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トキワ荘は、東京都豊島区椎名町(現:豊島区南長崎)に1952年(昭和27年)から1982年(昭和57年)にかけて存在した木造アパート。
手塚治虫や藤子不二雄、石ノ森章太郎など日本の漫画史に名を残す漫画家が多数居住していたことで知られ、「漫画の聖地」と呼ばれている。
漫画家達が入居していた2階部分は10室で、全て四畳半。その他、共同の調理場、トイレなどが存在した。
また、ここではトキワ荘と関係の深い漫画雑誌『漫画少年』についても記す。
●目次
■概要
「漫画の神様」こと手塚治虫は、1952年に宝塚から上京した直後は新宿区の八百屋の2階に下宿していたが、やがて昼夜を問わぬ編集者の出入りの激しさについて八百屋の主人から苦情を言われるようになった。
そんな折、手塚は『ジャングル大帝』を連載していた学童社から、新築アパート「トキワ荘」へ入居するよう誘われ、1953年初頭に住人となった。
これを皮切りに、学童社が、自社の雑誌に連載を持つ漫画家の多くをトキワ荘へ入居させることになり、「聖地」が創られることになった。
才能ある漫画家達がトキワ荘に集まった背景には、手塚の次に入居した寺田ヒロオの「空いた部屋には若い同志を入れ、新人漫画家の共同生活の場にしていきたい」「新人漫画家同志で励まし合って切磋琢磨できる環境をつくりたい」との思いがあった。
この他にも「漫画家が原稿を落としそうになった際、他の部屋からすぐに助っ人を呼べる環境が欲しい」という編集者側の思惑と、「他の漫画家の穴埋めでもいいから自分の仕事を売り込む機会が欲しい」という描き手側の利害の一致もあったとされている。
なお、トキワ荘への入居と仲間入りに際しては、メンバー達により、
- 『漫画少年』で寺田が担当していた投稿コーナーの中で優秀な成績を収めていること
- 協調性があること
- 最低限プロのアシスタントが務まったり、穴埋め原稿が描けたりする程度の技量に達していること
- 本当に良い漫画を描きたいという強い意志を持っていること
……といった基準で厳格な事前審査が行われていたとされる。
こうした背景から、トキワ荘に居住した(居住できた)のは単なる若手漫画家ではなく、選び抜かれた漫画エリート集団であり、トキワ荘から多数の一流漫画家が世に出たのは奇跡や偶然ではなく、必然だったとの指摘もある。
■トキワ荘の居住者
ここではトキワ荘に居住した代表的な漫画家を挙げる。
また、トキワ荘の居住者を中心に結成された漫画家グループである新漫画党のメンバーには※を付ける。
手塚治虫(1953年初頭 - 1954年10月)
本名:手塚治。ご存知「漫画の神様」。詳細は該当項目を参照。
入居した時点で既に超売れっ子であり、当時存在していたほぼ全ての少年・少女雑誌に連載を持っていたという伝説がある。
手塚の住んでいた部屋は入れ替わりで藤子不二雄コンビが住むことになり、手塚は創作に使っていた机をそのまま残し、2人に譲っている*1。
1989年没。
代表作
寺田ヒロオ(1953年12月31日 - 1957年6月20日)※
本名:寺田博雄。新漫画党総裁。
トキワ荘の漫画家グループのリーダー格でその人望はとても厚く、藤子不二雄Ⓐの自伝的漫画『まんが道』でも頼もしくて理想的な先輩として描かれた。
妻は有名作曲家である中村八大*2の実妹。
往年の正統なスタイルの児童漫画こそ漫画の正しい姿であるという強い信念の持ち主で、明るく楽しいスポーツ漫画を得意としていた。
しかし第一次ベビーブームの終焉による児童数の減少もあり児童漫画は勢いを失い、かつての読者も成長し劇画のような青年向け漫画が隆盛していく。
正統な児童漫画を得意とする作風を固持するが故に時流の変化についていけず、どんどん寡作になり、次第に商業主義的傾向(内容の過激化、大量生産・大量消費など)に傾いていく漫画界に辟易し精神状態が悪化。
元気だった頃の姿を知る仲間たちの応援も虚しく1973年に絶筆。
漫画家を引退した後も心の傷は癒えることはなく、1981年に自身が理想とした『漫画少年』の歴史を記録した『『漫画少年』史』を編纂・出版した後は、トキワ荘時代の仲間とすら殆ど会わなくなり、
トキワ荘の取り壊し直前に当時のメンバーが集う『わが青春の「トキワ荘」 〜現代マンガ家立志伝〜』が放送された際も、トキワ荘には現れず、インタビューのみの出演だった。
他界する約2年前の1990年6月23日、突然トキワ荘の仲間を自宅に呼んで宴会を催し、終了後、去ってゆく仲間達が見えなくなるまで手を振り続けたという。
その翌日から亡くなるまで、世間との関わりを一切断ち、家族ともほとんど顔を合わせることなく、寄贈された宴会のビデオを繰り返し見ながら酒を飲み続けるといった生活を続けた。
1992年没。
作品が積極的に単行本化されるようなタイプの漫画家ではなかったため、『まんが道』やトキワ荘関連の書籍で名前がよく出てくるのに、肝心の作品自体は殆ど読む手段がないという状態が続き、一時期は幻の作家のように扱われていた。
しかし、2000年代後半から『寺田ヒロオ全集』と銘打った復刻版が遂に出版され、現在では容易に作品が読めるようになっている。
代表作
- 『背番号0』
- 『スポーツマン金太郎』
藤子・F・不二雄(1954年10月30日 - 1961年10月)※
本名:藤本弘。詳細は該当項目を参照。通称「白い藤子」。
当初は先述のように藤子不二雄2人で手塚が住んでいた一室を借りていたが、後に藤本が別に一部屋を借りて移っている。
相方の安孫子とは対照的に社交的な性格ではなかったが、トキワ荘きっての理論派であり、「つのだじろう巻紙事件」(後述)の際は「無駄の効用」を説いて、つのだの説得に成功した。
後年トキワ荘のメンバーが青年漫画にシフトしていく中でも、最後まで児童漫画の第一人者として活躍を続けた。
1996年没。
代表作
藤子不二雄Ⓐ(1954年10月30日 - 1961年10月)※
本名:安孫子素雄。通称「黒い藤子」。
自伝的漫画『まんが道』で、仲間達と過ごしたトキワ荘での青春を描き、現在にまで至るトキワ荘のイメージを創り上げた。
相方の藤本とは対照的に社交的な性格で、トキワ荘での会合でも常に中心的な存在であった。
