「西南夷」を含むwiki一覧 - 1ページ

張嶷_(蜀漢) - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、蜀漢の部将の張嶷について記述しています。西魏の河陽郡太守については「張嶷」をご覧ください。南中(西南夷)の異民族に慕われた張嶷の石像張嶷(ちょうぎ/ちょうぎょく、193年? - 254年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。字は伯岐。または張擬/張疑

孟獲 - 日本通信百科事典

南中(西南夷)の英雄の孟獲像孟獲(もうかく、生没年不詳)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の御史中丞、かつては西南夷(南中)の豪族連合の盟主だった[1]。字は不詳。李恢の昔なじみという。父は漢族で現地の豪族の孟節[2]と言い、母は古代タイ系の酋長との娘とされ、妻は金環[3]。族弟

諸葛亮 - 日本通信百科事典

年、李恢・馬忠をそれぞれ5千人を率いさせて、自らも馬謖[27]と同伴させて、1万5千人を率いて、呼応した永昌郡の主簿の呂凱、王伉らとともに、西南夷で反乱を起こした雍闓[28]・高定元・朱褒[29]らを滅ぼし、有名な「七縦七擒」で盟主の孟獲を降した[30][31] 。227年、『出

劉禅 - 日本通信百科事典

状態です。至急に陳曶と鄭綽に命じて黄元を討伐すべきです」と述べた。ただ劉禅らは「もし、黄元が成都を中心とする蜀郡を占領できなかったら、逃れて西南夷の越嶲郡を本拠地にして現地の勢力者の雍闓[15]らと結束する恐れがあるかもしれない」と言った。これに対して楊洪は「黄元は凶暴な人物であ

李恢_(蜀漢) - 日本通信百科事典

たのだ」といって、李恢を庲降都督・使持節に任命して、犍為郡平夷県を郡都とした[4]。223年、益州属国太守・正昻が土豪・雍闓[5]に唆された西南夷(南中)の豪族らによって殺害されると、丞相・諸葛亮は張裔を後任として赴任させた。だが、雍闓は交州刺史または交阯郡太守・士燮(士爕)を通

滇とはなんですか? - クイズwiki

A. 滇とは、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%87

蜀 - 日本通信百科事典

(白起)の末裔という。↑ 蜀地方の主都である「成都」の由来はここから来ている。↑ 225年に諸葛亮が益州南部の盟主である孟獲を降すと、南中=西南夷と呼ばれた益州南部は「寧州」として分割された。↑ 現在の四川省成都市双流県↑ 五代十国時代の「前蜀」と区別される。↑ 漢化した突厥沙陀

益州属国 - 日本通信百科事典

昆沢県・同瀬県・同労県・双柏県・連然県・弄棟県・秦臧県で構成された17県を管轄した[3]。225年(建興3年)に、三国時代の蜀漢の諸葛亮が、西南夷遠征を鎮定したあとに益州属国を建寧郡と興古郡として分割させた[4]。父の文帝の代に蜀漢を併呑させた西晋の武帝は、270年(泰始6年)に

雍ガイ - 日本通信百科事典

、2万5千人の軍勢を動員して、まず李恢と馬忠にそれぞれ5千人を率いさせて先鋒させた。やがて諸葛亮自身も李厳と馬謖を伴って、1万5千人を率いて西南夷に遠征した。呉の後盾を失った雍闓は、高定元と仲違いして、密かに諸葛亮と昔なじみの李恢と通じた孟獲の『離間の策』もあって、高定元の部将で

トウ艾(三国志) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

ぐう逆とかいう突然出現するパワーワード -- 名無しさん (2017-04-26 16:16:31) 蜀滅亡直後はそのゴタゴタに乗じた西南夷や旧蜀臣の反乱、呉によるハイエナが予想される状況だったわけで悠長に中央政府に指示を仰いで待ってる余裕があったかは微妙な所じゃないかな・

南蛮(三国志) - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

えの -- 名無しさん (2015-03-31 09:24:09) 高句麗もそうだな。西戎は羌や氐がそうだ。そして演義の南蛮のモチーフは西南夷。 -- 名無しさん (2015-03-31 12:02:12) ↑7 どこもそうだが文化圏の違いで漢民族から蛮族扱いされてるだけ

呂凱 - 日本通信百科事典

: 字は季平。蜀漢(蜀)の部将。秦の呂不韋の後裔といわれ[1]、呂祥の父。永昌郡不韋県[2]の人。諸葛亮によって雲南郡太守となったが、後に西南夷の蛮族に殺害された。呂凱 (呉) : 呉の部将の呂岱の子。江陵郡海陵県[3]の人。父の爵位である都郷侯を世襲した。脚注[]↑ 『蜀書』

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