「下野国」を含むwiki一覧 - 3ページ

山入義盛 - 日本通信百科事典

・義嗣の父。父とともに藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)の第4代目の当主の佐竹義舜と戦ったが、義舜の謀略によって、一族の小田野義正[1]に捕虜されて、下野国芳賀郡野木郷[2]で、父や子の義遠・義嗣とともに処刑されて、ついに山入氏は滅亡した[3]。小田野義盛 : 小田野義継[4]の玄孫、義仲

平致兼 - 日本通信百科事典

門の牽制のために任命された8人(坂東八ヶ国)の東国掾のひとりとなり、将門の乱の鎮圧後に安房国の国司に任命された[7]。天慶5年(942年)に下野国の掾に赴任した藤原秀郷(藤原北家)の後任として武蔵守となり、将門の乱によって荒廃していた武蔵国にある金龍山・浅草寺を再建したことで知ら

平氏_(皇別) - 日本通信百科事典

勢力を不快感を示し、1180年に平氏によって圧迫された源氏が勢いを盛り返して、伊豆国にいた源頼朝や信濃国にいた木曾義仲(頼朝の従弟)をはじめ下野国の源姓足利氏(下野源氏)や常陸国の源姓佐竹氏(常陸源氏)や、その一族である甲斐国の武田氏(甲斐源氏)などが次々と挙兵した(上野国の新田

山名義範 - 日本通信百科事典

は広沢義実(仁木氏・細川氏・戸賀崎氏の祖)・矢田義房(頼長の父)・矢田義頼(義縁とも、頼実の父)ら。子は繁国・繁家ら。概要[]父祖の地である下野国梁田郡(簗田郡)内にある梁田御厨[4](現在の栃木県足利市福富町)周辺ではなく、上野国多胡郡矢田郷[5](現在の群馬県高崎市八幡町)に

梁田氏 - 日本通信百科事典

梁田氏・簗田氏(やなだし)とは、日本の氏族で、約2系統が存在する。下野国梁田郡(簗田郡)内にある梁田御厨[1](現在の栃木県足利市福富町)を本貫とした。梁田氏 (平氏) : 桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸源氏/坂東平氏)の一門[2]。平維茂(大掾維良)の玄孫である良助が梁田御厨(簗田

梁田良助 - 日本通信百科事典

ほど存在する。「簗田良資」とも呼ばれる。梁田良助 (平安時代) : 平維茂(大掾維良)の玄孫、梁田良衡の曾孫、貞衡の孫、家助の子、氏助の父。下野国梁田郡梁田郷[1]を拠点として、梁田氏の祖となった。梁田良助 (室町時代) : 別名は助良[2]。上記の良助の玄孫、おなじく氏助の曾孫

足利氏 - 日本通信百科事典

足利氏(あしかがし)とは、日本の氏族で、本拠地はで下野国足利郡(足利荘)[1]である。約3系統に分かれている。足利氏 (藤原氏) : 藤原北家秀郷流(田原=俵藤太郎)の系統。足利成行[2]を祖とする。同族は武蔵太田氏、庶家に下野佐野氏・安蘇氏(阿曾沼氏)[3]・大胡氏・園田氏・下

田代氏 - 日本通信百科事典

。陽成源氏(摂津源氏)流多田氏一門の源姓馬場氏の庶家。馬場仲綱の子の田代頼成を祖とする。美濃国多芸郡嶋田郷田代神社[1]を発祥地として、後に下野国那須塩原を拠点とした。頼成の後裔の頼総[2](綱総入道)[3]は、南北朝時代に南朝方として、征西将軍・懐良親王(かねながしんのう)[4

矢田義清 - 日本通信百科事典

季邦)の異母兄、山名義範[1]・広沢義実[3]・矢田義房[4]・義頼[5]・里見義成室らの父。伯父の新田義重の婿養子となった。概要[]父から下野国梁田郡(簗田郡)内にある梁田御厨[6](現在の栃木県足利市福富町)周辺・上野国多胡郡矢田郷[7](現在の群馬県高崎市八幡町)[8]を与

真里谷氏 - 日本通信百科事典

を包囲して信政とその子の信光を自刃に追い詰めた。さらに義堯は同年に、支援した信高の叔父の信応をも滅ぼしたという。そのために、信応の子の信高は下野国の那須氏を頼って落ち延びたという。以降から信高の系統は、曾孫の信昭[2]まで存続したという。歴代当主[]真里谷信興(清嗣) : 武田信