晩年まで漫画界の最長老として展覧会や講演会など精力的に活動していたが、2022年4月7日88才で死去。
代表作
- 『怪物くん』
- 『忍者ハットリくん』
- 『笑ゥせぇるすまん』など多数。
鈴木伸一(1955年9月2日 - 1956年6月1日)※
本名:同じ。漫画家としてのペンネームは「風田朗(かぜた・あきら、かぜたろう、ふうたろう)」*3。
デザイン会社に勤めながら漫画を描いていたが、アニメーターを志し、1年弱でトキワ荘を退居。その時期の森安なおやとの奇妙な同居生活(後述の森安の項参照)が有名である。
漫画家の横山隆一*4率いる「おとぎプロ」でアニメーターを務めた後、藤子コンビ、石森、赤塚、つのだらと共にアニメーション会社「スタジオ・ゼロ」を設立し、テレビアニメ制作を中心に活動。
藤子不二雄作品に登場する「ラーメン大好き小池さん*5」のモデルになったことでも有名。
本人曰く、ラーメン(及び麺類全般)は大好きだが、自分よりも藤本の方がラーメン好きだったということである。
2022年現在も数々のアニメ作品の制作・演出に精力的に関わり、新人育成の場でも活躍している。
代表作
- 『ぼくらマンガ家トキワ荘物語』(監督)
その他にもトキワ荘グループのアニメ作品(『おそ松くん』や『パーマン』など)を中心に、作画監督・監修を多数務めている。
森安なおや(1956年2月 - 1956年末)※
本名:森安直(ただし)。
叙情に溢れ、愛らしく繊細なタッチの作品を得意としていた。一方で、その作風とは真逆の自堕落で奇妙な人柄でも知られる。
元々は田河水泡*6の内弟子で、独立した後知人から寺田ヒロオを紹介される。
その後住み込みで働いていた牛乳屋を解雇され、後に鈴木と共にトキワ荘に入居。
「お金があったら、とりあえず食い物、それから遊び」という生活スタイルだったため金銭感覚が非常にだらしなく、同居していた鈴木と折半する約束だった家賃もほとんど払わないどころか、鈴木の蔵書や背広を勝手に売り払って自らの食費にあてるという、一歩間違えれば犯罪のようなこともやらかしていた。
また、出版社から前借りした金や寺田からの借金を踏み倒したり、貸本原稿の締切を全く守ろうとしなかったり、雑誌の執筆依頼を丸投げしたりという目に余る素行不良故にいよいよ編集者から見放され、逃げるようにしてトキワ荘から退去。寺田により新漫画党からも除名されてしまう。
しかし、トキワ荘時代の仲間からは「何故か憎めない」人物として何だかんだいって愛されていた。
藤子不二雄両氏が悪戯で振る舞った蝋細工のピーナッツを唯一美味いと言って食べたエピソードが有名である*7。
また、『まんが道』で『漫画少年』が廃刊と知った際に突如発した「キャバキャバ*8」という台詞も有名。
先述の『わが青春の「トキワ荘」 〜現代マンガ家立志伝〜』では、漫画家として再起を目指す姿が描かれ、実質的な主役であった。
しかし、放送を見た師匠の田川は、森安の没落ぶりに怒り破門を言い渡した。
このときは漫画家復帰はかなわなかったものの、1997年には、故郷岡山を舞台にした『烏城物語』が地元同級生有志の協力で出版され、岡山県の旭川沿いに記念碑が建てられている。
この記念碑の横には桜(通称:森安桜)が植えられており、同級生有志は年に一度は桜の下に集まり、森安の話題を肴に花見をやっているという。
1999年没。
代表作
- 『こけし地蔵さん』
- 『烏城物語』
石森章太郎(石ノ森章太郎)(1956年5月4日 - 1961年末)※
本名:小野寺章太郎。「漫画の王様」。仲間達や読者からは勘違いから「いしもり(氏)」と呼ばれていた*9。
トキワ荘グループの男性陣の中では最年少ではあったが、最も早く頭角を現し、赤塚などは自分の漫画を描くよりも、石森のアシスタントをする時間の方が多いほどであった。
また創作速度も極めて速く、藤子や後に石森のアシスタントを務めた永井豪などが口を揃えて制作の速さを証言している*10。
3歳年上の姉・由恵は、石森の漫画家活動に反対していた両親を説得し、トキワ荘でも同居して石森の創作活動を手助けしていた。トキワ荘グループのマドンナ的存在となっていたが、1958年4月に持病のぜんそくが悪化し急逝。
最大の理解者であった姉を失ったことは、後の石森の作風にも大きな影響をもたらしている。
1998年没。
代表作
赤塚不二夫(1956年5月4日 - 1961年10月)※
本名:赤塚藤雄。「ギャグ漫画の王様」。
石森が主宰する同人誌『墨汁一滴』に参加し、石森を手伝う形でトキワ荘に入居する。
入居当初は中々芽が出ず、石森のアシスタントや少女漫画で生計を立て、原稿料も前借して何とか続けるという自転車操業状態であった。
そのため自身の将来を悲観し、漫画家を廃業してキャバレーのボーイになろうと寺田に打ち明けたところ、説得やアドバイスを受けた上で5万円もの大金*11を渡され、再起を決意。
ちばてつやの穴埋めとして描いたギャグ漫画『ナマちゃん』*12がヒットし、一躍人気漫画家となる。
後年のイメージからは想像できないが、当時はトキワ荘一の美青年として認識されており、トキワ荘を描いた様々な作品で、シャイで穏やかな美青年ぶりが言及されている。「赤塚不二夫 イケメン」でググれば当時の写真も見ることができる。
晩年はアルコール依存症の闘病でも話題になっており、亡くなる前の数年間は脳内出血を併発して半ば植物人間のような状態になっていた。
酒に溺れた原因は、本人曰く「極度の恥ずかしがり屋であるため、酒なくして人と向き合う事が出来なかった」ことであるという。
2008年没。
代表作
- 『おそ松くん』
- 『ひみつのアッコちゃん』
- 『天才バカボン』など多数
よこたとくお(1958年 - 1961年)
本名:横田徳男。
元々、赤塚と共同生活をしており、鈴木の退去後の部屋に入居する。
初期の頃は少女漫画やギャグ漫画を主に描いていたが、後に石森が手掛けていた学習漫画『アスガード7』の作画を担当したことがきっかけで学習漫画を多く描くようになり、「学習漫画界の第一人者」として知られるようになる。
トキワ荘を赤塚と同時期に退去し、トキワ荘の近くにあるアパートに住む。ここでも隣室は赤塚であった。
トキワ荘跡に設けられた記念碑の落成式には、鈴木、後述の水野とともに招待されている。
2022年4月8日85才で死去。奇しくも安孫子が逝去した翌日のことだった。
