日活撮影所

ページ名:日活撮影所

日活撮影所(にっかつさつえいじょ)は、映画会社日活の名を冠した映画スタジオである。

過去には「多摩川撮影所」(現・角川大映撮影所)など東京・京都にいくつもの撮影所が存在したが、2006年現在は東京都調布市染地2-8-12に位置する通称「調布撮影所」(旧・にっかつ撮影所)が唯一の存在である。

目次

前史[]

日活の前身となるエム・パテー商会、横田商会福宝堂吉沢商店は、それぞれ独自に撮影所を擁していた。エム・パテー商会は1909年(明治40年)に東京府南豊島郡の大久保に、横田商会は1910年(明治41年)に京都市の二条城西南櫓下に、福宝堂は同年7月に東京府北豊島郡の日暮里花見台に、吉沢商店は1908年(明治39年)1月20日に東京府荏原郡の目黒行人坂下にそれぞれ撮影所を建設している。また、横田商会は二条城撮影所落成の翌年である1912年1月、早くも二条城に代わる新撮影所を御前通一条下ルに建設した。新撮影所はグラスステージ1棟・現像所・俳優部屋・事務所を備えており、法華堂(ほっけんどう)と呼ばれる十如寺に隣接していることから「横田法華堂撮影所」と呼ばれるようになった。

京都[]

関西撮影所[]

日活関西撮影所(-かんさいさつえいじょ、1912年9月1日 改称 - 1918年 閉鎖)は、かつて存在した日本の撮影所である。

1912年(大正元年)9月の日活誕生時には、吉沢商店の目黒のグラスステージと、横田商会の法華堂撮影所が引き継がれたが、目黒は早晩閉鎖された。法華堂撮影所を日活関西撮影所に改名した。

1918年(大正7年)、前年の台風の被害などにより、関西撮影所は北区大将軍一条町に移転し、法華堂の撮影所は閉鎖した。

大将軍撮影所[]

日活大将軍撮影所(-たいしょうぐんさつえいじょ、1918年 開業 - 1928年4月 閉鎖)は、かつて存在した日本の撮影所である。「関西撮影所」の機能を引き継ぎ、関西地区における日活の生産拠点となった。

1919年(大正8年)7月10日、同撮影所に在籍のまま、牧野省三はミカド商会を設立、教育映画を製作し始めたが、1920年(大正9年)1月には同撮影所はミカド商会を吸収し「日活教育映画部」とした。1921年(大正10年)6月に牧野は退社し、牧野教育映画製作所を京都・等持院に設立した。

基本的には時代劇部が同撮影所におかれ、現代劇は東京の「向島撮影所」で製作されていたが、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で向島は崩壊、1,000人の従業員が本社を含めて解雇されたが、同年11月14日、向島に残って復興につとめた従業員と現代劇の製作機能を、この「大将軍撮影所」に移転させた。

1927年(昭和2年)、太秦に新撮影所ができると、全体を移転した。現代劇部が翌1928年(昭和3年)4月に移転したのちに同撮影所は閉鎖された。

太秦撮影所[]

日活太秦撮影所(-うずまささつえいじょ、1927年12月 開業 - 1942年4月 合併改称)は、かつて存在した日本の撮影所である。のちの大映京都撮影所である。

1927年(昭和2年)に建設され、時代劇部は12月に移転、現代劇部は翌1928年(昭和3年)4月に移転した。1932年(昭和7年)、マキノ・プロダクションを解散したマキノ正博(のちの雅弘)が監督として同撮影所に入社したが、父の代からの因縁でまもなく横田永之助が解雇した。やがて横田は更迭され、1937年(昭和12年)にはマキノトーキー製作所を解散したマキノ正博が再度入社している[1]

1939年(昭和14年)、日中戦争などの流れにより映画法が制定され、1942年(昭和17年)には日活の製作部門・新興キネマ・大都映画が統合された大日本映画製作株式会社(大映)が発足、日活太秦撮影所は「大映京都撮影所」となった。撮影所や従業員を含む製作部全体を拠出した日活は、映画興行会社として存続した。

