ドイツ帝国の政党

ページ名:ドイツ帝国の政党

ドイツ帝国はドイツ皇帝(兼プロイセン王)が統治する準立憲君主制連邦国家である。国内には多くの政党が存在しているが、政体はいまだ権威的傾向が強く、第二帝政憲法は60年以上手つかずの状態となっている。宰相と政府はドイツ皇帝が任命するが、立法に際しては帝国議会の承認を必要とする。議会は男子普通選挙で選出され、各邦国の代表から構成される連邦参議院は、各構成国の政府が任命している。帝国議会が追認機関だった時代ははるか過去の話であり、過去三十年以上にわたって声明や要求を強めているが、いまだ実際に政府を変えるだけの力は有していない。帝国議会が比較的弱体であるため、さまざまな政治活動家たちの圧力団体が跋扈しており、経済や政治などの特定分野で利権を推し進めようとしている。加えて、帝国構成各国は教育や法の執行、芸術後援などの地域の問題に関して相当の自治権と影響力を有しており、連邦参議院を通じて連邦法に影響を与えるほどの力を有している。多くの小規模邦国は非常に自由主義的な憲法を有しているが、プロイセン議会の不平等な階級基盤の選挙制度はいまだに論争の的となっている。こうした権威主義的性質にもかかわらず、ドイツの政治制度は複数政党制に有利である。各党はそれぞれドイツ帝国の大衆の一部を代表し、この困難な時代の中で、それぞれが一般市民にアピールして政権を握ることができる。

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目次

ドイツ・インターナショナル結社[]

ドイツ・インターナショナル結社(DOI:Deutsche Organisation der Internationale)は1918年9月のドイツ革命失敗の余波で創設された。主体となったのはスパルタクス団(カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、ヴィルヘルム・ピーク、レオ・ヨギヘス、パウル・レヴィ等)、独立社会民主党極左派(エルンスト・トラー、クルト・アイスナー、アウグスト・メルゲス等)、旧ボリシェヴィキ・青年前衛派(カール・ラデック、エルンスト・テールマン等)の三グループだった。結社は政府から非合法組織と認定されているため、地下活動を余儀なくされている。主な活動拠点はベルリンやドレスデン、ライプツィヒである。これらの地域ではいまだにカール・リープクネヒトの理論や思想が労働者、更には一部の社会民主党系労働組合の代表からも根強く支持されている。

DOI権威主義派を率いるのはエルンスト・テールマンだ。積極的アプローチで知られるテールマンは、カイザーと資本主義政府の打倒を目指し、より暴力的な戦略を支持している。テールマンは他の急進派メンバーと協力して、フランスが訓練を施したと推察される武装集団を結成した。テールマン派の支持者たちはほとんどがラインやルール地域に存在している。DOIの一員であるものの、テールマン派はリープクネヒト派について、組織を率いるにはあまりに脆弱で、古く、穏健すぎるとして軽蔑している。

指導者:カール・リープクネヒト(非公式。公式には係争中)

成立:1918年

メンバー:ローザ・ルクセンブルク、レオ・ヨギヘス、オイゲン・レヴィーネ、パウル・レヴィ、アウグスト・タールハイマー、バーサ・タールハイマー、エルンスト・トラー、クルト・アイスナー、アウグスト・メルゲス、エルンスト・テールマン、カール・ラデック、ヴァルター・ウルブリヒト、アルベルト・クンツ、マックス・ヘルツ

ドイツ自由労働組合協会[]

Rudolf rocker

ルドルフ・ロッカー、ドイツの重要なサンディカリストであり、イギリス連合とも大きな関係を有している

ドイツ自由労働組合協会(FVdG:Freie Vereinigung deutscher Gewerkschaften)は自由労働組合の統括組織として1897年に設立された。1907年に社会民主党から急進的として見放されて以来、FVdGの労働組合議員たちは、同時期にアナルコ・サンディカリスム的なアミアン憲章を採択したばかりのフランスに目を向けた。1913年にロンドンで第一回国際サンディカリスト会議が開催されると、FVdG首脳のフリッツ・カーターが議長に選出された。大戦中、FVdGは社会民主党の場内平和政策に強く反対し、積極的に反戦を喧伝した。政府は労働組合を弾圧し、多くのメンバーが逮捕されるか軍に徴兵された。組合の機関紙「Der Syndikalist」は戦後に発刊された。FVdGはスパルタクス団の放棄に強く反対していたものの、全権委任法成立以降は地下潜伏を余儀なくされた。現指導者クルト・カーターの友人であるルドルフ・ロッカーも含め、多くの代表者たちがフランスかイギリスに亡命している。現在の労働組合はルール地域で勢力を広げつつあるエルンスト・テールマンと対立しており、平和的革命路線を継続しようとしている。