代表作
- 『マーガレットちゃん』
- 『(学研の)ひみつシリーズ』
水野英子(1958年3月 - 1958年10月)
本名:同じ。
トキワ荘に居住した漫画家の紅一点。石森・赤塚と「U・マイア」のペンネームでを合作を発表しており、この合作のため既に石森と赤塚が住んでいたトキワ荘に入居することになった。
この入居は他のメンバーとは異なり、合作を発表していた『少女クラブ』(講談社)主導で行われており、敷金・礼金も講談社によって支払われていた。
そのため、赤塚に誘われて入居するはずだった高井研一郎*13が入居できなくなってしまった。
故郷の祖母を心配させまいと一旦帰郷。翌年の春に再び上京するが、既に部屋は埋まっていたため、トキワ荘の近所に下宿して通い組となり、交流を続けた。
女性少女漫画家の走りであり、水野の登場によって、ほとんどの少女漫画は女性によって描かれるようになっていった*14。
また、現在に続く戦後のロマン的少女漫画の基本形を確立した漫画家であり、その功績から「少女漫画界の手塚治虫」と評される。
西部劇映画と手塚の西部劇漫画の影響で、昭和30年代前半からジーンズを普段着として愛用しており、トキワ荘に入居した初日にジーンズをはいて男性漫画家達のところへ行くと、みな驚きのあまり絶句したという*15。
近年は当時の創作活動や日常生活の様子を正確に伝え残そうと、自身のトキワ荘入居から去るまでの間の出来事を綴った手記『トキワ荘日記』を2009年に自費出版したのを始め、関連イベントでの講演やトークショーを積極的に行っている。
代表作
- 『星のたてごと』
- 『白いトロイカ』
- 『ファイヤー!』など多数。
山内ジョージ(1960年9月 - 1962年3月)
本名:山内紀之。
石森と同郷(生まれ自体は満州)だった縁でトキワ荘に入り、石森・赤塚のアシスタントとして修業していた。
漫画家としては他のメンバーに比べてかなり地味なものの、トキワ荘に入居していた最後の漫画家とされる。
代表作
- 『目と耳で覚える漢字絵ずかん』
■関連人物
ここではトキワ荘に居住はしていないが、関わりのある漫画家を挙げる。
つのだじろう※
本名:角田次朗。実弟に歌手のつのだ☆ひろ*16とリュート奏者のつのだたかし、甥(たかしの息子)に「モノンクル」のベーシスト角田隆太がいる。
初期はコメディ、中期以降はオカルト・青年向け作品で知られている。実家が東京であるため、トキワ荘に入居はしていなかったが、毎日のようにスクーターで通っていた。
新漫画党に加入当初は、その会合が漫画に関係ない雑談ばかりであったため、「態度が不真面目」であると激怒し、毛筆で巻紙に抗議文を書いてトキワ荘を飛び出す(つのだじろう巻紙事件)。
その後、藤本から弁明の返書をもらったことでトキワ荘に戻り、彼らの漫画に対する情熱を知って改心。一転してトキワ荘の「道楽派」*17となり、積極的に遊ぶようになる。
それまで一切やらなかった酒、タバコを始め、遊びの道にのめり込むという変貌ぶりは、藤本曰く「クソ真面目から真面目がなくなってただのクソになった」。ひでぇ。*18
『まんが道』では表情も性格も生真面目な人物として描かれているが、続編の『愛…しりそめし頃に…』では表情が柔らかくなり陽気な性格で付き合いもよくなった。
2020年現在は目を悪くしたため、漫画家を引退し、講演会やインタビューを中心に活躍している。
代表作
- 『恐怖新聞』
- 『うしろの百太郎』
- 『5五の龍』など多数。
永田竹丸※
本名:永田竹丸(ながた みよまる*19)。
つのだ同様、トキワ荘の通い組。端正な画風とほのぼのとしたストーリーで、1950年代を中心に人気漫画家となった。
日本漫画界で初めてスクリーントーンを導入した人物としても知られる*20。
森安・山根兄弟と共に田河水泡の弟子にあたり、田河の『のらくろ』の漫画執筆権を譲り受けた正統継承者である。
後述のトキワ荘マンガミュージアム設立に際して、トキワ荘と関係の深い『漫画少年』93冊を豊島区に寄贈した。
2022年没。
代表作
- 『おにいちゃん』
- 『ビックルくん』
園山俊二※
本名:同じ。
トキワ荘の通い組。独特な雰囲気の作風と『がんばれゴンベ』などのヒットで名前を挙げた。
寺田曰く「田舎者の集まりという雰囲気だった新漫画党において一流大学(早稲田大学)出身の雰囲気を放っていたらしく、気圧された」と振り返っている。
晩年は肝臓の病気との闘病生活が続くも創作意欲は衰えず、亡くなる10日ほど前に安孫子が見舞った際にもほとんど意識がないにもかかわらず「漫画描きたいんだよう」と空中にゴンベかペエスケの絵を描いたという。
1993年没。
代表作
- 『がんばれゴンベ』
- 『ペエスケ』
- 『ギャートルズ』など多数。
坂本三郎※
本名:同じ。
寺田と共に新漫画党を立ち上げ、トキワ荘にも通っていた。
その画力がトキワ荘グループから注目を浴びており、リーダーの寺田からも「品が良い」「堅実で努力家」と評されていたが、編集者との軋轢をきっかけに漫画界を見切ってアニメーターに転身。
転身以降は日本サンライズ(後のサンライズ)のアニメの作画監督として活動を開始し、富野由悠季のアニメ作品にも参加して影響を与えた。
1996年没。
代表作(※作画監督として)
- 『勇者ライディーン』
- 『超電磁ロボ コン・バトラーV』
- 『伝説巨神イデオン』など多数。
長谷邦夫
本名:同じ。
赤塚のフジオ・プロで活動を続け、赤塚のゴーストライター的な活動も行っていた漫画家。『バカ式』*21などの混合パロディ漫画も有名。
赤塚や石森と関係が深かった影響から頻繁にトキワ荘へ出入りしており、トキワ荘グループが創立したアニメ企画会社スタジオ・ゼロにも参加した。
新漫画党には参加していない事やトキワ荘への居住経験はないがメンバーとの関係性は非常に強く、トキワ荘グループとして数えられることも多い。
晩年は漫画の執筆活動よりも講師としての人材育成や講演活動に舵を切っていた。
2018年没。
代表作
- 『バカ式』
- 『しびれのスカタン』(作画担当、原作:赤塚不二夫)
しのだひでお
本名:篠田英男。
トキワ荘の通い組。児童漫画雑誌で活躍し、藤子プロにも貢献した漫画家。
元々は手塚のアシスタントであり、その縁でトキワ荘に足を運んでいたことでトキワ荘グループと関係を持つ。
