世界大戦争

ページ名:世界大戦争

 世界大戦争(World War)は大陸暦1743年3月1日から1748年5月1日にかけて戦われた、史上唯一の世界大戦である。

 大陸西部における前近代から近代にかけての産業革命と、それによる経済成長によって誕生した列強国間の潜在的な対立関係が表面化し、各国を協商連合国と北部同盟国という二つの勢力に分断して行われた。

 国家総力戦という新時代の戦争は3,200万人という多大な犠牲を齎し、各国に近代戦が何たるかを実感させた。

 

背景

 大陸暦1674年の流星の災厄以後、各経済大国では帝国主義の機運が高まった。

 中世後期以来、大陸南部から極東部に植民地を持つアークランド王国とリトアラ王国(1711年に共和制へ移行)は植民地事業の強化を図り、グレリア四月革命以来政治的な対立から分離されたグレリア、ラフラの二共和国は元々グレリア王国が保有していた植民地(ソレイユ、ロピセニア)を巡って対立した。

 1705年に北部諸国を統一した新興国アルマニア帝国はこの植民地争奪戦に参加することを目し、グレリア共和国領ソレイユがグレリア・ラフラ間の係争地となると、1711年にはロピセニアに駐留していたグレリア・ラフラ両軍がソレイユへ出兵したことを見計らって万帝国から租借していたドリシア諸島からロピセニアへ侵攻、占領した(ロピセニア戦争)。これは逆にグレリアとラフラの結託を誘い、新たなライバルとなる経済大国としてアルマニアを警戒していたアークランドを含め、極西部三国が協商同盟を結成する遠因となった。

 また、南下政策でオステントーア王国とヘルート王国との対立が決定的となったヴェラシャ帝国はオステントーアとその同盟国であるアルマニアに対抗するべく、地理的にアルマニアを挟み撃ちに出来るグレリア共和国と接近。1726年には軍事同盟を結んだ。

 この為、アルマニアはそれに対抗すべくオステントーア、ベルージア連邦、ヤメリア王国に北部同盟の結成を呼び掛けたが、アルマニアによる民族統一の流れに対抗すべく誕生した経緯のあるベルージア連邦は加盟を拒否し、中立を保った。

 和州皇国は1666年の和万戦争での植民地獲得以来、植民地の確保にも力を入れるようになり、上華の万王朝とは関係悪化の一途を辿っていた。財政を立て直して国家を一気に近代化させた万民国と、ロピセニアを獲得したアルマニア帝国への警戒から1713年にアークランド王国と軍事同盟を結び、また、1730年の更新時には南下政策によって勃発した胡洪事変で万と交戦したヴェラシャへの牽制も兼ねて協商連合に加盟した。

 ノルトラント連邦とオーツェリア連邦は1707年にアークランド王国と北洋協商同盟を結び、これが後の協商連合の前身となった一方、両国とも開戦当初は戦争に非常に消極的で、特にオーツェリアは協商連合には加盟していないとして中立う立場をとった。しかしノルトラントは1744年のバーニア海海戦とレンデンブルク空襲で大陸本土への陸軍派遣を決定し、オーツェリアも1745年に領海侵犯を繰り返しオーツェリア海軍の警告も無視するアルマニアの艦隊と交戦したことによって戦争に本格的に参戦することとなった。

 

前哨戦

 後世の歴史家によって、世界大戦争にはいくつかの「前哨戦」が存在したとされる。

エルツィヒ問題

 1711年、クルコフ公国を戦争によって下し、政情も安定したヴェラシャ帝国は、更に南下してエルツィヒの獲得に乗り出した。

 エルツィヒはオステントーア王国とヘルート王国の間にある、両国間の緩衝地帯であると共に、独立した都市国家でもあり、大陸西部と中南部の境界となるエルツ運河を有していた。

 このエルツ運河は南央海に通じる大陸南部最大級の運河で、ヴェラシャにとってこの運河とエルツィヒの獲得は不凍港の獲得と海洋進出への躍進を意味したが、オステントーアにとってはこのエルツィヒと西部のクヴェレラントが唯一の海洋との接点の為、何としても手放すわけにはいかない土地であり、ヘルートにとってはエルツ運河は危険な砂漠地帯が広がる南部のデゼリア砂漠を避けて国家の中枢たる北部地域が外海と直接貿易することが可能な運河であった為、ヴェラシャの南下政策は両国との摩擦を生んでいた。

 1718年6月にはヴェラシャ帝国軍が実施した大規模演習で、一部の砲撃がヘルート王国軍の宿営地近くに着弾し、国境の緊張が高まった。ヘルートはこれに対して厳しく抗議し、8月に予定されていた夏季演習を中止するようヴェラシャに求めたが、ヴェラシャはこれを無視し、夏季演習は予定通り行われた。

 オステントーアもヘルートに同調し、国境付近での緊張の高まりはヴェラシャに責任があるとして国境付近からの軍の撤退を要求。しかしヴェラシャはこれを内政干渉であるとして逆にオステントーアとヘルートを厳しく非難した。

胡洪事変

 1726年、万民国ではヴェラシャ帝国の南下政策とエルツィヒ問題に関して強い懸念を抱く声が多くなってきていた。

 ヴェラシャがオステントーア王国とその同盟国であるアルマニア帝国を牽制する為にグレリア共和国に接近し、1726年にグレリアと同盟を結ぶと警戒感は更に高まった。

 1720年頃からヴェラシャ帝国軍の一部が万民国との国境近くまで南下してきており、特に国境によって大陸から分断された胡洪半島の北部ではヴェラシャ帝国軍と万民国軍の睨み合いが続いていた。

 

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