ゴジラ_(1954年の映画)

ページ名:ゴジラ_(1954年の映画)
ゴジラ
Godzilla
ファイル:Gojira 1954 Japanese poster.jpg
監督本多猪四郎(本編)
円谷英二(特撮)
脚本村田武雄
本多猪四郎
製作田中友幸
製作総指揮小林一三
出演者宝田明
河内桃子
平田昭彦
志村喬
音楽伊福部昭
編集平一二
配給東宝
公開日本の旗1954年11月3日
上映時間97分
製作国 日本
言語日本語
次作ゴジラの逆襲
 ・話・編・歴 

『ゴジラ』はテンプレート:和暦11月3日[1]に、東宝が製作・公開した日本映画。観客動員数961万人。モノクロ、97分、スタンダード。

巨大怪獣ゴジラが登場する「ゴジラシリーズ」第1作。日本の怪獣映画の元祖である。

テンプレート:ネタバレ

目次

概要[]

海底に潜んでいた太古の怪獣「ゴジラ」が水爆実験により目を覚まし、日本の首都・東京を襲撃する。「ゴジラ映画」の記念すべき第1作。主要襲撃地点は大戸島、東京品川。

2度目の東京上陸後のルートは、「芝浦岸壁~札の辻~田町駅前~新橋~銀座尾張町~銀座4丁目(松坂屋)~数寄屋橋~国会議事堂~平河町~上野~浅草~隅田川~勝鬨橋~東京湾[2]」。

企画の発端[]

本作のプロデューサー田中友幸は、テンプレート:和暦に『さらばラバウル』(本多猪四郎監督)を製作した折に、前年に東宝に復帰したばかりの円谷英二と出会い、円谷が手掛けた特撮の成功もあって、「特撮物はいける」と実感していたという。田中は続いて8月に、谷口千吉を監督に、インドネシアとの合作映画『栄光の影に』を企画。ところが翌年テンプレート:和暦4月にいよいよ谷口監督、主演の池部良、山口淑子らを揃えたロケ隊の出発という段になって、外交上の諸事情からビザが下りず、泣く泣くこの企画を断念することとなった。「腹の虫が治まらなかった」という田中は急遽代替企画を立てざるを得なくなったが、こうした事情から、発想がどうしてもインドネシア周辺の海洋を舞台にしたものに向かったという。

ちょうどその頃、ビキニ環礁での核実験と、第五福竜丸の被爆事件(同年3月)が社会問題となっていた。これに着想を得た田中は、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が、水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という特撮映画の企画を立てた。この時点での企画仮題は、『海底二万哩(マイル)から来た大怪獣』といった。

田中がこの企画を東宝本社の企画会議に提出したところ、製作担当の森岩雄の目にとまることとなった。森は戦前から東宝に関わり、円谷監督を招いた本人であるが、テンプレート:和暦に公職追放解除を受け、本社に復帰してハリウッド視察を行い、特撮映画の重要性を再認して、戦後解体されていた「特殊技術課」を東宝内に再編成し、円谷監督を再度招いてこの部門の強化を進めていた。こうして、東宝上層部が「到底撮影は無理」として満場一致で反対するなか、森岩雄ただ一人がこの企画に賛成意見を述べ、強硬に支持し、ついにはGOサインにこぎつけることとなった。

「G作品企画」[]

この前代未聞の企画に臨み、本企画は「G作品[3] 」と銘打たれ、極秘裏に進行されることとなった。大まかなストーリーや怪獣の設定が決まると、田中は次に、文芸部の松下忠と二人で、田中自身ファンであった怪奇幻想作家の香山滋の自宅を飛び込みで訪ね、原作執筆を依頼したところ快諾を得た。5月中旬のことだった。こうして香山の筆によって、田中曰く「シナリオ風の原作」が一週間ほどして完成し、これを基に「G作品検討用台本」が印刷された。この時点で、正式に円谷英二が企画に参加することとなった。

円谷はテンプレート:和暦の春に「海から現れた化け物のようなクジラが東京を襲う[4] 」、またテンプレート:和暦には「インド洋で大蛸が日本の捕鯨船を襲う」という特撮映画のプロットを企画部に提出していた。このいきさつもあり、怪獣の設定を「大蛸」にすることを主張した。一方、田中は「(当時の)風潮によりマッチする」としてこれを「太古の恐竜」とすることを主張、結果として田中案が採用され、主役の怪物のキャラクターは「太古の恐竜」となった。

田中はただちに監督に、前年に二本の特撮作品『さらばラバウル』と『太平洋の鷲』で円谷と組んだ本多猪四郎を抜擢、また同じく前年に円谷監督と日本初の立体映画『飛び出した日曜日』を撮った村田武雄をいれ、本多と村田の二人で脚本製作に入ってもらった。田中友幸は、題名が『海底二万哩から来た大怪獣』では長いので、もっと良い題名はないものかと考えあぐねていたところ、佐藤一郎プロデューサーから、当時東宝演劇部にいた“「クジラ」が好物で「ゴリラ」のような容貌”をした網倉志朗(後の東宝演芸部部長)という人物のあだ名が「グジラ」だと聞きつけ、語呂の良いこのあだ名を参考にし、「ゴリラ」と「クジラ」を合わせて「ゴジラ」とした[5] 。しかしこの名称もまだ完全決定というわけでなく、「“ゴジラ”では印象が弱いから“ゴジラー”にしては」といった意見もあったという(向山宏談)。

村田と本多による「G作品準備稿」が仕上がると、「ピクトリアル・スケッチ」(場面ごとに画にしたイメージ・ボード)が制作された。この「ピクトリアル・スケッチ」は、森岩雄がテンプレート:和暦にハリウッドを視察して導入したもので、前年の『太平洋の鷲』(本多猪四郎監督)に次ぐ二作品目の使用であり、制作進行を大いに合理化させるものだった。渡辺美術監督が飯塚定雄ほか、4、5人の学生を指導して描き上げた、全228シーン、306カットに上るこの絵コンテは企画室に張り出され、森製作部長を前に、村田、本多、円谷、田中がシーンごとの説明を行い、検討が重ねられた。浅井正勝によると、ゴジラの吐く「白熱光」や「光る背びれ」は、こうした検討段階で「かっこつけ」で生まれたアイディアだったという。この検討会議が終わると、森岩雄は「成功疑いない」と宣言したという。

次に「ゴジラ」のデザインが検討され、サンケイ新聞夕刊で『山男ダンさん』を連載中だった漫画家の阿部和助にデザイン画が依頼されたが、この起用は、「関係者による子供たち相手のアンケートの結果による」と当時報じられている。阿部のデザインはキノコ雲のイメージが強すぎたため、参考程度にとどめ、実際のデザインは渡辺明が行った(下項参照)。渡辺、利光貞三による粘土原型が完成したのは6月末のことだった。

制作の開始[]

制作に当たっては超大作の扱いで公称7千万円(当時)[6]という大型予算が組まれ、本編面では黒澤組から志村喬を準主演に、成瀬組からカメラの玉井正夫[7]と美術の中古智を迎え入れるなどベテランを起用。予算面での規模が大きかったため、当時製作部長だった北猛夫を特別に「美術監督」に据えている。 特撮を担当した円谷英二監督は、本作のために飯塚定雄、井上泰幸、開米栄三、入江義夫など、各方面から若いスタッフを集めている。この面々は以後、日本特撮界に欠かせない重鎮となっている。

