ドイツ帝国の近代史

ページ名:ドイツ帝国の近代史

目次

戦時中[]

西部戦線の戦況は逼迫していた。ドイツは1916年中旬のソンム攻勢で膨大な犠牲者を出したにもかかわらず、フランス軍をヴェルダン周辺地域から放逐できなかった。皇帝ヴィルヘルム二世は当時の陸軍参謀総長エーリヒ・フォン・ファルケンハインの交代を迫られた。軍事内局のモリッツ・フォン・リュンカー局長は、パウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリヒ・ルーデンドルフ両陸軍元帥を候補に挙げた。皇帝自身はファルケンハインの更迭に難色を示したが、やがて1916年8月29日付で両元帥を参謀総長に任命した。

一方、東部の状況は比較的安定していた。8月末ごろからブルシーロフ攻勢は鈍化、ルーマニアのトランシルヴァニア侵攻も想定していたよりは脅威にならなかった。12月にはルーマニア首都、直後にワラキア全域が陥落。ロシアは伸びきった戦線を抱え込み、再度の攻勢に踏み切れなくなった。

両元帥の参謀総長就任と第三次OHL(Oberste Heeresleitung:最高軍司令部)発足からわずか二日後、ヒンデンブルクとルーデンドルフは「ヒンデンブルク計画」と呼ばれる新たな軍需・経済政策を採用。弾薬の生産量を二倍、火砲と機関銃の三倍増、戦時活動と行政の一本化、国民の総力戦への動員を目標としていた。計画の柱となる「愛国的労働奉仕法」は帝国議会で激しい議論を巻き起こした。社会民主党(SPD)、人民進歩党(FVP)、中央党、国民自由党(NLP)リベラル派の議員らは、戦時活動に不要な工場の閉鎖、女性への工場労働義務化に反発。これらの政党はバラバラながらも同盟を結び、女性や労働者階級に有利な形で法案改正を可能にするだけの議会勢力が誕生した。こうして50人以上の労働者を雇用する全ての工場での労働組合設置、並びに労働組合を雇用主と対等な交渉パートナーとして承認する修正案が盛り込まれ、産業界の指導者たちや第三次OHLは大きく落胆した。

Soup Kitchen

「かぶらの冬」の炊き出しの様子

戦時活動の一本化は1916年から始まり、ヴィルヘルム・グレーナーを長とする戦時庁(Kriegsamt)が設立された。書類上はプロイセン陸軍省の下部組織とされたが、実際にはOHLが主導する組織だった。当初グレーナーは統制経済の確立を目指して産業の再編を図ったが、芳しい成果を上げることはできなかった。農業生産量も労働力、肥料、馬の不足で大きく減少した。都市部や前線用の食糧はあったが、輸送手段は重工業や軍隊用に振り分けられていたため届けることが出来なかった。戦時食料局(Kriegsernährungsamt)は都市部での食糧不足や暴動の対処に全力を尽くしたが、成果は上がらず、1916年から1917年の冬にかけていわゆる「かぶらの冬」を招き、ドイツ帝国の一般国民およそ100万人が死亡した。

1917年[]

テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク、1912年頃

新年は東部でのロシア攻勢の失敗とともに始まった。同時期、シレジアのプレス城で会議が招集された。皇帝やテオバルト・フォン・ベートマン=ホルヴェーク宰相、ヒンデンブルクやルーデンドルフを始めとする軍高官が多数出席し、無制限潜水艦作戦の再開について話し合われた。OHL、ライヒスターグ、それに多くの陸軍高官は作戦再開を支持していたが、ベートマン宰相とフォン・カペレ海軍大臣は強く反対、皇帝に再度翻意を促した。皇帝はルーデンドルフの影響力増大に危機感を抱き、最終的に再開反対を決断した。ルーデンドルフは皇帝の理性と政策決定プロセスに大きく失望し、ベートマン排除の必要性を認識した。

この時点から、陸海軍の高官らを含むルーデンドルフ派はベートマン宰相との全面対決方針を固めた。ほどなくしてOHLは再びベートマンに失望した。1917年2月、社会民主党が再び選挙制度改革を提唱し、なんと宰相はこれを支持した。

ルーデンドルフ一派は改革阻止を試みるも、皇帝にベートマン案を退けさせることはできず、ドイツ軍がヒンデンブルク線から撤退してからは一層難しくなった。1917年4月7日、皇帝ヴィルヘルム2世はプロイセンの三級選挙権制度を秘密記名直接投票制度に置き換えることを正式に発表した。だがベートマンの親民主的改革とは裏腹に、帝国議会の民主派議員の多くは宰相への反対を続けた。

USPD National Executive

独立社会民主党(USPD)の中央執行部

選挙制度改革宣布の同日、SPD急進派が独立社会民主党として離党し、残留派は多数派社会民主党(MSPD)に名を変えた。それからわずか数日後、ベルリンやライプツィヒで四月ストライキが発生し、民衆は戦争によって生じた不安定な生活水準に抗議した。ストライキはすぐに他の都市にも広がるほどの勢いを見せたが、食糧配給量の増加や週52時間の労働時間短縮など、引き出せた譲歩はごく小規模にとどまった。同時期、皇帝と宰相が会談し、講和条約調印時にドイツが追求すべき戦争目標について協議した。ベートマンは併合や戦前への回復には反対しながらも、実際の内容については非常に曖昧模糊としていたため、皇帝から大きな不興を買った。ルーデンドルフは皇帝が宰相に失望したことを嗅ぎつけると、ベートマンの切り崩し工作に取り掛かった。ルーデンドルフの工作は功を奏し、皇帝は宰相を留任させては戦争に敗北すると考えこむようになった。皇帝はベートマンの戦時中の活躍に失望しており、議会やルーデンドルフからの説得を受けて、とうとう後任も決めぬまま宰相更迭を決断した。

