中央大陸における時代区分は主に以下のように分けられる。
神代の時代
大陸暦が成立する前。
大陸西部
古代
概ね大陸暦成立から大陸暦800年頃。
封建的な国家が各地で多数成立した。
終焉は800年代初頭に多くの人間の王朝が亜人征服政策を始めるまでとされる。
中世前期
800年代から亜人国家が消滅する1300年代初頭まで。
1306年にオークの王朝が消滅したのを最後とするのが一般的。
また、それまで西部の一部地域で信仰されていたに過ぎなかったジェニス教が一般大衆にも広く普及した時代でもある。
火薬が登場し、普及したのもこの頃。
中世中期
1300年代初頭から、絶対王政の国家が乱立する1400年代初頭まで。
戦乱の時代ともいわれ、西部では爆発的に人口が増えたことによる疫病の流行や領土の確保の為の侵略戦争等が頻発した。
中世後期
1400年代から1570年代。
封建・農奴制社会で、中央集権的な絶対王政が最も繁栄した時代。
文化的に大きな変化があった一方、ジェニス教の締め付けが厳しくなった時代でもあった。
航海術と造船技術も大きく発達し、西部地域の中でも発展した国は大陸南部や極東部を征服し、植民地とした。
近世
1570年代から1674年の流星の災厄まで。
絶対王政に揺らぎが見え始め、市民の政治思想の高まりから革命等が多く起きた。
中でも1595年のグレリア四月革命とグレリア・ラフラの二共和国成立は周辺諸国に多大な影響を与え、王侯貴族は庶民に対する不安を高めた。
1600年代に中央集権主義と立憲主義を持った新興帝国アルマニア王国が勃興し、周辺諸国を統一する動きを強めると、この諸邦統一政策に警戒感を示した南西諸邦と極北諸邦はそれぞれが連邦を築き上げてアルマニアに対抗した。
前近代
1674年から1690年代半ばまで。
流星の災厄による被害からの復興に各国が勤しんだ時代。
立憲君主制が広く採用されたのもこの頃で、帝国主義の機運も高まり、植民地経営を強化する国も多かった。
市民運動の流れも活発化し、特に赤色党派の活動は特に活発だった。
近代
1690年代から1748年の世界大戦争終結まで。
帝国主義と覇権主義の全盛期で、西部各国はこぞって軍事力による領土の拡大と植民地の争奪戦を繰り返した。
経済的にも「国際社会」という概念が広く普及し、経済や情報の技術も大きく発展した。
均衡時代
世界大戦終結後。
アークランド、オーツェリア、アルマニア等からなる北洋条約機構と、和州、ソレイユ、ロピセニア等からなる極東共栄機構と、ヴェラシャ、エハールスタン、上華等からなる中央同盟機構の3つの勢力が均衡を保つ時代。
大陸西部諸国は一部を除いて基本的に北洋条約機構に属す。
上華地域
夏王朝時代
大陸暦成立から大陸暦822年。
上華地域最初の王朝で、その起源は最古の王家に遡る。
夏王朝時代とは名がついているが、夏王朝に続いて長、黄、関等の王朝が誕生している。
822年、黄王朝に滅ぼされた。
黄王朝時代
807年から1190年。
807年に上華北部で地元の豪族が夏王朝から独立。
徐々に他の王朝を滅ぼして規模を拡大し、822年には最大勢力であった夏王朝を打倒。
上華地域を統一した最初の王朝となった。
「上華」という言葉は「世界で最も上位にある華やかな地」という意味で、この頃誕生した。
諸国乱立時代
1190年から1423年まで。
腐敗の進んだ黄王朝の政策に対する民衆の怒りが爆発し、黄王朝は滅亡。
各地で豪族が上華統一を目して割拠した戦乱の時代。
最終的に北部の平と、南部の趙が残り、お互い手を出せない時代へと突入した。
南北朝時代
1423年から1558年まで。
北部の平王朝と南部の趙王朝の二大王朝が互いを牽制し合い、均衡した時代。
