「養子」を含むwiki一覧 - 22ページ

佐竹義舜 - 日本通信百科事典

野義元)・義里(義隣)・古内義康(一桂斎/一渓斎)[5]の父。脚注[]↑ 佐竹上杉家とも呼ばれる。↑北酒出季義の子。↑ 族父の小田野義広の婿養子となった。↑ 天神林義茂・宇留野義虎(よしまさ、存義、官職は掃部助、義重の祖)・戸村義易の兄。↑常陸古内氏の祖。この記事は 『佐竹義舜』

佐竹義継 - 日本通信百科事典

祖、正武の14世の祖、正信の15世の祖、正充の16世の祖。族父で、嗣子がなかった山入氏の庶家の小田野氏(源姓小田野氏)の当主の小田野義広の婿養子となった。関連項目[]源義継この記事は 『佐竹義継』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリンク一覧

佐竹義憲 - 日本通信百科事典

・上村義倭(南義倭)・小野岡義盛(小野義盛)・義経の父。陽成源氏(河内源氏)流佐竹氏(常陸源氏)の最後の当主(第11代目)である佐竹義盛の婿養子となり、これによって源姓佐竹氏は断絶し、藤姓佐竹氏の祖となった彼が初代当主となった。その際に藤姓佐竹氏の当主が台頭したことに憎悪した源姓

佐竹義房 - 日本通信百科事典

の祖、正充の10世の祖。佐竹義房 (石見守) : 藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)一門の佐竹隆房の子、義武の父。伯父である佐竹西家の当主の佐竹義易の養子となった。脚注[]↑ 同族の北酒出氏の庶家の袋田義舜(よしきよ)の子、小田野義広の婿養子。↑義仲の兄。↑義長(義忠の父)関連項目[]源義

佐竹義成 - 日本通信百科事典

の父。脚注[]↑実義・実光の父。↑山本佐竹家の祖。↑ 宗信の兄。↑義貫(よしつら)の父。↑ 義全の父で、源姓石塚氏の最後の当主の石塚義国の婿養子となった。関連項目[]源義成この記事は 『佐竹義成』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリンク一覧

佐竹義景 - 日本通信百科事典

とともに藤原北家上杉勧修寺家(上杉家)流上杉氏(山内上杉家)の当主である関東管領の上杉憲定の次子で、源姓佐竹氏の最後の当主である佐竹義盛の婿養子である佐竹義仁(義憲/義人)[1]の佐竹氏惣領家の相続に対して、反乱を起こしたが、返り討ちされて山入氏とともに滅亡の憂目にあった。小田野

佐竹義経 - 日本通信百科事典

[]↑ 山本佐竹家(近江源氏)の祖。↑藤原北家勧修寺流上杉家の系統の上杉氏(山内上杉家)の庶家。↑ 父・義仁の従兄である関東管領の上杉憲実の養子。↑ 現在の茨城県古河市下河辺大字関連項目[]源義経この記事は 『佐竹義経』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有して

佐竹義盛 - 日本通信百科事典

義従)・上杉実定[2]・上村義倭(南義倭)の弟、義経の兄。脚注[]↑ 関東管領の上杉憲定の次子。↑ 父・義仁の従兄である関東管領の上杉憲実の養子。関連項目[]源義盛この記事は 『佐竹義盛』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリンク一覧です。下

伊勢氏 - 日本通信百科事典

薩摩国) : 薩摩伊勢氏とも呼ばれる。上記の桓武平氏頼盛流の池氏の後裔と自称した薩摩国の有川氏の庶家。有川貞則の子の貞真が外祖父の伊勢貞良の養子となって、代々が島津氏の家老として仕えた。脚注[]↑ 斎藤忠や太田亮が引用する『小右記』や『平安遺文』による。↑ 季継・関盛康の弟、清衡

今川頼貞 - 日本通信百科事典

門の武将。約2名ほど存在する。吉良氏朝 : 別称は頼貞、法号は学翁斎。遠江堀越氏一門の堀越氏延(六郎)の子、蒔田頼久の父。族父の蒔田頼康の婿養子となった。今川頼貞 (今川頼基の子) : 今川頼基(頼国)の子、頼兼の兄。越前国に遠縁の同族である源姓里見氏一門の里見時成と嵯峨源氏流渡