指導者:フリッツ・カーター

成立:1897年

メンバー:グスタフ・ラウダウアー、ルドルフ・ロッカー、エーリヒ・ミューザム、アウグスティン・ソウヒ、ゲルハルト・ワーテンベルク

社会民主党[]

1863年5月23日に結党した社会民主党(SPD:Sozialdemokratische Partei Deutschlands)はドイツ最古の政党であり、非サンディカリズム系欧州国家の中では最大の左派政党である。ビスマルクの社会福祉改革に反対して以来、社会主義者(後に革命支持派と民主派が分裂したが)は帝国議会で勢力を伸ばし続け、世界大戦前夜の1912年には第一党となった。大戦中に旧来の社会民主主義を支持する勢力が独立社会民主党として分離した。1918年9月の平和的革命の失敗後、両党は再び和解して社会民主党に再合流した。党はルーデンドルフ独裁体制の最大の反対勢力となり、多くの報復措置の対象にもなった。社会民主党議員は独裁者の解任にも立ち会い、多くの帝国国民が独裁体制崩壊の最大の功労者と見なしている。ドイツの「二番目に偉大な宰相」アルフレート・フォン・ティルピッツ時代には、SPDも労働者階級の富の増加に苦しみ、かつての中核地盤でも選挙結果は低迷した。SPDの組織票はもっぱら下層階級とザクセン王国のライン工業地帯、シレジアの都市部に固まっているが、エルザス=ロードリンゲンもまた社会民主主義の温床であり、特に中央党の衰退や政府による中央集権化以降はこの傾向が顕著だ。

オットー・ヴェルス社会民主党党首(1931-)

党内は二つの派閥に分かれている。左派は旧独立社会民主党派が大半を占め、今なおかつての信念を保持している。一方の右派は労働組合の指導者たちや地方政府の首脳陣で構成されている。左派の指導者はマックス・ザイデヴィッツだ。彼らはテューリンゲンやザクセンなどのSPDが強い地域で活動しており、全党員の17%を占めている。その他の左派の票田はベルリン、ブレスラウ、フランクフルト、ケーニヒスベルク、シュテッティンだ。一般的に、左派は都市部や工業地帯で人気が高い。彼らは社会主義系の文化団体や青年組織にも影響を及ぼしている。一方の右派、すなわち改良主義派は理論やマルクス主義、議会活動よりも草の根活動を重視してきた。1890年代から改良主義を維持してきた労働組合幹部にはこの傾向が強く、傘下の労働者に影響を与える問題を除いて、帝国議会で発言することは滅多になかった。1914年以前から愛国主義とブルジョワジーとの協調を訴えてきた多くの公式政治派(Staatspolitiker)も改良主義派に分類することができる。党内の様々な政治潮流の中でも、新修正主義派は戦前体制に基づいた党のイデオロギー・スペクトラムのモデルから最も逸脱した思想だ。新修正主義の信奉者たちはベルンシュタインを支持しており、時代遅れのマルクス主義の仮説を放棄し、道徳問題を中心に据え、党を大衆政党に変えようとしている。だがベルンシュタインと異なるのは、愛国心を統合力のある政治ファクターとして肯定的に評価している点だ。若い新修正主義者たちはベルギーのヘンドリック・ド・マンが古典マルクス主義を批判した著書「社会主義の心理学」を引用し、反唯物論社会主義も公言している。だが彼らのほとんどは過激な民主主義者でもあり、国旗の色などのシンボリックな政治問題にも熱烈に支持している。新修正主義派は自らを「ラッサール派」を称しており、フランス革命を理想に掲げることが多々ある。第三の派閥であるSPD最右翼派は、厳密には修正主義者でも改良主義者でもない。彼らは公式政治派と呼ばれ、プロイセンを根拠地としている。エルンスト・ハイルマン(プロイセンSPDの院内幹事)、オットー・ブラウン、カール・ゼーベリング、アルベルト・クシェジンスキは、プロイセンで安定的な改革路線を主導している。過激民主主義者の新修正主義派とは社会的関係やイデオロギー上の類似点があるものの、若い同志たちの反官僚主義キャンペーンやマルクス主義の刷新に与することはない。

