張嶷_(蜀漢) - 日本通信百科事典
張嶷を従事に抜擢した。同郷の龔禄[4](195年~226年)と姚伷は巴郡の名士だったが、進んで張嶷と親交を持った。226年頃、親友の龔禄は越嶲郡太守だったが、越嶲郡の奥地である斯都県のタイ系濮族の酋長・李求承[5]が叟族の鄂煥[6]と呼応した降将である興古郡太守[7]の朱褒[8]
張嶷を従事に抜擢した。同郷の龔禄[4](195年~226年)と姚伷は巴郡の名士だったが、進んで張嶷と親交を持った。226年頃、親友の龔禄は越嶲郡太守だったが、越嶲郡の奥地である斯都県のタイ系濮族の酋長・李求承[5]が叟族の鄂煥[6]と呼応した降将である興古郡太守[7]の朱褒[8]
害して、その後任で赴任した張裔を捕獲して、交州刺史または交阯郡太守・士燮を通じて呉の孫権に護送する暴挙に出た[11]。雍闓に呼応したのは、越嶲郡太守・馬謖を追い払ったタイ系叟族の酋長の高定元[12](高定)を初め、自分の配下の主簿を誅殺した仇として益州従事の常頎(常房)を殺害して
帰順し、張裔を捕らえて呉に護送してしまった。孫権は雍闓を永昌郡太守に任命し、さらに交州刺史を兼務させた。雍闓は檄を飛ばして謀反を起こした。越嶲郡太守・馬謖を追い払ったタイ系叟族の酋長・高定元(高定)と、“酷吏”と怖れられた益州従事・常頎(常房)を殺害して、牂牁郡太守・馬忠を追い払
至急に陳曶と鄭綽に命じて黄元を討伐すべきです」と述べた。ただ劉禅らは「もし、黄元が成都を中心とする蜀郡を占領できなかったら、逃れて西南夷の越嶲郡を本拠地にして現地の勢力者の雍闓[15]らと結束する恐れがあるかもしれない」と言った。これに対して楊洪は「黄元は凶暴な人物であり人望があ
、諸葛亮とともに従軍していた李恢がその後も引き続き駐留し、南蛮情勢に対処している。諸葛亮も死んで久しい240年には、馬忠の副将だった張嶷が越嶲郡の太守に着任し、南方や西方の情勢を劇的に改善した。そもそも張嶷は異民族対策のエキスパートとして知られる超ベテランであり、後に張嶷が北伐で
を命じられたのみであった。 このような経緯から、雍闓は劉備を激しく恨んで、222年に劉備が呉の孫権を討つべく遠征すると(『夷陵の戦い』)、越嶲郡のタイ系叟族の酋長の高定元と牂柯郡の郡丞の朱褒とともに反乱を起こす動機となった[3]。 その後裔晋(西晋)の時代に巴蜀地方でチベット系氐
沈岡とともに北伯侯の崇侯虎(崇黒虎の兄)の妻の李氏とその娘を捕らえた。高定元[1] : 別称は高定。三国時代の蜀漢(蜀)南部の寧州に属する越嶲郡のタイ系叟族の酋長。朱褒とともに雍闓に造反に呼応して、孟獲を擁立した。後に雍闓と仲違いして、配下の鄂煥(顎煥)に命じて、これを殺害させた
刑されて、晒し首となった。 このような経緯から、雍闓は劉備を激しく恨んで、222年に劉備が呉の孫権を討つべく遠征すると(『夷陵の戦い』)、越嶲郡のタイ系叟族の酋長の高定元と牂柯郡の郡丞の朱褒とともに反乱を起こし、益州属国太守の正昻を殺害した[3]。まず、雍闓は士燮を通じて、孫権と