佐竹義長 - 日本通信百科事典

存在する。依上義長 : 源姓佐竹氏流の北酒出氏一門の依上氏の当主の依上顕義[1]の孫、義教[2]の子。嗣子がなかったため、族子である宗義を婿養子に迎えた。小田野義長 : 上記の源姓佐竹氏流の北酒出氏一門の小田野義継[3]の曾孫、義則[4]の孫、義安(義村)の子、義正[5]の弟、義

三河平氏 - 日本通信百科事典

。永井氏 : 三河永井氏とも呼ばれる。元来は土師姓大江氏の庶家であったが、主君の源義朝(義頼)を弑した長田忠致の異母兄である親致が永井氏の婿養子となり、丹姓永井氏の祖となった。同国碧海郡大浜郷永井(現在の愛知県碧南市棚尾町永井大字)を本貫とした。庶家に三河坂本氏があった。戦国時代

一色義直 - 日本通信百科事典

注[]↑義有・義信・義清・佐良木光俊室・稲葉通則室の父。↑義久の弟。↑ 次俊(次時の父、次知の祖父)の弟。族父の一色長兼(一色直氏の孫)の婿養子となる。↑ 氏頼・輝季・政義の兄。関連項目[]足利義直この記事は 『一色義直』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有し

三河賀茂氏 - 日本通信百科事典

足利氏(下野源氏)一門の源姓榊原氏(伊勢源氏)の当主である榊原勝長[3]の娘[4]が三河賀茂氏の一門である賀茂和徳に嫁いで、和徳が勝長の婿養子となり、榊原長政と改称して、その家祖になったという[5]。徳川家康に仕えた榊原康政(小平太)は長政の次子である。この榊原氏は譜代大名とし

一条家_(源氏) - 日本通信百科事典

氏) : 後陽成源氏とも呼ばれる皇別摂家。後陽成天皇の第9皇子である一条昭良(あきなが)が縁戚関係にある上記の藤姓一条家の当主の一条内基の婿養子として、相続した。庶家に醍醐家があった。脚注[]↑ 現在の京都府京都市上京区東町一条地区関連項目[]源氏皇別摂家特に記載のない限り、コミ

上杉義憲 - 日本通信百科事典

・上村義倭(南義倭)・小野岡義盛(小野義盛)・義経の父。陽成源氏(河内源氏)流佐竹氏(常陸源氏)の最後の当主(第11代目)である佐竹義盛の婿養子となり、これによって源姓佐竹氏は断絶し、藤姓佐竹氏の祖となった彼が初代当主となった。その際に藤姓佐竹氏の当主が台頭したことに憎悪した源姓

一条氏_(甲斐国) - 日本通信百科事典

た。しかし、室町時代後期の信経の8世の孫の光遠の代で、嗣子がなく信長系一条氏の男系は断絶して、「武川衆」は甲斐米倉氏が筆頭格となり、光遠の婿養子で、大伴姓伴氏流市部氏(甲斐伴氏)の流れを汲む甲斐宮原氏一門の青木安遠[3]は「六川衆」を形成してその筆頭格となり、「武川衆」とは別の形

一条光遠 - 日本通信百科事典

の武田氏を支えた。しかし、信経の8世の孫の光遠の代で、嗣子がなく信長系一条氏の男系は断絶して、「武川衆」は甲斐米倉氏が筆頭格となり、光遠の婿養子で、大伴姓伴氏流市部氏(甲斐伴氏)の流れを汲む甲斐宮原氏一門の青木安遠は「六川衆」を形成してその筆頭格となり、「武川衆」とは別の形で武田

世良田有親 - 日本通信百科事典

氏流松元氏(三河賀茂氏)の当主の松元信重(太左衛門)は親氏を評価し、彼が和歌に通じた教養と武勇の優れた勇猛果敢だったので、その娘を娶らせて婿養子として松元郷(松平郷)を継承させた。またその弟の泰親にも一族の娘を娶らせた。ともに「松元氏」と称した。後に親氏・泰親兄弟は還俗した(宗親

ヴィルヘルム1世_(ヴェルフェン=エステ=ブュッテル家) - 日本通信百科事典

ヴィヒ1世が逝去し、父のコンラート世も1191年に没した。このときヴィルヘルム1世は9歳だった。不憫に思った伯父の獅子公がヴィルヘルム1世を養子にして、「ヴェルフェン=エステ=ブュッテル家」の家祖として名乗ることを認めたのである。1195年8月6日に獅子公が68歳で亡くなると、1