これらのスタッフをもとに、本多組の本編A班、円谷組の特撮B班、向山組の合成C班の3班体制が採られた。ラストの海中撮影のため、「日本で最も海の水の透明度の高い処」が調査され、伊勢志摩の五ヶ所湾がロケ場所に選ばれ、同時に「大戸島」のロケ地にも決定。8月2日には鳥羽ロケの先発ロケハン隊が出発。ゴジラの造形などに手間取り、特撮B班の準備が遅れたため、本多組本編A班が円谷組特撮B班より先に、8月7日に撮入。「大戸島」に設定した伊勢志摩の「石鏡町(いじかちょう)」ほかで一週間ロケを行い、都合51日かけ、9月下旬にクランク・アップした。

円谷組の特撮B班の撮入は少し遅れ、8月下旬からとなり、10月下旬まで71日間、都合3カ月かけての撮影となっている。円谷監督は若いスタッフを率い、徹夜作業を重ね凝りに凝って撮影に当たった。「朝9時にセットに入り、準備を経て17時ごろから撮入、朝の4、5時に撮影を終わる」という連日の強行スケジュールだった。ミニチュア設営に時間がかかるため、大道具係から照明係にいたるまで、総動員してもこのような進行にならざるを得なかったのである。公開時の「東宝スタジオ・メール」には、「だんだん調子が出てきてこれならと思っているうちにクランク・アップした。特殊撮影では、最高を誇るアメリカ映画界に負けない自負を持っている。自慢したいようなしたくないような妙な気持ちです」とコメントしている。

10月25日、作品が完成。撮影所内では完成を祝い、興行成功を祈って、本尊にゴジラの撮影用の「2号」ぬいぐるみを祀って神式の「ゴジラ祭」(修祓式)が開かれた。宮司役に平田昭彦、巫女役には河内桃子が扮して、田中、本多、円谷らスタッフ陣、香山滋が祈祷を捧げている。

この式典の後、東宝の上層部、スタッフを集めて撮影所内で行われた完成試写では、その本編・特撮の出来栄えのあまりのよさに場内総立ちとなり、巻き起こった万歳斉唱と大拍手はいつまでも鳴り止まなかったという。そんな中、原作者の香山滋は、ラストシーンでゴジラが「オキシジェン・デストロイヤー」によって溶けて死ぬシーンを哀れに思い、一人座ったまま感極まって泣いていたという。マスコミ向けの関係者試写は続いて浅草宝塚劇場でも行われたが、この際も香山は目を潤ませていたほどで、円谷によると、香山は作品の出来に感激し、公開後にはスタッフ一同を招いて熱海で一泊の宴席を開いてくれたという。

作品公開と反響[]

こうして完成した本作は、封切りと同時に、当時としても例を見ない観客動員数を記録して空前の大ヒット。東宝の同年度の初日動員観客数の記録を塗り替えた。渋谷東宝に並ぶ観客の列は道玄坂まで伸び、待ち時間は二時間に達した。封切り初日は都内だけで14~15万人の動員があったという。あまりの大入りに、田中友幸は渋谷東宝や日劇ではチケットもぎを手伝っている。1番館での封切り動員だけで観客動員数は961万人に上り、国民のほぼ10人に1人はこの映画を見たことになる。『ゴジラ』の成功は、当時がたついていた東宝の屋台骨を一気に盛り返させたとも言われている。

東宝の重役陣もこの大成功に喜び、撮影スタッフらが重役室に招かれ、各館の興行レコードが次々報告される中、藤本真澄ら本社重役がビールや洋酒をふるまうという異例の待遇でこれを労っている。東宝では封切り劇場内で多数の児童にアンケートが採られ、ゴジラに同情する意見が多く寄せられた。また観客からも「なぜゴジラを殺したんだ?」「ゴジラが可哀想だ」という抗議の声があったという。宝田明も「ゴジラにシンパシーを感じた」、脚本担当の村田も「ゴジラがかわいそうですよ」と語っており、スタッフ内にも同情の意見は多い。

一方、公開時の日本のジャーナリズムの評価は概ね低く、「ゲテモノ映画」、「キワモノ映画」と酷評する向きも多かった。各新聞の論評でも、特撮面では絶賛されているものの、「人間ドラマの部分が余計」として、本多監督の意図したものを汲んだ批評はみられなかったが、田中によればこのなか、三島由紀夫のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」として当時、ドラマ部分を含めて本作を絶賛してくれたという。 著名人としてはのちに、手塚治虫[8]、淀川長治、水木しげるらが本作を絶賛している。この作品は海外でも大評判となり、すでに特撮技術者として並ぶ者のなかった円谷英二の名が、広く海外にまで知れ渡ることとなった。田中Pや本多監督は、「まず欧州で認められ、アメリカで大ヒットしたことで、日本国内の評価が定まったようだ」としている。

『ゴジラ』の宣伝興行[]

この大作『ゴジラ』の公開に当たっては、東宝の営業・宣伝部の斉藤忠夫、内田和也らによって、現在でいうメディアミックス形式での派手な前宣伝が行われた。まず、長期宣伝の手始めとして、まだ撮影にも入っていない、公開に4カ月先立つ7月5日に、朝刊各新聞紙において『ゴジラ』の題名とともに製作の発表を行っている。

続いて、7月17日よりニッポン放送でラジオドラマを開始(下項参照)。公開間際には、雑誌、週刊誌、新聞、電車の車内吊りなど、あらゆる宣伝媒体を用いて入念な宣伝が行われた。また、公開前後には、ゴジラの人形を乗せた宣伝トラックが都内を周遊し、さらにこれを煽った。ゴジラの宣伝用ビニール人形も東宝で用意されたほか、ゴジラの原デザインを担当した阿部和助による漫画も発行され、劇場で配られた(下項参照)。少年雑誌とのタイアップ特集記事では、撮影に使用したゴジラのぬいぐるみの「水葬イベント」が行われた。

結果として『ゴジラ』は東宝の興行史に残る一大宣伝作となった。工藤明宣伝部部長(当時)は公開翌年に、1954年度の宣伝成功作として、『七人の侍』、『生きる』、『蝶々夫人』を挙げたうえで、この『ゴジラ』をこれらを上回る「空前の大ヒット作」と振り返っている。

『ゴジラ』と伊福部昭[]

本作では作曲家伊福部昭による劇中音楽も評価が高く、特にメインテーマ[9]は後の「平成ゴジラシリーズ」にも受け継がれている[10]

伊福部は田中プロデューサーの『銀嶺の果て』(谷口千吉監督、1947年)が映画音楽デビューで、掛下慶吉の推薦もあり、同じ田中プロデューサーに見込まれての依頼だった。担当が決まり、本作の製作発表で会見を受けた後、伊福部に対して、「ゲテモノ映画の音楽なんかやってると、仕事がとれなくなるよ」と、大真面目で忠告してくる人もいたという。しかし伊福部は「とんでもない、と大乗り気でやりました」と語っている。これには伊福部自身が水爆実験の結果誕生したゴジラという怪獣に対し、戦後の混乱期に放射線障害を負っていた自分自身と共鳴するものがあった、とも言われている。

伊福部は本作について、「特撮映画は下手な音楽論が出てこないから大好きだ」、「とくに爬虫類が活躍するなんていうと黙っちゃおれないという気がします」とし、「近くの幼稚園から聞こえてくる音楽が虚脱した旋律ばかりで、こんな教育してたら子供はダメになると考えていたところ、ちょうど子供が『ゴジラ』なんかをみる年頃だったので、それじゃあひとつと、かなり真面目にやりました」と述べていて、つねづね「子供に聴かせる音楽に嘘はいけない」としていた伊福部は、この『ゴジラ』では「大きいものが出てくる場合は大きい音で」という正攻法の作曲を心がけたという。