トキワ荘グループは基本的に手塚を慕っている人間の集まりであるため、アシスタントという立場からすぐにメンバーと意気投合。特に藤子不二雄コンビと仲を深めた。
2022年没。
代表作
- 『ちびっこ怪獣ヤダモン』
- 『ガンバルマン』
- 『ドラえもんの発明教室』など多数。
ちばてつや
本名:千葉徹彌。実弟に漫画家のちばあきお*22と漫画原作者の七三太朗*23がいる。
手塚漫画で育ち、手塚に憧れて漫画家になった者が殆どを占めるトキワ荘グループとは異なり、「手塚治虫から最も影響を受けていない漫画を描く人*24」との評もあるように、
元々トキワ荘グループとのつながりはなかったが、漫画家生命も危ぶまれるほどの大怪我を負った際に、連載していた『ママのバイオリン』を赤塚、石森をはじめとしたトキワ荘グループに代筆してもらったことをきっかけに、彼らとの交流が始まった*25。
このときの様子が赤塚の追悼漫画として2008年に発表された短編『トモガキ』に詳しく描かれている。
2020年現在も、日本漫画家協会会長を務めるかたわら、短編を中心に精力的に活動中。
代表作
- 『あしたのジョー』(作画担当、原作:高森朝雄)
- 『のたり松太郎』
- 『あした天気になあれ』など多数。
山根青鬼
本名:山根忠。
弟の山根赤鬼(本名:山根孝、2003年没)と共に児童漫画雑誌を中心に双子コンビとして活躍した漫画家。
永田と同じく師匠である田河水泡から『のらくろ』の執筆権を譲られたことで新作を提供し続けたことでも有名。
永田と縁が深かった関係でトキワ荘グループとも仲が良く、弟と一緒にトキワ荘への居住や新漫画党への参加を勧誘された。
しかし、マネージャーである父親が「トキワ荘の色に染められる」「青鬼と赤鬼の個性を出せ」と反対したことによって実現しなかった。
後に青鬼はトキワ荘に入りたかったと振り返っている一方、入居しなかったおかげで個性は活かせたとも考えている模様。
代表作
- 『名たんていカゲマン』
- 『飛べ!孫悟空』
- 『おやじバンザイ』など多数。
さいとう・たかを
本名:齊藤隆夫。
トキワ荘グループの多くの漫画家と同様、手塚に憧れて漫画家を志すが、「手塚漫画を真似ていたのでは手塚を越えられない」との思いから、辰巳ヨシヒロ*26や石川フミヤス*27らと共に、リアリティや過激さを追求した青年向け漫画として「劇画」のフォーマットを確立する。
その衝撃は凄まじく、手塚を始めとしたトキワ荘グループの漫画は一転して「古臭い子供騙し」と見なされてしまうほどであった。
手塚を筆頭に劇画ブームに苦しめられた漫画家は多く、寺田に至っては「劇画」を嫌うあまり、(面識がないにもかかわらず)説教の手紙をさいとうに送り付けたという。
しかしながら他のトキワ荘グループと反目していたわけではなく、安孫子を始めとしたメンバーとも交流があり、『愛…しりそめし頃に…』にも登場する。
結果的にトキワ荘グループを苦しめる立場になってしまったが、本人は「トキワ荘は天才ばかりが集まっていた」「ああいうところ(トキワ荘)で本当は劇画を描きたかった」などと近年のインタビューでも答えており、トキワ荘グループを好意的に捉えていたことが分かる。
余談だが、さいとうの家族は漫画が嫌い*28で、母親は彼がデビューした時はおろか、死に際の時も決して彼の漫画を読もうともせず、自身のプロダクションの代表取締役となった兄も自分の子供に「漫画など読むな」と説教する程であったという。
晩年は、『ゴルゴ13』『鬼平犯科帳』2作品に活躍の場を絞り、新作を送り出していた。
2021年没。
代表作
つげ義春
本名:柘植義春。
貸本雑誌でデビューした後、『ガロ』でブレイクを果たした漫画家。手掛ける作品・その人柄ともに“世捨て人”のようですらあり、独特の陰鬱な雰囲気は時代を超えて根強い人気を誇る。
当時トキワ荘に住んでいた手塚の元を訪れて原稿料などの説明を聞き、水木しげるのアシスタント等もやりつつ漫画家への道に進むことになる。
また、トキワ荘に入居する以前の赤塚と交流があった影響で引っ越した後の赤塚の元を訪問していた(本人の記憶によると2~3回)ようだが、つげは赤塚に対して二度と会わないと宣言、両者は絶縁状態になってしまう。
つげは赤塚以外のトキワ荘グループとも多少は面識があったが、メンバーの雰囲気や自身のコンプレックスゆえに馴染めず、これといった交流はなかった(石森には多少相手にしてもらえたらしい)。
本人曰く、過去の経験や態度から、彼らは貸本を軽視しているように見えた模様*29。
1987年を最後に漫画を執筆しておらず、2020年現在は漫画家としては実質的な引退状態にある。
代表作
- 『沼』
- 『チーコ』
- 『ねじ式』など多数。
棚下照生
本名:田中照生。
自身の手掛けた漫画を数多く実写化させてヒットに成功した漫画家。妻は有名女優である松山容子*30。
トキワ荘グループのリーダーである寺田を漫画家の道に誘っており、ある意味で間接的にトキワ荘に影響を与えたと言えなくもない。
寺田とは漫画の作風も人柄も正反対で、荒々しく豪胆な性格だったが、寺田とはとても仲が良く*31、トキワ荘では言えないような本音や苦悩を唯一相談できるような関係だったという。
棚下は寺田を介して他のトキワ荘グループの紹介を受けるが、彼らの第一印象を「ジャガイモ」「乾いたウンコ」などと内心で馬鹿にし*32、自分はトキワ荘に溶け込めないことを悟って仲間には加わらなかった。
寺田が漫画家を引退してトキワ荘のメンバーと会わなくなっても親密な関係は変わらなかったが、親友が精神的に疲弊して衰弱していくのを見るのはとても辛かったらしく*33、「寺田をあんなことにしたのはお前らトキワ荘の連中だろう!」と激昂していたと長谷が証言している*34。
2003年没。
代表作
- 『ヒマラヤ天兵』
- 『めくらのお市』
- 『ハンターお竜』など多数。
横山孝雄
本名:同じ。
「漫画少年」を通じて石森主催の「東日本漫画研究会」の一員となり、同じ会員であった赤塚・長谷・よこたとも交流を深める。
手塚にトキワ荘を案内されたうえで1泊するという経験をし、就職後も休日にはトキワ荘に足しげく通い続けた。
その後赤塚のアシスタント第一号となり、フジオ・プロの設立にも参加。