美濃源氏 - 日本通信百科事典

ばれる。上記の山県氏の同族で、田代頼成を祖とする。美濃国多芸郡嶋田郷田代神社(現在の岐阜県養老郡養老町嶋田大字田代神社)を発祥地として、後に下野国那須塩原を拠点とした。美濃馬場氏 : 上記の多田氏の庶家で、多田国頼を祖とする。後に甲斐国に移った(甲斐源氏)。庶家に教来石氏があった

源義遠 - 日本通信百科事典

の兄。祖父と父とともに藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)の第4代目の当主の佐竹義舜と戦ったが、義舜の謀略によって、一族の小田野義正[2]に捕虜されて、下野国芳賀郡野木郷[3]で、祖父と父と弟の義嗣とともに処刑されて、ついに山入氏は滅亡した[4]。一色義遠 : 別称は義政/義枚(よしひら)/

西郷氏_(三河国) - 日本通信百科事典

平忠吉(ただとみ、忠康)を産んだ。江戸時代以降は安房国東条藩(東條藩)の藩主となったが、秀忠の孫の徳川綱吉(つなとみ)の代に、勘気を蒙って、下野国上田藩に転封された。当時の藩主は延員(のぶかず)であったが、子に先立たれて、嗣子に定めた甥の茂員(もちかず)[14]が不祥事を起こして

藤原国豊_(浮島大夫) - 日本通信百科事典

同族である藤原南家の惣領家である藤原維幾が一族の藤原玄明と地権を巡って抗争を起こしていた。さらに国豊自身もおなじ魚名流で下野大掾の藤原秀郷と下野国南部の地権を巡って、これも抗争を起こしていた。そのため、維幾は秀郷と結んで、国豊と玄明を襲撃した。あっけなく敗れ去った国豊と玄明は平将

源頼重 - 日本通信百科事典

名ほど存在する。源頼重 (志田三郎) : 鎌倉頼重とも呼ばれ、通称は志田三郎。源為義の孫、義広(義憲/義範)の子、義延・義国の弟、重賢の父。下野国の『野木宮の戦い』で、対決した惣領家の源姓鎌倉氏(相模源氏)の当主で、従兄弟の鎌倉頼朝が派遣した小山朝政(藤原北家秀郷流武蔵太田氏一門

源義清 - 日本通信百科事典

の父、実義の祖父、義繁の曾祖父。常陸稲木氏の祖となった。後に子の義保に先立たれたために、出家して親鸞に帰依した。天福元年(1233年)年に、下野国粟野鹿崎に道場を開き、覚如も立ち寄ったといわれ、慈願寺と命名した。久慈光興 : 別名は義清、法名は光奥入道。上記の加賀美遠光の曾孫、南

樋口氏 - 日本通信百科事典

樋口氏(ひぐちし)とは、日本の氏族。約4系統が存在する。陸奥国・下野国・駿河国・遠江国・近江国・山城国・摂津国・備前国・伯耆国・安芸国・築前国・日向国・豊後国などの異流も多い。樋口氏 (古代) : 大和樋口氏とも呼ばれる。曾根連を祖とする古代の大和国の氏族。大和国広瀬郡樋口郷[1

武田信高 - 日本通信百科事典

氏[3]に滅ぼされると、安房里見氏の当主の里見義堯によって擁立されて第7代目当主になったが、実際は傀儡の当主であった。後に義堯に襲撃されて、下野国の那須氏を頼って落ち延びた。脚注[]↑ 貞義の父、義遠の祖父、光遠の曾祖父。↑ 遠縁筋の足利将軍家の当主の足利義昭の偏諱を賜ったという

源義助 - 日本通信百科事典

通称は新兵衛、法号は道念/日実入道。源義時(八幡太郎義家の子、源姓石川氏の祖)の末裔で、南朝方として活躍した石川時道(義時/時通)の子、妻は下野国の小山秀朝(藤原北家秀郷流武蔵太田氏一門の下野小山氏の当主)の娘、氏房(孫三郎義忠)の父。駿河国富士郡重須郷(現在の静岡県富士宮市北山

源経基 - 日本通信百科事典

10]、将門・興世王・武芝が謀反を共謀していると朝廷に告訴した。しかし、将門らが翌939年6月12日(承平9年5月2日)付で常陸国・下総国・下野国・武蔵国・上野国など5ヶ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を藤原忠平へ送ると、将門らはその申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪に

源義嗣 - 日本通信百科事典

の弟。祖父と父とともに藤姓佐竹氏(常陸藤原氏)の第4代目の当主の佐竹義舜と戦ったが、義舜の謀略によって、一族の小田野義正[6]に捕虜されて、下野国芳賀郡野木郷[7]で、祖父と父と兄の義遠とともに処刑されて、ついに山入氏は滅亡した[8]。脚注[]↑ 『清和源氏福良一族補遺』(福良敬

