英国革命
英国革命と暴動が勃発する決定的瞬間は、今なお秘密に覆われ不明瞭なままである。確実なのは、南ウェールズのタレニー炭鉱での一連の騒動によって、その後のゼネストが急速に広まっていったということだ。ゼネスト宣...
エジプト | |||
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Egypt | |||
エジプト国旗 | |||
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エジプト・正式にはエジプト・スルタン国はアフリカ北東部に位置する、君主制の国家である。北に地中海、東に紅海と面しており、アビシニア、ドイツ領中央アフリカ及びドイツ帝国、フランス共和国、トリポリタニアと国境を接している。
名誉の平和後もいまだエジプトは、スルタン・フセイン・カメルの下イギリスの保護下にあった。カメルの死後息子のカマル・エル=ディン・フセインがスルタン位を拒否したため、弟のフアードがフアード1世として即位した。彼が即位したとき英国の支配に対抗する民族主義感情の高まりへの対処や英国への対処をはじめとする、困難な時世を彼は打開しなければならず、その統治は波乱に満ちたものであった。
民族主義的思想はフアード1世の即位後も国内で高まり続け、イギリス革命がおこるとこれを好機とした民族主義者は反英の反乱を起こした。これに対しフアード1世はこの反乱を弾圧するのでなく、反乱に乗じイギリスの保護下から抜け出すため、反乱者と同じく自分も従順な民族主義者と宣言し、対英戦の先鋒に立つこととなった。
イギリス革命によって世界中が混乱の渦に巻き込まれる中、ドイツ帝国は世界の秩序を守るということを大義名分にスエズ運河地帯を占領した。多くの民族主義者はこれに不満を憶え、ドイツから運河地帯を取り戻すため、ドイツとの戦争を望んだものの、フアードはイギリスとドイツの両国と戦闘するのは不可能であるとし、これを却下した。
この不満をなだめるためにフアード1世は、憲法を制定するなどの改革を進めた。ドイツ帝国とは運河地域をめぐっての対立があったものの1925年エジプト憲法はドイツ帝国憲法を規範に作られた。結果的に憲法制定は不満を解消することに成功し、スルタン・フアード1世は国内でも人気のある指導者の地位を確立した。
1925年の革命によってエジプトの社会構造は大きな転換点を迎えた。特にエジプトにおけるナショナリズムは大きな変革を遂げ、オスマン帝国支配下時代やイギリス保護下時代には地下組織的な活動しかできなかったものが、一転フアード1世の公言によって、表舞台に立つこととなった。これはムハンマド・アリ時代にエジプトの自治が認められてから初の出来事であった。1925年革命時に成立成立したワフド党は現在第一党であるなど新党の活躍が目立ち始めたのもこのころである。パシャという称号はオスマン帝国の権威と結びついていて、非エジプト的であるという考えから、その階級が廃止されるなど社会階級にまでも変革が及んだ。
1920年代、国内ではエジプトをヨーロッパ諸国に追いつかせるため、工業化の機運が高まった。フアード及び閣僚たちはオスマン帝国やイギリスの統治によって後進国のままであるエジプトをよく認識しており、サード・ザグルール首相率いるワフド党も独自の方法で近代化の方法を探していた。
近代化を進める中で、社会改革もまた進んだ。サアド・ザグルールの妻であるサフィヤ・ザグルールやフダ・シャーラウィなど上流階級の女性が率いたフェミニズム運動などもその一つである。フダ・シャーラウィは革命後、フェミニスト連合を立ち上げ、フアードをイギリスの傀儡とみなし、女性たちとデモ活動を続けた。この活動はエジプト革命後も続いている。
これらのワフド党政権下の社会構造の急速な自由化は、予想外に保守的な流れを引き寄せた。このころ成立した、イッティハド党は反自由主義の性格を帯び、厳格な宗教政策の施設と社会保守政策をマニフェストとしたが、教育・福祉政策を推進するという方針を打ち出したため、強い支持を集めた。イッティハド党は反動政党ではあったが、近代化についてはその成果によって、イスラム教の布教につながるとし、肯定的な意見を持っていた。