ヴァラホ家 - 日本通信百科事典

939年、ドイツ王のコンラート1世若王の弟)と結婚したヴェルナー5世(ザーリ) : カロリング朝のツヴェンツィボルトの末子、ヴェルナー4世の養子、ザーリアー朝の祖関連項目[]ツヴェンツィボルト(ツヴェンツィポルト)ザーリアー朝特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC B

ヴェルナー3世 - 日本通信百科事典

ームスガウ)伯およびシュパイアーガウ伯。カロリング朝のツヴェンツィボルト=ツヴェンツィポルトの子であるザーリは妹の孫で、子のヴェルナー4世の養子となった。ヴェルナー3世 (ハプスブルク家) : スイス北部の貴族で、ハプスブルク家のオットー2世(ヴェルナー2世の子)の子、アルプレヒ

ヴェルナー5世 - 日本通信百科事典

ート(Wiltrud)がヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)伯・シュパイアーガウ伯の代行をした。後にザーリはそれを相続する形で、ヴェルナー4世の養子となった。まもなく、ザーリは「ヴェルナー5世」と改称し、亡き養父のヴェルナー4世からヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)伯・シュパイアーガウ

ヴェルナー4世 - 日本通信百科事典

が数年間続いた。後に従子のザーリことヴェルナー5世(叔母の孫で、カロリング朝のツヴェンツィボルト=ツヴェンツィポルトの子)がヴェルナー4世の養子という形で相続し、ザーリアー朝の祖となった。ヴェルナー4世 (ボーランデン家) :ドイツ中西部のラインラント=プファルツ地方の貴族のボー

下野源氏 - 日本通信百科事典

[3](維義の子)が後を継いだが、これも嗣子がなく断絶した。代わって、物部姓十市氏流中原氏一門の宇都宮氏の庶家の下野塩谷氏の当主で、維縄の婿養子の塩谷忠朝(貞朝)[4]が、その名跡を継いだ。中村氏 : 下野中村氏とも呼ばれる。鎌倉頼朝の異母末弟の義経(鞍馬冠者)の子の義宗(中村冠

世良田氏_(義光流) - 日本通信百科事典

、ついに義季流世良田氏は断絶した[8]。その一方、親氏らは巧みに逃れて、土豪の葛城姓賀茂氏流松元氏(三河賀茂氏)の当主の松元太左衛門信重の婿養子となって、家督を相続して、弟の泰親とともに松平氏(徳川氏)の祖となった。その一方、末弟の宗親は松元氏(松平氏)とは称せず、子の信親ととも

今出川氏 - 日本通信百科事典

訓郡今出川庄[1]を本拠地とした。今出川家 : 藤原北家閑院流西園寺家の一門。江戸時代に男系がなく、東山源氏の鷹司輔平の系統が、今出川家の婿養子となって、菊亭家と改称した。今出川氏 (源氏) : 源姓今出川氏とも呼ばれる。陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)の直系の足利将軍家

亘理氏 - 日本通信百科事典

伊達稙宗の子、政宗の大叔父)・成実(政宗の従父/従弟[3])父子を祖とする。しかし、成実の嗣子の小僧丸が夭折したために、政宗の9男の宗実を婿養子に迎えた。脚注[]↑ 現在の宮城県亘理郡亘理町↑ 庶宗家に奥州石川氏があった。↑ 成実の生母が政宗の叔母にあたるため。この記事は 『亘理

乾氏_(土佐国) - 日本通信百科事典

木氏の流れを汲む近江山崎氏一門の永原氏の庶家。永原高照(一照)の次子の正行[3]が上記の源姓乾氏にあやかって、源姓板垣氏の当主の板垣政信の婿養子となり、興った家系である。正行はそのまま山内一豊に仕えた。板垣退助(乾正躬/正形/猪之助)は、正行の8世の孫である。乾氏 (紀氏) :

今井氏_(上野国) - 日本通信百科事典

氏)一門。上野国新田郡今井郷[1]を拠点とした。新田政義の子の維氏を祖とする。しかし、維氏は子の維清の先立たれ、甥の維義(弟の基氏の子)を婿養子に迎えた。維義は甥の義貞(基氏の孫)に従って、戦死を遂げた。維義の子の清義は、戦線を離脱して出家して「浄連」と号して、父をはじめ従弟の義

久松氏 - 日本通信百科事典

[2]・五条家[3]があった。三河国知多郡阿古屋郷(阿久比郷)久松村[4]を拠点とした。玄孫の氏定に嗣子がなく、一色満貞[5]の子の詮貞を婿養子に迎えて、菅姓久松氏の男系は断絶した。久松氏 (源氏) : 源姓久松氏とも呼ばれる。陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)一門である上