指導者:

  • オットー・ヴェルス(1873年9月15日生)、1931年のヘルマン・ミュラー死後の実質的党首
  • アルトゥール・クリスピン(1875年11月4日生)、独立社会民主党再合流後の共同党首

成立:1863年

メンバー:フィリップ・シャイデマン、ハンス・フォーゲル、クルト・シューマッハ、グスタフ・ノスケ、カール・カウツキー、グスタフ・バウアー、エーリヒ・オレンハウアー、オットー・ブラウン、カール・ゼフェリング、アルベルト・グジェシンスキ、エルンスト・ハイルマン、フリッツ・ナフタリ、ルドルフ・ヒルファディング、ルドルフ・ヴィッセル、ハンス・シュタウディンガー、マックス・ザイデヴィッツ、ルドルフ・ブライトシャイト、グスタフ・ラートブルフ、ユリウス・レーバー、パウル・レーベ、オットー・グローテヴォール

故人:フリードリヒ・エーベルト、ヘルマン・ミュラー

進歩人民党[]

1910年5月6日に創設された進歩人民党(FVP:Fortschrittliche Volkspartei)は、国民自由党の社会民主主義分派だ。大戦中には帝国議会の議員たちは1917年の平和決議案を支持し、ベートマン・ホルヴェーク宰相の改革を支持した。党はヒンデンブルク=ルーデンドルフ独裁に反対し、徐々に政治の自由化を提唱するようになり、多くの自由派役人から支持を集めるようになった。そしてFVPは1923年選挙でついに最大のブルジョア野党になった。だがこの成功を適切に生かすことはできなかった。党は1928年、1932年の悲惨な選挙で多くの議席を失った。社会民主党が経済や社会問題でより信頼できる選択肢として自らを提示したためだった。

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アントン・エルケレンツ進歩人民党党首(1928-)

党は分岐点に立たされている。現在の党首であり党内社会派のリーダーでもあるアントン・エルケレンツは大半の党員から支持されている。エルケレンツはフリードリヒ・ナウマンの社会改革と社会自由思想を支持している。そのため貧者指向の社会改革、女性参政権、国家主導の強力な経済介入主義、比例代表制の導入を支持している。また社会民主党=進歩人民党=中央党連立の再結成を望んでいる。だが中央党労働組合派との連立を望んでおり、フランツ・フォン・パーペン率いる右派には反対している。党内最大の右派はエーリヒ・コッホ=ウェサーが率いている。彼は党を中央党=保守党=帝国党連立に参加させたいと考えている。

指導者:アントン・エルケレンツ(1878年10月10日生)、自由主義系組合組織のヒルシュ=ドゥンカー組合連盟会長

成立:1910年

メンバー:ヴァルター・ラーテナウ、ヴィルヘルム・クルツ、ルートヴィヒ・クヴィッデ、オットー・ゲスラー、テオドール・ホイス、アルベルト・アインシュタイン、エルンスト・トレンデレンブルク、パウル・ケンプナー、ラインホルト・マイアー、トーマス・デーラー、ヴィルヘルム・レプケ

故人:フリードリヒ・ナウマン、フリードリヒ・フォン・パイアー

国民自由党[]

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グスタフ・シュトレーゼマン国民自由党党首(1917-1929)

1866年11月17日に誕生した国民自由党(NLP:Nationalliberale Partei)は、当初ビスマルク政権を母体にしていた。だが鉄血宰相の「保守回頭」後、党は凋落し始めた。かつては強大だったが、中道左派が支配的だった大戦期の帝国議会では大きな影響力を持たず、ティルピッツがドイツ右派を誇り高き提督の下で統一せんと祖国党を結成した際には、あわや吸収合併されてしまうのではないかとも危ぶまれた。党が存続できたのは、ひとえにグスタフ・シュトレーゼマンの尽力があってのことだった。シュトレーゼマン期の国民自由党はルーデンドルフ独裁に積極的に抵抗はしなかったが、政権が長続きしないとも踏んでいた。ルーデンドルフ失脚後は祖国党主導の連立に参加し、国内第三党、帝国議会では二番目に多い議席を獲得した。