同撮影所は大映京都撮影所として戦後も存続し、1986年(昭和61年)4月に閉鎖された。

東京[]

向島撮影所[]

日活向島撮影所(-むこうじまさつえいじょ、1913年10月 開業 - 1923年11月14日 閉鎖)は、かつて存在した日本の撮影所である。新派劇を得意とし、「日活新派」と呼ばれた。

目黒の旧吉沢商店のグラスステージが閉鎖され、1913年(大正2年)10月には、東京の隅田川ほとりに建設された。最終的には向島撮影所を現代劇の撮影に、関西撮影所を時代劇の撮影に使用するという形で決定がおこなわれた。

1922年(大正11年)11月25日、藤野秀夫以下13名のスター俳優が退社、山本嘉一と端役俳優のみが残された[2]。前取締役の石井常吉が国際活映再建のために引き抜いたのだ[2]。同日夜、専務取締役の風間又左衛門、後藤信治、牧野省三ら重役と同撮影所次長の小園末徳が急遽会談、幹部俳優の山本と監督の田中栄三が呼び出され、対策を練った結果、12月1日付で舞台協会との提携を決め、同協会の俳優と3本を製作することとした[2]。山田隆弥、佐々木積、森英治郎、東屋三郎、岡田嘉子、夏川静江、東八重子ら20数名が参加した[2]。この流れのなかで、溝口健二が23歳で監督に昇進した[2]

結果的には、旧劇という女形による芝居から新劇にシフトできた[2]

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で機能不全に陥り、同社首脳は緊急取締役会を開き、会社を一旦解散するとし、1,000人以上を解雇した[2]。震災後、急造で復興し、溝口健二らの震災のエピソードによる映画を製作したが、同年11月14日には全従業員の大将軍撮影所への一時移転が決定した[2]

向島撮影所は廃止となり、現代劇部もそのまま京都に固定された。

詳細は日活向島撮影所を参照

多摩川撮影所[]

日活多摩川撮影所(-たまがわさつえいじょ、1934年 買収開業 - 1942年4月 合併改称)は、かつて存在した日本の撮影所である。現在の角川大映撮影所の前身である。

1934年(昭和9年)、東京都調布市多摩川にあった日本映画社の撮影所を買収し、「多摩川撮影所」とした。これにより現代劇部は京都から再移転し、初代所長には移転計画を陣頭指揮した専務取締役中谷貞頼が就任したが、後には根岸寛一に交代した。

1942年(昭和17年)、戦時統制による合併のため同撮影所は「大映多摩川撮影所」となる。戦後も大映多摩川撮影所として存続し、2004年(平成16年)の角川映画誕生により、同撮影所は「角川大映撮影所」と名称を変更した。

調布撮影所[]

概要[]

日活は1953年(昭和28年)9月、映画制作再開を発表するとともに東京都調布市染地(当時は下布田)に新しい「日活撮影所」の建設を着工した。当時一般には映画のイメージが芳しくなかったため、他業種の工場を騙るなど用地買収交渉では半ば強引な手段がとられた。

1954年(昭和29年)3月15日に第1期工事が終了し4つのステージ(スタジオ)が完成したが、その後も工事は続けられ同年12月には第2期工事終了により続く4つのステージが、翌1955年(昭和30年)12月には第3期工事終了によりさらに2つのステージとダビングルームがそれぞれ完成し、撮影所全体のフル稼働を開始した。

この撮影所は堀久作社長らが事前視察した米カリフォルニア州ハリウッドのワーナー・ブラザーズのスタジオを参考としており、全館鉄筋コンクリート造り・冷暖房完備とした。敷地面積は99,171平方メートルと広大で、設備も含めて日活では「東洋一」のスタジオと自負していた。撮影所北部には当時の繁華街・銀座の町並みが巨大オープンセットで再現され、「日活銀座」として俳優・従業員から親しまれた。