こうしたわけで、ゴジラの主音は「大きな音」が出るコントラファゴットやチューバが使われた。コントラファゴットは当時、東京芸大に一つしかなく[11] 、前日に借りるなどして楽器集めには苦労したという。また重低音の楽器が主旋律となるため、「連日の吹奏で演奏者は脳震盪すれすれだった」と語っている。

オーケストラはNHK交響楽団による。スクリーンに本編を映写しながらの演奏録音だったため、演奏者が演奏そっちのけで背後の画面に見入ってしまい、自らタクトを振った伊福部は「ひどい目にあいました」と語っている。演奏自体は和気藹藹とした雰囲気で行われたが、演奏メンバーの中には、この作品の「ドシラ、ドシラ…」という音階の「ゴジラのテーマ」に、「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラが出てきたぞ」と歌詞をつけて歌う者がいたという。

伊福部はテンプレート:和暦に、出張先の京都での月形龍之介との酒席が、円谷監督(公職追放中で困窮していた)との初対面だったが、月形が知り合い同士と思って紹介しなかったため、互いに名も知らないまま、しばらくは会うたびにただ酒をおごらされる付き合いとなっていた。その5年後、本作の制作発表の壇上で再会し、初めて互いの素性を知って驚いたという。こうしたいきさつで円谷監督とは「気兼ねなく仕事が出来た」といい、本作では例外的に編集前の特撮フィルムを見せてもらい、作曲イメージを構築したという。ただ、この作品での円谷監督はかなり秘密主義だったため、白抜けのフィルムだけを見せられることもあり、これには閉口したという。

伊福部の作曲は劇伴だけでなく、「オキシジェン・デストロイヤー」の実験時の効果音的旋律などにも及んでいる。ゴジラの鳴き声は、伊福部昭の発案で、外したコントラバスの弦を松脂をつけた皮手袋でしごいて起こした音を、音響技師の三縄一郎が加工して使用している。この「ゴジラの声」は、以後の作品でもさらに加工して連綿と使用されている。タイトルバックから鳴り響く「足音」は、録音技師の利根川孝太郎が自作していた音響増幅用の箱を、試しに叩いてみたところちょうどいい音がしたので、伊福部が採り入れ、劇伴録音の演奏場に持ち込んで、三縄一郎、下永尚とで使った。

『ゴジラ』と本多演出[]

田中プロデューサーはこの企画のテーマを、「水爆に対する恐怖」とした。脚本を担当した村田はラストの山根博士の台詞に、「原水爆反対の悲願を込めた」と語っている。本多監督は、本作公開時の東宝宣伝部の発行紙に、「(この映画で)私の狙う真実は、水爆下の恐怖に喘ぐ現代人の心理的デフォルマシオンである」とコメントしており、またのちに本作について「私自身も思いもよらぬ影響を与えた作品であり、良いにつけ悪いにつけ、『ゴジラ』は私の人生を大きく決定づけた」と述べている。

本多猪四郎監督は制作に当たり、田中P、円谷監督と三人で「撮影に当たり我々自身、決して荒唐無稽の怪獣映画との照れの気持ちを絶対に持たないこと。原爆の驚怖(原文ママ)に対する憎しみと驚きの目で造っていこう、現に目の前に原水爆実験で蘇生した、とてつもない怪獣が日本へ、東京へ現れたらどうするか、その現実感の狙いを忘れないで撮影しようと固く申し合わせた」と著している。実際の演技指導に当たっても、その方針の通り、円谷監督と入念に打ち合わせを行い、ゴジラを前にした演技者たちの目線の統一を徹底し、画面にリアリズムを持たせている。公開時のマスコミの論調では、「生き物が火を吐くわけがない」として『ゴジラ』をゲテモノ扱いする向きもあったが、本多監督は「放射能は炎でないことは分かっている。映画的な嘘である」としている。本多監督はまた、「一番の被害者はいつも民衆である。この映画の原イメージは、自らの戦争体験である[12] 」と述べている。

こうして本多監督は一貫して「真正面から戦争、核兵器の怖ろしさ、愚かさを訴える」というドキュメントタッチの演出姿勢を貫き、当作品に単に時勢に乗って作られた怪獣映画に終わらせない普遍性を持たせていて、第五福竜丸の被曝事件のみならず、菅井きん演じる女性議員[13]や戦災遺族・孤児[14]、疎開、本作の2年前に警察予備隊から再編成された自衛隊の登場など、随所に当時の時代背景を象徴するファクトを織り込んでいる。当時の政界では造船疑獄、犬養健法務大臣の指揮権発動などもあり、吉田茂内閣や政治への不信感が国民の間に高まっていた時期であった[15]。そのような時代背景か、助監督として参加した梶田興治によると、ゴジラが国会議事堂を破壊したシーンでは観客が立ち上がって拍手をしたという。

ストーリー[]

太平洋上で貨物船「栄光丸」が原因不明の沈没事故を起こした。さらに救助に向かった貨物船「備後丸」と大戸島(劇中では「おおどしま」と発音される)の漁船も次々に遭難沈没。救出された大戸島の漁師政治は、「巨大な怪物に襲われた」と証言する。そのことを聞いた島の古老[16]は、大戸島の伝説に伝わる怪物「ゴジラ」の仕業ではないかと漏らす。

そして暴風雨の夜、島に巨大な生物が上陸し、家屋が破壊され住民・家畜に死傷被害が出る。政治も弟新吉を残し、母とともに命を落とす。政府には大戸島災害陳情団が列をなし、政府公聴会ではこれを未知の生物の仕業とする一連の証言を受け、古生物学者の山根恭平博士らによる調査団が結成された。このメンバーには、物理学者田辺博士、新聞記者の萩原のほか、娘の恵美子やその恋人で南海サルベージ所員の尾形秀人らが同行した。いよいよ調査船出港の日、見送りの人々の中に、恵美子の元婚約者の芹沢博士の姿もあった。大戸島では、壊滅した村に夥しい放射能反応が確認された。山根博士は残された巨大な足跡からジュラ紀の古生物であるトリロバイト(三葉虫)を発見。そのとき不気味な足音が鳴り響き、海へ続く山の峰に向かった一行が見たのは、恐ろしい咆哮とともに、山向こうから頭をもたげた大戸島の伝説に伝わる怪獣だった。

東京へ戻った山根博士はその巨大生物を大戸島の伝説に従って「ゴジラ」と呼称し、トリロバイトと残留放射能ストロンチウム90を根拠に「200万年前[17]のジュラ紀に生息し、海底の洞窟に潜んでいた太古の生物が、水爆実験の影響で安住の地を追われ、出現したのではないか」とする見解を国会での公聴会で報告。この事態に国際問題を鑑み公表回避を主張する与党と、事実の公表を主張する野党とで国会は紛糾。人々は再びの疎開を話題にするのだった。

山根博士らの報告を受けた政府はゴジラに対し、大戸島西方沖の海上でフリゲート艦による爆雷攻撃を実施。これを報じるテレビに、山根博士は古生物学者という立場上、太古の生物の生き残りであるゴジラを抹殺しようとする政府の方針に心を痛める。その夜も大都市東京にはネオンが輝き、東京湾上の遊覧船では笑いさざめく人々の姿があった。そのとき不気味なゴジラの足音が響き、彼らの眼前にゴジラが姿を現し、再び海中に姿を消した。

政府は特別災害対策本部を設置、山根博士にゴジラ抹殺の方法を尋ねるが、博士は水爆の洗礼を受けなおも生命を保つゴジラの抹殺は無理とし、その生命力の研究こそ急務と主張した。新聞記者萩原は恵美子を訪ね、ゴジラ対策に有効なプランを持つと噂される、青年科学者の芹沢大助博士との面会を申し込む。芹沢は山根の養子となるはずの身だったが、戦争で片目を失ったあと[18]恵美子との婚約を破棄し、一人自宅の研究室にこもっていた。芹沢は萩原を追い返した後、恵美子にある極秘の実験を見せ、「絶対に他言しないように」と固く口止めするのだった。