ティルピッツ宰相時代には、アフリカやアジアを始めとするドイツ植民地主義、軍拡(特に海軍)、政府の自由経済方針、社会福祉制度の段階的拡充を支持し、ドイツ産業界の擁護者となった。また農業補助金政策を批判し、更なる平和的対外政策を推進し(シュトレーゼマンは独露関係を大きく改善し、ロシア市場をドイツ企業に解放しようとしていた)、政治の自由化の可能性についてはあいまいな態度を取り続けた。

シュトレーゼマンの手腕で党が繁栄したのは紛れもない事実であり、そのため彼の死はそのまま衰退に繋がった。短命に終わったエドゥアルト・ディンゲルダイ率いる党首脳部は、党史上最悪の選挙結果を招いた。ディンゲルデイは中央党=保守党=帝国党連立の末席を維持することができなかった。産業界の有力者たちも党から離れて他の利益擁護政党を探し始め、一部の中核党員すら離党してしまった。1932年選挙ではわずか二十数議席を確保するに留まり、党はもはや大連立の一員ではなくなってしまった。

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ユリウス・クルティウス、1936年選挙の宰相候補

選挙での敗退後、ディンゲルダイは党首を辞任し、最終的にライヒスバンク総裁のヒャルマル・シャハトが後継者となった。ユリウス・クルティウスが党の新たな宰相候補となり、シュトレーゼマンとは全く異なる方針を歩もうとしている。クルティウスは中欧同盟をより平等な経済連合へと改革し、ヨーロッパ全土にまで拡大しようとしている。クルティウスは「魅力的な」経済連合によって他国の経済をドイツと結び付け、欧州平和の推進と市場拡大によってドイツを発展させようと考えている。

指導者:ヒャルマル・シャハト(1877年1月22日生)、ライヒスバンク総裁

成立:1866年

メンバー:オイゲン・シファー、ユリウス・クルティウス、ルートヴィヒ・フルダ、アルベルト・デュフ-ル=フェロンス、ルートヴィヒ・カストル、ヴィルヘルム・ヴェツォルト、ハンス・ハインリヒ・ラマース、フランツ・ブリューニングハウス、アレクサンダー・ツー・ドーナ=シュロビッテン伯爵、エドゥアルト・ディンゲルダイ

故人:グスタフ・シュトレーゼマン

中央党[]

1870年に発足した中央党(Deutsche Zentrumspartei)は、常にドイツ人カトリックの利益を代表していた。ビスマルクの文化闘争と激しく対立し、やがて鉄血宰相が政策を撤廃した後も政権に反対し続けた。1890年のビスマルク退陣後は社会保障分野を筆頭に、帝国議会において政府の政策を一貫して支持し、その一方で中央党が独占的カトリック政党に留まるべきか、それともより幅広い選挙民に訴えかけるかの内部論争に注力した。大戦初期はドイツの戦争努力を支持したが、数年後には早期和平の主導的提唱者となり、1917年の帝国議会平和決議案では、院内幹事であるマティアス・エルツベルガーの指導の下、賛成票を投じた。

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フランツ・フォン・パーペン外務大臣兼中央党党首(1932-)

党はルーデンドルフ独裁に反対したが、左翼革命に協力することは望まず、戦時中は世論への宣伝や抗議運動の組織化を控えた。ケルン政策とよばれるカトリック系労働者の支持獲得を図ったが、惨憺たる結果に終わり、1923年にバイエルン派が離党した(ただし議会派閥として中央党に残った)。ヴィルヘルム・マルクス(中央党党首⦅1928-1932⦆)はこれ以上の選挙敗北を避けるべく、党内派閥の一本化に努めたが、失敗した。これによってフランツ・フォン・パーペン率いる右派集権派が指導部を掌握した。左派は中央党を見限って様々な地域政党に分裂し、バイエルン人民党も議会派閥から離れた。中央党は新たに改革されたばかりの保守党と連立を組み、少数派連立パートナーとして1932年選挙で勝利した。ハインリヒ・ブリューニングはいまだ残存する旧連邦派を率い、同じ連邦派のバイエルン人民党や他の分派政党と再合流を果たし、党の路線を元に戻したいと考えている。アダム・シュテカーヴァルト率いる左派集権派はキリスト教系労働組合から支持されている。

指導者:フランツ・フォン・パーペン(1885年11月26日生)