今井氏_(源氏) - 日本通信百科事典

氏)一門。上野国新田郡今井郷[4]を拠点とした。新田政義の子の維氏を祖とする。しかし、維氏は子の維清の先立たれ、甥の維義(弟の基氏の子)を婿養子に迎えた。維義は甥の義貞(基氏の孫)に従って、戦死を遂げた。維義の子の清義は、戦線を離脱して出家して「浄連」と号して、父をはじめ従弟の義

乾氏 - 日本通信百科事典

乾氏とも呼ばれる。約3系統ほどが存在する。乾氏 (因幡国) : 稲葉乾氏/摂津乾氏とも呼ばれる。紀姓で、近江源氏の佐々木経方の6男の行範の婿養子である紀太郎兵衛を祖とする。摂津国島下郡乾郷[1]を起源とした。後に尾張池田氏(美濃池田氏)に仕えて、主君の移転に伴って稲葉国八東郡船岡

中村氏_(下野国) - 日本通信百科事典

藤原南家玄明流常陸伊佐氏(常陸藤原氏)一門の伊達朝宗の弟の中村行政を祖とした。しかし、行政に嗣子がなく、甥の中村資綱(資経とも、朝宗の子)婿養子に迎えたが、子の資光に先立たれていた。そこで、鎌倉頼朝の異母末弟の義経(鞍馬冠者)の子の義宗(中村冠者)を資綱の姉妹の婿に迎えて、中村朝

世良田氏_(義季流) - 日本通信百科事典

なく、ついに義季流世良田氏は断絶した[5]。その一方、親氏兄弟は幕府の捜索を巧みに逃れて、土豪の三河松元氏(三河賀茂氏)の当主の松元信重の婿養子になったという[6]歴代当主[]世良田義季(得川義秀) : 里見義俊・新田義兼・世良田義光の弟、合土義澄(額戸経義)・義佐(義任)・庄田

世良田義光 - 日本通信百科事典

元郷(現在の愛知県豊田市挙母町)にのがれた。翌年に政満は娘を遺して、当地で亡くなった[5]。親氏は土豪の葛城姓賀茂氏流の松元太左衛門信重の婿養子となって、松元氏と称した[6]。親氏と信重の娘との間には信広(広親)[7]・信光らを生んだ。信光は後に「松平氏」と改称して、三河国の平野

世良田経広 - 日本通信百科事典

田市挙母町)にのがれた。翌年に政満は娘を遺して亡くなった[15]。親氏は土豪の葛城姓賀茂氏流松元氏(三河賀茂氏)の当主の松元太左衛門信重の婿養子となって、相続した[16]。親氏と信重の娘との間には信広(広親)[17]・信光らを生んだ。信光は後に「松平氏」と改称して、三河国の平野に

世良田義行 - 日本通信百科事典

[3]・吉五郎・鐵五郎の父。脚注[]↑ 友通・万次郎・義賢(義方)・義武の父。↑ 宗勝(友淳/友相/義勝)の父。↑ 同族の越智松平家の清方の養子となる。関連項目[]新田義行この記事は 『世良田義行』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリンク一

中原氏 - 日本通信百科事典

々木氏)[12]と同族である。近江国を拠点としたが、本貫は不詳。武家として存続した。脚注[]↑ 十市宿禰とも呼ばれる。↑ 物部氏が十市氏の婿養子になって、その祭祀を引き継がれた説もある。↑ 近江国愛智郡長野郷(現在の滋賀県愛智郡愛荘町長野大字)を拠点とした。↑ 兼遠の父。↑ 現在

佐竹義重 - 日本通信百科事典

ありまさ)[6]の後裔。脚注[]↑ 1.01.1 寿命寺が所蔵する「佐竹系図」より。↑ 経重(経繁)の父。↑常陸岡田氏の祖。↑ 長兄の義宣の養子となる。↑ 藤原南家玄明流伊佐氏一門の伊達氏の当主。↑ 藤姓佐竹氏第2代目の当主の佐竹義俊(義従)の子。関連項目[]源氏常陸源氏藤原氏上

佐竹行義 - 日本通信百科事典

君清(ただきよ)[3]の兄、依上顕義[4]の弟、義還[5]の兄。脚注[]↑ 族父の額田義教の娘を娶った。↑義基の曾祖父で、族父の袋田義貫の婿養子となった。↑君義の祖父。↑ 義教・義泰・義実の父、義長(義教の子)の祖父。↑ 義孝・秀宗・泰義・秀顕の父。関連項目[]源行義この記事は

