衣装をちょろまかしたという可能性は相当に高い。
そもそも記者会見のためにわざわざ2色の色違いでシルクワンピースを製作しなければならない理由は全くないわけで(たとえば川嶋紀子嬢婚約内定記者会見では紺色シルクワンピース1着のみをオーダー製作している)、敢えて2着作ったのは最初から妹の結婚式出席用衣装に充て、その1着分の費用を浮かせる意図だったとも考えられる。
1993年6月9日結婚の儀を西幄舎に座って見守る小和田恒、涙をハンカチで拭う和服姿の優美子、黄色ワンピースの礼子・ハンカチを手にしているピンクワンピースの節子。ピンクワンピースは雅子婚約内定記者会見のために作られた2着のうちの1着か
1993年6月9日「結婚の儀」の最中、涙をハンカチで押さえる母小和田優美子と双子妹礼子節子
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広義では「東宮家雅子夫人に関する様々な問題事」を表す。この単語は『週刊新潮』2008年4月10日号<男の担任も「横ヤリ交代」 学習院初等科「愛子さまご入学」シフト>記事中にて「雅子さまマター」で登場し...
Part826スレッドのとある奥様(レス番号371・377・379)が、以前ここに書かれていた「迷惑外交武勇伝」という言葉が気に入ったとのことで、海外における雅子のgdgd振舞い事件を端的にまとめてく...