成立:1870年

メンバー:ハインリヒ・ブリューニング、マティアス・エルツベルガー、アダム・シュテガーヴァルト、ヴィルヘルム・マルクス、ハインリヒ・ブラウンス、ヨーゼフ・ヨース、コンラート・アデナウアー、ルートヴィヒ・カース、ヨーゼフ・ヴィルト、ハインリヒ・リュプケ

帝国党[]

1866年に発足した帝国党(DRP:Deutsche Reichspartei)は自由保守派政党だ。1890年代には保守党と国民自由党の中間的候補になろうと試みた。だが集権化や改革への意欲に欠けていたため、帝国議会では多くの議席を失った。20世紀初頭には多くのユンカーや軍人たちが党を離れ、保守党に積極していってしまった。大戦中は保守党と協力して社会民主党=中央党=進歩人民党連合に対抗した。植民地拡大と帝国艦隊増強を支持する一方で、プロイセン型の選挙制度改革に反対し、現状維持を支持した。大戦後は、多くの党員がルーデンドルフ独裁の消極的支持者となった。

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ジークフリート・フォン・カルドルフ

ルーデンドルフの失脚とアルフレート・フォン・ティルピッツの宰相就任後、幸運にも大連立に参加し、右派連合内で最も勢力の小さな党となった。当は祖国党が提出した多くの法案を支持した。1930年のティルピッツ死後、帝国党はフーゲンベルグ率いる祖国党と対立し始めたため、代わってクーノ・フォン・ヴェスタープ率いる保守党=中央党連立の小規模パートナーとして参加したが、もはやかつての面影はない。党は伝統権威主義派と急進的汎ドイツ主義派に分かれている。エドゥアルト・フォン・リーベルトなどの有力人物を含む多くの党員は、1918年の祖国党結成段階で離脱している。1930年代中盤現在、創設以来のシレジア人エリート主義者やラインラント・ルール・ロードリンゲンでも有数の産業界の大物らを中核とする古参派と、アドルフ・グラボウスキーを中心とする、より穏健で改革志向の保守派の間で、党はいまだ分裂している。後者は帝国党と真の民主政党に改革し、中央党のプロテスタント版を目指している。だが改革派はドイツ東部の少数の選挙区では比較的優勢だが、党内でのグラボウスキーの影響力は比較的小さく、帝国党はいまだ裕福なエリートたちが支配する党のままだ。祖国党の凋落に伴ってかつての地盤の一部を回復することはできたものの、今後の展開は保守党が保守大衆政党に改革するのか、あるいは帝国党と地域の地盤が急速に吸収されてしまうのかに掛かっている。

指導者:ジークフリート・フォン・カルドルフ(1873年2月4日生)

成立:1866年

メンバー:パウル・ルジューヌ=ユング、グスタフ・クルップ・フォン・ボーレン・ウント・ハルバッハ、フリッツ・ティッセン、アルベルト・フェーゲラー、ティーロ・フォン・ヴィルモフスキー、ゲルハルト・フォン・カーニッツ伯爵、ヨアヒム・フォン・オスタウ、ロベルト・レーア、ウルリッヒ・フォン・ゼル、アルトゥール・マーラウン、 ヘルマン・クリングスポル、アドルフ・グラボウスキー

保守党[]

1876年6月7日に発足した保守党(DkP:Deutschkonservative Partei)は、当初からドイツ人貴族地主、保守派プロテスタント、ホーエンツォレルン君主制支持者の利益を代表していたが、当初はドイツ統一に懐疑的だった。ビスマルク時代には大きな力を有しており、特に宰相が貿易保護主義に舵を切ってからは更に影響力を増し、20世紀初頭まで有力政党であり続けた。不運にも1912年以降はドイツ右派の指導的勢力ではなくなり、戦争中に社会民主党=中央党=進歩人民党連立に有効打を打てなかったことで祖国党の結成を招き、多くの支持者や党員が吸収されてしまった。当初はルーデンドルフ独裁を支持していたが、20年代からは反対に回った。1923年選挙後、エルンスト・フォン・ハイデブラント・ウント・デア・ラサとクーノ・フォン・ヴェスタープ伯爵率いる保守党はやむなく大連立に参加した。

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クーノ・フォン・ヴェスタープ保守党党首(1924-)、宰相(1930-)