Reichskanzler-Dr-Georg-Michaelis.jpg

ゲオルグ・ミヒャエリス

ライヒスターグはベートマンの突然の辞任劇に浮き足立ち、統一候補を選定することが出来なかった。こうして7月14日、ゲオルグ・ミヒャエリスが新宰相に就任した。彼は経験の浅い保守派の政治家であり、やがてOHLの傀儡となっていく。ミヒャエリスは保守党や帝国党、それに中央党の貴族出身者・保守派議員らの後ろ盾を得たが、議会での多数派形成は叶わず、ミヒャエリスは宰相としてほとんど権限を持たなかった。

前年にヒンデンブルク計画に従って設立された戦時庁は、戦時活動に必要な生産量の増大に失敗した。ルーデンドルフは戦時庁運営に失敗したグレーナーへの信任を失い、後任にハインリヒ・ショイヒを据えた。ショイヒはヴァルター・ラーデナウの参謀役として戦時原料部部長を歴任し、成功を収めていた。

同年四月、中央党は「イエスズ会法(Jesuitengesetz)」の廃止という大戦果を収めた。政府は議会での支持基盤となる多数派形成の必要性を認識しており、やむなく中央党の要求を呑んだ。

1917年は、ヒンデンブルクとルーデンドルフの伸張、ならびに皇帝の弱体化が浮き彫りとなった年でもあった。文民政府は実質的にすべての権限を失っており、皇帝にも同じことがいえた。ヴィルヘルムは両名の助言なくしては顧問すら決められない有様だった。政府や皇帝が少しでもOHLの方針に反対しようものなら、両元帥はすぐにでも辞任すると脅しつけた。

Georg_von_Hertling.jpg

ゲオルグ・フォン・ヘルトリング

MSPD、中央党、人民進歩党はミヒャエリスがあまりにも弱い宰相になると考え、皇帝による宰相任命に反対していた。三党はミヒャエリス退陣を画策するようになり、やがてミヒャエリスのバルカン訪問という絶好のチャンスがめぐってきた。三党はベートマン辞任時の二の舞を避けるべく、10月23日、三党の参加する超党派合同委員会(Interfraktioneller Ausschuss)は国民自由党と会談した。両者は三級選挙権制度の追求、ならびに講和締結の実現といった数点に絞って合意し、皇帝に新たな宰相の任命を上奏した。皇帝は帝国の議会主義化への傾倒と捉えて宰相更迭に反発したが、10月26日にはミヒャエリス自身が辞意を表明した。こうして11月1日、元バイエルン首相ゲオルク・フォン・ヘルトリングが新たな宰相に就任した。

だがヘルトリングは前任者のミヒャエリスと同じくOHLの傀儡に過ぎなかった。また中央党出身のヘルトリングが宰相に就任したことで、ライヒスターグの中央党議員らも影響を被り、党のほとんどが反対するような動議でも賛同を迫られた。中央党議員の中でも最も有力な政治家マティアス・エルツベルガーは、かねてから敵対関係にあるヘルトリングの任命に反対した。

ライヒスターグの野党連合は和平終戦動議を可決した。帝国は併合なき講和を望んでおり、戦前のような平和で安定したヨーロッパの創設を目指しているといったメッセージが含まれており、同盟国や協商国に秋波を送った。

DVLP_Party_Poster.jpg

祖国党(DVLP)のポスター「目覚めよドイツ人。運命の時が来た」

議会は皇帝が矢継ぎ早に下す決定(これもOHLの胸先三寸に左右されていた)に警戒を迫られたが、不安要素はそれだけはなかった。1917年夏、アルフレート・フォン・ティルピッツ、ヨハン・アルブレヒト・フォン・メクレンブルク、ヴォルフガンク・カップ、アルフレート・フーゲンベルクらを筆頭に、有力なドイツ人極右たちが右派運動、ドイツ祖国党(Deutsche Vaterlandspartei)を立ち上げた。この過激な院外野党は強硬な反民主派であり、強固な独裁体制の樹立を熱望していた。ヴィルヘルム2世の退位と皇太子の即位、あるいはヒンデンブルクかルーデンドルフといった有力軍人の更なる台頭を望んでいた。祖国党はヨーロッパやアフリカでの大規模な領土拡大、ヒンデンブルク計画で導入された計画経済への反対と完全自由市場制の確立を主張し、更には大英帝国の完全解体を最優先目標に掲げていた。

1917年4月、ルーデンドルフ率いるOHLはポーランド政策に関するメモランダムを作成した。約2万K㎡の「帯状国境地帯」のドイツ併合、現地ポーランド人の追放とドイツ人の入植、在ドイツのポーランド人や他の占領地域のポーランド人に関しても、新たに建国するポーランド王国への移住を促す、という内容だった。構想案には理想的な中世ドイツ、シャルルマーニュ皇帝時代を想起させる用語が充てられ、新たに「グレンツマルク計画(独:Grenzmark:新天地入植)」と命名された。ルーデンドルフは愛国的ドイツ人にプロイセン西部やポーランド帯状国境地帯への移住を呼び掛けた。ルーデンドルフとしては今大戦の退役兵を帝国国境地帯を警備する屯田兵にしようと目論んでいたため、退役兵の移住を特に推進した。

