新百人一首(足利義尚撰) - いにしえwiki
送むかへて 雲のうへに なれにし月も ゝのわすれすな (土御門院)098.あり明の 空に別れし いもがしま かたみのうらに 月ぞのこれる (後嵯峨院)099.わすれずよ みはしの花の 木のまより かすみてふけし 雲の上の月 (伏見院)100.蘆原や みだれしくにの かぜをかへて
送むかへて 雲のうへに なれにし月も ゝのわすれすな (土御門院)098.あり明の 空に別れし いもがしま かたみのうらに 月ぞのこれる (後嵯峨院)099.わすれずよ みはしの花の 木のまより かすみてふけし 雲の上の月 (伏見院)100.蘆原や みだれしくにの かぜをかへて
月の すみた川 都の友と 見るかひもなし (後二条院権大納言典侍)063.波こさは いかにせむとか たのめけむ つらきなからの 末の松山 (後嵯峨院大納言典侍)064.いかにせん 立つ名はかりは 高砂の みをのそま木の しふき思ひを (後二条入道前太政大臣妻)065.露のぬき よ
3 賀茂御幸記 かもごこうき 寛元 後嵯峨天皇 043 賀茂御祖皇大神宮御幸記 かもみおやこうたいじんぐうごこうき 建長 後嵯峨院 043 石清水臨幸記 いわしみずりんこうき 文応 深草院 043 両院石清水宮御参籠記 りょういんいわしみずぐうご
復活論へと導かれることとなる。また、遺詔によって自ら決める追号を遺諡と言い、大治4年(1129年)7月の白河院を初めとして、著名な例だけでも後嵯峨院・後醍醐天皇・後小松院・後水尾院などの諸帝がいる。私的性質が強い追号は帝王のみならず公武の臣下にも多く、邸宅の号や縁の地をもって「某
427 後宇多院御灌頂記 427 七仏薬師御修法記 428 宸筆御八講記 428 後嵯峨院宸筆御八講之記 428 延徳御八講記 428 和久良半の御法 429 雲井の御法
葉集崇徳院御百首崇徳院御集後鳥羽院御集遠島御百首遠島御百首抄土御門院御集土御門院御製百首順徳院御集順徳院御百首順徳院御製百首抄内裏名所御百首後嵯峨院御百首亀山院御集嘉元仙洞御百首伏見院御集伏見院御製伏見院御百首後宇多院御百首後伏見院御集愚藻(後二条院御集)後二条院御百首花園院御集
順德院〔八十四代〕はあそばしをかれ侍り。此院の御事よ。鞨鼓拍子といふ物にて御けさせ給ひなどして。すぐれたる御あしにておはしましける。その後は後嵯峨院〔八十七代〕後深草院〔八十八代〕龜山院〔八十九代〕など此道の中興にてましましける。其比中院大納言爲家卿と申侍し人。堪能につきてあげま
自歌合日吉社撰歌合石清水若宮歌合光明峰寺摂政家歌合卿相侍臣歌合名所月歌合日吉社歌合定家卿自歌合遠島御歌合河合社歌合春日若宮社歌合百三十番歌合後嵯峨院歌合建長三年影向歌合閑窓撰歌合新時代不同歌合三十六人大歌仙風雅詞書住吉社歌合玉津島歌合十五夜歌合文永三十番歌合亀山殿五首御歌合摂政家
66.就台盤所御壺楓初紅葉,藏人永繼即答事667.二品時賢家柳木為關白所召事并友木枯而殘木亦枯事668.建長元年二月行幸前太政大臣實氏家頃,後嵯峨院詠梅花事669.侍從隆祐于白河賞花時依所誘之人不參而贈歌事670.節附移植金光院之櫻事671.松樹稱貞木侍并菅原道真于太宰府詠我宿梅