ティルピッツ宰相時代、保守党は再び帝室、現憲法、中欧同盟の存続を支持し、特に中欧同盟を併合と植民地化の優れた代案と捉えた。また保守党の中核的票田であるプロイセン地主たちの存続に不可欠な農業助成金政策に精力の大半を注ぎ込んだ。1928年選挙後、祖国党の拡大に苦しむヴェスタープは、保守党の近代化に着手し始めた。都市部の右派有権者にアピールし、党を包括的保守政党に変革した。またビスマルクに着想を得て、社会保障制度の拡大を喧伝して中央党支持者から支持を得ようとしたが、同時期に中央党が提案した支出削減によるインフラ対策案に支持し始めた。とはいえ1923年のスキャンダル後も農業補助金制度への支持から手を引くことはなかった。1930年のティルピッツの突然の死後、カイザーはヴェスタープを後任に指名した。二年間に渡る平穏な治世の末、ドイツの有権者たちはヴェスタープをドイツ好景気の保護者と認め、新たな宰相として票を託した。ヴェスタープは求めに応じ、その後数年間は平穏に、ほとんど変更を加えることなく政務を務めた。党は今なお帝国の中央集権化を支持し、選挙制度改革に強く反対している。

指導者:クーノ・フォン・ヴェスタープ伯爵(1864年8月12日生)、現ドイツ帝国宰相

成立:1876年

メンバー:オスカー・フォン・ヒンデンブルク、ヴィルヘルム・フォン・ガイル、アドルフ・トルティロヴィッツ・フォン・バトツキ=フリーベ、ロベルト・フォン・カイザーリンク=カメラウ、エラルト・フォン・オルデンブルク=ヤヌシャウ、リヒャルト・クンツェ、ヴェルナー・フォン・アルフェンスレーベン、ヨハネス・ポーピッツ、カール・フリードリヒ・ゲルデラー、フリードリヒ=ヴェルナー・フォン・デア・シューレンブルク伯爵、ハンスヨアヒム・フォン・ロール、オットー・クリスティアン・アルヒバルト・フォン・ビスマルク、コンスタンティン・フォン・ノイラート

故人:エルンスト・フォン・ハイデブラント・ウント・デア・ラサ

祖国党[]

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アルフレート・フォン・ティルピッツ前祖国党党首(1918-1930)、宰相(1923-1930)

全ドイツ連盟(Alldeutscher Verband)のフロント組織として1917年中頃に発足した祖国党(DVLP:Deutsche Vaterlandspartei)は、主戦派、反民主主義、過激民族主義の政治家階級を代表していた。協商国への総力戦継続を提唱し、戦争目標の最大化を狙った。設立当初から、アルフレート・フーゲンベルクなどの有力な実業家、ヨハン・アルブレヒト・フォン・メクレンブルクなどの高級植民地政治家、ハインリヒ・クラス率いる全ドイツ連盟が後ろ盾となった。軍部独裁の積極的な支持者だったこともあり、祖国党とヒンデンブルク、ルーデンドルフは互いに支え合った。1923年にルーデンドルフ独裁が崩壊すると、カイザーは祖国党党首のアルフレート・フォン・ティルピッツを宰相に指名した。ティルピッツは現実主義を取り、ルーデンドルフ独裁と戦争が残した課題を解決するために右派大連立を結成した。このことはティルピッツの魅力を高めたが、軍部独裁が正しく、ドイツの最高の政府形態であると考え、それ以外など一切認めなかった党員たちからは不満が噴出した。彼らはアルフレート・フーゲンベルクの指導の下で独自政党の旗揚げを目論見た。フーゲンベルク派の有力メンバーには全ドイツ連盟の指導者であるハインリヒ・クラス、そしてフェルキッシュ運動に影響を受けた政治家のラインホルト・ヴレ、クリスティアン・メルゲンターラー、エドゥアルド・ステッドラー、アントン・ドレクスラー、アルトゥール・ディンターらがいた。

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アルフレート・フーゲンベルク現祖国党党首(1930-)