戦場では重大なできごとが立て続けに起こった。4月にはフランスが攻勢に打って出たが、軍内部で大規模な反乱が発生したことで完全な失敗に終わった。イギリス軍はパッツェンデールの戦いで勝利したが、それを活かすことができなかった。12月、ドイツ系アメリカ人からのクリスマスプレゼントを載せたアメリカの貨物船がイギリスの潜水艦によって撃沈され、アメリカ人乗組員も数名死亡した。世論の反発を受けてイギリス軍は封鎖の部分的解除をおこない、ドイツ国内では前年冬の「かぶらの冬」に匹敵する飢餓の蔓延は回避された。

東部軍も少しずつではあるが着実に前身していた。9月にはオーストリア領ガリツィアを再度奪還し、ドイツ軍はリガ市を占領した。10月にはロシア内戦が勃発し、ロシアの戦争遂行能力は深刻な打撃を受けた。ドイツ軍は「アルビオン作戦」を発動し、露領バルト地域の二つの島を占領した。

1918年[]

エルツベルガーが党中央委員会でおこなった演説が原因となり、ヘルトリングとエルツベルガーの不和は激化した。党執行部はヘルトリングを、議員団のほとんどはエルツベルガー支持に回った。党内左右両派の対立は極限に達し、多くの党員らが党の分裂を確信した。第三十回中央党全国委員会(Reichsausschuss of the Zentrum)の席上、新たなガイドラインが策定され、全党員に団結を呼び掛けた。多くの党員が中央党が岐路に立っているとようやく認識し、再び党は団結した。

Treaty_of_brest_litovsk.jpg

ロシア=ドイツ間の休戦協定の調印式、1918年

封鎖の部分的解除によって、食糧や衣服、その他の消費財がドイツに流入するようになった。かぶらの冬の再来は回避された。戦時庁は人口密集地への食糧輸送用により多くの馬やトラック、鉄道を割り当てられるようになり、戦時食糧局も17年より多くの食料を配給することができた。経済も少しずつ回復し、これまで閉鎖されていた商業活動も再開を認められた。2月にウクライナ=ドイツ間の講和条約(Brotfrieden)が結ばれ、東部情勢はひと段落した。ロシア共和国は崩壊し、戦争離脱を望むようになり、中央同盟も東部での戦争を一刻も早く終結させたかった。三月初週、ドイツ帝国とソビエト連邦の間でブレスト=リトフスク条約が交わされた。

  • ポーランド、リトアニア、クールラントの各評議会を中欧同盟に割譲する
  • リーフラント、エストラント、ウクライナ地域では今後の地位を決める国民投票を実施する
  • ドイツ軍は国民投票が実施される地域から全軍を撤退させる
  • ポーランド評議会はポーランド国境帯状地帯をドイツに割譲する

ロシア政府の調印後、歴戦の兵士たちが西部戦線へと移送された。だが新たに獲得した領土や新国家の安定確保のため、ドイツ軍はなおも数千人規模を現地に駐屯させた。

祖国党はロシア領土の直接併合とドイツ国民による入植を支持していたため、ブレスト=リトフスク条約の内容を激しく非難した。MSPD、進歩人民党、ポーランド党、急進左派グループもポーランド国境帯状地帯の併合に反発した。保守党はロシアとの間に新たな緩衝国が建国されたには満足したが、領土拡大によって党勢と支持層のユンカーの経済力が脅かされかねないと危惧した。多数派社会民主党と人民進歩党は、現地ポーランド人が帝国併合を望んでいるというのであれば、住民投票を実施すべきだと主張した。中央党員も条約支持の立場で併合を主張した。講和論支持者は併合に反発したが、それでもブレスト=リトフスク条約そのものに反対しているわけではなかった。条約に全面的賛成の立場を採ったのは国民自由党と帝国党だけだった。

西部戦線は年初以来安定していたが、協商国は5月に春季大攻勢を開始した。だが6月になっても目標を達成できず、協商陣営は80万人以上もの犠牲者を出し、フランス軍内部では反乱が拡大した。ドイツはついに西部戦線での優位を回復するなど、この攻勢は協商陣営にとって壊滅的結果に終わった。サロニカでの協商国軍撃破を目指し、5月にドイツ・オーストリア・ブルガリア連合軍による攻勢、トイトブルク作戦が発動した。エーリヒ・フォン・ファルケンハイン元帥は作戦を成功に導き、アテネは陥落、7月3日にギリシャは占領された。

国内戦線の状況は緊迫の度合いを増していた。国民は戦争に疲れ果て、政府に講和締結を要求した。MSPD、FVP、中央党も戦争継続に反対していたが、ヘルトリング宰相は要求に応じなかった。春季大攻勢の失敗とギリシャの離脱を受けて、OHLはより有利な条件で講和を締結できると考えるようになっていたが、協商国は依然として勝利を確信しており、交渉が始まる気配はなかった。