その傍らでアイヌ民族の存在と彼らが抱える問題を意識するようになり、アイヌ民族を題材にした作品をいくつか手掛けるようになる。
2019年没。
代表作
- 『旅立て荒野』
- 『ぼくは戦争を見た』
- 『少数民族の旅へ』など多数。
■トキワ荘マンガミュージアム
トキワ荘マンガミュージアムは、木造アパート「トキワ荘」を再現した博物館。
漫画やアニメ文化を次世代に継承し発信する拠点として、豊島区によって跡地近くの南長崎花咲公園内に設立された。
1階にはトキワ荘ゆかりの漫画家の作品を自由に読めるラウンジがあり、警視庁五方面記者クラブから寄贈を受けた「トキワ荘の天井板」*35の他、ジオラマ作家山本高樹作のジオラマが展示されている。
2階には各々の漫画家の部屋や共同の炊事場、トイレなどが忠実に再現され、当時の様子を体験できるフロアとなっている。
先述のように、永田から寄贈された『漫画少年』も、開館記念企画展として2020年7月7日から9月30日まで展示されている。
外観や間取りの記録は当初ほとんどなかったが、トキワ荘解体を伝えた週刊誌の屋根を取り外した工事を撮った写真入り記事が見つかったことや、トキワ荘向かいにあった長屋の住人からトキワ荘の看板写真が寄せられたりしたことで、細部の再現が実現した。
2022年現在、新型コロナウイルス感染拡大防止の為、入館は予約制となっているので注意。
■トキワ荘を題材にした作品
トキワ荘グループがすでに大御所になっていた1970年代から2020年代まで途切れることなく、多数の書籍や映像作品が発表されている。ここでは代表的なものを挙げる。
- 『トキワ荘物語』
『COM』1969年10月号-1970年9月号に掲載された連作。
水野、寺田、藤子*36、森安、鈴木、永田、よこた、赤塚、つのだ、石森、手塚(掲載順)によってトキワ荘の思い出が描かれている。
単行本版では長谷邦夫と赤塚・長谷の漫画仲間で当時フジオ・プロのスタッフだった横山孝雄(本作の監修者でもある)の作品が追加されている*37。
- 『まんが道』
藤子不二雄Ⓐ原作。1977年から1982年まで『週刊少年キング』に連載された。現在にまで至る「トキワ荘」のイメージを創り上げた作品。
主人公の満賀道雄(まが みちお、作者藤子不二雄Ⓐ自身がモデル)が、才野茂(さいの しげる、藤子・F・不二雄がモデル)と出会い、漫画を通して意気投合し、同人誌を出したり漫画雑誌に合作を投稿したり時には恋愛に気を取られながら、プロ漫画家としてデビューし、「満才茂道(まさい しげみち、藤子不二雄がモデル)」として活躍するまでを描く。中盤以降は、トキワ荘が主な舞台となる。
完全な自伝漫画ではなく*38、藤子とあまり交流がなかった水野が登場しなかったり、両親の上京などもオミットされておりトキワ荘を出てからのエピソードがトキワ荘時代のものとして書かれていたりする。
1986年と1987年にNHK銀河テレビ小説でドラマ化されており、石森役で石森の息子である小野寺丈が出演している。
また、主人公2人を励ます酔っ払い役として原作者の藤子不二雄Ⓐが出演したことでも話題となった。
続編に『まんが道 第二部 春雷編』(藤子不二雄ランド掲載)、『愛…しりそめし頃に…』(ビッグコミックオリジナル増刊号掲載)がある。
- 『時は…』
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の秋本治原作。『ジャンプスクエア』2008年2月号に掲載された読み切り作品。
新宿の高層ビルにスタジオを構える昭和漫画マニアの売れっ子漫画家・天野翔(25)は、原稿を取りに来た担当編集の“ハゲ山”こと影山建次(27)を招いて昭和漫画談義に花を咲かせていた。
その後、豊島区椎名町の常盤社*39に向かう途中に乗った都バスの中で寝てしまった2人が目を覚ますと、そこは1956年7月の豊島区椎名町であった。
好奇心旺盛な天野と、タイムスリップした事実を受け入れることができないハゲ山は伝説のトキワ荘へと向かうが…。
- 『ぼくらマンガ家 トキワ荘物語』
1981年にフジテレビ系列の『日生ファミリースペシャル』で放送された単発テレビアニメ。鈴木伸一監督。
トキワ荘に住む漫画家達の青春群像を描いた作品。石森、藤子コンビ、赤塚の4名を中心に描かれている。
各漫画家の生み出したキャラクターが、狂言回し役や街の人役として出演するというお遊びもある。
本作は長期に渡ってソフト化されず、幻の作品となっていたが、2008年に発売された「石ノ森章太郎 生誕70周年 DVD-BOX」のボーナスディスクに収録され、四半世紀振りに日の目を見た。
- 『わが青春の「トキワ荘」 〜現代マンガ家立志伝〜』
1981年に『NHK特集』*40内で放送されたドキュメンタリー番組。ナレーションは藤子不二雄Ⓐ。1989年にVHSも発売されている。
既に大御所となっていたトキワ荘グループの漫画家達が取り壊し寸前のトキワ荘に集まり、同荘会を開く。
功成り名遂げた大御所達の思い出を振り返りながらそれぞれの近況を紹介する部分と、先述の森安や新人漫画家の苦労を通じて漫画家として成功することの難しさを見せる2層構造のドキュメントである。
手塚賞受賞の新人漫画家として、後に『ジョジョの奇妙な冒険』を執筆する荒木飛呂彦(当時20歳)*41が登場するのも見どころ。
- 『トキワ荘の青春』
1996年公開の日本映画。市川準監督。
主人公は本木雅弘演じる寺田ヒロオ。後に漫画の筆を折った寺田や、途中でトキワ荘を去った森安、そしてなかなか売れずに苦悩の日々を過ごした赤塚らの運命を反映し、盛り上がりを抑えた物静かなトーンの作品。
トキワ荘に集まった若き漫画家達は、寺田ヒロオをリーダーに新漫画党を結成する。
だが、早々と売れっ子となった石森・藤子らと、中々芽が出ない赤塚・森安等、個々での差から若者達の明暗は分かれる。
そして寺田も自身が理想とする「子供たちに理想を教える漫画」と、雑誌編集者が要求する商業主義との間で、深く思い悩んでいく。
■漫画少年
漫画は子供の心を明るくする
漫画は子供の心を楽しくする
だから子供は何より漫画が好きだ
「漫画少年」は、子供の心を明るく楽しくする本である
「漫画少年」には、子供の心を清く正しくそだてる小説と讀物がある
どれもこれも傑作ばかり
日本の子供たちよ「漫画少年」を讀んで清く明るく正しく伸びよ!!