この改革の最中、フアードは政府内の自由派との溝をますますと深めていった。自由主義者は君主の力を弱めようと動き、スルタンを名目上のみの君主とする真の立憲君主制を目指そうとしている。しかしながらフアードは地位と権力を維持するため、保守的な政策を好んでいる。そのせいで、絶対君主制を目指しているのではないかとの噂もたったが、もしそれが本当であったとしても、フアードは公に公言することはなかった。
30年代までには自由主義は国内で黄金時代を迎えていたが、その自由主義者の内部では小さな変化が多数あった。1931年の選挙において、ワフド党ではなく、ワタニ党のハフィズ・ラマダンが首相として当選するなどがその例である。1928年にワフド党がサアド・ザグルールの遺産を継承しようとしたため、ワフド党からサアド派を名乗る党員が分裂したことが、勝利の要因であるとされる。分裂した党員は新生党を作り、自由党、もしくは立憲自由党と名乗り新たな社会改革を目指すため、活動をしていった。
ワタニ党は、スルタンに従って数々の改革を進めていったが、立憲君主制を目指すための改革等は廃止を続けた。しかし、スルタンが絶対君主制を敷くという目的のためにそれを行っているのではなかったため、自由党やワフド党の批判をもってしても改革は中断されることはなかった。そのような態度はエジプト国内に、国王はどのくらいまで権力を持つべきなのかという政治的問題を引き起こした。現状維持のままが一番だという者もいれば、ワフド派や自由主義者は権力を削って国王を象徴的な存在にすべきだと主張している。またイッティハド党などはもっと権力を強化しようとする立場に立つなど、国内でも様々に意見が分かれた。
対オスマン帝国の計画が練られ始めたのは30年代に入ってからであった。エジプトのナショナリズムの勃興により、栄光を取り戻そうと多くの人々が賛同したうえ、オスマン帝国の解体を目指したアラビア諸国との利害が一致したこともあり、オスマン帝国の衰退とともにアラビア諸国との大同盟であるカイロ枢軸構想がなされ始めた。
エジプトにおけるナショナリズムの発生は、オスマン帝国派がイギリスと同様にエジプトを抑え込んでいたという思考から、反オスマン・反トルコ感情を伴って成長した。1936年現在、多くの人々が、オスマン帝国という強大な巨人をたおし、その瓦礫の上に新たな帝国を築こうとしている。そのために、カイロでは大会議が計画されるなど、対オスマンの機運は続々と高まっているが、その攻撃がどのような形で成立されるかは、いまだ未定であり、様々な政治的問題が多発する恐れがある。
1925年革命以降、エジプト人の民族アイデンティティが様々な知識人から重要視されるようになった。エジプト人とは正確には何なのか、エジプト人は何を意味するのか、エジプト人はいつから偉大なのか、様々な問いがエジプト全土で上がった。1936年までに、これらの疑問を解決するために、2つの競合する運動が出現した。
ファラオニズム[]この考えはエジプトの偉大さの根源はイスラム教の伝来以前にあるとし、ファラオ時代のエジプトのことを重視している。これらは、エジプトが地中海文明の一部であるとして、ナイル川を軽視するわけではないが、エジプト文化の中心的役割を担っているのは地中海であったと主張する。厳密には自由主義派でないものの、自由派と連携することが多いが、ワタニ党の中にも少数であるが支持者が存在する。現在、エジプトにおいて最も支配的な運動である。
イスラム主義[]第二次文化運動において、ファラオニズムに対抗するべくして結成された運動であり、この運動はエジプトの偉大さはファーティマ朝やアイユーブ朝から始まるとしている。この運動の支持者はファラオニズム支持者のことを、多神教を奉じる異教徒と扱い、圧政を支持する専制君主論者として認識している。この運動はエジプトがイスラム教の中心地であった時代を振り返り、多民族的で文化的に寛容であったエジプトこそがイスラム教の中心地になりうるとの認識を持っている。この運動は主流のファラオニズムとの対極に位置する保守的なもので、特にイッティハド党などの支持を受けて活動をしている。
両陣営とも、根幹には多民族国家のエジプトを支持しており、ファラオ派もイスラム派もエジプトは古来より常に多民族国家であったとの認識を持っていることに注意しなければならない。どちらの運動も基本的に民族的ロマン主義であり、文化や芸術にも影響を与えている。