Novemberinsurrections-berlin.jpg

武装した兵士と民兵、ベルリン、9月9日

閉鎖の部分的解除の効果はすぐには上がらず、しばらくは飢餓が続いていた。民衆はより急進的な組織を支持し始めた。彼らは戦争終結、カール・リープクネヒトを始めとする政治犯の釈放、ドイツ君主制の撤廃を提唱していた。「スパルタクス団」はこうしたグループの最たるものだった。USPDは政府転覆のチャンスが訪れたと判断し、平和革命の準備を進め、労働者や学生、急進的知識人らがこれに賛同した。1918年8月下旬から9月上旬まで全国で大規模な反戦デモや反政府ストが発生した。OHLはさまざまな急進的社会主義指導者らを逮捕してストを破ろうとしたが、効果はなかった。9月9日、スパルタクス団は闘争を開始し、ベルリン王宮やミュンヘン王宮を含む数多くの政府施設を占拠した。2日後の11日には即座に粉砕され、この事件は後に「9月暴動」と称された。

多くの独立社会民主党員は政府に対する革命運動に望みはないと悟り、多数派社会民主党に再度接近した。両党は再統一の可能性について協議した。二週間に及ぶ激しい交渉の末、のフリードリヒ・エーベルトとUSPDのフーゴー・ハーゼは、USPDが再びMSPDに参加する旨を宣言した。

Novemberinsurrections-reichstag.jpg

帝国議会での授権法をめぐる議論の様子、1918年11月13日

数か月後、授権法がライヒスターグの賛成多数で可決。帝国宰相にライヒスターグの承認を待たずに法案を可決する権限が付与された。

この法律が行使されたのは可決同日、ヘルトリング宰相によるものだった。ルーデンドルフ将軍の意を組んで(SPDを除く)すべての社会主義政党が非合法化された。

授権法の成立、度重なる保守政党からの攻撃、社会主義政党の非合法化に加え、政府が相変わらず戦時国債を発行し続けたことに業を煮やし、SPDが城内平和体制の終結を正式に宣言。修正主義派と急進派の緊張関係がとうとう終結した。元USPD議員らはこの動議に進んで賛同した。国民自由党、帝国党、保守党はただちにSPDを非難し、祖国への裏切りと評したが、進歩人民党と中央党は沈黙を保った。祖国党メンバーらはSPD指導部を反逆罪で裁判に掛けるべきと呼び掛けた。OHLも平静を保った。もっともその理由は、授権法の成立によって議会を無視できると理解していたからであった。

SPDはふたたび戦争終結を強く喧伝した。クリスマスにはデモが呼びかけられる中、ヘルトリング宰相はシレジアのフュルステンシュタイン城でルーデンドルフ将軍と会談。政局悪化を危惧したヘルトリングは、自身の早期辞任を示唆した。ルーデンドルフはこれに激怒、会談を後にしてスパのOHL本部に戻った。

Hindenburg.jpg

「帝国宰相」パウル・フォン・ヒンデンブルク、

12月10日、ヘルトリング宰相が辞任を要請。皇帝はこれを認め、人気絶大のパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥を後任に指名した。エルツベルガーは最大の政敵だったヘルトリングの辞任によって、中央党内での勢力を大きく伸ばす。

プロイセンの保守派はヒンデンブルクの宰相就任を喜び、議会の民主派野党も皇帝の決定に対応するすべはないと知りながらも抗議した。

これによりOHLは帝国の全権を掌握した。ヒンデンブルク新宰相はすぐさまSPDのクリスマス・デモを禁止し、抗議運動鎮圧のためにはベルリンへの軍隊派遣も辞さないと警告した。SPDは年初の二の舞を避けるべく、デモの中止を決定し、時節を待つことにした。

1919年[]

German_Anti-War_Demonstrations.jpg

反戦デモの様子

ヒンデンブルクの警告にもかかわらず、ベルリン、ザクセン、ラインラントを始めとする多くの都市で反戦デモが発生した。中央党はデモの暴徒化を恐れ、参加者を非難した。しかし国内の対立激化を避けるため、国内を預かる第5警備師団には待機が命じられた。

戦時庁はハインリヒの下で成果を挙げ、軍に十分な数の弾薬、機関銃、大砲を行き渡らせた。ウクライナ産穀物がドイツに出回るようになり、戦時食糧局もさらに多くの食糧を供給することができた。海軍省では、艦隊増強とロイヤルネイヴィーとの決戦を想定して1917年から進められていた海軍版ヒンデンブルク計画、「シェーナー計画(Scheer-Programme)」で建造された艦艇がごくわずかながら就役した。

物資や人的資源を十分に備蓄したドイツ軍は、1919年3月2日に春季攻勢を開始した。浸透戦術は効果を挙げ、同月16日にはナンシーが陥落。20日にはエルザス=ロードリンゲン全域を回復し、多くの親仏アルザス人が落胆した。フランス軍は急な防衛戦を繰り返し、側面が無防備になっていた。ドイツ軍は26日にランスを攻撃し、協商軍を分断した。そして5月31日、最初の短距離砲撃がフランス首都パリを襲い、パリ包囲戦が始まった。同時期にドイツ=オーストリア連合軍はイタリア攻勢を発動した。イタリアは次々と領土を失い、エチオピア帝国とデルヴィッシュ国もイタリアに宣戦布告した。交渉の結果、両国とも6月には中央同盟に参加した。

ドイツはパリに迫ったが、ペタン率いるフランス軍は善戦した。洗練された浸透戦術に対し、フランス軍は縦深防御と戦車による反攻を駆使して防衛戦を展開した。オワーズ地域ではドイツ軍の戦線が一部突破される事態となった。だが戦局はすぐに覆り、ドイツ軍は資源の枯渇しきったフランス軍の側面を粉砕し、脱走や反乱、寝返りなどでとうとうフランス軍は総崩れとなった。10月4日、独仏休戦協定が調印され、来月中の講和条約締結が決まり、ここに5年に及んだ戦争が終結した。

