「寛正」を含むwiki一覧 - 1ページ

歴代天皇の一覧 - いにしえwiki

1412 応永, 正長 102 後花園 ごはなぞの 1428 正長, 永享, 嘉吉, 文安, 宝徳, 享徳, 康正, 長禄, 寛正 103 後土御門 ごつちみかど 1464 寛正, 文正, 応仁, 文明, 長享, 延徳, 明応 104 後柏原 ごかし

続群書類従(公事部) - いにしえwiki

二年殿上燕酔記公事部 260 妙音院相国白馬節会次第公事部 261 慈眼院関白白馬節会次第公事部 261 公宣卿白馬節会次第公事部 261 寛正六年白馬節会次第公事部 262 公宣卿踏歌節会次第公事部 262 陽照院准大臣宗綱公踏歌節会次第公事部 262 寛正六年踏歌節会次第公事

南北朝室町時代の元号付き出来事 - いにしえwiki

- 享徳の乱, 享徳地震, 享徳の土一揆, 享徳ニ年晴之御鞠記, 享徳寺康正 - 長禄 - 長禄の変, 長禄合戦, 長禄の土一揆, 新撰長禄寛正記, 長禄・寛正の飢饉, 長禄寺, 長禄江戸図寛正 - 新撰長禄寛正記, 長禄・寛正の飢饉, 寛正の土一揆, 寛正の法難, 寛正伊予の乱

三室戸寺 - 巡礼 Wiki

戸寺は三十三番目、つまり最後の巡礼地であった[3]。寺は康和年間(1099 - 1103年)、三井寺の僧隆明によって中興されたという。その後寛正年間(1460 - 1466年)の火災で伽藍を失い、再興されたものの、天正元年(1573年)には織田信長と争った足利義昭に加勢したため焼

雲章一慶とはなんですか? - クイズwiki

A. 室町時代中期に臨済宗聖一派の僧侶として活躍した雲章一慶は、元中3年5月12日(1386年6月9日)に生まれ、寛正4年1月23日(1463年2月11日)に没しました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E7%AB%A0%

続群書類従(連歌部) - いにしえwiki

部 476 熊野千句連歌部 480 至徳二年石山百韻連歌部 480 宝徳三年三代集作者百韻連歌部 480 宝徳三年以呂波百韻連歌部 480 寛正五年将軍家百韻連歌部 480 長享二年水無瀬三吟百韻連歌部 480 明応三年新撰筑波祈念百韻連歌部 480 明応五年本式連歌百韻連歌部

続群書類従(神祇部) - いにしえwiki

神祇部 8 文永三年内宮遷宮沙汰文神祇部 9 正中御飾記神祇部 9 永享元年外宮山口祭記神祇部 10 応永廿六年外宮神宝送官符神祇部 11 寛正三年内宮神宝送官符神祇部 13 二宮年中行事神祇部 14 四度幣部類記神祇部 15 伊勢公卿勅使雑例神祇部 15 参議綏光卿記神祇部 1

戦国遺文 - いにしえwiki

利義明 ほか)奉行人編(芳春院周興 芳春院松嶺)花押・印章一覧佐々木六角氏編自応仁元年(1467)7月至天正7年(1579)今川氏編第一巻自寛正二年(1461)至天文十五年(1546)第二巻自天文十六年(1547)至永禄三年(1560)第三巻自永禄四年(1561)至永禄十二年(1

群書類従(紀行部) - いにしえwiki

ごらんにっき 永享4 335 富士歴覧記 ふじれきらんき 明応8 飛鳥井雅康 336 善光寺紀行 ぜんこうじきこう 寛正6 尭恵 336 ふち河の記 ふじかわのき 文明5 一条兼良 336 正広日記 しょうこうにっき 文明5 正広

群書類従(連歌部) - いにしえwiki

筑波問答 つくばもんどう 二条良基 303 吾妻問答 あずまもんどう 宗祇 304 さゝめこと ささめごと 寛正4 心敬 305 老のくりこと おいのくりごと 文明3 心敬 305 老のすさみ おいのすさみ 文明11 宗祇

歌書(歌合) - いにしえwiki

行事歌合頓阿勝負付歌合新玉津島歌合五百番歌合内裏九十番御歌合応永十四年内裡歌合七百番歌合前摂政家歌合宝徳仙洞歌合宝徳百番歌合康正元年内裡歌合寛正歌合按察使親長卿家歌合武州江戸歌合七夕歌合文明十年歌合文明十年九月尽歌合文明十三年三十番歌合文明十四年将軍家歌合文明十四年将軍家歌合慈照

寛正 - いにしえwiki

寛正(かんしょう)とは、日本の室町時代の10番目の元号である。寛正の年表寛正期は、長禄4年12月21日(西暦1461年2月1日)から、寛正7年2月28日(西暦1466年3月14日)まで。年西暦出来事生誕死去(享年)元1461021461031462041463051464後柏原天