その夜、東京湾に現れたゴジラは防衛隊の機関銃をものともせず芝浦に上陸。逃げまどう群衆の中[19]、防衛隊に「ゴジラに光を当ててはいけない、怒りを増すだけだ」と進言する山根博士。ゴジラは水爆実験の記憶から、光に対して過剰反応を示すのだった。品川駅構内に侵入し、列車を踏みつぶし、海へと去るゴジラを、人々は怖れ慄き逃げまどうばかりだった。防衛隊は5万ボルトの電流を流した高圧送電線式の鉄条網を東京湾沿岸に張り巡らせ、ゴジラの上陸を阻止し感電死させようと計画する。あくまでゴジラを研究対象としたい山根博士と、その抹殺を主張する尾形の間で板挟みとなる恵美子。

やがてゴジラは再び京浜地区に接近、高圧電流も防衛隊火力部隊の攻撃もものともせずに防衛線を突破して再び東京に上陸。ゴジラは水爆実験の影響を受け、後天的能力として、口から放射能を帯びた白熱光を吐く大怪獣と化していた。戦車隊を全滅させ、口から吐く白熱光で街を火の海に変えてしまうゴジラ。銀座松坂屋を火に包み、和光ビルの時計塔の鐘の音に怒ってこれを壊し、戦災孤児と母親も瓦礫の下に、日劇、国会議事堂を叩き壊し、首都の惨状を伝える報道陣もろともテレビ塔をなぎ倒した水爆大怪獣は、勝鬨橋を破壊して東京湾へと戻った。このときようやく戦闘機隊のミサイル攻撃が始まるが、人々の歓声むなしく、海中へと姿を消してしまうのだった。

東京は焦土と化し、ゴジラのまき散らした放射能は無辜の児童にも及んでいた。恵美子は臨時救護所で[20]被災者たちの救護に当たったが、被災者のこの凄惨な状況を見るうちに耐えられなくなり、芹沢との約束をあえて破り、尾形に芹沢の秘密を明かすことを決意する。芹沢の研究所で見せられたのは、水中の酸素を一瞬にして破壊し、あらゆる生物を死滅させ溶解する「オキシジェン・デストロイヤー(水中酸素破壊剤)」であった。

尾形は恵美子を連れて芹沢のもとに向かい、懸命にオキシジェン・デストロイヤーの使用を求めるが、「オキシジェン・デストロイヤーは恐ろしい兵器になり得る。これを公表すれば第三の兵器として軍事利用されるかも知れない」と芹沢は頑として受け入れない。だが、二人の熱意とテレビに映し出された被災者たちの姿、「平和への祈り」にある決意を秘め、ついに一度だけの使用に限ってこれに応じるのだった。尾形とともに東京湾に潜った芹沢はオキシジェン・デストロイヤーの装置を作動させた。ゴジラは苦しみ始め、海上に断末魔を残し、やがて白骨を海中にさらすのだった。しかしそのなか、芹沢もまたオキシジェン・デストロイヤーの悪用を恐れ、自ら命綱を断った。行方を見守っていた人々がゴジラを倒した喜びや芹沢の死の悲しみに騒然となる中、山根博士は「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかに現れてくるかもしれない[21]」とつぶやくのだった。

『ゴジラ』の美術・造形[]

水爆大怪獣ゴジラ[]

当初、円谷監督はゴジラの撮影方法について欧米に倣い、人形アニメの技法を検討したが、11月3日の封切り上映日から逆算して工程上無理と判断し、演技者が中に入る形でのぬいぐるみ方式を採った。メインの演技者を務めた中島春雄は円谷監督に、「人形アニメでやれば7年かかるが、お前が演ってくれれば3月で出来る」と口説かれたという。それまでの映画の怪獣というと人形アニメでの表現しかなく、有川キャメラマンも中島も「ぬいぐるみでやるぞ」と円谷監督に言われても全くイメージが湧かなかったという。『ゴジラ』は本格的な「ぬいぐるみ怪獣」としても日本初の取り組みだった。

脚本に基づき、「水棲爬虫類から陸上哺乳類に進化途中の巨大生物」と設定され、当初、ゴジラ頭部のデザインは、挿絵漫画家の阿部和助に依頼されたが、阿部の画はキノコ雲のイメージが強すぎて、参考程度にしかならなかったと言われている。次に美術チーフの渡辺明によって、アメリカのライフ誌の図解から「イグアノドン」、「ティラノサウルス」、「ステゴザウルス」等の恐竜画を参考にイメージがまとめられ、デザイン画が起こされた。

このデザイン画を基に、続いて利光技師によって粘土製の二尺モデルが作られた。利光の起用は、円谷監督のたっての頼みでのことだった。この粘土モデルは、全身を「魚のような鱗」、「ぶつぶつしたイボ状の突起」、「ワニのようなごつごつしたヒダ」で覆われているものが、時系列順に写真資料として残されている。「背びれ」は粘土原型の時点で水爆によって骨化したイメージになっている。また、劇中において「服部時計店(銀座和光ビル)にある時計塔の鐘の音に怒る」という描写があるため、本来爬虫類にはない耳介がつけられた。ゴジラの頭の造形は利光によって行われたが、口の周りのスリット表現など、利光は以後のゴジラと併せ、この頭に阿部画家のキノコ雲のモチーフを採り入れ続けている。利光は撮影所に入ってその日から缶詰となり、この二尺モデルの制作を行ったが、この作業は撮影所でも極秘とされ、5、6人しか知る者はいなかったと語っている。

ゴジラのぬいぐるみは高さ6尺(2m弱)と決められ、その製作は、大橋史典(初期)、利光貞三がメインとなって当たった。当時、ラテックスはまだなく、「取り寄せたブロック状の生ゴムをバケツの水に一晩漬け、翌朝軟らかくなったところでワセリンなどを混ぜ込んで練り、粘土原型から起こした石膏の雌型に塗りつけて、これを赤外線ランプを内側に並べて作った専用の「焼き窯」の中で250度ほどで加熱乾燥させる」という工程でゴムの表皮が作られた。

胴体部を製作したのは八木康栄、八木勘寿兄弟だった。利光技師と併せ、もともとは遊園地の展示物や菊人形の制作などを請け負っていた職人としての経験を生かし、張り子の技法で番線の鉄骨に金網、古紙を張り、上記の表皮を貼り付けてこれを作り、この表皮に、固めに練ったゴムを盛りつけヒダを作った。が、当初はゴムの練りが足りず、試着して動くと表皮がすぐに裂けてしまう状態だった。ゴムの練りを工夫するなどして試行錯誤の末、ようやく造られた「1号」ゴジラは非常に硬く、また150kgを超える重さ(大橋史典談)があり、角材すらまたげなかった。撮影中にもすぐ倒れてしまい、しかも自力で起き上がることは不可能だった。

この「1号」のぬいぐるみが「重すぎて撮影に使えずNGになった」と記述する文献もあるが、造型スタッフだった開米栄三はこれを否定している。ゴジラのぬいぐるみは当初から複数体を制作する段取りだった。「1号」の製作途中からすぐに、より軽く工夫した「2号」が造られたが、それでも100Kg近い重さがあった。撮影にあわせてこの二体が順次使われ、「1号」は「2号」の完成後に腰で上下に分断され、上半身だけのものが東京湾のプール撮影に使われた。下半身のみのものは、銀座や品川駅をのし歩く足のアップなどで使われている。