ドイツ軍は10月6日にパリに入城、パレードをおこなった。フランスとドイツの外交官はヴェルサイユ宮殿で初めて顔を会わせ、同時にドイツ軍はフランス中核州から撤退、休戦協定で定められた新たな国境地帯まで撤退した。

Dignitaries_gathering_in_the_Hall_of_Mirrors_at_the_Palace_of_Versailles%2C_France%2C_to_sign_the_Treaty_of_Versailles.jpg

ヴェルサイユ条約調印のためフランス・ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」に集まった高官

1919年11月6日、フランス、ルクセンブルク、ベルギー、ドイツ諸国間で、ヴェルサイユ条約が以下の内容で正式に調印された。

  • ドイツによるブリー盆地、及びダンケルクからブローニュ=シュル=メールまでの海岸地域の併合
  • 象牙海岸、ダホメー、ガボン、仏領コンゴ、ウバンギ=シャリ、チャドの南半分、マダガスカル、仏領ソマリランド、コモロ、レユニオン島、インドシナ、及び中国租界を含むインドならびに太平洋のフランス領土のドイツ植民地帝国併合
  • モロッコ保護領のドイツ移管
  • ドイツ軍による15年間のナンシー占領
  • フランスは今後10年間で合計1000億マルクの賠償金をドイツに支払う
  • フランスは大英帝国との貿易を1925年1月まですべて終了する
  • ヴェルダン要塞を含むベルギー、ドイツ国境地域でのフランス軍要塞の解体。作業はフランス軍が実施する
  • ルクセンブルクはドイツ帝国の構成国となる
  • ベルギー政府はドイツ人国王を国家元首とするフランドル=ワロン王国とする
  • ベルギー領ルクセンブルクは治安維持のためにドイツ帝国の一時的占領下に置かれ、行政についてはルクセンブルク公が管理する
  • ルクセンブルク大公国はアレル市を含む若干の領土を併合する
  • ナンシー周辺のモゼル川沿岸北部の20年間の占領
  • ベルギーは軍事施設及びアントワープ港の無制限使用権をドイツ軍に与える
  • ベルギー領コンゴのドイツ植民地帝国併合

攻勢が勢いを増す頃、祖国党は組織強化に乗り出した。6月15日の皇帝即位記念日、祖国党は正式に政党となった。党員の多くが保守党から鞍替えした東西プロイセン選出の議員だった。アルフレート・フォン・ティルピッツが党首に就任し、他党との妥協や帝国統治も可能な理性的極右運動となった。戦争が終結に近づきつつあった当時、祖国党の有力政治家らはより保守寄り・農村重視の政策を追求するよう求めたが、ティルピッツやヨハン・アルブレヒト・フォン・メクレンブルク、ハインリヒ・クラスらの指導部は誰一人としてこの要求に応じなかった。彼らは強大な党勢を誇るSPDに対抗すべく、西部や都市中心部で軽視されてきた保守派の糾合をさらに推進した。

フランツとの講和条約締結は国民から歓迎された。 SPD、進歩人民党、中央党は条約があまりに過酷な内容であるとして併合した領土の返還を求めた。三党はベルサイユ条約の中身は戦争抑止ではなく、更なる戦争の火種にしかならないとして、宰相とOHLを批判した。祖国党は条約がフランスに宥和的過ぎるとして、更なる領土を求めなかったOHLを非難し、「今後の戦争」における更なる領土併合を要求した。国民自由党、保守党、帝国党は結果に満足していた。ドイツの産業界はブリー盆地の併合を支持した。産業界の間では、当時すでに現地の鉱山の分割案について合意が持たれていたと囁かれている。

2nd_Battle_of_Jutland.webp

第二次ユトラント沖海戦の戦艦を捉えた写真

大陸での勝利は戦争終結という訳ではなかった。協商軍は本土からたたき出され、フランツが革命国家に変貌しつつある中、イギリスは1919年後半にドイツ北海艦隊に戦いを挑み、第二次ユトランド沖海戦が勃発。しかしロイヤル・ネイヴィーの敗北に終わった。

ロイヤル・ネイヴィーの敗北後、大英帝国は休戦協定締結のために中央同盟に接触した。幾多の交渉の末、1919年12月24日、コペンハーゲンのローゼンボルク城で休戦協定が調印された。

ヨーロッパに平和が訪れたことで、ドイツは日本撃滅のためにアジア介入を準備した。同年前半にシャムが中央同盟に加わり、新たに獲得した旧仏領インドシナ防衛のためにドイツ軍の小部隊が派遣された。派遣部隊はジャングル戦に不慣れであり、北海艦隊の修理完了と極東配備までシャム領を防衛するための間に合わせでしかなかった。

1920年[]

General_Paul_von_Lettow-Vorbeck.webp

パウル・フォン・レットウ=フォルベックの凱旋パレード

1920年1月3日、アフリカ戦線が終結した。パウル・フォン・レットウ=フォルベック率いるゲリラ戦士たちにも休戦協定調印の報が知らされた。1月31日の帰還パレードには多くの群衆が詰めかけ、ドイツ領アフリカの守護者たちを歓迎した。