文正 - いにしえwiki

文正(ぶんしょう)とは、日本の室町時代の11番目、最後の元号である。文正の年表文正期は、寛正7年2月28日(西暦1466年3月14日)から、文正2年3月5日(西暦1467年4月9日)まで。年西暦出来事生誕死去(享年)元1466文正の政変021467御霊合戦関連項目 室町時代の元号

群書類従(神祇部) - いにしえwiki

んぐうさんけいき 康永 027 八幡社参記 はちまんしゃさんき 康正 足利義政 027 春日社参記 かすがしゃさんき 寛正 足利義政 028 東家秘伝 とうかひでん 028 宝鏡開始 ほうきょうかいし 028 詠太神宮二所神祇百首和

歌書(法式) - いにしえwiki

(藤原清輔)袋草紙遺編(同)八雲作法篇(順徳院)和歌書様並会之次第(藤原定家)懐紙短冊書法口伝(今川貞世・等)和歌功能(宋世)和歌愚僻抄建保寛正間歌詩会記(一条冬良)和歌書様和歌次第之事花月恋五十体色紙当流口伝飛鳥井家和歌之式法類会座訓(冷泉為和)和歌条々和歌書様和歌会次第永正聞

佐竹義経 - 日本通信百科事典

義従)・上杉実定[3]・上村義倭(南義倭)・小野岡義盛(小野義盛)の弟。下総国葛飾郡下河辺荘[4]の領主で、古河足利家(古河公方)に仕えた。寛正5年(1464年)正月に浄土真宗雲国寺を建立した。脚注[]↑ 山本佐竹家(近江源氏)の祖。↑藤原北家勧修寺流上杉家の系統の上杉氏(山内上

寛正とはなんですか? - クイズwiki

A. 寛正は、日本の元号の一つであり、1464年から1466年までの期間を指します。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%AD%A3

飢饉 - なんでもある Wiki

死者数・被害者数は、正確な算出が困難であり、様々な立場の人や集団から、様々な推計が出される。日本[編集]養和の飢饉寛喜の飢饉正嘉の飢餓長禄・寛正の飢饉江戸四大飢饉寛永の大飢饉享保の大飢饉天明の大飢饉天保の大飢饉『続日本紀』(8世紀成立)には、大宝2年(702年)9月17日条から延

頂法寺 - 巡礼 Wiki

、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。室町時代の寛正2年(1461年)山城大飢饉のとき、8代将軍足利義政は、この堂の前に救済小屋を建て、時宗の僧願阿に命じて、洛中に流入した貧窮者に対し、粥

村上吉資 - なんでもある Wiki

。ところが、河野通春が守護職となった1453年(享徳2年)5月には、細川勝元は通春の帰国に際して吉資を賞する御教書を発している。1462年(寛正3年)3月、東寺より「村上備中」が因島地頭代に任じられている。因島は東寺の荘園であり1458年(長禄2年)に小早川氏が中庄・三庄、木梨杉

岩手氏_(甲斐国) - 日本通信百科事典

甲斐国守護代として、武田氏をしのぐ権力をもち、国政を牛耳っていたが、やがて武田氏一門をはじめ、譜代の重臣らの間に跡部氏一族打倒の声が高まり、寛正6年(1465年)に周りに擁立された信昌は挙兵して、跡部氏一族と戦って、同年7月についに跡部氏一族を攻め滅ぼした。同年10月に生まれたの

松平信光_(惣領家) - 日本通信百科事典

う[15]。『応仁の乱』の時期に信光は室町幕府の政所執事で、かなりの遠縁筋の桓武平氏流伊勢氏の当主の伊勢貞親に仕えたと言われる。1461年(寛正元年)に、三河国の保久城の山下庄左衛門を滅ぼした。 1465年4月(寛正6年5月)に、足利氏一門の三河国守護の細川成之[16]の要請によ

蠣崎繁広 - 日本通信百科事典

てアイヌの酋長のコシャマイン父子を射殺して、その首級を挙げた。この功績により季繁・繁広父子の蝦夷国における支配は決定的となった。1462年(寛正3年)には勝山館を築城している。文明7年(1475年)に、樺太のアイヌの酋長から貢物を献上されて、樺太を支配下に置いたという、当時の日本

伊勢神宮 - なんでもある Wiki

4年(720年) : 『日本書紀』完成。延長5年(928年)12月26日 : 『延喜式』完成。康保4年(967年)7月9日 : 延喜式施行。寛正3年(1463年)12月27日 : 第40回内宮式年遷宮。この後、戦国時代で式年遷宮が中断。永禄6年(1563年)9月23日 : 第40

室町時代の元号一覧 - いにしえwiki

こうしょう 1455-1457 後花園 09(190) 長禄 ちょうろく 1457-1461 後花園 10(191) 寛正 かんしょう 1461-1466 後花園, 後土御門 11(192) 文正 ぶんしょう 1466-1467 後土御門 関

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