だがティルピッツの現実主義は大きな支持を獲得していたため、新たな党員の多くがティルピッツに与し、新党に加わらなかった。そしてティルピッツの死後、フーゲンベルグはウルリヒ・フォン・ハッセルとの熾烈な党首選を勝ち抜き、多くの「穏健派」党員が保守党か帝国党に鞍替えする中、なんとか残存するティルピッツ支持派を党に取り込み、党首の座に収まった。カイザーが宰相指名を拒否し、保守党の候補を指名したことで、フーゲンベルクはヴィルヘルム2世をも敵視し、今では彼を主敵と捉えている。党の綱領は議会政治と社会主義の解体、ユダヤ人の権利はく奪、全ドイツ領土(オーストリアとボヘミア王冠領)の統一を訴えている。軍国主義的価値観の擁護者として、祖国党はドイツ最高位グループの有力人物、クルト・フォン・シュライヒャー率いる、いわゆる「シュライヒャー派」と協力している。シュライヒャー派は第二次軍部独裁を目論む有力軍人のグループだ。

党内には穏健派も存在している。彼らは1930年に離党せず、フーゲンベルクの過激路線に反対し、ティルピッツ時代の融和路線の継続を望んでいる。穏健派を率いているのはティルピッツの養子で元秘書、祖国党創設メンバーでもあるウルリヒ・フォン・ハッセルだ。だが多くの政治専門家は、穏健派が小規模な派閥であり、メディアを背景にしたフーゲンベルク指導部の現実的脅威ではないと分析している。

指導者:アルフレート・フーゲンベルク(1865年8月19日生)

成立:1876年

創設者:アルフレート・フォン・ティルピッツ、ヴォルフガング・カップ、ヨハン・アルブレヒト・フォン・メクレンブルク

メンバー:ウルリヒ・フォン・ハッセル、ヘルマン・フォン・ゲーリング、エルンスト・レーム、ヴィルヘルム・クーベ、ハインリヒ・クラス、エミール・キルドルフ、オットー・フォン・フェルトマン、クリスティアン・メルゲンターラー、アルトゥール・ディンター、ラインホルト・ヴレ、フランツ・クサーファー・リッター・フォン・エップ、アクセル・フォン・フライターク=ローリングホーフェン

故人:アルフレート・フォン・ティルピッツ、ヴォルフガング・カップ、ヨハン・アルブレヒト・フォン・メクレンブルク、エドゥアルト・フォン・リーベルト

シュライヒャー派[]

クルト・フォン・シュライヒャーを中心とするは軍将校の集まりは、正確には政党やそれに類する組織ではないが、それでも帝国宰相の座を狙っている。シュライヒャーの昇進はルーデンドルフ失脚後の新たな帝国参謀総長、ヴィルヘルム・グレーナーによるところが大きい。グレーナーはシュライヒャーを重用し、瞬く間に出世させ、1932年にグレーナーが内務長官に指名された際には、シュライヒャーは軍と政府間の連絡役となった(後任の参謀総長にはハンス・フォン・ゼークトが就任した)。軍はカイザーの隷下にあり、したがって政府に回答する義務はなかったため、シュライヒャーはカイザーと幾度となく謁見する機会を勝ち取った。彼のカリスマはカイザーを魅了し、その影響力は政治家から嫉妬されることになった。

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クルト・フォン・シュライヒャー

機会が訪れれば、シュライヒャーは宰相となり、議会民主制を停止するだろう。シュライヒャーは軍隊を国の最優先事項にしない政治家を選出することのできる議会民主制を欠陥と捉えており、また反軍国主義を掲げるSPDを憎んでいる。 シュライヒャーをはじめとする多くの軍高官たちが望んでいるのは、軍隊と国家の合併、いわゆる国防国家(Wehrstaat)を創設することだ。将校が行政職に就き、軍隊を国家の最優先事項とすることである(まさに『プロイセンとは国家を持つ軍隊である』という言葉を再現しようとしている)。彼は祖国党に協力することを厭わないが、目的達成のための一時的な道具としてのみ扱うだろう。シュライヒャーは祖国党を脅威と捉え、目標実現の大きな対抗勢力と捉えている。

指導者:クルト・フォン・シュライヒャー(1882年4月7日生)

メンバー:ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ、エドゥアルト・リッター・フォン・シュライヒ、フェルディナント・フォン・ブレドウ、クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト、フェードア・フォン・ボック、オイゲン・オット、エルヴィン・プランク、ヴァルター・フォン・ライヒェナウ、ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ、ヴェルナー・フォン・ブロンベルク、マックス・バウアー

小規模政党[]

バイエルン人民党[]