Argonnerwald.webp

「Argonnerwald」の撮影風景

OHLのプロパガンダ機関として1917年に設立されたウーファ映画社が、春季攻勢でフランス軍相手に孤軍奮闘する部隊を描いた映画、「Argonnerwald(アルゴンヌの歌)」を公開。映画は兵士たちを君主制護持と祖国安寧のために外国の侵略と戦う現代の英雄として描き、反協商的偏見や反ユダヤ主義が至るところで用いられた。批評家はストーリーを肯定的に受け止めなかったものの、映画そのものは最新技術を惜しみなく導入して製作、撮影されており、多くの観客が映画館に足を運んだ。「Argonnerwald」は多種多様のプロパガンダ映画製作の走りとなる。

軍の部分復員は多くの問題を浮き彫りにし、対策が求められた。多くの若年層が傷病兵として故郷に戻り、兵士の多くが数か月、あるいは数年間も職にありつけなかった。戦時中に兵器工場に補充された労働者たちも解雇されたが、元の会社はいまだ閉鎖されたままで、再開したとしても新しい労働者を雇用したため、復帰できなかった。

イギリスとドイツは白紙和平を結んだが、それ以外の面では対立が残っていた。日英同盟は崩壊し、ドイツも新たに獲得した領土の防衛能力について不安を感じていた。このことが「弩級建艦競争」の引き金となる。

世論は建艦競争にほとんど関心を示さなかったが、ヴィルヘルム2世とルーデンドルフ将軍は即座に戦前の艦隊政策の再開を目論んだ。SPDと進歩人民党は建艦競争を不要と見なし、支出に反対した。両党とも国民の戦災回復に資金を使うべきと主張した。その他の政党、特に国民自由党、帝国党、祖国党は軍拡競争を支持し、中央党は静観を貫いた。

5月、新たに建国されたフランス・コミューンとスイスはオート=サヴォア地域を巡って対立し、危険なレベルにまで激化していた。ヒンデンブルク宰相とルーデンドルフはフランス介入の可能性について公言した。やがてフランス外交官がドイツに派遣され、フランス政府がドイツと協力する方針であると保証した。フランス・コミューンとスイスの間で直ちに休戦が成立し、その数週間後にナンシー条約が結ばれた。

  • サンディカリスト民兵が占有する一部の沿岸地域を除き、コミューン臨時政府はヴェルサイユ条約による領土変更の尊重に同意する
  • 賠償や要塞の破壊を含め、コミューン臨時政府はヴェルサイユ条約の条文の尊重に同意する
  • 若干の賠償金減額と引き換えに、コミューン臨時政府は115トンの穀物をドイツに輸送する
  • ドイツ帝国はコミューン臨時政府を脅かさず、内政(したがって内戦にも)干渉しない

1920年初秋、全ヨーロッパ国家を縫合するドイツ主導の経済圏設立についての会談がベルリンにて開かれた。ノルウェーやオランダなどの小国は、ドイツが経済圏で有する支配的地位を懸念し、反対した。多くの国が初期案に賛同せず、会談は袋小路に陥った。この時フランス・コミューンの外交官も出席し、計画への支持を約束した。

1921年[]

戦時庁はついに閉鎖されていた企業の完全再操業を認可。だが多くの企業は戦時中に破産したため、戦後は多くの退役兵や労働者が職を失った。

ベルリンで経済圏設立に関する会議が開かれ、5月に中欧経済圏の設立が公表される。ドイツ同盟国の多くが参加しなかったが、東欧に建国されたばかりの新国家はすべて参加した。

一方、革命フランスは会議への欠席を決め、ルーデンドルフ将軍と皇帝は大いに憤慨した。リベラル系政党は、全欧が参加しない同盟など何らの経済的利益をもたらすことはないと宰相を非難した。軍部ではフランス介入に関する極秘会談が開かれたが、あまりに危険すぎるとして却下された。

旧宗主国の痕跡をすべて抹消すべく、旧フランス植民地の多くが改名される(例:ヌーヴェル・カレドニー→ノイ・エルザス)

Landwirtschaft.jpg

農業労働者(Landarbeiter)

破産したプロイセンのユンカー領地の救済のため、東部援助(Osthilfe)が政府政策として制定される。1914年のロシア侵攻以来、プロイセンは荒廃しており、すでに住民は西に移住し、好景気に沸くラインラントに向かった。政府が計画したポーランド国境帯状地帯へのドイツ人入植と工業化も東部援助の一部に含まれている。

ヒンデンブルク宰相と皇帝の人気は低調だった。SPDは政府が軍の傀儡であると非難し、FVpや中央党、さらにはNLPと共同で授権法の廃止と選挙実施を要求した。皇帝はルーデンドルフには何の執着もなかったが、それでも罷免するつもりはなかった。ルーデンドルフ将軍は1918年の社会主義政党と同じようにSPDを非合法化すると警告。するとSPD側もゼネストの呼びかけをちらつかせてこれに応じた。ルーデンドルフはこのままでは自身の統治の終焉、最悪の場合には内戦の勃発に繋がると認識し、授権法の廃止要求を呑んだ。ただしイギリスとの講和条約締結と対日戦勝後という条件付きだった。

この事件をきっかけに、SPD、中央党=進歩人民党=国民自由党連合、そしてヒンデンブルク政権がそれぞれ独自に反独裁・民主制支持の反対派に回った。

11月、ルーデンドルフ将軍はイギリスのアンドリュー・ボナー・ロー首相に正式な白紙和平締結、1919年コペンハーゲン休戦協定の明文化を打診。1921年11月11日、正式に条約が調印され、欧州の運命を永遠に変えた7年に及ぶ世界大戦が終結した。(日本を除く)すべての協商国との白紙和平が成立して一週間後、SPDは議会に授権法撤廃案を提出した。進歩人民党を除く全党は動議を支持しなかった。