多田頼明 - 日本通信百科事典

孫、成重の孫、成政[3]の子、頼信(武兵衛)の弟、了向(僧侶)・成次(成継)[4]の兄。脚注[]↑ 光円(みつかど)・長頼の兄。伯父の仲綱の養子となった。『承久の乱』で北条得宗家と対決して大敗した挙句に、後鳥羽上皇の裏切りで、追い詰められて焼身自決を遂げた。享年42。↑頼満・国頼

土岐頼兼 - 日本通信百科事典

じ)[6]・頼忠の兄、惟任光行[7]の父。明智氏の祖で、妻は豊後大神氏の娘。嗣子の光行が早世したために、従弟の頼重(頼助)(長山頼基の子)を養子に迎えて、その後を継がせた。土岐頼兼 (土岐頼忠の子) : 土岐頼忠の子、光忠(月海入道)・頼益の弟、頼音(よりおと)・鷲巣行康(忠行)

土岐政頼 - 日本通信百科事典

頼次・頼宗・頼元(頼重)の父。↑ 治秀(治英)・頼勝・天岩(僧侶)の父、頼倫(胤頼、治秀の子)の祖父、朝房(頼房)の曾祖父。族父の原景成の婿養子となった。↑ 生母は斎藤道三(秀龍)の娘の帰蝶で、織田信正の異父兄のあたる。関連項目[]源政頼この記事は 『土岐政頼』 のための曖昧さ回

土岐頼名 - 日本通信百科事典

の父。↑光定(持益/光貞)の父。↑ 益俊の父。↑ 土岐成頼の父(『土岐系図』)。↑ 益俊(慶益)の父、政益の祖父、尚益の曾祖父。伯父の頼益の養子となる(『土岐系図』)。↑ 東漢姓坂上氏流徳山氏の当主。坂上貞守の後裔で、貞幸・貞長の父、貞次・貞友の祖父、貞輔の曾祖父、貞孝(貞隆)の

土岐持益 - 日本通信百科事典

子)の祖父。子の持兼・氏慶が相次いで早世し、孫の教益(亀寿丸)を後継者に定めたが、守護代の斎藤利永[2]らの猛反対で従子の成頼[3]を持益の養子に迎えた(間もなく、孫の教益(亀寿丸)も夭折した)。土岐光定 : 別称は持益/光貞、通称は植村太郎。上記の土岐頼忠の孫、光兼の子。土岐持

土岐頼基 - 日本通信百科事典

・頼遠・頼仲の弟、頼兼・頼明・徳山貞信[2]室の兄、明智頼重(頼助)(明智氏の祖)・兼貞・頼高・頼澄・岩手満頼(頼行)[3]の父。兄の頼遠の養子となり、美濃長山氏の当主と称した。妻は遠縁筋の新田氏(上野源氏)一門の堀口貞満の娘である。脚注[]↑頼宣の父。↑ 東漢姓坂上氏流徳山氏の

土岐政房 - 日本通信百科事典

父、重房の高祖父、重成の6世の祖、重時の7世の祖、重継の8世の祖。脚注[]↑ 宇多源氏流佐々木氏(近江源氏)の嫡流の六角氏の当主の六角高頼の養子。↑ 『列国譜』↑頼純の父、盛頼(織田信正の異父兄)の祖父。↑ 一色頼栄・頼次・頼宗・頼元(頼重)の父。↑ 治秀(治英)・頼勝・天岩(僧

土岐定親 - 日本通信百科事典

田衡国・教国・笠毛光教(光時)・国胤の弟、頼定(頼貞)・舟木頼重(頼直/頼真)の兄、定経(貞経)[2]・原師親[3]の父。同族の蜂屋頼親の婿養子となった。大桑定親 : 別名は貞親。土岐成頼の孫、大桑定頼(貞頼)の子、定雄(貞雄)[4]の弟、大畑貞近[5][6]室の兄、政親・長親・

土岐頼忠 - 日本通信百科事典

父)の父。↑ 康頼(行春)・康任(康佐/宇田次郎)、行利(行之)・光直(羽崎四郎)の父。↑ 肥田詮直(族父である美濃肥田氏一門の肥田詮長の婿養子)の父。↑西郷守頼室の父。↑光定(持益/光貞)の父。↑佐良木光俊の父で、土岐成頼の祖父(『土岐系図』)。↑ 東漢姓坂上氏流徳山氏の当主。