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サディスティック・ミカ・バンド(Sadistic Mika Band)は、1972年にデビューした日本のロックバンド。
バンド名の由来は、ジョン・レノンが結成していたプラスティック・オノ・バンドをもじったと言われている。また、ミカの包丁使いがあまりにサディステックだったことに由来するとも。
結成当初は、元ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦(ギター、ボーカル)、加藤ミカ(ボーカル)、角田ひろ(ドラムス。現:つのだ☆ひろ)がメンバーだったが、これに高中正義(リードギター)を加えて、1972年にシングル「サイクリングブギ」でデビュー。その後、小原礼(ベース)が参加し、ほぼ同時期に角田ひろが脱退。高橋幸宏(ドラムス)が参加をしてファースト・アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』を1973年に発表した。このアルバムは発売当初は数千枚しか売れなかったが、イギリス特にロンドンで評判となり、結果的に「逆輸入」という形で日本でも評価されるようになった。クリス・トーマスがセカンド・アルバムの『黒船』をプロデュースしたいと言い出したのも、このファーストアルバムを聞いてのことだった。
ファースト・アルバムにサポート的に参加していた今井裕(キーボード、サックス)は、次作の『黒船』から正式メンバーになる。(ちなみに小田和正もファースト・アルバムでサポート・メンバーとしてピアノを弾いていた。)第2弾アルバム(のちに『黒船』となる)の制作にとりかかっていた頃、ビートルズやピンク・フロイドを手がけて有名になっていたイギリスの音楽プロデューサー、クリス・トーマスから「プロデュースさせてください」とのオファーを受け、彼をプロデューサーとして起用してセカンドアルバム『黒船』を録音、レコーディングには450時間が費やされた。日本だけなく英米でも発売されたこのアルバムは、現在でも再版されており、名盤と呼ばれている。
その後、小原礼が脱退し、後藤次利がベースとして参加。サードアルバム「ホット!メニュー」をリリース後、1975年には、ロキシーミュージックのオープニング・アクトをつとめイギリスツアーを成功させた(ロキシーの時間も大幅に食ってしまったとのこと)。当時、高中は弱冠22歳、リーダーの加藤でさえ28歳だった。沸きに沸くそのステージの模様は、ライブ盤「ライブ・イン・ロンドン」で聴くことができる。特にラストの「塀までひとっとび」(「黒船」に収録、英語タイトルは「Suki, Suki, Suki」)は名演である。
「塀までひとっとび」は1989年及び2007年の再結成ライブの際にも終盤に演奏され観客を沸かせた。その模様はライブ盤「晴天」(1989年)、「Live in Tokyo」(2007年)で聴くことができる。その後、加藤和彦・ミカの離婚により、1975年11月にサディスティック・ミカ・バンドは解散した。
(期数・メンバー名については1987年に発売された「20 SONGS TO21ST CENTURY」の小倉エージ氏の解説を元に、「ミカのチャンスミーティング」(1988年版/JICC刊)などにより補足)
(※後藤は正式メンバーではなく、サポート扱いだった)
初代女性ヴォーカルの加藤ミカ(福井ミカ)は「調子外れの歌」「ただギャーギャー言っているだけ」と他のメンバーに比べて過小評価されがちであるが、以降のニューウェーブのボーカリストへの影響は大きく、また、1994年に発表された彼女のセルフプロデュース(全曲自身による作詞作曲)アルバム『ジャラン ジャラン』のサウンドは限りなくミカバンドに近く、彼女のミカバンドにおける存在は小さなものではなかったとの説が台頭しつつある。松任谷由実も加藤ミカを尊敬しているという。
デヴィッド・ボウイの1980年製作アルバム「Scary Monsters」の1曲目「It's No Game,Pt.1」で日本人女性のナレーションをミカに依頼したが断られたという経過もある。
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