開米によると、当時まだ発泡ウレタンはなく、表皮の内側には、綿を布袋に詰めたものを一面に縫い付けたため、さらに重量を増やした。背中の出入り口にはファスナーではなくホックを使用、撮影時にはこれを針金またはテグスで縛って閉じた。足下には、長靴を使うという発想がなかったので、下駄を入れた[22] 。「目玉」は、木工部で木製の卵型の球を作ってもらい、この目玉と口はオートバイのブレーキワイヤーとゴムを繋ぎ、尻尾の途中から外へ出して、開米が外部操作して動かしたという。「キバ」は木製だとネズミのようになるため、ゴムで作られた。「背びれ」は金網の芯に紙を張り、ゴムを塗って作った。ゴジラの左腕は、「1号」「2号」ともに粘土原型の形状に合わせて、肘の部分で胴と一体化した形になっている。

のちに大橋史典はオリジナル怪獣「アゴン」を作った際、東宝から「ゴジラの盗作である」として訴えられた。しかし、第一作ゴジラの造形に携わっていたということで、これは取り下げられたそうである[23]

ゴジラのメインのスーツアクターは、当初本多監督に口説かれた元プロ野球選手の手塚勝巳が起用されたが、上記のような重さで大変体力のいるものだったため、急遽円谷監督によってより若い中島春雄が呼ばれ、メインを交代した。さらに開米栄三が常時サポートにつき、シーンによっては開米もゴジラに入っている(長身の開米が入ったゴジラは、脚のたるみなどが少ない)。視界は極端に狭く、内部演技者は足元しか見えなかった。このため、補佐を務めた手塚勝巳は、懐中電灯で足元を照らすことで、演技者の中島春雄を誘導した。特撮プールでの撮影では一度、誤って水底の電力ケーブルが漏電し、中島が失神する騒ぎとなったという。円谷監督は連日、中島と手塚両人に、ゴジラの咆哮や動きを直接身振りを交えて念入りに指導。普段から「がにまた歩き」を徹底するよう指示し、これを「ゴジラのアクションのためのシゴキだ」と語っていたという。

白黒画面で判然としないゴジラの体色であるが、開米栄三は「体表は白いゴムに油性塗料を吹付けた灰色で、口の中は色合いの違いを出すため、真っ赤に塗られていた」と述べている。一方、有川貞昌らは「体色は赤黒い色で、灰色ではなかった」としていて、造形スタッフと撮影スタッフで証言が食い違っている。この撮影に使われたゴジラは、宝田・河内の両主演俳優を招いた公開後の少年雑誌主催のイベント企画で、劇中同様に隅田川から東京湾へ沈められた。

鉄塔に噛みつくなど細かい表情の撮影には、腰から上の手踊り式のギニョール模型が使われた。造形は利光貞三。検討用の二尺粘土模型を石膏で型取りし、ゴムで抜いたものが使われた。ギニョール操作には当初、街のギニョール師が呼ばれたが、人形芝居の動きと怪獣の動きは違うためイメージが合わず帰ってもらい、中代文雄がこれを行った。操作の際は頭が邪魔にならないよう寝そべって、仰向けになって行っている。 ラストシーンの「ゴジラの骨」も、利光技師によって針金の芯に綿にゴムを浸み込ませる技法で作られている。

トリロバイト[]

ゴジラの足跡で発見された「三葉虫」。ゴジラ以外に唯一登場する古代生物。美術スタッフによってゴム製の5寸サイズのミニチュアが用意された。

ミニチュア類[]

当時、東宝には戦後間もなく解体されて以来、「特殊技術課」はまだ正式に再発足しておらず、「特殊美術」のセクションもなかった。渡辺美術監督ら美術スタッフは、本編美術の部屋を借りて作業していた。井上泰幸は新東宝から本作のために7月から参加したが、本作完成後、説得されて東宝のスタッフとなった。撮影初日にゴジラのぬいぐるみが重さに負けてひっくり返り、セットを踏み抜いたために、初日から美術スタッフは徹夜となった。

ファイル:Ginza 02.jpg

ゴジラが破壊した銀座和光ビル

劇中のゴジラの身長が、円谷監督の「和光ビルの時計台を壊そう」という意見から、「ビル街の上から頭が覗く」とされ、「50メートル」と設定されたため、これに合わせて、ミニチュアはすべて1/25スケールに統一された。東京の市街地の精巧なミニチュア群が作られたが、銀座のミニチュア制作では、当該ビルから図面の提供を受けられないことも多かったため、円谷監督は渡辺美術監督、入江義夫、牧野金太郎、井上泰幸ら美術スタッフとともにロケハンを行い、歩測して寸法を割り出し、井上と入江義夫が図面を引いた。銀座のビルの上でのロケハンでは、円谷監督が「あそこのビルを燃やそうか」などと打ち合わせをしていて警察官から不審尋問を受けている。

この銀座の町並みのミニチュアは、実景写真と見比べながら寸分違わないよう制作され、一カ月ほどかかった。美術スタッフには、当時美大生だった成田亨もアルバイト参加し、ミニチュアのビルの製作などを担当しているが、当初、彼ら美大のアルバイトや、出入りの石膏屋が図面を見ずに作るため、ミニチュアの縮尺がばらばらになってしまった。渡辺美術監督はこれに怒って、図面通りに全部やり直させている。市街地のミニチュアがほぼ完成した頃に、円谷監督は「もうすこし生活感がほしい」と要望。有川キャメラマンの発案で、糸ヒューズを使って、都電や電信柱の電線を張り巡らせることとなった。すでにスタッフは手一杯だったので、有川ら撮影班が作業に駆り出されたが、撮影に入ると照明の熱でヒューズ線が伸びてしまい、張り替えの連続だったという。

こうして本作用に作られたミニチュアの総数は、当時の映画技術誌での発表によると、「建物500軒」、「戦車10台」、「大砲10門」、「飛行機50機」、「テレビ塔・高圧送電塔10基」、「船舶20隻」、「自動車18台」と膨大なものだった。本作の制作時にはまだ東宝に特撮専用のステージは無く、不十分な広さを補うため、町並みのセットにはパースをつけて、手前から奥へ向かって徐々に低く造られた。「松坂屋」のセットも同様である。

「国会議事堂」の破壊シーンでは、実際の議事堂がゴジラと同じ高さ(50メートル)なので、ゴジラの巨大さを表現するため、1/33に縮小したミニチュアが作られた。ゴジラの壊す日劇のミニチュアには、スタッフのお遊びで、『美女とゴジラ』と題した映画看板がかけられている。「銀座和光ビル」の時計塔は、本番でうまく壊れてくれず、作り直して再度撮影を行っている。

ゴジラの吐く「白熱光」で、溶け落ちる高圧鉄塔は、井上泰幸らは「円谷監督の指示で、蝋を用いて作った」としているが、有川貞昌は「使ったのは鉛で、蝋や飴で作ったとか、なんでそんな話になってるのかわからない」とコメントしていて[24] 、美術スタッフと撮影スタッフとで証言が食い違っている。なお、本多監督は「蝋と鉛を混ぜて作った」と語っている[25]

オキシジェン・デストロイヤー[]

デザインは本編班美術スタッフの安倍輝明、造形は井上泰幸。実物大の金属製2尺模型が作られた。

芹沢らが着る潜水服は、オレンジ色だった。真夏の8月の炎天下での撮影であり、芹沢博士、尾形役の平田・宝田両人は船上での演技のみであったため「まるで溶鉱炉の中にいるようでした」とコメントしている。

兵器類[]