―「漫画少年」創刊のことば(加藤謙一)―
『漫画少年』は、昭和22年12月から昭和30年10月にかけて学童社から月刊で発行されていた日本の漫画雑誌。
昭和23年1月号から昭和30年10月号まで増刊号を含め、計101号が刊行された。
創刊時の編集長は、学童社を設立した加藤謙一*42自らが務めていた。その後は加藤謙一の次男である加藤宏泰などが務めた。
冒頭に記された「創刊のことば」通り、明るく楽しい児童漫画ばかりを掲載し、戦後の貧しい時代の読者に夢と元気を与えた。
創刊3号目から漫画の投稿コーナーを設けて入選した作品を掲載。
後に手塚治虫や寺田ヒロオが投稿作品を講評するようになり、漫画界への登竜門的存在となり、プロの漫画家を夢見る若者が多く投稿を寄せた。
同コーナーにはトキワ荘グループのほとんどが投稿・採用されており、それ以外にも後に著名となる漫画家が多数投稿していたことで知られている。
同コーナーは選外佳作でも投稿者の名前が掲載されるシステムを取っていたことから、アマチュア同士で横のつながりも出来たのが特徴であり、石森が代表を務める東日本漫画研究会*43などが結成された。
新漫画党は『漫画少年』に合作を多数発表しており、『まんが道』にもその様子が度々描かれている。
漫画家を夢見る少年少女達には絶大な支持を受けていたものの、資本力の差から大手出版社のように別冊付録*44などを付けることができず、売り上げが低迷。惜しまれつつ廃刊となってしまう。
『漫画少年』に掲載された『バット君』に憧れて漫画家になった寺田は、『漫画少年』を理想としていたため、先述の通り過激化していく少年漫画を受け入れることができず、漫画家を廃業した。
戦後の混乱期に発行された雑誌であったため、国立国会図書館にも3冊しか納められていない。
そのため、記録が散逸消滅するのを防ぐ目的で、寺田は『漫画少年』掲載の代表作品および投稿作品の一部復刻、漫画家など関係者らの寄稿文、全号の総目次を載せた書籍『『漫画少年』史』を出版した。
あとがきでは、寺田は『漫画少年』を「戦後最高の児童文化財」と記している。
後の1976年に創刊された朝日ソノラマ社の『マンガ少年』の誌名は『漫画少年』へのオマージュである。
掲載作品の例
■余談
- 近所に「松葉」という中華料理店があり、ラーメンの出前を取るなど住人が頻繁に利用しており、『まんが道』にも登場する。
この店のラーメンは、藤子不二雄の作品に登場する「小池さん」の設定に影響したとされる。松葉は2022年現在も営業を続けている。
- 若い漫画家達が夢とペンだけをもって入居したという「伝説」や『まんが道』でのイメージからボロアパートのイメージが強いが、漫画家達が入居した当時はほぼ新築であり、
1955年当時で家賃3000円、敷金3万円、礼金3000円と、1955年当時の平均民営家賃2000円*48、大卒初任給1万1000円*49と比べても、当時は平均以上のアパートであったと考えられる。
現代の観点からすれば安アパートの特徴である、風呂なし、共同トイレ、共同炊事場も、当時はごく一般的であった。
- トキワ荘は解体された1982年の12月に新築され、風呂・トイレ付きのアパートになり、赤塚作の看板が掲げられていた。しかし、バブル景気の最中に地上げに巻き込まれて更地化した。
現在は日本加除出版という出版社の新館社屋となっており、建物の敷地外にトキワ荘が建っていたことを示す記念碑が建てられている。
- 『仮面ライダージオウ』の主人公・常磐ソウゴの名前の由来は、このトキワ荘+(20年の)総合……と放送開始時に言われていたが、同作でチーフプロデューサーを務めた白倉伸一郎Pへのインタビューによると、特に意識したものではなかったという(ただし、「これからそういう由来にする」と語ってもいたが)。
- シンガーソングライター・森田童子の活動後期の楽曲「球根栽培の唄*50」(アルバム「狼少年」に収録)には、「ときわ荘にて録音」との注釈が添えられている。
この「ときわ荘」というのは本項で説明されているトキワ荘の事なのか明言はされていないため、永らくファンの間で謎として語り継がれている。
- 『ケロロ軍曹』の第8巻で、トキワ荘をモチーフにしたエピソード*51がある。そこではつのだらしき人物*52が憤慨してアパートから出ていったり、住人である漫画家達がケロロ軍曹達に蝋細工のピーナッツや焼酎とコーラを組み合わせた「チューラ」なる飲み物*53を振る舞って楽しむ一方、夜には真剣に漫画に取り組むシーンが描かれている。(そしてその際、手塚らしき人物が外から彼らの姿を見て、負けてられないと奮起する。)
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▷ コメント欄
- 原点 -- 名無しさん (2020-08-24 23:14:36)
- 当時の集合写真で驚くのは赤塚先生の美形ぶりと今とほとんど変わらない藤子不二雄A先生 -- 名無しさん (2020-08-24 23:36:11)
- ケロロにトキワ荘がモデルの話があったよね -- 名無しさん (2020-08-25 04:28:03)
- 寺田さんは、老害になり果ててるのは哀れだな -- 名無しさん (2020-08-25 05:03:42)
- 理想を持ちすぎてたんだろうな。『愛…しりそめし頃に…』の特集でも「少年マンガとはこうあるべきという思想に厳格で、変わりゆく業界に失望した」とあるし。理想家ってのはちょっとした変化でも耐えきれずボキリと折れちゃうもんだからな。今の漫画業界を見てどう思うんだろう? -- 名無しさん (2020-08-25 06:34:46)
- 寺田ヒロオ氏は時代に適応できなかったのは確かだが、哀れむには偉大過ぎるし心配してくれる友人や家族は築けてるんだしマシな方だと思う -- 名無しさん (2020-08-25 06:40:39)
- まんが道ではコミカルで良い人そうに描かれていた森安氏が結構なクズでショックだわ。あの漫画がノンフィクションでないことは知ってるけど -- 名無しさん (2020-08-25 07:25:05)
- ↑2でも劇画大嫌いでさいとうたかをに「劇画なんて書くな」って余計なお世話にも程がある手紙出したり、編集長に劇画全部打ち切れなんて直訴したり晩年はやっぱりどこか歪んでたんだと思う。自分の理想に固執するあまり変化する業界を悪と決めつけてしまったんじゃなかろうか -- 名無しさん (2020-08-25 08:32:46)
- まあアレだ、作家も俳優も創作物や演技だけ見て本人の人となりなんて知らんほうが幸せなのだ。 -- 名無しさん (2020-08-25 19:18:51)