1979年(昭和54年)には第1から第4までのステージと本館、正門、日活銀座を含む北半分が売却、ライオンズマンションが建築された。このため、撮影所の面積は約半分となった。

過去も現在も、膨大な数の映画・テレビドラマ・CMがこの地で作られている。

構成[]

北半分にあった建造物は、1979年の用地売却で全てが消滅した。また、南端側の建造物も駐車スペースの増大などのため年々取り壊される傾向にある。

第1~第4スタジオ各43×21m、903m2。第1スタジオと第2スタジオ、第3スタジオと第4スタジオはそれぞれ連結している。最も早く完成したが、用地売却に伴い消滅。第5~第8スタジオ各42×21m、882m2。第5スタジオと第6スタジオ、第7スタジオと第8スタジオはそれぞれ連結している。第2期工事で完成。現在、第5スタジオは倉庫として使用されている。第9・第10スタジオ各41×18m、738m2。両者は連結している。第3期工事で完成。第11・第12・第13スタジオ各41×22m、902m2。全スタジオが連結している。第3期工事で完成。正門当初は敷地北側中央にあったが、用地売却に伴い南側オープンセットの位置に移転した。本館当初は敷地中央に巨大な建物があったが、用地売却に伴い食堂の建物に縮小移転した。オープンセット北部(日活銀座)と南部にあった。用地売却に伴い消滅。ダビング室第3期工事で完成。デジタルスタジオ1998年、正門脇の南側オープンセット跡に建設された。食堂当初からほとんど変わっていない。2階に編集室を持つ。倉庫撮影所各所に点在する。第5スタジオも倉庫に転用されている。日活芸術学院装置倉庫跡に建設された小規模な映画学校で、1975年開校。スタジオ11の南には専用スタジオである通称「Gスタ」が存在する。

このほか、 俳優センターや試写室など小規模な建造物が各所に点在している。

沿革[]

  • 1953年、日活が映画製作再開を発表・撮影所建設着工。
  • 1955年、第三期工事終了・撮影所完成。
  • 1969年、日活が経営難により撮影所売却。
  • 1973年12月23日、昼頃多摩川河原で発生した火災によりオープンセット・第七ステージが炎上。
  • 1975年、にっかつ本社が日比谷パークビルから撮影所内に移転。日活芸術学院が開校。
  • 1977年、撮影所明け渡し訴訟の和解が成立。撮影所を買戻す。
  • 1979年、撮影所北半分を売却、分譲マンションに。
  • 1989年、第5スタジオにて撮影中に火災事故発生。スタッフ1名が死亡、女優の藤谷美紀他20数名が負傷した。
  • 1993年、にっかつが会社更生法の適用を申請、倒産。その後ナムコの支援を受け、再建を開始する。
  • 1998年、撮影所内にデジタルスタジオが建設される。
  • 2000年2月、日活が、ナムコ創設者中村雅哉の個人会社である「株式会社マル」への調布撮影所の売却・3年以内の新撮影所の建設計画を発表する。
  • 2001年、横浜市の「新映像都市構想」と横浜みなとみらい21への日活撮影所移転計画が明らかになり、日活労働組合が反発。
  • 2003年11月、移転計画が白紙撤回される。
  • 2005年、日活がインデックス傘下に入る。
  • 2009年、日活が日本テレビ放送網の関連会社となる。撮影所リニューアル計画が社員に向けて発表される。㈱俳優座劇場の70%出資、日活の30%出資で「株式会社アートインプレッション」が設立され、美術センターの社員が出向する。

関連項目[]

註[]

  1. 立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「マキノ映画活動史」の記述を参照。
  2. 2.02.12.22.32.42.52.62.7 田中純一郎『日本映画発達史 1 活動写真時代』(中公文庫、1975年11月25日 ISBN 4122002850)のp.366、368、374の記述を参照。

外部リンク[]

  • 日活撮影所ホームページ
  • インターネット日活映画友の会: 日活撮影所ファイル
  • 日活労働組合

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