東京湾でゴジラを追撃する戦闘機は、ノースアメリカンF-86Fセイバー。二尺サイズの木製ミニチュアが数機作られている。

特車隊はM24チャーフィーの2尺サイズの模型が使われた。円谷監督が「モーター類では一番強い」として買い揃えておいたジューサーミキサーのモーターを内蔵しており、人間を乗せて走れるほどしっかりしたものが作られた。方向転換などは出来す、ピアノ線で引っ張ってこれを行った。発砲カットは、実際の火薬発火に白抜けのフィルムを挟むことで強調する演出が採られている。

エピソード[]

ファイル:Range of Gokasho Bay.JPG

大戸島や海上・海中の撮影は、伊勢志摩の五ヶ所湾で行われた

作品中に登場する「大戸島」のロケ地は、三重県鳥羽市を本拠とし、鳥羽奥の相河町(おおかちょう)と、石鏡町(いじかちょう)という漁村で撮影された。ゴジラの出現シーン、フリゲート艦隊による爆雷投下、終盤の潜水シーンがこの「石鏡町」で行われた。設定上は「島」だが、石鏡町は実際には島ではない。ただし、助監督として参加した梶田興治によると、撮影当時の石鏡町周辺は幹線道路が貧弱であったため、鳥羽市から船を使用し、2時間もの時間を要して機材を運ぶような「陸の孤島」であったという。この石鏡町の撮影では、「ゴジラが出たぞ」と半鐘が鳴り、住民が逃げるシーンで、地元住民約300人がエキストラとして参加している[26]。合成シーンが多いので、この鳥羽のロケには円谷監督も立ち会っている。

本多監督によると、ゴジラが出現して島民が逃げるシーンの撮影で、当時、映画の撮影など見たこともないエキストラの石鏡町民たちに、「ゴジラは(今、目の前のここに)いないのに、どうやってそんなものを撮るんだ?」と口々に聞かれて説明するのに苦労したそうである。また、地元民たちはどうしても理解できなかったようで、「あそこにゴジラがいます」などと説明するたびに彼らが笑うのにも閉口したと述懐している。伊勢志摩は、『伊勢志摩』(1949年、東宝教育映画)や『青い真珠』(1951年、東宝)で本多監督にはなじみのロケ地だった。この本多班の撮影中、同じ鳥羽の「神島」では、『栄光の影に』が中止となった谷口千吉監督が『潮騒』を撮影していた。

ファイル:Kata-jinja(Toba) 04.jpg

大戸島の神楽が撮影された鳥羽の賀多神社

大戸島の神社での神楽のシーンは、鳥羽の賀多神社での神楽をそのまま撮影した。天狗の面や踊りの奉納などもすべて現地のもので、伊福部の作曲した神楽のみが架空のものである。大戸島の民家の破壊跡は、世田谷大蔵のオープンセット[27]で撮られた。山根博士らの調査団を取り巻く村人は、東宝の大部屋俳優50余名の出演による。

ゴジラの劇中初登場は山から顔を出すシーンだとされることが多いが、実際には嵐の夜の大戸島襲撃シーンに足が写っている。ゴジラの死が明確に描写された作品は、本作と『ゴジラvsデストロイア』(1995年)の2作品のみである。また、人類自身の手でゴジラを葬り去ったのは本作だけである。

ファイル:Yatuyamabashi 01.jpg

避難民描写が撮影された八ツ山橋

ゴジラが劇中で「銀座和光ビル」の時計塔を壊すシーンがあるが、梶田興治助監督によると、和光本社はこれに激怒し、以後2年間ほどは、東宝の一切のロケ使用を許可しなかったそうである。梶田助監督によると映画を観た後、本当に「銀座和光ビル」が壊されたかどうか、確かめに来る人たちがいたという。またゴジラの白熱光で炎上する「松坂屋」は、「縁起でもない」と怒り狂ったという。

大戸島の台風のシーンでは、本作のために作られた、トラックのエンジンにセスナのプロペラをつけた特製の大型扇風機が使われている。合成シーンで使われたオプチカル・プリンターは、円谷監督が戦前に自作した手動式のものだった。合成技師の向山宏によると、「旧式だが使いやすかった」という。ゴジラが初めて出現するシーンなどの合成は、キャメラレンズに黒紙のマスクを張って現場でマスク処理する「生合成」だった。白黒映画で鮮明な画面となる「生合成」は、非常に熟練を必要とする、ベテランの向山技師ならではの技法であり、向山は一度フィルムが引っ掛かって失敗した以外、すべて成功させて見事な合成画面を実現させている。

ファイル:Matsuzakaya Ginza branch (2007.9.11).jpg

映画で燃やされた銀座松坂屋は「縁起でもない」と激怒した

自衛隊、海上保安庁に対しては、担当各庁に脚本閲覧の元に全面協力を得たが、自衛隊が映画に協力したのは本作が初めてのことである。鳥羽ロケでは海上保安庁の「こうず」、「こたか」、「愛知丸」の巡視船が撮影に協力している。この五ヶ所湾でのロケでは、海中撮影のために本職のサルベージ会社が協力したが、このサルベージ会社の係員がうっかり送気ポンプの操作を誤り、水中撮影中の逢沢譲キャメラマンが窒息しかけるアクシデントがあった。この真夏の海上ロケで、巡視船の上で上半身裸で撮影に挑んでいた本多監督は、日焼けしすぎて背中に水ぶくれが出来てしまった。

ファイル:The Institute of Medical Science Tokyo Japan First Building 0083.jpg

臨時災害救護所の撮影に使われた伝染病研究所

劇中、テレビ塔でゴジラの実況中継をする「GHK(ゴジラ放送協会)」実況アナウンサー役の橘正晃は、汗に濡れた顔の表現をするために自らの発案でオリーブ・オイルを顔に塗っている。

宣伝部、営業部によって、製菓会社「森永製菓」、オートバイ会社「キャブトン」、電機会社「ユタカ電機製作所」、音響機器会社「オンキヨー」とのタイアップが行われた。社名や製品を作品内に登場させる見返りに、前売り券をさばいてもらった。

海外版[]

ファイル:Godzilla King of the Monsters poster.jpg

『怪獣王ゴジラ』日本公開時のポスター

この作品はアメリカのハリウッド資本に買い取られ、主演をレイモンド・バーとしてテリー・モース(Terry Morse)監督のもと追加撮影が行われ[28] 、再編集されたのち、日本映画で初めてメジャー系の配給網に乗せられて、1956年に『Godzilla, King of the Monsters!』(『怪獣王ゴジラ』)との題名で全米公開され、封切り後4日間で1万7千ドル(当時)を稼ぎ出し、最終的に50万ドル(当時)を上回る興行成績となった。

光学合成で焼きこまれた、ゴジラの光る背びれや口から吐く「白熱光」、これによって高圧送電線の鉄塔がぐにゃぐにゃに溶け落ちるシーンは、海外でも大評判となった。本多監督によると、とくにこの「白熱光」を見たアメリカのバイヤーは「素晴らしいリアリズムだ」と絶賛し、すぐさま売買契約を申し込んできたという。

この「海外版ゴジラ」は全米のみならず、世界50ヶ国で上映されて人気を呼び、400億円もの外貨を得る[29]と共に、怪獣「ゴジラ」の名を世界に轟かせた。スティーヴン・スピルバーグも少年時代に本作を観て「どうして怪獣をあんなに滑らかに動かせるんだろう」と衝撃を受けたという。ただし、当時の時代背景に配慮したためか、「政治的な意味合い、反米、反核のメッセージ」は丸ごとカットされている[30]