1554年、趙王朝皇帝暗殺未遂事件を皮切りに戦争へと突入(上華統一戦争)。
1558年には平王朝は滅亡した。
趙王朝時代
1558年から1617年まで。
上華統一戦争に勝利した趙王朝は上華地域を趙帝国として統一。
しかし1577年に皇帝が崩御すると、新皇帝は植民地確保に乗り出すも失敗を重ねた。
1610年にはアークランド王国との戦争(ダウントン戦争)に、1615年には和州の外征派大名による侵攻(和趙事変)によって国内経済が大きく混乱した。
1617年、皇帝が暗殺されると家臣だった万が政権に立ち、趙王朝は終焉を迎えた。
万王朝時代
1617年から1680年まで。
政権を握った万は1630年代から1670年代にかけて国内経済の立て直しと近代化に努め、1666年の和州皇国との戦争(和万戦争)も植民地の割譲によって賠償金支払いを避けた。
1670年代後半からは王家が政治の実権を握った封建主義から転換、議会を設置して国号も万民国と改めた。
万民国時代
1680年から1750年まで。
上華初の民主共和制国家。
1680年の総統選挙に万は親子が別候補として出馬したが、父親の万が当選し、続く1684年の選挙には息子が当選した。
1743年、和万戦争で和州に割譲された植民地を取り戻すという名分の下、和州皇国に宣戦布告。和州は協商連合に加盟していた為、自動的に協商連合加盟国が全て敵となり、北部同盟の盟主であるアルマニアに接近することになる。
しかしロピセニアでの敗北、沿岸への和州皇国海軍の攻撃、和州皇国軍の上陸、アークランド軍の侵攻等により、1747年には協商連合と単独講和することとなった。
1747年、民国党と赤色党の対立により内戦状態へ突入。
1750年、赤色党によって統一され、万民国は解体された。
均衡時代
上華連邦成立後。
アークランド、オーツェリア、アルマニア等からなる北洋条約機構と、和州、ソレイユ、ロピセニア等からなる極東共栄機構と、ヴェラシャ、エハールスタン、上華等からなる中央同盟機構の3つの勢力が均衡を保つ時代。
上華連邦は中央同盟機構に属す。
和州諸島
古代
大陸暦成立から大陸暦700年頃。
統一王朝による封建的で中央集権的な律令国家が成立するまで。
各地の土着の豪族がそれぞれ領地を治めていた時代。
中世前期
700年頃から1180年代まで。
中央集権的な律令幕府が統治した時代。
中世後期
1180年代から1630年代まで。
諸国群雄時代と呼ばれる。
1180年代に立て続けに起こった大皇の崩御と将軍職の空白が各豪族の統一争いを生み、戦乱が繰り返された。
1616年、外征派の大名が上華地域への出兵によってその戦力を大きく落としたことを皮切りに、大皇家を奉じて数人の大名が兵を挙げ、諸島を統一した。
近代
1630年代から1748年の世界大戦争終結まで。
大陸西部の文化を大量に取り入れ、大皇家の下、和州皇国として近代的な統一国家を作り上げた時代。
列強国の例に漏れず帝国主義も模倣し、富国強兵策を大幅に推し進めた。
アークランド王国とは同盟関係にあり、世界大戦争にも協商連合側で参戦。
ロピセニア等のアルマニア植民地を独立にこぎつけたが、ロピセニアの独立は他の植民地の独立の機運を高める結果にもなり、西部諸国からは不評を買った。
均衡時代
世界大戦争終結後。
アークランド、オーツェリア、アルマニア等からなる北洋条約機構と、和州、ソレイユ、ロピセニア等からなる極東共栄機構と、ヴェラシャ、エハールスタン、上華等からなる中央同盟機構の3つの勢力が均衡を保つ時代。
和州は極東共栄機構に属す。
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