- 当時目線でもそんなに貧相なアパートじゃなかったって事実に驚き。 -- 名無しさん (2020-08-25 19:30:11)
- 個人的にはちょっと神聖視されすぎてるかなあって気がする。 -- 名無しさん (2020-08-25 23:47:20)
- 名物料理はキャベツ炒めかな。取り壊す前の同窓会だったかなんかで食ってたのをテレビで見たような。仕事が少ない時はキャベツ炒めで食いつないでたらしい。 -- 名無しさん (2020-08-26 06:39:47)
- トキワ荘ほど知名度はないけど少女マンガ会の方でも「大泉サロン」というのがある -- 名無しさん (2020-08-26 07:14:08)
- ↑×5でも「残念な偉人伝シリーズ」「しくじり先生」等公式公認で偉人をいじり倒すどころか、自ら率先して痛過ぎる過去の舞台裏を話す作家・監督・スタッフ・キャストも一定数いるわけで…。 -- 名無しさん (2020-08-26 21:56:39)
- ↑10 石ノ森さんも漫画の選考委員になった時「今の求められる漫画はこれで、僕らの時とは違ってしまった」と言ってたことあるし、皆さん基礎を気付いた人達だけに理想は高かった分思うとことはあるのだろうね。 -- 名無しさん (2020-08-27 06:57:52)
- 潔癖過ぎた寺田氏はデスゲームとモンスターパニック、アホすぎる内容の異世界転生とか激増した今の漫画の現状を見た時どう思うのだろうか -- 名無しさん (2020-08-28 02:31:21)
- ↑時代のニーズにこたえられないのは所詮それまでよ。マイペースに孤高貫くことができてる人も多いけど、それもなかったんだから。 -- 名無しさん (2020-08-28 09:13:28)
- ↑確かにここに載ってる先生で名を残した人は時代のニーズに合わせて作風を変えることができた人だもんね。だからこそ少年漫画のトップであり続けたF先生のすごさが際立つんだけど。 -- 名無しさん (2020-08-28 10:42:01)
- ↑5あまりに聖人化されるとイメージを守ろうとして苦労するし後続が比較で卑下される恐れがあるからアレな面を明かすのも悪いことじゃない。特に今は「とにかく体面保つ」より「ありのまま生きる」のが良しとされてるし -- 名無しさん (2020-08-29 08:20:32)
- 寺田氏は後の漫画界の超大御所達を世に送り出したという功績が無かったら、ただの時代に取り残された老害だったな -- 名無しさん (2020-08-29 08:59:21)
- ↑6「昔はよかった、俺たちの若い頃は漫画は高尚だった、今の若い奴らはウンタララ」としか読めんなぁ -- 名無しさん (2020-08-29 09:22:11)
- 若い頃の激務と不摂生もあってか早死にしてる人が多いけど、その中で我孫子先生が長生きしてるのはお寺の息子ゆえに精進料理だけを食べてきたこともあるんだろうか。 -- 名無しさん (2020-08-29 23:47:35)
- と言ってもトキワ壮関係者全員死んでるわけじゃなくて今も活躍してる人も多いからな。結局運と体質と自己管理の問題だろう -- 名無しさん (2020-08-30 00:16:19)
- 精進料理は「健康的」というよりも「なるべく生き物を殺さない」ことに重きを置いた料理だからね。動物性食品を殆ど用いず、天ぷらのような揚げ物が多いので意外とそこまで健康的な食べ物ってわけでもない。 -- 名無しさん (2020-08-30 00:34:55)
- ↑2自己管理に関しては、水木しげる先生ややなせたかし先生も「手塚や石ノ森は徹夜ばかりしていたから早死にした」と言ってたしなぁ。 -- 名無しさん (2020-08-30 11:15:17)
- ↑水木サンは生命力強い人ではあったんだが、やっぱ練る時寝てちゃんと食べて…ってのは大事よな。寝る間も惜しんで食べ物も適当につまんでじゃ負担もかかる。 -- 名無しさん (2020-08-30 11:36:47)
- 棚下照生は生き方も性格も無頼漢すぎてトキワ荘の人々に関係なく仲良くできる人の方が少ないだろう -- 名無しさん (2020-08-30 13:16:24)
- ↑8 -- 名無しさん (2020-08-31 11:09:40)
- ↑すまん切れた。逆じゃないか?今はネットが発達したからか誰が何をしたみたいな情報はすぐ出回るし、ちょっとしたことでもすぐ叩かれるし。少なくともお騒がせ人物とか毒たっぷりな人物は今そんなにウケないんじゃない? -- 名無しさん (2020-08-31 11:18:01)
- さいとう・たかを氏やちばてつや氏といった漫画家たちによる「イージー会」というゴルフのサークル(?)があるみたいだけど、初期のメンバーには石ノ森章太郎氏、つのだじろう氏、藤子・F・不二雄氏といったトキワ荘の居住者や関係者もいたとか -- 名無しさん (2020-09-07 15:56:48)
- ↑(続き)イージー会の発足のきっかけはさいとう・たかを氏曰く「手塚先生が亡くなられた時に、我々も運動せなあかんでとなって。ゴルフしようかってなって」とのこと(北斗の拳 イチゴ味5巻の単行本に掲載されたインタビューより) -- 名無しさん (2020-09-07 15:58:05)
- 神聖視されてるけど、1950年代に漫画っていう当時白い目で見られてたもので生計を立てていこうって集団が住んでいたと考えると、かなり異様な建物だったんじゃないだろうか -- 名無しさん (2020-09-23 22:20:39)
- ↑むしろ当時世間から白い目で見られていた漫画の地位を確立させた功績と、白い目に加え実力と成果主義の厳しい世界を支えあって生きた漫画家たちの絆が現在の神聖視に繋がってるんじゃないか? -- 名無しさん (2020-09-28 11:14:06)
- ↑引退時の言動もあって寺田先生について悪く書かれることもありますが、当時はブラック業種だった漫画を擁護するために仕方がなかったという説もありますね。逸話を聞いてても、若気の至りがあるにせよ、性格が破綻していた作家も多いですし先生なりに危機感を抱いていたのかも。 -- 名無しさん (2020-10-26 11:18:39)
- 寺さんは力のない正義はただの寝言だというのをこれ以上ないぐらい体現してるのが悲しい。それでも作品を描き続けていればF先生のようになれたのだろうか。 -- 名無しさん (2021-08-26 18:28:40)
- ↑本人の資質を考えても、学習漫画や絵本作家に転向した方がよかったと思います。じっさい同時代の漫画家でも転向して成功した作家はいます。ただ意識が高い人(「意識高い系」ではなく)だったから潔しとしなかったんだろうな・・・。 -- 名無しさん (2021-12-15 10:07:10)