当時の日本映画の海外契約は、すべてフィルムの買い取り形式であり、フィルムの編集権は売却先の興行側にあった。本多監督は「そういう契約だったから」とコメントしているものの、本来こういった監督の了解を得ない形での再編集は本意でないことも断っている。アメリカで正式な完全版の『ゴジラ』が上映されたのは2005年になってようやくのことであり、今更ながらそのテーマ性と完成度の高さが同地で絶賛されている。

スタッフ[]

本編[]

  • 製作:小林一三
  • 原作:香山滋
  • 脚本:村田武雄、本多猪四郎
  • 音楽:伊福部昭
  • 撮影:玉井正夫
  • 美術監督:北猛夫
  • 美術:中古智
  • 録音:下永尚
  • 照明:石井長四郎
  • 編集:平一二
  • チーフ助監督:梶田興治
  • 製作担当者:真木照夫
  • 監督助手:中島義次、竹林進、所健二
  • 撮影助手:逢沢譲、余郷勇治、砂山利宗
  • 照明助手:小島正七、原勲、羽田昭三、清水博、広沢賢次、小島真二
  • 録音助手:刀根紀雄、田久保敏夫、山下博、田中信行
  • 絵コンテ:育野重一
  • 音響効果:三縄一郎
  • スチール:田中一清
  • 賛助:海上保安庁
  • 現像:東宝現像所
  • プロデューサー:田中友幸
  • エグゼクティブプロデューサー:森岩雄
  • 監督:本多猪四郎

特殊技術[]

  • 特殊技術:円谷英二(名義は「圓谷英二」)
  • 撮影:有川貞昌
  • 美術監督:渡辺明
  • 照明:岸田九一郎
  • 火薬:山本久蔵
  • 造形チーフ:利光貞三、大橋史典
  • 操演:中代文雄
  • チーフ助監督:浅井正勝
  • 撮影助手:円谷一、富岡素敬、真野田陽一
  • 照明助手:秋池深仁、畑日出夫
  • 美術助手:井上泰幸、入江義夫、小田切幸雄、照井栄、飯塚定雄、成田亨
  • 造形助手:八木康栄、八木勘寿、開米栄三、鈴木儀雄[31]
  • 操演助手:小川昭二
  • 大道具:牧野金太郎、田中義一
  • 組付:島袋光和、高山一
  • 背景:鈴木福太郎
  • ゴジラデザイン協力:阿部和助
  • 製作係:坂本泰明

合成班[]

  • 合成監督:向山宏
  • 合成撮影:土井三郎、泉実
  • 合成作画:石井義雄、進八郎、渡嘉敷唯信
  • 光学撮影:荒木秀三郎
  • 光学作画:幸隆生、岡田明方、茂田江津子

キャスト(クレジット順)[]

  • 尾形秀人(南海サルベージKK所長):宝田明
  • 山根恵美子:河内桃子
  • 芹沢大助(科学者):平田昭彦
  • 山根恭平博士(古生物学者):志村喬
  • 田辺博士:村上冬樹
  • 萩原(毎朝新聞記者):堺左千夫
  • 南海汽船社長:小川虎之助
  • 政治(まさじ)[32] :山本廉
  • 国会公聴会委員長:林幹
  • 大山代議士:恩田清二郎
  • 対策本部長:笈川武夫
  • 稲田(大戸島村長):榊田敬二
  • 新吉(政治の弟):鈴木豊明
  • 爺様(大戸島の長老):高堂國典
  • 小沢婦人代議士:菅井きん
  • 大戸島の娘:川合玉江
  • ダンサー(国電/遊覧船の女):東静子
  • 新吉兄弟の母:馬野都留子
  • 田辺博士の助手:岡部正
  • ダンサーの連れの男(国電/遊覧船の男):鴨田清(→鴨田喜由)
  • 海上保安庁係官:今泉廉
  • GHK実況アナウンサーA:橘正晃
  • GHK実況アナウンサーB:帯一郎
  • 大戸島島民/警官隊隊員:堤康久
  • 大戸島島民:鈴川二郎
  • しきねのGHK実況アナウンサー:池谷三郎(TBS)
  • 毎朝新聞デスク/ゴジラ:手塚勝巳
  • 変電所技師/毎朝新聞記者/ゴジラ:中島春雄
追加キャスト(ノンクレジット)
  • 海上保安庁係長:牧壮吉
  • 海上保安庁係官:吉頂寺晃
  • 海上保安庁係官:由起卓也
  • 海上保安庁係官:門脇三郎
  • 海上保安庁係官/医者:大塚秀男
  • 海上保安庁係官/しきねの新聞記者:坪野鎌之
  • 海上保安庁係官/ゴジラを見上げる男:砂川繁視
  • 海上保安庁係官/警官隊隊長:津田光男
  • 防衛次官:熊谷二良
  • 対策本部員:日方一夫
  • 対策本部員:佐田豊
  • 対策本部員(通信担当):緒方燐作
  • 伝言文を通信員に渡す男(対策本部員):宇野晃司
  • 松坂屋前で自殺しようとする母親:三田照子
  • 代議士:勝本圭一郎
  • 代議士:瀬良明
  • 代議士:広瀬正一
  • 女性代議士/女(遭難船員の家族):小沢経子
  • 女(遭難船員の家族):大城政子、上遠野澄代、小野松枝
  • 男(遭難船員の家族):大西康雅、大江秀、松下正秀
  • 巡視船しきね乗組員:中西英介
  • 無電通信士(栄光丸):藤木悠
  • 新聞記者/遊覧船上のアベックの男:石原忠
  • 新聞記者:渋谷英男
  • 新聞記者:向井淳一郎
  • 新聞記者:桜井巨郎
  • しきねの新聞記者:坂本春哉
  • しきねの新聞記者:川又吉一
  • 船舶会社(南海汽船)幹部:光秋次郎
  • 栄光丸の船員/しきねの新聞記者:篠原正記
  • ハーモニカを吹く栄光丸の船員:越後憲三
  • 栄光丸の船員:河辺昌義
  • 救助された船員:吉田静司
  • 変電所技師:夏木順平
  • 大戸島島民:天見竜太郎
  • 大戸島島民:安芸津宏
  • 電車の運転手:須田準之助
  • 電車の運転助手:佐竹弘行
  • フリゲート艦上のアナウンサー助手:宇留木康二
  • テレビに映る看護婦:記平佳枝
  • ゴジラから逃げる都民:加藤茂雄
  • 警戒警報のアナウンサー:岡豊
  • ゴジラ:開米栄三

劇中歌[]

  • 『平和への祈り』
    • 作詞:香山滋
    • 作曲:伊福部昭

作中で歌われる『平和への祈り』の撮影は、当時女子高だった桐朋学園(現:桐朋学園大学)が全面協力し、大講堂に在校生2000余名が集められての斉唱が行われた。生徒たちには鉛筆などの記念品が贈られたという。集められた生徒数のあまりの多さに、後年「合成ではないか」との声も出たという。

再上映・映像ソフト化[]

『ゴジラ』が初公開以後、劇場以外で上映されたのはテンプレート:和暦、NHK総合でのテレビ放映が初だった。東宝公式の再上映としてはテンプレート:和暦に、全国4劇場で行った特集興行『ゴジラ映画大全集』で、8月2日に初日上映されている。

  • ビデオテープ
    • 1980年代初頭に、VHS、β両方から90分の「短縮カット版」が発売されている。
    • 1988年、1991年に「ノーカット完全版」が発売された。
  • レーザーディスク
    • 1985年に、映像ソフトとしては初めて、「ノーカット完全版」が発売された。
    • 1991年には「ノーカット・デジタルリマスター版」が発売された。
    • 1994年には『怪獣王ゴジラ』とカップリング発売された。
  • DVD
    • 2001年1月21日に「ニューリマスター」で発売。
    • 2005年4月22日発売の「GODZILLA FINAL BOX」に収録されている。
    • 2008年1月25日発売のトールケース版「ゴジラ DVDコレクションI」にも収録され、単品版も同時発売された。
  • ブルーレイディスク
    • 2009年9月18日発売。