1925年革命によってエジプトは、トルコ人のパシャによる圧政からパシャ制の廃止によって、ドイツ系憲法による統治へと大きく舵を切った。この変革は急速に新たな政党を誕生させ、ほとんどが、保守か自由のどちらかへと属することになった。1936年までには新党のうち4党が様々な形で、政治を牛耳っていくこととなった。
Hizb al-Ahrar al-Dusturiyyin(立憲自由党):立憲自由党は1928年にワフド党から分裂した最も新しい主流政党である。社会自由主義的な改革を推進し、4大政党の中では立憲君主制を最も強く支持する政党である。サアド・ザグルールの政策を強く支持していることからサアド派、もしくはサアディストと呼ばれている。
Hizb al-Wafd(ワフド党):ワフド党は立憲自由党の分裂後も最大かつ最も人気のある自由主義政党であり続けていおり、特に都市部の中産階級層の支持が厚い。立憲自由党と同じく、立憲君主制を支持しておりスルタンの保有する権力をいまよりも減らそうと画策している。
Hizb al-Watani(ワタニ党):エジプトにおける主要な保守政党であるワタニ党は、現在の君主制の維持を目的とし、スルタンの権力をこれ以上減らさないことを目標にしている。支持基盤は農村の農民にある。25年憲法の政教分離主義を支持する一方、エジプト社会の中のイスラム教徒とキリスト教徒の宗教的価値観の違いをはっきりさせておくべきだとも主張している。
Hizb al-Ittihad(イッティハド党):イッティハド党はエジプトにおける保守第2党であり、王制が絶対的というわけだはないが、王家の意向に沿った方針を立てている。党は国家の安定のため社会的・宗教的に保守的な価値観を支持し、政府によるワクフ(イスラム社会で何らかの財産を基金として供出して利益を慈善事業として施すシステム)の管理を行い、公的及び民間に寄付金を公正に分配すべきであると考えている。
そのほかにも、当然ながらドイツのSPDに影響を受けたHizb al-Masri al-Dimuqrati al-Ijtma'i(エジプト社会民主党)などの存在も認めている。しかしながらこの党は現在エジプトにおいて極めて少数派である。
エジプト=スルタン:フアード1世
首相:アリー・マハー
外務大臣:フセイン・セリー
財務大臣:ハッサン・アラム
安全保障大臣:アブドゥルファッターハ・アムル
陸軍は常に、精強な軍隊を目標に訓練を続けている。何世紀にもわたってオスマン帝国の支配下にあったうえに、解放後もイギリスの支配下にあったせいで、独立時には近代的な軍隊となることはできなかった。しかしながら今現在、オスマン帝国を打倒するために陸軍を近代化し強力にする計画が進行中である。
1925年革命の初期、アレキサンドリアとポートサイドに入港していた数隻の英国艦船がエジプト人革命家の手によって拿捕された。これらは、ほとんどが古く、先の大戦時の装備であるため戦力に数えるには厳しいが、現在新しい船を購入もしくは建造する計画が進められている。
空軍は陸軍の一部として、最近設立された。しかしながら、多くのパイロットたちは空軍を独立した軍として編成することを望んでいる。とはいえ彼らは全力を尽くしエジプトの国土を死守している。
エジプトはオスマン帝国と敵対関係にある。多くの国民は、向こう数年をエジプトが新たな支配国となるような、希望のある新時代とみている。もちろんその実現には様々な計画が必要になるであろう。
キレナイカとの関係は複雑である。現在キレナイカの国王イドリス1世はカイロに亡命中である。そのため彼がもし王位を回復したとなれば友好国になるであろうが、今はオスマン帝国の傀儡国である。
ドイツとの関係はスエズ運河の支配権をめぐって、緊張関係が続いている。だが、近年ドイツによるエジプト国内への投資が増加しており、飛行船ツェッペリンを利用し旅行することがドイツ人に人気であるなど、文化的・産業的には有効な関係を築いている。
ジャバル・シャンマル、イエメン、ナジュドなどアラブ諸国とは友好な関係を築いている。これらの国家とは距離が離れているが、アラビアが統合されれば、良き同盟者になるとの考えがある。
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