バイエルン人民党(BVP:Bayerische Volkspartei)はバイエルン王国を拠点とするカトリック保守主義、連邦主義、バイエルン重視を掲げる政党である。かつては中央党バイエルン支部だったが、大戦終結後の1923年に離党した。当時の中央党はますます集権主義に傾き、バイエルンの主権維持を望んでいたバイエルン地域主義者らから不興を買った。地域主義者たちはバイエルンの歴史や政治においてきわめて重要な役割を担ってきた。人民党は分離以降も議会派閥としては中央党に留まっていたが、1928年にフランツ・フォン・パーペン率いる右派が党を支配し、さらには保守党や帝国党といったプロテスタント・権威主義的政党と連立を形成したことで議会からも離脱した。1935年現在、人民党はハインリヒ・ブリューニング率いる中央党左派との緩やかな関係を維持しているが、今のところ独自路線を歩んでいる。

キリスト教社会主義帝国党[]

キリスト教社会主義帝国党 (CSRP:Christlich-Soziale Reichspartei)はバイエルンで結成された左派寄りの保守・キリスト教社会主義政党である。大戦終結後に中央党バイエルン支部が右派寄りの思想をベースにバイエルン人民党を立ち上げると、バイエルン保守派の左派は人民党からの独立を宣言し、中央党への残留を表明した。だが当の中央党そのものも右傾化するようになり、1928年にフランツ・フォン・パーペンが党首に就任すると、キリスト教社会帝国党も議会派閥から離脱し、現在では人民党同様に独自路線を進んでいる。

農業系諸政党[]

多くのドイツ農業系政党は地方部で大きな影響力を享受している。ドイツ南部ではその傾向は特に顕著で、エルベ川東部でも一定の支持を集めている。その政治イデオロギーは様々だ。バイエルン小作農連盟(BBB:Bayerischer Bauerbund)やドイツ小作農連盟(DB:Deutscher Bauerbund)はリベラル的価値観を喧伝しており、人民進歩党や国民自由党と協力して小規模農家から絶大な支持を得ている。一方でプロイセンの農民連合(BDL:Bund der Landwirte)は保守党と非常に近しく(一例として帝国宰相のクーノ・フォン・ヴェスタープ伯爵はかつて農民連合の一員だった)、エルベ川東部のユンカー(裕福な地主)たちの代弁者であり、反動・超国家主義・あからさまなまでの貴族主義的価値観を支持している。だがすべての農業系政党の核となる政策は、往々にして地域主義、反社会主義、経済保護主義、下位中産階級支持といった側面を含んでいる。

ポーランド党[]

19世紀後半の移住以来、ドイツ国内のポーランド系住民はプロイセンのポーゼン諸州、西プロイセン、東プロイセン、シレジア、ルール地域を中心に居住している。現在ポーランド党(PP:Polnische Partei)はドイツ最大のマイノリティ系政党となっている。党の起源は1848年革命にさかのぼり、1871年以来帝国議会に議席を有している。党は根強いカトリック信仰と、プロイセンのドイツ化政策への反対を表明しており、かつては幾度となく中央党や他のマイノリティ系政党と連携した。だが中央党で右派が台頭し保守党=帝国党と連立を形成して以来、中央党とポーランド党の関係は冷え込んでいる。

ドイツ=ハノーファー党[]

ヴェルフ党(Welfenpartei)ことドイツ=ハノーファー党(DHP:Deutsch-Hannoversche Partei)はプロイセンのハノーファー州を地盤とする保守・連邦主義政党だ。かつてハノーファーは独立王国であり、1867年に併合された。元々はハノーファー王国の復興と旧領主のヴェルフ家の差し押さえ資産の回復を支持していた。だがやがてほとんどの住民がハノーファー王国の滅亡を実感し、また1913年にはブランシュヴィック公爵エルンスト・アウグストとプロイセン王女ヴィクトリア・ルイーゼが婚約したことでホーエンツォレルン家とヴェルフ家が和解し、ブランシュヴィック公爵がハノーファー王位の請求権を放棄したため、党の人気は急落した。 党はより大衆向けの政策をアピールした。その中の一つが「プロイセンの中での連邦主義」と呼ばれる政策だ。これはプロイセンの主権をエルベ川東部に限定し、ハノーファー、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン、ラインラント、ウェストファリア、ヘッセン=ナッサウにより大きな自治権を付与するというものだ。

党首:ゲオルグ・エルンスト・フォン・ベルンストルフ(1870年10月5日生)

成立:1867年



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