小説版[]

上述の通り、香山滋によって執筆された「G作品検討用台本」は、小説版としても出版されている。香山によるこの「小説版」は、あまり売れ行きは芳しくなかったという。香山は「印税代わりに本をどっさり貰った」と述懐している。すべて香山の筆による。

  • 『怪獣ゴジラ』(1954年10月25日、岩谷書店)ニッポン放送のラジオドラマの台本をアレンジ。
  • 『ゴジラ 東京・大阪編』(1955年7月20日、島村出版・少年文庫)『ゴジラ』と『ゴジラの逆襲』の映画脚本をアレンジ。
  • 『ゴジラ 東京・大阪編』(1976年9月10日、奇想天外社)島村出版の小説の復刻版。小学館・スーパークエスト文庫、筑摩書房・ちくま文庫などからも復刊された。

漫画版[]

  • 『科学冒険絵ものがたり ゴジラ』(1954年11月、集英社)『おもしろブック』11月号の付録。原作:香山滋、画:阿部和助。装丁を変えたものが、宣伝用にも配られた。
  • 『怪獣ゴジラ』(1954年11月25日、黎明社)単行本。原作:香山滋、漫画:福田三省。
  • 『ゴジラ』(1955年3月、講談社)「少年クラブ」3月号別冊付録。原作:香山滋、漫画:杉浦茂。
  • 『怪奇冒険まんが さいごのゴジラ』(1957年10月、集英社)『おもしろブック』10月号付録。漫画:橋本よしはる。
  • 『大怪獣長編漫画 ゴジラ』(1958年10月5日、あかしや書房)単行本。原作:香山滋、漫画:藤田茂。

ラジオドラマ[]

『怪獣ゴジラ』(1954年7月17日~9月25日、ニッポン放送ラジオ)

  • 週一回、ゴールデンタイムに放送され、前宣伝を煽った。脚色・演出は龍野敏(文芸部長堀江史郎)。
  • 声の出演は、尾形役に永井智雄、恵美子役に藤野節子、山根博士役に村上冬樹、語り手は田中明夫。
  • 東宝が2001年に限定販売した「Gの衝撃 ゴジラ・プレミアム・コレクションズ・セット」の付属CDに、唯一現存する最終回の音声が収録されている。

併映作品[]

『仇討珍剣法』

  • 脚本:松浦健郎/監督:斎藤寅次郎/主演:花菱アチャコ/宝塚映画作品

関連作品[]

  • キングコング』(1933年)円谷英二が特撮の教科書とした怪獣映画の金字塔。本作の特撮においても大いに参考にされた。
  • 『アラン(Man of Aran)』(1934年)イギリスのドキュメント映画。本多、黒澤明、谷口千吉監督が映画演出の教書とした。本作の演出においても大いに参考にされた。
  • 『原子怪獣現わる』(1953年)
  • ゴジラvsデストロイア』(1995年)山根恵美子が再登場し、新吉の子供達が登場する。新吉は家族を失ったあと山根博士の養子になったため、姓が「山根」になっている。また、劇中では山根博士の書斎が再現された。『ゴジラ』での尾形秀人と山根恵美子のその後の関係は、シリーズ以降のいずれの作品でも描かれていないが、恵美子を演じた河内桃子は、かつて婚約者だった芹沢大助が命を落としたことを意識し、「恵美子は尾形とは結ばれず、独身のままで父と共にひっそりと生きてきた」と自分なりに仮定して『ゴジラvsデストロイア』で同役を演じたと語っている[33]

脚注[]

  1. 名古屋地区では10月27日に特別先行公開されている。
  2. 昭和20年3月の「東京大空襲」のB-29米軍機の爆撃ルートである。
  3. 「G」は「ジャイアント」の頭文字から採った。
  4. 『円谷英二 日本映画界に残した遺産』 斉藤忠夫(当時製作宣伝係長)の寄稿より。この企画は斉藤が企画書にして提出している。
  5. 数ある検討シナリオの中には「ゴヂラ」と表記されたものもある
  6. 当時の劇場映画の通常予算は2千万円だった
  7. 当時本多監督とは家が隣同士で、家族ぐるみの付き合いだったという。
  8. 晩年に新作ゴジラのストーリー公募に最終選考者として参加していて、このときに応募されたストーリーの一編がゴジラシリーズ第17作『ゴジラvsビオランテ』(1989年)の原案となった
  9. 本来は人間側のテーマ曲である。原曲は伊福部の『ヴァイオリン協奏曲1番 ラプソディー・コンチェルタンテ』から採られた。
  10. 伊福部はテンプレート:和暦に、この『ゴジラ』のメインテーマを織り込んだ『管弦楽曲 SF交響ファンタジー第一番』を作曲している。
  11. 「N響」にもあったが貸し出し不可だったという。
  12. 中国戦線で陸軍曹長だった。
  13. 本多監督によると「女性のほうが真正面から問題に向かっていくものだ」という思いがあったという。
  14. 本多監督は「当時ああいう母子は本当にいた。時代の代表である」と述べている。
  15. この年、第5次吉田内閣は退陣する
  16. 高堂国典が演じたこの「爺さま」は、「本物のゴジラより怖そうだ」として、撮影現場では「本ゴジ」と渾名された。
  17. ジュラ紀は200万年前の年代ではないが、香山滋の「原作」からこうなっている。香山はゴジラを人類発生200万年の歴史になぞらえたのではないかとされている
  18. 右頬にも火傷のメイクが施されたが、画面では照明露出の関係でほとんど写っていない。
  19. 品川でロケされた。避難シーンの鉄橋は東海道線の「八ツ山橋」。
  20. 外観は目黒の「伝染病研究所」でロケされた。
  21. この一連の山根博士の警句は村田武雄の筆による。
  22. 次作『ゴジラの逆襲』(1955年)からは中島春雄の意見で長靴が使われた。
  23. 『巨大ヒーロー大全集』(講談社)大橋史典本人のインタビューから
  24. 『ゴジラの逆襲』DVDより
  25. 「オール讀物:1992年2月号」井上ひさしとの対談より
  26. 東宝の大部屋俳優たちが先導している
  27. のちに「東宝美術センター」が建てられた場所である。
  28. 新撮カットも含めて数週間程度で終わったとされる。
  29. 現在でこそ日本の外貨準備高は世界有数であるが、輸入超過に悩んだ当時は、多額の外貨を稼いだ事は特筆事項であった
  30. 「ニューヨーク・タイムズ」2005年5月1日付記事
  31. 鈴木、成田はアルバイト参加
  32. 脚本では「政次」
  33. 『ゴジラマガジンVOL7』(勁文社)より。また同作品のパンフレットにも同様の記述がある

出典・参考文献[]

  • 『円谷英二日本映画に残した遺産』(小学館)
  • 『ファンタスティックコレクション・特撮映像の巨星ゴジラ』(朝日ソノラマ)
  • 『東宝特撮映画全史』(東宝)
  • 『東宝SF特撮シリーズVOL3』( 〃 )
  • 『TOWNMOOK増刊 ゴジラ』(講談社)
  • 『大ゴジラ図鑑1』(ホビージャパン)
  • 『ゴジラDVD』(東宝ビデオ)

外部リンク[]

  • IMDb faviconゴジラ (1954年の映画) at the Internet Movie Database (英語)

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