- 自分が描く漫画だけじゃなくて時代の過激化自体が嫌だったんだろうね。 -- 名無しさん (2022-10-27 20:52:07)
- まあでも、ニーズに応える才能だとか時代への適応力だとか、後から言えることは幾らでもあるんだろうけど、「俺たちがまだ若かった頃あんなに世話を焼いてくれたとってもいい人だったのに、なんでこんな終わりを迎えちゃったんだ」って、そりゃ当事者なら誰だって哀しくて忘れられないに決まってるだろう。 -- 名無しさん (2022-12-24 23:45:06)
#comment
*2 『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』などで知られる。
*3 本人曰く「読み方は何でもいい」らしい。グループ内では「風(ふう)ちゃん」と呼ばれていた。
*4 『フクちゃん』などで知られる。2001年没。
*5 本来は「小池さん」ではなく、「小池さん家に下宿している鈴木さん」という設定だった。当時、鈴木は小池家に実際に下宿しており、それが作中で忠実に再現された結果、表札に「小池」と書かれ、苗字が小池だと誤解されたまま定着した。
*6 『のらくろ』で知られる。戦前の内弟子に『サザエさん』や『いじわるばあさん』などで知られる長谷川町子がいた。1989年没。
*7 ただし、本人も本当に美味いとは思っておらず、周囲を驚かせようとしたためとのことである。
*8 本来はトキワ荘の仲間内で流行った造語で「やれやれ」「どうにもならない」という意味。
*9 本人は改名前から「いしのもり」(出生地に由来する)のつもりだった。
*10 『サイボーグ009』の作中でも「(赤塚と2人で)月650枚描いていた」と述べている。
*11 当時の国家公務員初任給ですら9200円程度。
*12 当初は読み切りの予定であったが、雑誌掲載時に赤塚に無断で連載となっていた。
*13 『総務部総務課山口六平太』などで知られる。2016年没。
*14 1950年代~1960年代初頭までは、少女漫画の多くは男性漫画家によって描かれていた。
*15 当時は一般の日本人にとってジーンズは労働者の作業着というイメージしかなく、女性がファッションとしてはくことなど想像もできなかった。
*16 『メリー・ジェーン』で知られる。
*17 他には安孫子、石森、赤塚、園山。「真面目派」が寺田、藤本、鈴木、坂本。
*18 もっとも、つのだ本人はこの評をとても気に入り、様々な場所で引用していたという。
*19 漫画家としての読みは「ながた たけまる」。
*20 元々は新聞紙や建築図に使われていた。
*21 『天才バカボン』と『ねじ式』のパロディ。
*22 『キャプテン』や『プレイボール』などで知られる。1984年没。
*23 『4P田中くん』や『Dreams』などで知られる。
*24 母親が大の漫画嫌いであったため、実家で漫画を読むことができず、手塚を知ったのもデビューした後であった。
*25 怪我の原因は「電気あんま」を担当編集者に仕掛けたら蹴り飛ばされて窓ガラスに突っ込んだというあんまりなものであり、40年間秘密にされていた。
*26 『劇画漂流』などで知られ、兄桜井昌一が水木しげると縁があった事でも知られる。2015年没。
*27 さいとうのチーフアシスタントを長年務めていた。2014年没。
*28 理由の一つは父親が様々な芸術関係の仕事に携わっていたがどれも上手くいかなかった挙句、家族を捨てて出奔したため。もう一つはさいとうが漫画に専念するため家業の理髪店を辞めたため。
*29 つげはトキワ荘入居以前の赤塚と交流をしていた際、赤塚から長谷邦夫を紹介されたことや石森が仙台から上京するとの噂を聞き、若木書房に彼らを紹介しようとしたが断られた経験から赤塚達が貸本を軽視していると感じたとのエピソードを語っている。
*30 ボンカレーの初代パッケージモデルなどで知られる。
*31 その理由は、お互いがお互いとも「自分には無いものを持っている」ということで深いリスペクトを持っていたからだと言われている。
*32 ジャガイモ→石森、ヘチマとナスビ→藤子不二雄、握り飯→赤塚。「カボチャ」「ガンモドキ」「乾いたウンコ」「お玉杓子」「消防ポンプ」は誰を指していたのかは不明。
*33 寺田は晩年には頻繁に棚下に電話をかけて泣きながら「会いたい」「(今すぐ行くとの棚下の返答に対して)会いたいけど来ないでくれ」と言い出す行動を取っていた模様。
*34 長谷がトキワ荘の主要メンバーでないことや棚下の死後に明かされた話であることからこのエピソードの信憑性を疑問視する意見も一部ではある。一説では、長谷ではなく赤塚に向かって語った話ではないのかという邪推も存在する。
*35 トキワ荘解体の際、手塚がかつて住んでいた2階14号室の天井板に『リボンの騎士』のサファイアの絵と自画像を描いたもの。警視庁記者クラブに寄贈され、保存されていた。
*36 安孫子単独の作品であり、祥伝社の再版では藤子不二雄Ⓐ名義になっている。
*37 現在入手できる祥伝社版では、横山の作品は未掲載。
*38 作者曰く「実話7割、フィクション3割」。
*39 天野が連載している漫画雑誌の出版社。
*40 現在の『NHKスペシャル』。
*41 準入選。当時は本名の荒木利之。
*42 戦前『少年倶楽部』の名編集長と謳われながらも、戦後の公職追放で講談社を退社。追放解除後は講談社に顧問として復帰。
*43 他に赤塚、長谷など
*44 昭和20~30年代初頭の少年・少女誌には単行本形式の別冊付録が3~5冊付いていた。
*45 未完。現在普通に刊行されている「黎明編」は、後の時代に虫プロ商事の『COM』で連載された作品であり、ストーリー展開が異なる。
*46 日本初の野球漫画であり、少年の日常を描いた作品としても日本初とされている。作者である井上の急逝により未完。
*47 石森のデビュー作。
*48 総務省統計局の「小売物価統計調査」による。
*49 国税庁の「民間給与実態統計調査」による。
*50 球根栽培とは爆弾製造の暗喩であり、かつて「球根栽培法」というアングラ本が実在した。過激化していく学生運動に身を投じる若者の思い出を題材にした曲。
*51 第六拾六話「潜入! 漫画家的秘密強奪大作戦!!…の巻」。
*52 ケロロ軍曹からは「ギロロみたいな人」と言われた。
*53 実際はコーラではなく、サイダーを組み合わせた「チューダー」という飲み物で、当時のトキワ荘グループ内でよく飲まれていた。
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