源義時 - 日本通信百科事典

隆の兄、義盛・有義[1]・石川義基・義広・義資・義長の父。石川義時 : 別称は時道。上記の源義時の後裔で、石川氏の当主の石川義忠の子、生母は下野国の小山秀朝こと高朝(藤原北家秀郷流武蔵太田氏一門の下野小山氏の当主)の娘、茂信の兄、朝成(宗忠/義助)[2]の父、氏房(義忠)[3]の

源義春 - 日本通信百科事典

氏(河内源氏)流の武将。約数名ほど存在する。源義春 (志田冠者) : 通称は志田冠者。源為義の曾孫、義広(義憲/義範)の孫、義国の子。祖父が下野国の『野木宮の戦い』で、対決した惣領家の源姓鎌倉氏(相模源氏)の当主で、従父の鎌倉頼朝が派遣した小山朝政(藤原北家秀郷流)と激戦して、大

源義国 - 日本通信百科事典

の祖)の父。源義国 (志田次郎) : 鎌倉義国とも呼ばれ、通称は志田次郎。源為義の孫、義広(義憲/義範)の子、義延の弟、頼重の兄、義春の父。下野国の『野木宮の戦い』で、対決した惣領家の源姓鎌倉氏(相模源氏)の当主で、従兄弟の鎌倉頼朝が派遣した小山朝政(藤原北家秀郷流武蔵太田氏一門

高根沢温泉 - Gravity Wiki

化物泉泉温70.1 セルシウス度|テンプレート:℃pH7.8 表・話・編・歴 高根沢温泉(たかねざわおんせん)は、栃木県塩谷郡高根沢町(旧国下野国)にある温泉。目次1 アクセス2 泉質3 温泉街4 歴史5 外部リンクアクセス[]鉄道 : 東北本線宝積寺駅よりタクシーで約15分。無

交代寄合 - なんでもある Wiki

,000石柳間詰福江藩分家伊東家日向那珂郡飫肥領3,000石柳間詰飫肥藩分家(家祖は第3代飫肥藩主伊東祐久の三男伊東祐春)四衆[編集]四衆は下野国の那須衆、美濃国の美濃衆、信濃国の信濃(伊那)衆、三河国の三河衆の四か国出身家の総称であり、「四州」とかけられている。表向御礼衆と異な

宇都宮城釣天井事件とはなんですか? - クイズwiki

A. 宇都宮城釣天井事件とは、江戸時代の元和8年(1622年)に下野国宇都宮藩主の本多正純が、宇都宮城に吊り天井を仕掛けて第2代将軍徳川秀忠の暗殺を謀ったなどの嫌疑をかけられ、本多家は改易、正純は流罪となった事件です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/

宇都宮忠綱とはなんですか? - クイズwiki

A. 宇都宮氏第18代当主で、下野国の戦国大名で、宇都宮氏中興の祖とされる人物です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%BF%A0%E7%B6%B1

那須記とはなんですか? - クイズwiki

A. 那須記とは、延宝年間(1673年 - 1680年)に下野国武茂の庄屋、大金重貞が著した書物です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E8%A8%98

那須七騎とはなんですか? - クイズwiki

A. 那須七騎とは、下野国(現在の栃木県)の那須氏を中心とした武士集団のことを指します。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E4%B8%83%E9%A8%8E

福原氏とはなんですか? - クイズwiki

A. 福原氏とは、日本の氏族で、主に中国地方を中心に存在しました。福原氏は、安芸国毛利氏の一族の福原氏、下野国那須氏の一族の福原氏、播磨国赤松氏流上月氏の一族の福原氏などが知られています。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%

榎本藩とはなんですか? - クイズwiki

A. 下野国都賀郡榎本(現在の栃木県栃木市大平町榎本)を居所とした藩です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E8%97%A9

下野富田藩とはなんですか? - クイズwiki

A. 下野富田藩は、江戸時代前期の短期間、下野国都賀郡富田を居所とした藩です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%87%8E%E5%AF%8C%E7%94%B0%E8%97%A9

下野山川藩とはなんですか? - クイズwiki

A. 下野山川藩は、江戸時代前期の短期間、下野国足利郡山川(現在の栃木県足利市山川町)に所在した藩です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%87%8E%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E8%97%A9

下野上田藩とはなんですか? - クイズwiki

A. 下野上田藩は、下野国都賀郡上田村を居所とした、江戸時代中期の元禄年間にごく短期間存在した藩です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%87%8E%E4%B8%8A%E7%94%B0%E8%97%A9

那須資徳とはなんですか? - クイズwiki

A. 那須資徳は、江戸時代前期に旗本として、後に大名として、下野国那須藩主を務めた人物です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E8%B3%87%E5%BE%B3