1922年[]

すべての商業活動が再開したが、多くの労働者や退役兵の失業は解決せず。ヒンデンブルク宰相とカイザーに対する議会の抗議と民衆の反感が高まる。双方とも選挙開催を要求し、リベラル派やカトリック系の新聞各紙も独裁体制を非難した。

2月、ヒンデンブルク宰相は革命扇動を理由に、SPD系列、最大の左派新聞「デア・フライハイト」紙を含む多数の社会主義新聞を非合法化する法律を提出。SPD、進歩人民党、国民自由党、中央党が議会で抗議するも、またしても聞き入れらなかった。

同月後半、報道検閲法が制定。平時の報道検閲が再開。法律にはSPDのみならず、帝国内のリベラル派政党が一斉に抗議。

議会全会派が法案導入についてヒンデンブルクを批判。院外勢力だった祖国党もふさわしい時節に導入されていないとして反対した。

SPDが反検閲法ストライキを組織するも効果なし。カイザーはこうした無法に全く反応せず。ほとんどの権限をヒンデンブルクとルーデンドルフに明け渡していた。保守派はカイザーの静観、ルーデンドルフの排除がすでに弱体の君主制を脅かしかねないと危惧。懸念は現実となり、6月、SPDはルーデンドルフのみならず、カイザーの統治能力にも疑問を呈した。

China_rework_2.jpg

「Treaties of the World」での青島合意と第二次中国借款団についての記述

2月、中国借款団が発足し、ドイツと日本間の和平交渉が始まる。11月6日に青島合意が調印され、極東における世界大戦がようやく終結した。しかし内容は山東権益の合法的所有者についての明言を避けていた。日本は実質的に表立った主張を撤廃したが、メンツはいくらか保たれた。

戦争は終結したが、その影響が出費を強いていることも判明した。弩級建艦競争は予算を圧迫し始め、新たに獲得した旧仏領植民地は採算が取れなかった。

1923年[]

社会主義系の「フォルヴェルツ(Vorwärts)」紙がオーテルスブルクにて東プロイセンのビール醸造所で停滞する再建活動についての小記事を掲載。扇情的文章の大部分は検閲されたが、それでも読者は強い影響をうけ、労働者基金が設立された。基金は大きな成功をおさめ、やがて全国の労働組合が募金を集め、戦争で被害を受けた工場や労働者の家々の復興に費やした。被害を受けなった地域の人々は遅々として進まない復興事業を知り、やがて多くの大手新聞が「大戦で敗れたドイツ人」についての記事を掲載し始めた。

復興事業はただちに議会で取り上げられ、全会派、特に保守党が政府の予算方針やSPDにも劣る復興速度と効果について疑問を投げかけた。

ルーデンドルフはSPDの基金が突如として大成功した事実に困惑した。旧友である保守政党からヒンデンブルクとルーデンドルフを非難する声が高まると、両元帥は必死になって懐柔を図り、崩れつつある支配体制を懸命に固めようとした。

Berliner_Tagesblat.jpg

「ベルリナー・ターゲブラット」の版

新たなスキャンダルが明るみに出るのは早かった。7月10日、リベラル派の「ベルリナー・ターゲブラット(Berliner Tageblatt)」紙が東部援助の流用に関する大暴露記事を掲載。なかでも衝撃的なことに、最大の主犯核としてルーデンドルフ将軍の副官ヴィルヘルム・ブレーカーブロイカーの名が挙げられ、また将軍も事態の全容を把握しており、ひいては流用を容認、あるいは後援していた可能性が示唆されていた。先に制定されていた報道検閲で極めて不利益となる記事については発行を禁止されるはずだったが、なんの対応もなかった。軍は発刊後ただちに対応し、売れ残った新聞をすべて没収したが、他の新聞各紙も「ベルリナー・ターゲブラット」編集長テオドール・ヴォルフに代わってまったく同じ内容の記事を掲載した。7月11日、「デア・ポスト(Die Post)」、「デア・フランクフルター・ツァイトゥンク(Die Frankfurter Zeitung)」、「デア・アルゲマイネ・ツァイトゥンク(Die Allgemeine Zeitung)」が東部援助疑惑についての記事を掲載し、午後には保養地にいた皇帝も記事を読んだ。

皇帝は突如休暇を切り上げ、フォン・ヒンデンブルク宰相との謁見をセッティングした。ルーデンドルフも拝謁を望んだが受理されなかった。パニックに陥ったルーデンドルフは数日かけて親しい将校らに連絡し、ベルリンのホテル・アドロンでの会合を計画した。会議当日、将軍の車がホテルに乗り付けると、警官が取り囲み、その場で元帥を逮捕した。

ドイツの実質的指導者は手錠をかけられ、ヴィルヘルム2世の待つベルリン宮殿に移送された。将軍は味方だと思っていた人々、フォン・ヒンデンブルク、フォン・ティルピッツ、ヴォルフやその他大勢のジャーナリスト、SPDのフリードリヒ・エーベルトを含むドイツの主要政党の党首の面前に立たされた。カイザーはエーリヒ・ルーデンドルフの指揮権をはく奪し、退役を命じた。ルーデンドルフが辞任を強制された後、空席となった第一補給大将の座は廃止となる。ヴィルヘルム二世は強制辞任について「最も忠実で無私の守護者に休息の機会を与える」ためであり、また直ちに選挙を実施するとの声明を発表。

唯一の支持者であったルーデンドルフを失い、すでに行き詰まりを見せていたポーランド国境帯状地帯併合計画がとん挫。ポーランド王国側の要請に応じ、秘密裏に返還された。予算と投資不足がたたり、ロシア系ドイツ人や貧しい退役兵ですら定住しようとしなかったのが原因だった。

以下翻訳中



特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

英国革命

英国革命と暴動が勃発する決定的瞬間は、今なお秘密に覆われ不明瞭なままである。確実なのは、南ウェールズのタレニー炭鉱での一連の騒動によって、その後のゼネストが急速に広まっていったということだ。ゼネスト宣...

練習用ページ

歴史ゲーム.下書き用ページでございます。どうぞ、ご自由にお使いくださいませ。練習用ページさいたま埼玉旗正式名称北武蔵および神聖なる風が吹く埼玉帝国一般名埼玉標語神は我らと共に(Gott mit Uns...

白ロシア

白ロシアWhite Ruthenia Flag白ルーシ王国旗正式名称白ルーシ王国Königreich WeißruthenienКаралеўства Беларусь(Karalieŭstva Bi...

教皇領

教皇領ファイル:教会旗,png教皇旗正式名称ローマ教皇庁一般名教皇領標語神を信じる国々に神のご加護があらんことを国歌マルシア・トリオンファーレ(偉大なる凱旋行進曲)公用語ラテン語、イタリア語首都ローマ...

大清帝国

大清帝国Qing Flag黄龍旗正式名称大清帝國(大清帝国)一般名大清帝国清清朝標語天造皇清国歌「鞏金甌」(鞏金甌/Cup of Solid Gold)公用語北京語、満州語、モンゴル語、その他首都北京...

大日本帝国

大日本帝国日章旗日章旗正式名称大日本帝国一般名日本標語五箇条の御誓文 など国歌君が代公用語日本語(事実上)朝鮮語、台湾語など首都東京都政治体制立憲君主制国家元首天皇首相犬養毅通貨日本円台湾銀行券朝鮮銀...

大戦(Weltkrieg)

世界大戦とは、1914年の夏に開戦したヨーロッパを中心とした大規模な戦争である。実質的に戦闘は1919年の11月に集結したが、公式に終戦が宣言されたのはその2年後のことである。この戦争には世界中の列強...

国粋フランス

国粋フランスフランスフランス共和国旗正式名称フランス共和国一般名国粋フランス標語自由、平等、団結(Liberté, Égalité, Fraternité)国歌ラ・マルセイエーズ(La Marseil...

国家

目次1 アジア2 中華3 インド4 中東5 ヨーロッパ6 アフリカ7 北アメリカ8 中央アメリカ9 南アメリカ10 オセアニアアジア[]アフガニスタンシャム王国大日本帝国トランスアムール(傀儡国)トル...

名誉の平和

名誉の平和とは、1921年に中央同盟と協商国の間で結ばれた公式な世界大戦の講和条約である。停戦期間[]世界大戦における殆どの戦闘は厳密には1919年の停戦条約により終結したが、アイルライド内戦のような...

南アフリカ

歴史ゲーム南アフリカ南アフリカ南アフリカ国旗正式名称南アフリカ連邦一般名南アフリカ標語団結は力なり(Ex Unitate Vires)国歌「南アフリカの呼び声(Die Stem van Suid-Af...

八省連合

八省連合 (英:League of Eight Provinces)もしくは南直系軍閥(英:Southern Zhili Clique)とは、孫伝芳を盟主として1925年に結成された、中国における軍閥...

両シチリア王国

両シチリア王国Two Sicilies両シチリア王国旗正式名称Regno delle Due Sicilie(両シチリア王国)一般名シチリアナポリ両シチリア国歌「国王への賛歌」(Inno al Re/...

ロシア共和国

歴史ゲームロシア共和国Russian Repロシア共和国旗正式名称ロシア共和国一般名ロシア国歌自由ロシアの歌(Гимн Свободной России)公用語ロシア語首都ペトログラード政治体制半大統...

ルーマニア王国

歴史ゲームルーマニア王国Iron Guard三色旗と共に併用される軍団旗正式名称ルーマニア王国一般名ルーマニア標語神無くして何ものも存在しない国歌「国王万歳!」(Long Live the King!...

リベリア

歴史ゲームリベリアリベリアリベリア国旗正式名称リベリア共和国一般名リベリア標語自由への熱愛が我々をここに導いた(The Love Of Liberty Brought Us Here)国歌万歳、リベリ...

リトアニア

歴史ゲームリトアニアリトアニア王国リトアニア王国旗正式名称リトアニア王国一般名リトアニア標語国家の強さは団結にあり!(Tautos jėga vienybėje)国歌「国民賛歌(Tautiška gi...

メインページ/テーマ

Wikiテーマ用画像[]このページでは、Wikiのテーマとして使われる画像が特別:使われていないファイルに表示されないようにしています。File:Wiki.pngFile:Wiki.png特に記載のな...

ポーランド

歴史ゲームポーランドポーランド王国ポーランド王国旗正式名称ポーランド王国一般名ポーランド国歌「神よ、ポーランドを救いたまえ(Boże, coś Polskę)」公用語ポーランド語首都ワルシャワ政治体制...